帝大リローデッド

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第1話

 スマホが震えた。胸ポケットから取り出し、着信画面をなでる。野木裕一の耳元で野球部長の添田隆の低音が響いた。

〈ああ野木君だね、私だ。まずいことになった。いまからちょっと私の部屋に来てくれないか。そう、いますぐだ〉

 ――まずいこと?

 東京大学本郷キャンパス構内の野球部監督室を出て、理学部にある添田研究室に向かう。降り注ぐ柔らかな陽光とおだやかな風が肌に心地よい。まもなく春本番を実感する。

 首都圏の公立大学准教授から東大野球部の監督に転身して二カ月余り。自分も大学OBだが教育学部を出た。添田の研究室がある物理学第Ⅰ研究棟には学生の時からなじみはない。昭和五十年代に完成した研究棟は耐震工事や増改築のたびに枝分かれした通路ができ、いつ来てもわかりにくい。行き先の表示板を確認しつつ、いくつもの曲がり角を折れ、年期の入った床タイルをきしませて、野木はようやく目的地にたどりついた。

「失礼します」

 ノックもそこそこにドアノブを回す。

 執務室の添田と目が合った。不機嫌さは眉間のしわでわかる。さっと出した右手で近くのソファを勧めたが、野木が腰を下ろし終わる前に話し始めた。

「まずいことになったよ、野木君」

 さきほどのせりふを添田がまた口にした。

「いったい、また、どうしたんです?」

「きのうの午後、六大学連盟で定例の理事会があった。当初は理事の副部長が行く予定だったが、都合がつかずに私が代理出席した」

「この封筒がそれですね」

 テーブルの上に開封済みの茶封筒が置いてあった。

「そうだ。それで主要なテーマは、このところぐずぐずと話に出ていた例のリーグ戦の日程変更だ」

 東大が加盟する東京六大学野球連盟のリーグ戦は、「東大―慶応」「法政―早稲田」のように開幕から二カードずつ消化しながら進む。その一方、リーグの戦いもいよいよ大詰めとなる最終節は早慶戦だけが単独カードとして組まれる。

 つまり、目下の勝敗や順位争いがどうであろうと、最後は必ず早稲田と慶応の対戦でリーグ戦はフィナーレを迎えるというわけだ。

 長い伝統を誇る東京六大学野球はプロ野球誕生前には大衆にとっての一大娯楽だったとされている。とりわけ早慶戦が国民的人気を博し、大学とは無関係な庶民も勝ち負けに一喜一憂したという。リーグ日程における早慶の大トリは、そんな歴史的系譜を預かる両校の自負が込められた不滅の慣習と言ってよかった。

 これに対し、明治や法政など早慶以外の加盟校が近年、異を唱え始めていた。

――早慶戦の日程固定化をやめ、シーズンごとに全加盟校の組み合わせを抽選し、都度ばらつかせるようにしてはどうか。対戦カードをアトランダムにしてしまった方が、現に優勝争いをしているチーム同士がリーグ戦終盤にぶつかったりするかもしれない。そうなることによってリーグ戦がいっそう盛り上がり、六大学ファンを喜ばせるばかりか、ひいてはアマチュア野球ファン層の拡大にもつながるはずだ――

 というのが、変更派の主張である。むろん、こんな論が出るたびに早慶両校が強硬に反対して提案はつぶされてきた。

 だが、どんな風の吹き回しか今回は理事会でその議案が通ったという。

「ただし、今年の連盟創設九〇年を記念するイベントの一環として、だ。それほどまで言うなら、じゃあとりあえず次のリーグ戦で実験的にやってみますか、ということで早慶が折れた」

 添田が解説した。

「それがまずいことの中身ですか?」

 ここ二シーズンは法政と立教が激しい優勝争いを演じ、そこに早稲田がからむ形になっている。こうした実力伯仲の構図に照らしても柔軟な日程変更は理にかなっている。東大としても、とくに反対するような話ではない。

 首をかしげた野木の顔を添田が目で追ってきた。

「いや、話はここからだ。野木君、よく聞いてくれ」

 ソファの背もたれに野球部長が体を預けた。

「あくまで試行とはいえ、スケジュール変更という長年の重要な懸案で各校の意見が珍しくまとまった。早慶なんて、いままではこの話にはとりあおうという姿勢すら見せていなかったわけだからずいぶんな進歩だ。それに全員一致なんてのは、とかく我の強いうちの六大学じゃ極めて珍しいからな。それでもって理事会が久しぶりににぎやかなものになった。それではこの際、腹を割ってもろもろ話し合いましょうか、とあいなったんだ」

 不機嫌そのものだった添田の顔が少しほころんだ。

 座が盛り上がった勢いで理事会は予定時間が大幅に延び、ケーキ付きコーヒーブレークをはさみながら各校のフリートーキングに移ったという。連盟創設記念イベントのアイデアあれこれに始まって、大学野球の人気離れ対策案やら、アマチュアとプロとの交流促進の企画やら、果ては著名大物OBの近況といった世間話まで、こと話題には事欠かなかったらしい。

「ああだ、こうだと、がやがや皆で笑い合ってるうちはよかった。口にするのがはばかられるような、おもしろい裏話もたくさん聞けたしな。私も大いに楽しませてもらった。そこまでは、な」

 ひと呼吸あって添田の顔が曇った。

「ところがだ。そうこうしているうちに、ある大学の理事が唐突に言い始めたのだ。私もまったく予期していなかった。晴天のなんとか、としか言いようがない。天変地異とはまさにこのことだ」

 ――まさか。

 胸騒ぎがした。

 添田と視線が交わった。

「そう、君もぴんときたかもしれないが、降格話だよ」

「…………」

〈きょうはいい機会なので、失礼を承知であえて厳しいことをちょっと言わせてもらいたい。このところの東大さんの負けっぷりについてなんですが、いささか度が過ぎていませんかねえ。シーズンをまたいで八〇連敗とか九〇連敗がまだ続いている。たいへん申し訳ない言い方になってしまうが、リーグに高校生で編成した別のチームが混じっていると揶揄されても仕方がない状況なんじゃないでしょうかね。もうだいぶ前から、『レベルが違いすぎるチームが同一リーグにいるのはおかしい。他のリーグのように二部や三部をつくるべきだ』という六大学野球ファンの声があるのを、東大さんはどこまでご存じでしょうか〉

「ある理事がそう口火を切ったのだ」

 全国の大学野球のリーグ戦は、たいていは一部リーグを頂点とした多重構造になっている。一部の下に二部リーグがあり、さらにその下に三部、四部、五部……と順番に下部組織がつくられることが多い。

 したがって、一部最下位の大学に待ち受けているのは、二部首位チームとの「入れ替え戦」という事態である。だいたいは三戦先勝方式で、勝ち越したチームが一部残留や二部からの昇格を果たす。東都大学野球や関西六大学など多くのリーグがこうした入れ替え戦を採用し、最強クラスの大学だけがトップリーグに君臨することによって組織の活性化を図っている。

 ひるがえって、東京六大学野球の場合は二部も三部も四部も存在しないから、当たり前だが入れ替え戦などない。

 その恩恵を最大限に受けている形なのが東大だ。

 なにせ大昔に一度だけ二位になったことがあるだけで最下位が指定席である。通算勝率はたった一割三分しかない。わが国の大学野球部として、百年になんなんとする悠久の歴史を誇ってはいるが、リーグの他校と比べて力の差は否めない。いや、リーグ内はおろか、スポーツに力を入れている首都圏の私立大学や野球で名を売る新興の地方大学にも戦力的には劣るだろう。

