第5話 丘の上の馬鹿

「このドラマは、1枚のリクエスト葉書から始まります。"私は土佐藩、今の高知県で、郷士=ほとんど百姓ちょっぴり武士をやっている、武市半平太という青年です。」


 千燭光のスポットライトがスタジオの闇を切り取る。土佐勤王党の"プリンス"と呼ばれた美貌の男は、ドーランを塗られた額に汗の玉を浮かべている。総天然色用の照明は焼けるように熱い。舌先が唇を一周してから動き出した。


「……郷士は、道で家臣の人に会うと、雨降りでも土下座で挨拶させられるくらい、身分が低いのです。でも、私は自分で言うのもなんですが、剣術が得意です。もっともっと腕を磨けば、きっと、家臣にしてもらえると聞いたので、一人で、この、太平洋の見える小高い丘の上で、雨の日も風の日も、毎日木刀を振っています。」


ジョンが続きを語る。


「……こんな私をはげましてくれるのが、ラジオから流れるこの歌です……兜虫社中の演奏で、"丘の上の馬鹿"」


 兜虫社中が唄い出した。彼らの人気曲の多くは欧米の流行曲の替え歌、アレンジ曲だった。全盛期には週に一枚はレコードが出たくらいで、総発売曲数は三百九十曲以上と言われている。熟練の腕が生む魂身の演奏がスタジオを満たす。


出会ったよ

誰が

お日様 と 青い海が

仲がいいよね

真っ赤になって

僕を残して

どこかへ消えた


大声で泣いた

一晩中泣いた

夜が明けるまで


(EDO著作権協会承認:への十九番)


 曲の流れる中、丘の上で一人、剣道の稽古をしている半平太の後ろに、サンカの少年イゾーが登場し、棒切れを手に半平太の稽古の真似を始めた。照準の向こうのイゾーの、あまりの愛くるしさに、甚五郎はついニッコリしてしまう……お七も綾も、スタジオ中がニッコリしていた。


 この子は、見る者全ての心を幸福にする不思議な魅力を持っている。


 しかし、ただ一人、調整室の桂会長だけは、あのニヒルな表情をピクリとも崩していなかった。


 鳥獣専門の口入れ屋から仕込んだ大きな猪が、横から飛び出して武市を宙に舞わせる。効果音が絶妙の間で決まった。音効の熊さんがVサインだ。


 第一スタジオのほぼ中央に用意された大きな楠に飛びついた武市を、幹をどしんどしんと揺らしながら猪が脅す。鼻息の荒さといい、猪は迫真の演技だ。イゾーが素速く照準の枠内に入って棒切れを振る。棒は猪の鼻の半寸先を通過、絶妙のタイミングを捉え、殴られた体で横っ飛びに吹っとんだ猪は、一瞬白眼を剥いて失神し、イゾーに触れられて覚醒、脱兎の如くに逃げ出す……という一連の演技を完璧にこなした。尺にも、寸分の狂いも無い。


 イゾーが樹上の武市を振り返る絵で、最初のCMに入る。


 手の空いた裏方陣が『名演技』に無音の拍手で捧げる中、猪は、口入れ屋の親方から小さなサイコロ状に切った薩摩芋をもらって、満足そうな表情でスタジオを後にした。


 イゾーは武市の残した木刀を手にした。

 ブンと振る。

 あまりの速度に空気が引き裂かれて悲鳴を上げているようだ。

 思い切って大きく水平に振る。

 物凄い打撃音が響いたかと思うと、

 楠がゆっくりと傾き始めた。

 次第に加速し、武市ごと、どうと横倒しになる。

 武市のくぐもった悲鳴があがる。


 しかし、イゾーはそちらに一瞬視線を送っただけで、トランジスター・ラジオから流れる(という設定の)兜虫社中の演奏に引き寄せられ、夢見るような足どりで近づいて行った。枝の間から、やっと半身を起こした武市が声をかける。


「坊や……名前は」

「おら、イゾーだ!」


 イゾーは武市の2メートル前まで近寄って止まった。


「ワシといっしょに京の都にいかんか?」

「あんなのがいっぱいある?」


 後ろを向いたイゾーが指差したのは、武市の稽古BGM用トランジスタラジオだった。"HIRAGA"と赤い商標のついた黒い革のケースに入っている、銀色のトランジスターラジオ。


 武市が藩校を首席で卒業した時に、『見聞を広めなさい』と、校長先生が下さったものだ。確かに、このあたりでは珍しいかもしれない。


 だが……


「あるぞ!あんなものなら、四万十川の砂の数くらいあるぞ。だから、行ってくれるなら、これはあげてもいいぞ。」

「いっしょに行くのか?」

「一緒だぞ。」

「ずっと、いっしょか?」

「ずーっと、夜空の星が全部流れて落ちるまで一緒だ。」

「おったん……死人だな……」

「その字は"詩人"と読むのだ。」

「おったん、……おっ父になるのか?」

「……?!」

「おらのおっ父になるのか?」

「お前の、お父は?」


 少年は、1秒の何分の一かの間、時間を止めて、それから黙って首を振った。武市は、イゾーが被っている古ぼけた「飛燕野球団」の帽子に掌をのせる。少年の丸い瞳が武市の顔に突き刺さった。


「よし、今からワシがお前のお父だ。フジヤマのように気高く、昇る朝日のように慈愛に満ちた……お前だけのカムイだ。」

「おっ父は凄いサイナンがあるなー!!」

「イゾー。それを言うなら"才能"だ。おっ父は、蘭学者で詩人なのだ。」

「乱暴者の死人?」


こいつ判って言ってるんじゃないのか……武市は疑いを持った。

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