第3話 積雲に妄想を 上
「“かげおくり”しましょう」
小学校低学年の頃の記憶、担任がクラスに提案したことがある。たしかそれは、どこかの文章で“かげおくり”が出てきたから、という理由であったのだが、それは小学校低学年の児童らに少し早い内容には思える文章だった。
まばたきをするな、なんて末恐ろしいんだと思っていた私は、どこかズレていて、結局そのときの“かげおくり”は失敗に終わった。しかし失敗に終わったのだけれど、それからいつしか大きくなっても“かげおくり”を度々するようになっていった。
高校に上がってしばらくした頃、私は久しぶりに予定がなかった祝日に、それをチャレンジしてみた。
「なな、はち、きゅう──」
まばたきをするな、まばたきをするな、まばたきを──
「じゅうっ」
よし、耐えきった。謎の達成感に包まれた私は、影から目を離してそのまま空を見上げた。
「……」
空には点々と積雲が漂っていて、私はかげおくりをするための場所を探さなければならなかった。西の空に大きなスペースがあったので、そこに合うように首を動かして調整する。地味で質素な私の影が、その場所にすっぽりとおさまった。
そんな私がふっとため息をついた、そのときだった。
「なにか良い雲でも見つけたんですか」
問いかけてくる、控えめな声が私になげかけられた。どこかで聞いた、ガラスが響くような声。私は声のした方を見ると、そこには小学校高学年ほどの背丈をした少女がいた。前に話したときと同じく、淡い若葉色のワンピースを羽織っていた。
「どれも平凡な雲ですよ」
私の応答に、少女は反抗するような顔をして
「そんなこと、ないですよ」
と抗した。「例えば──」少女は続けられ。
「例えば、あの雲。まだ小さいですけど、周りの細々とした雲たちと繋がって、もっと大きな雲にそのうち変貌すると思います」
少女が指差した先の雲は、西の空の隅にあった雲だった。冗談じゃない、あれが大きくなったら私のかげおくりスペースがなくなってしまう。
「いや、あの雲はすぐ消えちゃうな」
黙っているわけにはいない、と私も対抗してみる。
「消えません。だって周りにたくさん仲間がいるじゃないですか」
「仲間がいたって、その仲間が弱かったら意味ないんじゃないかなぁ」
「わかりました。そこまで言うんだったら、確かめてみましょう」
そう提案する少女の顔は、友達にゲームのバトルを挑む、男子のアレだった。
「よし、わかった。確かめよう」
私も同様の顔を再現して応じてみると、少女はニヤリと笑って訊いた。
「じゃあ、今日もなにか話しますか。そのうち、あの雲も変化するでしょう」
「今日はなんにも予定はないから、いつまででもいいよ。もっとも、すぐ消えちゃうだろうけれど」
私の言葉に、少女は細い目を向けたが、私はあえて無視をした。
それからしばらく間があって、少女の口が開いた。
「やっぱり、この場所はいいですね」
この間少女と初めて会ったのも、この場合だった。木々や草花もある程度はえており、空全部が見渡せる。現代の私たちにとっての、数少ない自然が垣間見える場所でもある。
「そうそう」
同じた私は、その場に座ろうと言ってみた。少女は周りに人がいないことを確認すると、地べたにそのまま座り込んだ。私もその隣に腰を下ろす。私たちの周りはなにか暖かいもので包まれた。周りの雑草が微かに揺れた。陽光もそんな私たちを優しく包んだ。
地面が乾いていて助かった、私がそうつぶやいてみようと思った頃、少女がどこか考えこんだ顔をして訊いてきた。
「
「モウソウヘキ……?」
予想外の単語に、私は漢字変換できずに聞き返す。少女はこくんと首を縦に振ると私に答えを求めた。すぐに私の脳内に“妄想癖”という漢字が浮かび上がったが、その意味を理解するのには更なる次回を要した。
「妄想癖……ね」
理解した後に私がもう一度独り言ちると、少女は顔を近づけて続きを促すように首を傾げた。やや不安が伺えるその表情に、私は親の怒っている顔色を覗き込む子供を連想した。
「妄想癖、っていうと聞こえは悪いよね」
そう答えると、少女はがっくり肩を下ろすとうなだれた。肩の下ほどまで下がる髪が共に乱れる。
「ですよね」
少女はこちらを横目に見やると同意した。その目は果たして、悲しそうに見えた。
「私、どうやら妄想癖らしいんです」
断言せず、やや婉曲に言っていることから、少女もどうやらそのことに良いイメージを抱いていなかったのだろう。「私、」と言っている割には、自分でそれを認めたくないようにしか見えなかった。私が何も応じていないまま、少女は言葉を続けた。
「どうでもいいことばっかり考えて、意味のないものに執着して、ただの空想に依存する。妄想に固執し過ぎる奴だ、って。そんな奴はどうやら、ろくな大人になれないそうです」
少女は俯いて言い切ると、深く息をついた。それは愚痴る子供のそれだったが、少女はどこか普通の子供ではなくて、普通とは違う愚痴を言っているのだと私は感じた。
「誰かに言われたの」
という私の問いに、少女は素早い頷きで返すと、首をまわしてこちらを見つめた。
少女の目が一瞬、揺らいだような気がした。それは光の悪戯かもしれないし、気のせいかもしれない。少女は私に何かを求めていた。
たしかに今思うと、少女は少しそういうところがあるかもしれない。いや、少しというのはただ私が少女を庇っているだけなのかもしれない。ただ、少女の喋っていた内容がやや空想じみていたのは事実だった。おそらく、そのことを言っているのだろう。
「そういう無責任な言葉でさ、落ち込むことなんてないと思うよ」
私の言葉こそ無責任だけれど、気にするな、と言いたかったのは事実だ。こういう場合は、そんなセリフを忘れることが得策だと私は信じていた。
「それにさ、君が妄想癖なら自分も妄想癖だと思うよ」
私がそう言うと、少女は少しだけ頬を緩めた。
「たしかに、私たちって似てるところありますよね」
しかしその表情も長くは続かなかった。「でも妄想癖なんて言われたことはないでしょう?」
少女の問いかけに私は一瞬うろたえてしまった。そのせいで、肯定する嘘もつけなくなったし、そんな私の顔色を見て少女もそれを察した。
「だから、私だけなんです」
「そんなことはないと思うよ」
その言葉は私の口から、思ったよりあっさり出てきた。なぜなのかわからなかったけれど、“私だけ”という自虐の言葉に私は反応したようであった。
「なんでそんなことがあっさり断言できるんですか」
少女の顔は曇っており、不機嫌さがにじみ出ていた。
「誰だって心底嫌になるときってあるじゃん」そんな私の出だしに、少女はふと嫌そうな顔をした。「そういうときってさ、どうしても“自分だけ”っていう言葉が出てきちゃうんだけど、それってほとんど思い込みが多くってさ。実際は誰しもが経験する話なんだけど、ってときにも“自分だけ”って思ってしまう、そういうことってあるでしょ。だから大丈夫。君だけじゃない」
少女は力なさげに笑っていた。
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