 こんな厳然とした現実があるからというだけではないが、東大野球部関係者にとって、六大学リーグへの二部制導入や入れ替え戦などという話題は一種のタブーである。

 ――東京六大学とは、早慶と明治、法政、立教に東大のことを意味しており、この構成員は未来永劫変わることはない――

 それが東大から見たリーグ観である。

 東京大学野球部の立場からすれば、六大学に下部リーグを創設するなどという類いの話は、生身の人間が飛び上がって鳥みたいに空を泳いだなどというニュースが存在しないのと同じように、非現実的なたわごとでなければならないのだ。

 この「越えてはならない一線」に関しては、野木も監督を引き受ける前に東大としてのスタンスとともに野球部関係者からとくと説明を受けた。そのような動きは、論じられることさえ認めるわけにはいかないのである。

 ――入れ替え戦、二部落ち。

 冷え冷えとした想像とともに、きりっと胃が痛むような不快感が腹の下から突き上げてきた。持って行き場のない憤りは添田とて同じと見え、本題を切り出したあとは真一文字に口を結んだまま身じろぎもしない。

 野木はひとつ唾を飲み下した。

 テーブル越しのぎょろりとした目が野木をひと睨みした。

「もちろん、こんなことは絶対にあってはならないことだ。野球部を預かる身として私はすぐに反対の弁をぶった」

〈ちょっと、お待ちいただきたい。いまさらなにをおっしゃるのか。東京六大学はそこらにある他の大学野球リーグとは歴史の重みがまったく違う。今日の大学野球の隆盛は、すなわち、わが六大学の歴史がつくりあげたものだと言って差し支えないでしょう。六大学があったればこそのアマチュア野球の発展であり、大学野球の盛況なのであります〉

「そんな具合に各校が異論を言うはずのない共通の認識をまず切り出したうえで、こう言ってやった」

〈リーグにいちばん最後に加わったのが、わが東大であり、それで六大学となった。確かにしんがりのメンバーではある。その意味では若輩かもしれない。しかしながら、わが校はその前身にあたるのが旧制一高であり、旧制一高はアメリカで生まれたベースボールというこのすばらしい球技を日本に紹介して硬式野球として広めたルーツ校だ。このことはつまり、わが東京帝国大学がいるからこその六大学野球である、と言わせてもらって差し支えないと考える。うちが日本の野球界の発展に果たした功績は、歴史的に見て決して小さなものではないと私は確信しているところです〉

 熱弁がさらに再現された。

〈みなさんの前で改めて言うのもなんだが、つまり、ロクダイガクとは、いまここにいるわれわれの学校がすべてそろっていて成り立つ存在と言うべきではないでしょうか。首都にあるたんなる六つの大学の集合体などでは断じてない。こんなわかりやすい話はないと思う。そのことはみなさんだって、初めからご承知というか、お認めになっていただけることのはずじゃないですか。みなさん、違いますか〉

 その言い分に齟齬はなかった。

 もとより成り立ちを言いつのる、こんな「そもそも論」には理事連中とて異論などなかろう。問題は、いまリーグ内でまともな戦いができているか否か。その実際的な立ち位置なのだ。

 理事会の様子を詳述する野球部長の頰に朱がさしてきた。それに呼応するように顔つきの険しさが増していく。

「そうしたら、まあ、私がふだん出したこともないような、周囲にはびっくりするほどの大きな声を出したからだと思うが、誰だったか、理事の顔はよく見なかったんだが、誰かが『いやあ、この話はもうこのへんで、ということでどうでしょう、実際問題、そんなことは時期尚早な話だと思いますよ。だから、いまここでは、もういいじゃないでしょうかね。間もなくリーグも開幕するわけなんですから』というようなことを、横から口を出してくれて、とりなしにかかってくれた」

「じゃあ、なんとかそこまでで収まったということですか」

 期待の混じった質問はすぐに打ち消された。

「そうじゃない。そこで終わっていたなら君を呼んだりはせん。どっこい問屋が下ろさなかったのだ」

 眼前の研究者の眉根が寄った。大学院で専門の宇宙物理学の難解な講義をする時もこれほどにはりきむまい。事態の深刻さは上等な刃物を研ぐような鋭利さで伝わってきた。

「君もうちに来た以上、少しは聞きかじってるだろうが、語る必要がないほど長い伝統があるわが東京六大学野球リーグに入りたい大学は日本中にごまんとある。これまで、いろんな大学がなんとかメンバーになれないか、希望や要望ならまだしも、画策や陰謀まがいのことまで過去にはあったとさえ言われている。つまり同じバスに乗りたがる連中が後ろに列をなしていたのだ」

「ええ、それは私も再三聞かされました。監督に呼んでいただいた時、『君、六大学は別格だからな、それだけはよく憶えておいた方がいい』とOB会のいろんな人たちに何度言われたことかわかりません。組織の存在感にはいまさらながら驚かされたところでした。部長がおっしゃっていることは、よくわかっているつもりです」

 事実、そうだった。

 監督就任の記者会見では、野木が想像もしていなかった数の報道陣が押し寄せた。プロ野球じゃあるまいし、しょせんはアマチュアの学生野球だ。べつに仰々しく記者会見などしなくたって、スポーツ新聞みたいな一部の報道機関にペーパーを投げ込んで通知しておけばいいのではないかと内心では思っていた。しかし、いざ会見に臨み、新監督としての意気込みや戦略戦術などを記者たちに矢継ぎ早に質問されてみると、このリーグの伝統とそれに携わることへの責任の重さを実感したものだ。

 その一方で、新規参入をがんとして認めてこなかった東京六大学リーグのかたくなな姿勢は身内から見てもある意味、異様である。その閉鎖性が首都圏を中心に様々な新興野球リーグの誕生を促したという説すらある。老舗リーグのモンロー主義が結果的に今日の大学野球の隆盛につながったというわけだ。他のリーグ関係者の中には、こうした皮肉な一面がある日本の大学球史について、とくとくと語ってみせる人たちが少なからずいた。

「そう、確かにそうなんだ。その結果がよかったか悪かったかはともかくとして、歴史的にはそのとおりだろう。とにかく六大学は自分たちだけで孤高の道を歩んできたからな。しかし、その一方では、早慶などの理事連中もちらっとこぼしていたことなんだが、リーグ外の野球関係者からわが六大学の部制導入の可能性について、あれこれ尋ねられてはいたらしい。特に近年はそういうケースがかなりあったようだ。そのことは、私だって以前から察しはついていた。つまり……」

 ふうーと息を継ぐ音が聞こえた。

「要するに、だ。野木君。このことは他校の理事連中にとってもまた、関心事であるからこそ、このクソうっとおしい話題がここまで引っ張られてきたんだろう。外部から、やいのやいの言われると誰でも頭の片隅には残るもんだしな。それに、リーグの各校には各校なりの事情や考えもあるだろうし、さすがの私も、いいからお前らもう黙れ、理事会は散会だ、とまでは言えなかった」

 話の結末が知りたいが、先を促す言葉が出てこない。

 このリーグにはあり得ないはずの入れ替え戦の話が、六大学連盟を運営する理事会の議題に上ったというのか。それも、自分が初めて指揮をとる今季のリーグ戦開幕を目前にして。にわかには信じがたかった。

