第29話 悪夢から逃れた日①

 ーーーーおい。


 ……何だ?


 ーーーー替われ。


 は?


 ーーーーもう朝だ。替われ。


 ふざけんじゃねえ。替わるもんか、お前なんかと。


 ーーーー逆らう気か。


 あ?……ああ。


 ーーーーいいんだな……?


 なんだよオマエ。さっきからうるせえんだよ!! こっちは気持ち良く寝てるっていうのに!!


 ーーーーこれが、最後の警告だ。



「がアッ!!」


 俺は身体に乗っていた布団を跳ね飛ばした。こめかみから汗がしたたっているのを感じる。俺はすぐさま机の人格日記に飛び付いた。

 今日は……今日は何日だ!?

 ベタついた手で、音を立てながらページを繰った。……最後のページ。9月20日。『怒』。

 俺は近くのスマホの電源を入れる。9月21日……。

 やった……! やった! やったぞ!

 俺は久々に、二日連続でこの身体にやって来た。俺は背中を丸め、胸の前で小さくガッツポーズする。


「ナメんなゴラァ!」


 俺は叫んだ。早朝だったので、しゃがれた声しか絞り出せなかったが。

 この声は届いただろうか。何処かで聴いてるんだろう? 見ているんだろう? 俺のこの喜ぶ様を。

 俺はドスドスと床を踏みながら部屋を出た。


 今日のことは、初めてではなかった。今日、俺がこの身体に居座れたその理由も知っている。……事件が起きているからなのだ。川田海高校で事件が起きた日から、自分が毎日人格を変えたら、記憶に障害が出来て事件を解決できなくなるんじゃないだろうか。そんな恐怖を感じて、俺は一度二日連続でこの身体に居座ることが出来たことがある。

 都合の良い話かもしれないが、これは俺の努力の賜だと思っている。あの時も、あの〝悪夢〟があった。他の人格から『神崎透』からの立ち退きを催促される夢だ。俺は耐えたのだ。奴らの重圧に耐えて、この身体を渡さなかった。今日の俺は『怒』。間違いない。


 学校にて。昼休み。

 俺は朝に担任から、理科の鈴木先生が呼び出していると言われたので、待ち合わせの理科室に行った。

 ……理科室。ここの外壁が崩れてたんだよな。

 俺は自分の中に確かに存在する記憶を、心を弾ませながら追想する。俺は理科室の扉を勢いよく開けた。

 誰もいない。


「鈴木先生?」


 呼びかけるが、返事は無い。もう一度、「鈴木先生!」とさっきより大きい声を出す。返ってくるのは静寂だった。コツ……と、自分の足音を響かせる。それしか、聴こえない。俺は『理科準備室』と書かれた、黒板の横の扉に手を掛けた。もしかしたら、ここに居るのかもしれない。

 俺は「失礼します」と小声で、一礼しながらその部屋に入った。

 ……誰もいない。

 その理科準備室は長方形の部屋で、中央に大きいテーブルがあり、そこには大量のプリントが乗っている。木製の棚が壁一面を埋め尽くし、俺の知らないような薬品ばかりが並べられていた。そんな殺風景な部屋を見渡しても誰もいない。棚の陰になって見えないのか。いや、そもそも人気が無い。

 鈴木先生、まだ来てないのか……。俺はそう思って準備室から出ようとした。

 その時だった。


 パリイィンッ!!


 横で、耳につんざく音がした。瞬時に、右手首に熱い何かがほとばしる。俺は手を払いながら、その音の正体を足下に見つける。

 ……ビン?


「あっ!」


 間髪入れずに、鈴木先生が部屋に入ってきた。目をひん剥きながら眉を上げ、額にシワを寄せている。


「薬品、かかっちゃった? こっち来て! 早く洗い流そう!」


 俺は鈴木先生の言う通りにして、理科室の水道で右手首を入念に洗った。少しジンジン痛みが残るが、なんとか大事には至らなかった。


「痛かった?……多分、酸性の薬品がかかっちゃったんだね」


 伏し目がちになりながら、鈴木先生は心配してきた。

 ……さっきのは、俺がドジを踏んだだけだった。俺が部屋に足を踏み入れた時、肩か何かが近くの棚にぶつかって、その拍子にビンが落ちて割れたのだろう。そしてその薬品が…………?ちょっと待て。俺、どこかぶつけたか?


「あ、はい。これ」


 手を洗い終わると、鈴木先生はハンカチを渡してくれた。


「あ、ありがとうございます」


「あ、そうだ。それ、松坂先生のハンカチなんだ。前に借りたんだけど……」


「?……はあ」


「透君の担任、松坂先生だよね? それ、透君の方から返してくれないかな。僕、これから出張でさ」


 鈴木先生は教室の時計を一瞥する。何か急いでいるようだ。口の両端を上げながら、目で訴えてくるのが伝わった。


「あ、分かりました」


 俺はそのハンカチを受け取った。


「それで、何で僕を呼び出したんですか?」


「…………」


 さっきまで顔をせわしく動かしていた鈴木先生が、ピタリとそれを止める。今までに見た事の無いほどの無表情に変貌した。急に眼を空っぽにさせた鈴木先生。どこを見ているか分からない。俺はその眼にとてつもない恐怖を感じた。

 俺が一人で入った時と、同じ静けさが教室に流れる。暫くして鈴木先生は、カクカクと横に90度体を向け、理科室から出ていった。

 俺は何が起きたか分からないまま、そのまま数分間茫然と立ち尽くしていたーーーー

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