第8話 夜空のほとりで 下
「それでは」
ではでは、と座った少女は嬉しそうなその顔を崩すことなく話題を提起する。
「今日は私の思いでも聞いて下さい」
少女が自分の思いについて話題を広げているのはいつものことだ、とは思ったけれど敢えて私はそれを口に出すことはしない。少女は幸せそうだった。
「思い、ね」
私の方も、どんな話が膨らんでいくのか、と胸をふくらませながら相槌をうつ。どこか夜の方が少女がいきいきとしているような気がする。この時間にこの場所といい、さては夜型か。
「環境、の話です」
「環境」
環境、といっても一概に意味を特定できない。故に私は、先程と同じような相槌で返した。
「生まれた家、過ごす場所、家族、他に取り巻く様々な人に、経済的な状況もいえます。それら全て、本人に関係のない所で決まってしまう、環境ではないですか」
なるほど。よく聞く話ではあるが、少女はそれに何を思うのだろうか。
「容貌だとか、才能、なんてのも入るよね」
ふと思った“環境”を挙げてみると、少女は首肯しながら続けた。
「たしかにそれもありです。それだって、本人に元からあったものですし」
可愛いはつくれる、けれどそれも元からあったものがあってこそだ、と私は思っている。立派な環境で、少なからず私たちは成っている。
「周りの人たちの、それらにどうしても、嫉妬しちゃうんですよ」
やや苦笑気味に、少女は言って、その照れ隠しのためか、その場にごろんと寝そべった。少女の寝間着らしい服がひらり、と靡いた。その目は無邪気そうに空へと向けられている。
「妬いちゃうのは分かるけれど」
私はそこで一旦間をおく。少女は言っているのはその先だろう。それこそが、少女の不安を煽っているものなのだろう。
「みんな──私の周りに生きる多くの人は、『そんなことあたりまえだ』、と割り切ってしっかり生きています。それが正しいのも分かるし、そうするべきだというのも分かります。けれど──私にはどうしても、未だに、割り切れずに、ずっと富んだ人を見ては妬いてしまうんです」
少女は独りぼっちになってしまった、というような眼をして、それらを溜め息混じりに吐いた。妬くのは確かに当然というか純粋な気持ちではあるだろう。だといっても、良い感情とは言えないし、ことによると人間関係の妨げにもなるものだ、と私は思う。もちろん違う意見だってあるかもしれないけれど、少なくとも少女は、その感情に困っていた。
少女は私に顔を向けて、続けた。
「周りの人たちの中には、色んな人がいます。それだって、家の状況、貧富、才能、容姿、挙げればきりがないのが、困ったところです」
前に似た話もしましたね、と少女は笑い、私も笑った。
「確かに、こういう感じの話によくなるね」
「確かこの間は、諦め、でしたね」
少女はえへへと可愛らしく照れて、話を戻した。
「とりあえず、私が生きている中で、この事実は困ったものなんです」
少女がまたもや独りの顔をして言ったので、私は少し曲げたように返した。
「君だけじゃない。そういう話も、したよね?」
少女は一瞬、きょとんとしたが、すぐに思い返した表情になって、しまった、という風に、
「忘れてました!」
と叫んだ。幸い、周りに響きはしなかったけれど、大きな声だった。
それにしても、と私は思って、言った。
「それにしても、かなり難しいお題ではあるよね……」
しゅんとした少女は、顔を伏せる。とても複雑そうな顔だった。皺がよっている。
「みんな困ることがある、それは分かるんです。でも、私はどうも──例えば、友達がちやほやされてたり、凄いことを成し遂げたり、それこそ何にも悩んでいるように見えなかったりしたときに──割り切って一緒に喜べていないような気がするんです。ほら、よくあるじゃないですか。『応援していた友人が偉くなって嬉しい』みたいな。素敵で、快い話だと思うんですが、私にはどうもできないようで……」
さては羨ましいのか。私の脳裏にそんな言葉が浮かんだが、それはちょっと違うような気もした。その感情より、もう少しだけ子供じみていて、曲がっている。