「ということは、部長、この話が最後の最後までいってしまったというわけなんでしょうか。最後まで」

「厳密に言うと、結論はそうはならなかった。しかし、だ」。すっかり朱色に染まった顔がゆがんだ。

「しかし、部制導入話のいやな流れの余韻というか、空気は場に残ったままだった。会議が一向におひらきになる気配がないまま、がちゃがちゃ、また、皆が勝手なことをしゃべっているうちに、さっきの言い出しっぺの理事がこんなことを言ったのだ」

〈いやね、こんな話が出てくるのも、要は東大さんにもっとがんばってもらわないと困るということなんだと思いますよ。私は添田先生がおっしゃるように、東大さんの果たしてきた歴史的な役割には大いに敬意を払っているし、失礼な言い方になるが、決して潤沢とは言えない戦力をやりくりして懸命に戦っていらっしゃる東大さんに対しても、同じ野球人として好感を持ってはいますよ。でも、はたして永久にこのままでいいかというと、そういうわけにはいかないとも実は思っているんです〉

 理事の言葉は続く。

〈つまりです、これはもう時代の趨勢というやつもあるでしょう。大正の時代からのいかに長い部の歴史を誇っていようが、いざ実戦となると七〇連敗や八〇連敗や九〇連敗を繰り返しているようでは、じゃあリーグ全体のバランスはどうなのか、これでいいのか、という議論に行き着いてしまいます。ご承知のようにわが国の大学の野球リーグも、いまや首都圏や関西圏だけじゃなく、全国各地にたくさんあって、各リーグの優勝校が集まって大学選手権や神宮大会で日本一を争うことになっている。そのためにもリーグ全体を高いレベルで維持していくことは必須項目だ〉

〈ですから、まあそんなふうにリーグを取り巻く環境を突き詰めて考えていくと、二部制移行への外部からの圧力に対して、私の大学も含めて六大学自身が、いったいいつまで抗していられるか、そんな話になってしまうと私は思うんです〉

 理事はとうとうこんなことまで口にしたという。

〈次のリーグ戦の終了後には、部制の導入案と、それにともなう入れ替え戦のプランを正式に理事会の議題に提案させてもらおうかと考えています〉

「まったくもって冗談じゃない! という話だ」

 かぶりを振った添田が声のトーンを上げた。

「そこで私は、またこんな風に言い返してやった」

〈お言葉ですが、こちらも言わせてください、理事。本日はリーグ日程の審議が議題だったはずでしょう。その議題が全員の建設的な意見交換を経て無事に結論をみることになった。かなり難しい議題が全会一致で決まったことも伝統の重みというか、この連盟の運営ぶりの健全さを示していると言っていいと思う。ということは、実質的にその時点できょうの理事会は終了したはずです。ということは、本来の議題になかったこんな話を、言ってみれば雑談の場で出されたわけで、こんなことを唐突に持ち出されても東大としてはなんとも答えようがない。あなたはともかく、他校のみなさんはそう思ってらっしゃるはずですよ。先ほどの、えっと、どなたかは気づきませんでしたが、まあもういいでしょうとおっしゃってくれた理事もいらしたわけですし。どうか、いまの発言は取り下げてもらいたい〉

 全面撤回を求めた場面を振り返った添田の顔は上気し、こめかみ付近の青い血管が浮き出てひくついていた。

「で、その理事はなんと?」

「『お気持ちはよくわかりますが、確実に取り下げるには条件がありますねえ。まずは東大さんに一度くらい優勝してもらわないと。まあ、そこまでいかなくとも、せめて優勝争いぐらいはしていただきたいものですな』だとさ」

 野木は息をのんだ。

 スポーツ推薦入試がなく、高校野球が強い付属校も持たない東大の戦力にはおのずと限界がある。甲子園で活躍した高校球児を何人もごっそり入学させる私立の他校とは寄って立つところが違うのだ。

 もし東京六大学野球リーグに新しく二部が誕生したら、その加盟校は歴史と伝統を誇る首都圏の国公立大学が中心、などと考えるのは楽観的にすぎる。早慶や明治、法政ほどの実力はなくとも、大学の知名度アップを狙って複数の私立大学がこぞって手を挙げるだろう。現在の所属リーグを脱退して加わろうとする学校もあるかもしれない。新規参入校はいずれも高校野球の強豪校から毎年有力選手を補強している大学ばかりのはずだ。そんな状況のもとで東大が二部首位校と入れ替え戦などやったら、それこそひとたまりもあるまい。

 野木は連盟の理事たちとは監督就任時の会合で同席している。自己紹介をし、抱負を述べさせてもらったあと、近くにいた何人かとは言葉も交わした。あの時と同じ面々が、理事会で冷笑している寒々しい光景が野木のまぶたに浮かんだ。

「理事の表情は終始穏やかだったが目は笑っていなかった。あいつは次のリーグ戦後には間違いなくこの話を理事会の議題にのせてくる。それだけは確かだ」

 添田は先ほどから手にしていたマイルドセブンをポケットにしまった。

「それにだ、リーグ内の戦力バランスうんぬんはともかく、冷静に考えれば他のリーグのように最強チームだけで一部リーグを構成するというやり方は、どんな理屈をこねたところでリーグ活性化に向けた大義名分になり得ることは確かだ。わが校にとっては残念なことであっても説得力も議論の余地もある。それが現実だ。東都なんかを見てみたまえ。まさに戦国リーグだ。前季に最下位だったチームが次のシーズンに優勝したりするが、べつに誰も驚かん」

 無念そうに添田が首を振った。

「それにだ、こういう、突き詰めて語れば論理的でシンプルな問題というのは、一度議題にのってしまうと合理的に反論しにくいもんなんだ。私だってそれはわかってる。石井理事もこれが正式なお題目になれば、その後の議論はなんとでもリードできると考えているんだろうよ。くそっ、お調子者のスポーツ馬鹿のタヌキ野郎のくせに」

 最後に理事の実名をあげた野球部長は、誰もが認める温厚な人柄に似合わぬ乱暴な言葉で悔しがってみせた。

「そこでだ、野木君。注文がある。それで君を呼んだ」

 沈黙のあと、ゆっくりと言葉が吐き出された。

「こんどのリーグ戦で東大を優勝させるんだ」

 添田の視線が野木の見開いた目にまっすぐ向けられた。

「前代未聞のリーグ降格を免れる手段はただ一つ。優勝だ。優勝して自らの力で阻止するしかない」

 立ち上がった添田は窓際に歩み寄り、硬い背中を見せた。運動部の連中がキャンパス内をランニングしているのだろう。男子の重なり合ったかけ声が半分ほど開けた窓越しに届いてきた。

 イチニー、サンシー……、ニイニー、サンシー……、イチニー、サンシー……。

 リズミカルな号令が遠ざかっていったころ、くるりと体が回った。

「いいかね、考えてみてくれ。仮に東京六大学リーグに二部ができて、例によって例のごとく最下位になったわが校が、入れ替え戦で負けて初の降格となる事態を、だ。君は想像がつくかね。そんなことになったら、それこそたいへんなことになる。これはスポーツ界だけの問題じゃないぞ。社会的にも大問題だ。全国の卒業生たちも巻き込んで大騒ぎになることは間違いない。そんな風に世の中の混乱を引き起こすようなことがあってはならん。そのためには、うちが勝つよりほかにない」

 細い華奢な体に似合わぬ太い地声のオクターブが上がった。

「何度でも言う。なにがなんでも次は勝たねばならん。こんどのリーグ戦で早慶や明治、法政、立教をたたきつぶすんだ。勝って、勝って、勝ちまくるんだ。あいつらを蹴散らしてやれ」

 マイルドセブンをまた取り出した添田が手の中でぐしゃっと握りつぶした。

「野木君、見事に優勝して六大学に東大ありと世間の連中に存在感を示してくれ。しつこいようだが、わが校は東京帝国大学として東京六大学野球リーグに参加し、日本の硬式野球の黎明期を早稲田、慶応と並んで支えてきた。帝国大学を経て今日まで綿々と続く、わが東大野球部の灯をここで消してはならん。その輝かしい伝統と名誉を君が守るんだ」

 東京大学の六大学野球リーグ優勝――。

 当事者の野木にとっても現実は夢物語でしかない。

 積極的な推薦入試で甲子園組がずらりとそろう早慶、もともと高校のスター選手が集まる明治や法政、新たなスポーツ推薦制度の導入でここ数年は優勝争いの常連となった立教。

 こんな他校の圧倒的な包囲網の中、わが東大の選手はどうか。

 三年間もっぱら受験勉強主体の高校生活。野球部には在籍したものの、甲子園など論外とも言える部活環境。そんな選手ばかりのわがチーム。打てない、守れない、走れない、ついでに体力もない。出ると負けで毎年毎年ビリが定位置。こんな弱小チームをどうやって勝たせようというのか。

「……わかりました。六大学に二部ができて、入れ替え戦で負けて二部落ちなんて、実際にそんなことになったら目もあてられません。想像もできない悪夢です。確かに世間を騒がせてしまうでしょう。そうならずに、私たちがこの先、六大学で生き延びていくには部長がおっしゃるように目の前の試合に一つひとつ勝っていくしか方法がないと、私もそう思います」

 精一杯答えてみたが、むろん成算はない。

「そう、その通りだ。頼むぞ。まさにそういうことだ。これは野球部の、というよりも、わが東京大学の運動部始まって以来の未曽有の重大な危機だ。しかも、その危機は降ってわいたようにいまそこに横たわっている」

 ソファに座り直した添田がぐいと体を寄せた。眉間のしわは消えているが、その代わりのように目の下のくま周辺にあぶら汗が浮いている。

「明治、大正、昭和の戦前から東京帝国大学には学業成績が優秀なだけでなく、心身ともに健全健康な多くの学生たちが全国から集まり、憧れだった帝大でそれぞれ勉学や体育に打ち込むことで皆々が日本の指導層に育っていった。この学校の学生たちは、まさに健全な精神は健全な体に宿ると信じ、学生生活に魂を吹き込んできたのだ。ならば、大正末期の加盟以来、六大学野球で脈々と続くわが帝大の伝統をわれわれの世代で絶やしてしまうことなど絶対に許されない。これからも旧東京帝国大学の野球部として生きていけるかどうか、いま、われわれはその瀬戸際に立ったのだ」

 野木は目でうなずいた。

「戦力はいわずもがなだ、なにか策はあるか」

「私が考えます。あとは任せてください」

「こんども負けっ放しでは、うちに次のリーグ戦はない。頼む。頼れるのは現場の指揮官の君だけなんだ」

「わかっております。私にとっての初陣でありますし、大いに暴れてみせます。帝国大学から宿る野球部の魂は私が守ります」

 すがる目つきの添田を部屋に残し、野木はその場を辞した。春とはいえ、窓の外はすっかり日が落ち、学舎の研究棟にはあちこち明かりがともっていた。リーグ戦開幕まで三週間を切っていた。



 野木は頭をめぐらした。

 なにから手をつけるか――。

 添田野球部長が持ち帰ってきた「降格話」は迫真性に満ちていた。その臨場感たっぷりの理事会のやりとりにかんがみれば、今季も低迷したならくだんの理事が部制導入を持ち出してくるのはほぼ確実だ。添田に言われるまでもない。理事を黙らせるには、とにもかくにも他校と互角以上の勝負をする必要がある。

 他の多くのリーグ戦もそうであるように、東京六大学では同一カードで先に二勝したチームが勝ち点1を獲得し、その数の多さと通算勝率で優勝を争う。つまり対戦校に確実に二つ勝って勝ち点につなげることが優勝への必須条件となる。そのためにできることはなにか。それをこれから探らねばならない。

 まもなく今季のリーグ戦開幕となるこの時期、東大の新人選手はすでに六大学野球連盟に選手登録を済ませていた。今春入部の新人は十四人。今年度も甲子園出場経験者はいない。灘、開成、桐朋、筑波大付属駒場、東京学芸大付属、県立の湘南、浦和、千葉……。甲子園とは無縁であっても誰も違和感を抱かない超のつく進学校から来た選手ばかりだ。何年かの受験浪人を経て合格した者や理系の新入部員もいる。全国有数の進学校で難度の高い日々の学習を続けながら、それなりにきつい運動部に所属し、なおかつ大学に入ったあとも、体育会で野球を続けようという彼らの意欲と情熱は高く買える。が、いかんせん、選手としての実績や技量は甲子園組が数多そろう他校の新人選手と比べるべくもない。現時点で新戦力に期待をかけるのは酷だ。

 机上にあるこれまでのチームのデータ資料をめくる。

 大越前監督が前季までの戦いぶりを丁寧に分析して評価をまとめていた。投手出身の大越氏は現役時代に針の穴を通すとも称された精緻なコントロールを武器に頭脳的な投球で強大な他校に勝負を挑んだ。技巧派の投球スタイルそのままに中身の濃い評価報告書になっていることは容易に想像がつく。しかし、引き継ぎ業務や就任に伴う雑事に追われ、まだじっくりと読み込んでいなかった。そろそろ具体的な戦略を練る時期が来たと考えていた矢先の今回の事態だ。こんどは刮目して読まねばならない。

 野手の平均打率は一割七分ちょうど。いかにも低い。打った方だと見なせる選手も二割あるかないかという記録が並ぶ。前季リーグ戦では全試合で二桁安打がなかった。打線の非力さは数字からもはっきりと見てとれる。

 そんな中、一番打者でレギュラーに定着している田中大介の打率二割五分がチームの最高打率だった。二割五分というのは、単純な数字だけで見てしまうと平凡な打率のように感じるが、そうとは言い切れない。東大以外のリーグ各校にはプロで即戦力になりそうな高いレベルの投手が必ずいる。一つの大学から複数の投手がドラフトにかかることだって珍しくない。そんな連中から四回に一回はヒットを打っている計算になる。好打者の部類に入れていいだろう。

 野手で目につくのは、この田中のほかには、チーム内では数少ない身長が一八〇㌢と体格に恵まれた捕手で主将の伊ケ崎豪。〈変化球を打てないなど打撃に粗さがあるものの当たればフェンスまで飛ばす馬力とファウルで粘って最後に甘い球を安打にできる選球眼と器用さがある。捕手としては地肩の強さがなにより魅力で、実戦では盗塁を試みた走者を再三刺している。スローイングの正確さも捕手要員の中でチーム随一〉