「でも、君の環境に嫉妬している人だって、いるんじゃない?」
私は、当然たる──だからもちろんこの少女も理解はしているであろう事実を口にした。さて、少女は──
──少女は困り切った顔をして、しばらく黙り込んでから、私に返した。
「……いるとは思います。それは、私が否定はできません。ただ、私はその感情とどう向き合えば良いのかが分からないだけで……」
語尾が小さくなって、少女の顔も曇っていく。そう、少女が話しているのは、
私はその問いにどう答えれば良いのか全く分からなかったので、仕方なく少女との会話を続けながら、考える。
「じゃあ君は、嫉妬心は、いけないものだと思う?」
私の質問が続くけれど、少女はいかにも少女らしく、なんにも困った素振りを見せず、よく黙考してから答えた。
「よくないもの、だと思います。例えば、心をちゃんと開いている人間には、そんなこと思わないはずですから」
少女は、そう言った。
なるほど。私は思う。子供らしいけれど侮れない、深いことだと思った。
「じゃあ君は──その嫉妬心を抱く人たちに──心を開いていないと?」
沈黙が続く。少女は私から眼を逸らさなかったし、その眼は鋭いものではなかった。少女は、私の言葉に──明らかに混乱して、困っていた。
「……………………」
どうしましょう、と言わんばかりの瞳がこちらに向かれている。酷いことにも聞こえるけれど、私は少女の答えを待っていた。
少女は、これまでに一番長い時間黙って、時折その唾を飲み込んでいた。緊張とも似たような空気に包まれながら、少女は真剣に考えていた。
「──」
そして口が、開かれた。
「間違えました。『心を開いていないと嫉妬心を抱いてしまう』という言葉には、語弊があります」
一度、私に反応を求めるように少女は目配せをした。私はこくり、と先を促すと、少女は勢いよく続けた。
「心を開いていても、逆に開いているからこそ、嫉妬心を抱くことだってあると思います。嫉妬心は、『その人が自分から少し離れたところにいる』という寂しさからも生まれることがあると、私は思います。だからそれが──私が人に全然心を開いていない、殻に籠もった人間だと証明するものにはなりません。ただ、嫉妬心は厄介で子供じみて生活の妨げになりやすいものだと思います。だから──だから私は、まだまだ心が小さいのでしょう」
言い終えて、少女は私にえへっと笑った。おそらく、ここまで大胆に熱弁したことへの照れ隠しだろう。はにかんでから、少女は、「どうでしょう?」と不安そうに私に問い掛けた。
「……凄いね」
言葉は、見つからなかった。
毎回思っていたのだけれど、この少女が、少女に見えなかった。ときにそれは、私よりも年上のようだった。
「よく、そこまで自分の中で整理して──言葉にしながら、強く訴えられるよね……」
「褒め言葉なんて、止めてくださいよ。照れるじゃないですか」
私が褒める前から、照れているようだった少女だったが、心なしか少しだけ、頬が赤く染まったように見えた。
「まあ、そこまで考えられるなら、もしそれが間違っていたとしても、大正解じゃないかな」
間違っても、大正解ですか。少女は繰り返して呟くと、最後にもう一度にっこり笑って、「良かったです」とはにかんだ。
「じゃあ、そろそろお開きですね」
何かの打ち上げみたいだ、と私は思ったけれど、そんな言葉を使う少女がやけに可愛らしく見えて、何も言えずに頷いた。
「もう遅いし、ね」
私の言葉に、もうすぐ朝かもしれませんし、と少女は私の不安を微かに煽りながら、その腰を上げた。
「明日学校だよ?」
「もう今日、だと思います」
私の言葉に少女は悪戯っぽくその口角を釣り上げ、休んじゃいますか、と囁いた。
私と少女は可笑しくなって、辺りをはばかりながら、声をあげて笑った。
果たして、私たちの数時間後は。
そんなことはお構いなしに、しばらく一緒にいた、私たちである。
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