 前監督の引き継ぎメモにはそうあった。投手をリードするインサイドワークの巧みさも評価は「A」とあった。扇の要としての役割は果たしているということらしい。

 ほかに犠打の成功率が高い大津滉太という選手もいる。確実性を評価されてか安打数は少ないが毎試合先発起用されていた。

 あとの野手は、可もなく不可もないというところか。それにしても、何度読み返してみても先発組と控え組を問わず野手陣の貧打ぶりが目に余った。前季に打線の上位で時々起用されていた堤光貴という内野手などは、五十㍍走がなんと五秒九と陸上選手並みの俊足ながら、リーグ戦出場試合での安打数は計二本。通算打率も一割にも届かない六分五厘だった。出塁できなければ韋駄天ぶりも生かしようがなかったろう。そのためかリーグ後半戦はもっぱら代走起用されていた。ここにも打てないチーム事情が浮かび上がる。

 投手陣に目を移す。

 目下のエースは右横手投げの上遠野健司。一七二㌢と上背はなく、最速は120㌔程度。サイドからの変則投法で打者の目を幻惑している。〈制球力「A」〉と評価シートにあったので、コントロールのよさを買われて主戦投手を任されているのだろう。二番手は同じ右投げの大嶋匠。こちらも球速は130㌔に満たない。上遠野より若干スピードはあるが、与四球が多いことをみると制球にやや難があるのかもしれない。

 控え投手にはもう一人、最戸泰志という選手がいた。身長一七九㌢と、このチームでは長身ながら体重が六〇㌔台と細身で力感に乏しい。右のやや横手から出てくる独特の投げ方は上遠野と通じる部分があるが、球速は120㌔台。制球力は上遠野と同じくらいの「上」との評価を得ているが、小さくまとまっているだけという印象がつきまとう。控えに甘んじているのは、上遠野とはまた違うインパクトのような部分が足りないのかもしれない。

 高校球児や大学生の多くが経験しているリトルシニアやボーイズといった少年野球の世界では、少しでも打撃センスがあると見なされた子どもは指導者がすぐ左打ちにしたがる。そういう子どもたちが成長して各チームで主軸を打つようになるので左投手が貴重になってくるわけだが、今季の東大投手陣には左腕はいなかった。

 見えてくるのは、このチームの投手陣には球威で押す豪腕がいないということだ。

「絶対エース不在か……」。野木は小さく息を吐いた。

 こうした極めて凡庸なレベルの投手スタッフでは先発投手が崩れると、もはや試合にならない。

 序盤にぽんぽんと大量失点してしまい、のっけから追う展開に立たされたあげく、勝負の行方があらかたついてしまった中盤でやっと1点か2点を返す。しかしながら時すでに遅しで、大量得点差をバックに余裕を持って投げる相手投手にゆうゆうと逃げ切られてしまう、というのが東大の負けパターンのその一。

 負けパターンその二は、先発投手が五回か六回くらいまでは無失点か2失点程度と粘りの投球をしてみせるものの、味方が先制したりビハインドを追いついたりできないまま試合が進み、スタミナが切れかかる終盤になって好投していた先発投手が相手打線につかまって先制点や追加点を与えて突き放される、という形だ。

 過去にさかのぼってつぶさに調べてみると、これまでの試合内容の九割がこの二つに分類できた。

 リーグ戦は全部で二試合とか三試合とかの話ではない。五校を相手に何試合もやるのだ。だったら、一つくらいはぽんと勝てそうなものなのにとんと勝てない。いったい、どうしてこうなってしまうのかと反問したくなるようなもどかしさ。この隔靴搔痒な展開の連続には野球部長もしきりにぼやいていた。

 引き継ぎメモに克明に記された試合評価を読み返すまでもない。他校のように監督が試合の流れを見ながらゲームを動かしている場面は、いくらページを繰ってもほとんど出てこない。まれにそういった展開になった時でも結果的に負けゲームなのである。

 とどのつまり、東大の場合は戦略で駆け引きをしようにも、投手も野手もそもそも力勝負に持ち込めていないのだ。

〈なにか策はあるか――〉

 天井のしみを見つめながら添田の質問を反芻する。

 野球は明快な点取りゲームだ。相手に点をやらないように投手がきちんと仕事をすれば勝ちが見えてくるはず。たとえ自軍が点を取れなくても、相手をゼロに抑えるイニングを単純に増やすことができただけで勝機は探れる。先制されると逆転を期待しにくい反発力の乏しい打力であれば、なおさらその必要性が鮮明になる。

 ――やはり、野球はピッチャーだ。

 このチームで勝つためには試合を壊さないことがまず前提になる。そのためには投手が踏ん張って、なんとしてもゲームをつくらねばならない。いわゆる、ちゃんと野球をしましょうよ、というお話だ。

 前監督の戦力分析が示している方程式はあっけないほど単純だった。

 他校にひけをとらない本格派投手をいまから見つけ出す。勝てる投手を擁して試合の主導権を奪えるようにチームを再編成する。それ以外に生き残る道はない。

 野木も方程式の解を確信した。


 翌日。野球部マネジャーの四年生、白井翔と監督室で膝を詰き合わせた。

「えー、二部制! それじゃ、入れ替え戦じゃないですか。そりゃあないですよ、監督。ありえません。そんなの絶対認められません」

 絶対的禁句である事の顚末を知らされた白井はすっとんきょうな大声を出した。

「監督、これはいったいどういうことなんですか。うーん、こりゃないなあ。まさか他校がそんなことをいまこの時期に持ち出してくるとは。びっくり仰天とかなんとか言う前に、ありえません。ほんとうに、実際に、そんなやりとりがあったんですか」

 黒縁めがねの奥からのぞくまなこがまん丸になっている。

「私も耳を疑ったが事実だ。仮に提案されても、まだ他校全部が賛同すると決まったわけじゃない。だからすぐにどうこうならないが、この連盟の中には、負けてばかりいる加盟校が存在するのは六大学の名折れだと考える勢力がいるということだ」

 野木ほどは冷静になれないらしく、白井の勢いは衰えない。

「いや、これはどう考えても事件ですよ。大事件です。もしかしたら理事会で虎視眈々と提案の時期を狙っていたのかもしれません。日程変更という重要な決定が日の目を見たのに、とんでもないヤブ蛇がお出ましになったという感じですね。うちにとっては冗談で済まされない大ヤブ蛇中の大ヤブ蛇だ」

 早くも部の行く末を案じるかのような白井の渋面が事態の重大さを改めて際立たせた。

 野木とて文句の一つも言いたい気分である。腕組みをしたまま目の前の学生服をしばし見つめた。

 入部当初から選手ではなく主務志望だった白井は、一年生の時から筆頭マネジャーを務めてきた。この役割の者に求められるのは記憶力にすぐれた几帳面な性格である。選手一人ひとりの競技状況や体調を的確に把握するにはそれが不可欠な要素となる。白井とはまだつき合いは浅く、その人間性をよく知るわけではないが、選手個人にもチーム全体にも目配りができる人への優しさや洞察力があると周囲からは聞かされている。無駄口をたたかない隙のなさはアバウトな部分も多い自分には少々肩の凝るところだが、信頼感という点では申し分のない存在だろう。

 白井に関する前監督の引き継ぎメモには、「交友関係きわめて良好」と書かれていた。連盟の役員をはじめ、各種行事などで相席する他校の野球部関係者やスポーツマスコミとか、対外的な交流は幅広いようだ。これから始めるスカウト活動の相棒には適任と思われた。

 そもそも野木は野球部OBではない。自分の人脈が心もとない以上、顔の広い学生は頼もしい。

「白井、君の情報収集能力はかなりのものと聞いた。頼みがある。野球経験のある本学学生で運動能力にたけたやつを新たに見つけてくれないか」

「はあ? 新たに見つける? これから? 選手を、ですか」

「そうだ。ポジションは投手。投手に絞っていい。最高球速145㌔以上で、伸びしろを考えて身長はできれば一八〇㌢以上。それが条件というか望みだ」

「そんなの無理です。そんなやつがいれば、とっくにうちに来てます」

 もっともなことを言う。

「わかってる。だが、君の言うとおりこれはまさに事件だ。わが校に突発した重大事件であり、非常事態でもある。このままでは東大野球部の歴史は事実上、終わる。日本にベースボールが伝わった時代からプレーしてきた帝大の大先輩たちが残してくれた本学野球部の栄えある遺産を守り、その灯を消さないためには勝つしかない。だから……」

「いや、それはよく理解できるんですけど」

 白井が話を遮った。

「まだ野球部に入っていないやつで、145㌔とかのスピードボールを投げるようなそんなすごい人材がうちの学校に果たしているかどうかですし、それがわからない中で、また実際問題として、これだけぼろぼろに試合に負け続けている中で、次のリーグで一朝一夕に優勝を狙えるほど大幅に戦力アップさせるなんてことが現実に……」

 口をとがらせたマネジャーは途中で会話をやめてしまった。

自分はあまりにも当たり前のことを当たり前に告げている、こんなことを最後まで言う必要があるのか。そんな顔になっていた。

「白井、できる、できないなんて、もはや関係ない。やるしかないという状況になってるということなんだ。次のリーグ戦でもこれまでのような負けいくさ続きなら、うちの居場所はなくなる。つまり、目の前には重大な危機がすでに存在していると言ってるんだ。わかるか?」

 自らを鼓舞する思いで続ける。

「活路はある。野球は誰がなんと言おうとピッチャーだ。なにせ七割の確率で打者をアウトにできるんだからな。だからピッチャーに絞っていい。現時点でうちには大黒柱になってゲームをつくれる先発投手がいないのは明らかだ。力で相手をねじ伏せられる力投型の本格派をとりたいんだ。それにもう時間がない。連盟の選手登録締め切りまで二週間ちょっとだ。それまでになんとしても見つけ出す必要がある」

「投手に絞って、ということですが、強打者はいらないということなんですか。ピッチャーだけという理由はなんでしょうか」

 背筋をぴんと伸ばして座っている学生服が首をひねった。法律を学ぶせいか、なかなか理屈っぽい。持っていたジェルペンを指先でもてあそび、どうにも腑に落ちないという表情がさきほどから消えない。

「もちろんイチローばりのすばらしいバッターがいるならバッターでもいいが、野球って、どんな強打者でも三割ちょっとしか打てないじゃないか。三割というと、野球ではすごいことだが確率的には十回のうち七回も失敗するということだよな。それに打撃は水もの、と言われるとおり、ちょっとキレのある球を投げる好投手が出てきたら、強打で鳴らすチームのクリーンアップだってなかなか打てないのが野球ってやつだろう。プロ野球だってそんな感じじゃないか。それなら相手のアウトを増やすことに専念できる本格派のピッチャーを見つけた方が勝てる確率が高くなる。野球は守りから、というのは言い得て妙だと私は思う。そうは思わないか、白井、どうだ」

「ふうん、なるほどです。まあ、おっしゃってることの意味はだいたいわかりますが」

 じゃあ、現実にどうやって探しますか、の顔で相づちを返した。

「君の考えを聞きたいんだ。現実問題としてどんな手がある?」

 思案顔になったあとで白井がぽつっと言った。

「手っ取り早くネットの掲示板あたりで、『求ム剛腕、先発保証』とでもぶちあげますか。手を挙げるやつがいるかもしれません」

「いや、そんなことをしたら保守的でうるさい野球部OBたちが騒ぎ出すかもしれん。それじゃ別の意味で面倒なことになる。あくまで自分たちが足で稼いでタマを見つけてスカウトするんだ。それしか方法がない」

 野木には一つ腹案があった。

 その昔、運動選手の推薦入学制度がなかった早稲田大学に伝わる話だ。正月の箱根駅伝出場校を決める予選会すらなかなか突破できずに低迷期にあった体育会の競争部が一つアイデアを出した。有望選手の入学を待つだけではなく、長距離を走れる一般学生を学内でなんと公募するという思い切ったプランだったという。高校時代に華やかな競技実績は残せなかったけれど、県大会で入賞歴があるなどの地力があり、大学入学後は開放感からなんとなく競技をやめてしまい、毎日麻雀ばかりしているような隠れアスリートの在学生がこの大学にはいるに違いない、在校生四万人超のマンモス大学なんだから、なおさらその蓋然性は高くなる、そういう連中を集めて入部させ、もとからいる部員と競わせることで駅伝に強いかつての競争部を再生しよう、というのが狙いだったと聞く。

 その結果がはたしてどうだったのかまでは知らない。しかし、すこぶる真実味のある逸話に思えた。学生時代に陸上部顧問の体育学教授からそんな昔話を聞かされ、妙に感心した憶えがある。

「荒唐無稽な笑い話のようだが具体的で詳細なエピソードだから、たぶん実話だと私は思う。その時の早稲田みたいに同じように懸命に探せば、うちの大学にも剛腕投手がいるかもしれん。可能性はまったくのゼロじゃないはずだ。どうだ、白井、私はそう思うぞ。ひとつやってやろうじゃないか、君と私で」

 ダイヤの原石探しだ――。

 時間はないが挑む価値はある――。

 つぶやきながら野木は右腕で投球動作の真似をしながら白井に話を振った。

「うーん、確かに早稲田らしい話ではありますね、まあ、あそこはぐちゃぐちゃ人ばっかりいる大学だからなあ。磨けば光る原石があったかもしんないですね。でもそんなこと、うちではどうなのかなあ、ただ単純に真似しても」

「だから、白井、いまは」

「あ、すみません。いまはなにも思いつかないけど、なんかやんなきゃしょうがないということだったですね」 

 白井もあわてたように思案投げ首になる。

「となると、監督。結局は、どうやってものになりそうな情報を迅速に集めるか、ということになります」

「つまり、そういうことだよな」

 保護すべき情報を考えると、『なんとか掲示板』みたいないいかげんなソーシャルネットを使うのは当然まずい。だが、二十一世紀に生きるいま、情報収集にネットは有効に決まっている。効率がいいし時間も稼げる。

 ここは打つ手がほしかった。

「メールとかラインとかツイッターとかインスタグラムとか、使える方法はなんでも総動員しなけりゃならんということだろう。もちろん声かけや口コミを含めて」

 自分のスマホを取り出し、白井に画面を見せる。

「こういうツイッターなんかもな」

「ああ、監督もやってましたか。自分にはフェイスブックもブログもありますよ」

「よし、そこらへんを大量に動員しよう。学外にも積極的に発信して根こそぎ人材情報をかっさらうんだ」

「こうなりゃ、どうにかして大黒柱を見つけたいですね。うちの救世主になってくれるようなダイヤのエースを」

「そうだな。高校時代にけっこう活躍したピッチャーで、二浪してうちの大学に来たけどブランクがあるのでもういいか、と野球を辞めてしまった、なんてやつがきっといるさ。骨太のガタイのいいやつなら鍛え直せば大化けするぞ。きっとする。そんなやつを見つけて、ぶらぶら遊んでるくらいなら体育会で野球やろうぜと、うちに引っ張り込もう。場合によっては就職にも有利だぞ、三菱商事や東京海上なんか手を挙げればすぐ内定するぞ、くらいの方便を使ってもいい」

 目配りの男の琴線にも触れたらしい。白井は学生服から手帳を取り出し、ぱらぱらとめくり始めた。

「頼んだぞ、白井。もちろん私も全力でやってみるが、野球関係の友人は少ないからやっぱり白井、お前の出番だ。SNSならすぐれて個人的なものだ。歳を食ったOB連中も文句を言うまい。いや、やってることも気づかないだろう」

 したり顔になった学生服が手帳をしまい、そそくさと部屋を出て行った。



 それからの数日間、もどかしく時間が過ぎていった。

 特任を命じた白井マネジャーの本来任務は免除し、通称サブマネジャーの女子学生二人に任せてある。

 連絡を待つ身というのは、どうにもこうにも落ち着かない。選手たちには申し訳ないが、打撃練習も内外野ノックも投内連携プレーの練習中も、選手の動きを目で追ってはいても頭の中は別のことを考えてしまう始末だった。

 あいつはいまこの時間も、自分が使える人脈を総動員して動いてくれているはず。その首尾はうまくいっているだろうか。少しは前に進んでいるのだろうか。なにか耳寄りな情報をゲットしただろうか。四六時中、気になって仕方がない。

〈まずは学内の他の団体競技の友人に連絡して、その部の新人に野球経験者がいないか聞くことから始めます。こっちの目的を話していいか迷うところではありますが、一時的にも野球部に籍を置いてもらうことは可能でしょう。高校野球じゃ他部からの選手補強なんて珍しくないですから〉

 そんなことを彼は言い残していた。

 この敏腕マネジャーの持論は、運動神経に秀でている身体能力の高い者は、基本的にどんな競技をやらせてもうまくやる、というものだ。

 もう何十年も前の話になるが、都内でも有数の進学校の都立高校が初めて甲子園に出場して大きな話題になったことがあった。その時のエースは東大に受かったが、当初はゴルフ部に入ったことでも注目された。

〈まさしく自分たちが知らないだけで、アスリートとして見どころのある新人がどっかの部にいるかもしれません。いたらすぐ連絡します。その部には申し訳ないですが、絶対口説き落として野球部に入れましょう〉

 白井のこんなある種の楽観的なもの言いにもそれなりの根拠らしいものがあって、アメリカンフットボール部なんかには野球経験者がけっこう多いという。高校で夢中になって野球に打ち込んだけど、大学ではもっと大学生らしい部に入りたいとアメフットに転向するケースがその典型だと白井は力説してみせた。

 そのアメリカンフットボール部といえば、東大は年代によっては日大や法政など私大の強豪と遜色ないほどの強さを誇っている。この大学では数少ない学外にも知られた強い運動部だ。しからば、身体能力の高い元球児が紛れ込んでいる蓋然性は低くはない。さらに言えば、2種目以上のスポーツをたしなむのが常識のアメリカなんぞでは、運動選手が異種目でプロに挑戦する例も珍しくない。部活も成熟した感のある現代の日本でそんな例が絶対ないとは言えないだろう。

 ――アメフットであろうとゴルフであろうとバスケであろうと、この際なんだっていい。野球の実力が本物なら過去は問わず、だ。

 野木の本音だった。

 そうは言っても、肝心の情報が舞い込んで来なかった。こんな時は日常生活も練習も時間が過ぎるのが早い。連日ぬかりなく携帯電話の着信を確認するが、なんの連絡も届いていなかった。

 日一日と時が過ぎていく。待てど暮らせど吉報はやって来なかった。自分も、これはと思う学内外の友人たちに在学生のスーパーアスリートの存在やいかん、を問い合わせてみたが、どの相手も一笑に付すばかりだった。

〈野木君、ちょっと小耳に挟んだんだけど、君ねえ、言っとくけど、そんなまるで夢みたいなことを人に聞いて回ってる暇があったら、もっと練習に時間を割いたらどうだね。君は今シーズンから大役を仰せつかったばかりじゃないか。それなのに、いったい君は、自分の置かれてる立場がわかってるのか。こんなことじゃ、部のことなんかより君自身のことを心配しなくちゃならなくなるぞ〉

 そんな、ご丁寧で辛辣な諫言をくれる年上の知人もいた。

 あと十数日で連盟への選手登録が締め切られる。それまでに、とにかくなんらかの収穫がほしい。

 テーブルに広げたスポーツ新聞には、六大学の他校に進んだ有力ルーキーたちの記事が載っていた。甲子園で勝ち進む原動力となったエース投手や本塁打が高校通算何十本といったスラッガーら、実績ある有望選手たちのことを「早々に神宮デビューか」「期待の一番星」などと派手な見出しとともに持ち上げている。着々と戦力が整うライバル校。今季もまた「包囲網」ができあがったということだ。

 こうなってくると、具体的な人物の特定に至らなくとも、とりあえずこちらが追い求めているような元高校球児の風評や風聞に接するだけでもいいと思えてくる。とにもかくにも、本学の学生ならば、仲間になる資格はあるのだ。

 昨日は、こんな長文メールが白井から届いた。

〈白井です。お疲れさまです。ツイッター仲間の友人から連絡があって、青森と大分の東大に何人も入るトップ進学校出身で、夏の大会で私立の優勝候補のエースに投げ勝って甲子園にあと一歩というところまでいった高校生2人のことを教えてもらいました。それで、すぐつてを頼ってその後の進路を調べたんですが、ひとりは一橋大、もうひとりは東京工業大でした。その友人にはそれとは別の進学校で注目できる素材がほかにいなかったかと聞いてみましたが、同じように私立に勝った近畿地方の県立高校のピッチャーを2人知っているが2人とも京大と国立大学の医学部受験に失敗して関西の予備校に通ってる、と言ってました〉

 ため息とともにスマホをしまい込むしかなかった。

 ――だめか。

 最初に白井マネジャーが言ったとおり、入学が格段に難しいこの日本一の有名大学で、埋もれたスポーツマンの人材を探せと言う方がどだい無理な相談なのかもしれない。相撲やボクシングなど個人競技を含めたどんな種目でもよくて、その中で知られざるアスリートを見つけようというのならまだしも、野球に特化した公募となると、また一段とハードルが高くなってしまう。

 このままでは、現有戦力で開幕を迎えねばならない。そうなると……。野木は血流が集まった側頭部にかゆみを覚え、思わず髪に手ぐしを入れた。

 白井からの報告は夕刻の決まった時間に有線電話でということが多かった。この日の練習も終盤にさしかかったころ、野木は定時連絡を待つため、残りの指導を学生コーチと主将に任せていったん監督室に引きあげた。残り時間は確実に少なくなっている。なんでもいい。情報が欲しかった。

 テレビをつけ、それほど読みたいわけでもないスポーツ新聞をめくる。アマチュア野球のページには六大学野球の今季日程の記事が小さく載っていた。

 ――今シーズンに限り五月開幕にしてくれないかな、もっと時間があれば。思わず愚痴が出た。

 夕方のテレビニュースがスポーツ情報に切り替わった。六大学より一足早く開幕するプロ野球の話題が、きょう一番のメニューになっている。人気球団のトピックスがひととおり流れた後、キャスターがあらたまった声になった

〈今年もまた、十二球団にたくさんの外国人選手がやって来ました。アメリカのメジャーから、プエルトリコからドミニカから、あるいは韓国のプロリーグから、海を渡って日本に活躍の場を移しました。これらの新戦力の助っ人たちが、どんな活躍を見せてくれるのか。いまから楽しみです〉

 ――外国人? 助っ人?

 なにかが脳裏でチカチカと弾けた。

 スマホを取り出し、白井を呼び出す。朝から晩まで駆けずり回っている情報収集活動の妨げにならないよう緊急時以外はこちらから連絡しないようにしていたが、そんな遠慮はしていられない。

 呼び出し音二回で出た。

〈あ、監督、お疲れさまです。連絡しなくてすみません。残念ながら、さしたる収穫はまだ……〉

 言いにくそうに切り出した会話の腰を折った。

「ああ、ごくろうさん、いや、首尾を聞くためにかけたんじゃない。白井、外国人ってのは、どうだ?」

 単刀直入に告げた用件をすぐ理解できなかったらしい。沈黙があり、ややあって、さっきよりは元気な声が返ってきた。

〈監督、もしかして、外国からの留学生のことを言ってるんですか〉

「もちろんそうだ。学内を歩いてると、明らかに日本人じゃないでかいやつに時々会うじゃないか。パックンみたいな顔のいかにもアメリカ人みたいなおっきいやつとか、ドイツ人のサッカー選手っぽい筋肉質のやつとか、デンゼル・ワシントンみたいなアフリカ系かなというようなやつもいるよな。ああいうやつらは本学の運動部には入れないのか?」

〈うーん、語学研修とかで来てる連中はだめでしょうが、学士取得をめざして正規に入学した留学生は大丈夫と思いますよ。そういうのなら私立の他校にはけっこういますよね。ラグビーや駅伝みたいに留学生に引っ張られてる部活は山ほどあります〉

「そうだ、そうだよな。なぜいままで気づかなかったんだろう。アメリカとかドミニカとかベネズエラとかプエルトリコとか野球が強い国や地域から来てるやつで、ベースボール経験者が在学してるんじゃないのか。探そう。さすがにキューバの強豪学校で野球やってたなんて都合のいいやつは、うちの学校にはまずいないだろうが、アメリカのハイスクール時代に豪速球投手だったやつがいるかもしれんぞ。その後、ハーバード入って野球はちょっとお休みしてて、いまは大学から派遣されて東大でアジア政治史を学んでるとか、どうだ、こういうのは」

 勝手な想像あれこれを電話口にぶつけた。こんな時はすぐ現実になるような気がしてくるから不思議なものだ。

〈なるほど、そうですね。それはいいかもです。傾聴に値するアイデアですよ。じゃあ、自分は、あす大学の学務部の留学生担当に聞きに行きます。そこでだめなら外国人留学生に詳しいサークルで情報を集めるようにします。知り合いがいますし。むろんSNSも続けます。成り行きによっては、監督にもすぐ出馬をお願いしますよ〉

 白井の声が弾むのがわかった。

 どうしてこれまで思いつかなかったのか。思わず膝をたたきたい気分になる。

言うまでもなく東京大学はレベルが極めて高い世界に冠たる総合大学なので、各国から来日している公費留学生が多い。優秀な学生が相当数やって来ていて、日夜まじめに勉学に励んでいることだろう。特に理工系に在学する途上国出身の学生たちは学んだ技術を母国に持ち帰り、愛する国の発展に寄与すべく熱心に授業に出ているとよく耳にする。

 とまれ、早慶ほどではないにせよ、これだけまとまった人数がいる大学なのだ。日本で言うところの高校時代に本格派の投手だった人材が、絶対に混じっていないなどとは誰も断言できないだろう。

 先ほどまでテレビに映っていた大柄な外国人選手たちの映像が野木の脳裏に鮮明によみがえった。


 大学近くのファミリーレストランで野木は中藤郁夫とテーブルを囲んだ。中藤は教育学部の同級生で東大の事務職員をしている。入職以来、総務関係の畑を歩いていた。

「なんや、いったい、どないした。夜に一杯やるゆうんならともかく、お前が昼メシ食お、なんて言うんは珍しいやんか。いま時分は講義しとる最中やないんかいな。まさか、クビになってしもうた、ゼニ貸してくれ言うんと違うやろな」

 中藤は野木の顔を見るなり、にやりとして一発かましてきた。関西出身者の多くがそうであるように中藤も大阪弁をまったく隠そうとしない。ぐにゃっとしたイントネーションに久々に接して野木もちょっぴりおかしさがこみ上げた。

「ふふ、思った以上に元気そうだな。貴重な昼休みの時間に呼び出してすまん」

「べつにかまへんよ。どないや、そっちは?」

「俺の方はまあ、なんと言っていいのか、お前がよく使う言葉で言うと、ボチボチというところだ」

 中藤とは大学の定期試験期間中には他の級友も誘って試験対策合宿もやった仲だった。卒業後はさすがに顔を見る機会は減ったが、こうして会えばくだけた話ができる。

「お前なあ、ボチボチいうんは、東京言葉の『まあまあ普通です、相変わらずです』とちゃうで。どちらか言うと、たいへんうまくいっております、いうグッドなニュアンスを含んどるんや。ほお、さよか、そういうことからすると天下の公立大学の准教授ドノは順風満帆の人生を歩んどる、ちゅうわけやな。そらええこっちゃ。しがない大学事務員の俺からしたら、ほんま、うらやましい限りや」

 同期のよしみをにわか関西弁で返した野木を見て中藤がふふんと鼻で笑った。中藤にも野木と同じように大学の教員を目指そうとしていた時期があった。大学院進学のための勉強会でも野木と中藤はいつも顔を合わせ、足りない部分を教え合ったり、資料をコピーし合ったりした。だが、東大が職員募集の告知をすると中藤はさっさと応募、めでたく採用されて大学院には行かなかった。そのいきさつにある種の後ろめたさでもあるのか、野木に対してはたまにこうしてとがった口の利き方をする。

「相変わらず口の減らない男だな。東京公立の方は監督になった時点で休職した。いまは監督オンリーだ。契約年俸は安いが母校に通勤する喜びを味わってる」

「なんやそうか、野球部と掛け持ちとちごうたんか。そらまあ、ごくろうさんいうか熱心なこっちゃ」

「中藤、うちの学生に関することで、ちょっと聞きたいことがあるんだ。可能なら教えてくれ」

「なんや、それ。学生ゆうて、ぎょうさん、おおぜい、ちゅう話か。それとも特定の子に関する話かいな。どっちや? いまは個人情報、個人情報ゆうて、えろううるさいんや。昔とちごうてあかんことも多いで」

 野木は在学中の外国からの男子正規留学生のうち、スポーツ経験の有無と、特に野球をしていた者がどれだけいるのか尋ねてみた。

「初めからいわくありげな顔つきやったけど、なんでそんなもん知りたいんや」

「まあ、参考までにちょっと聞きたいだけだ」

 大学当局にへんな伝わり方をすると、それこそ面倒なことになりかねない。核心部分は親友には申し訳ないが打ち明けるわけにいかなかった。

「そやな、留学生はざっと三千人はおるで。男子だけやと、どれくらいかわからんが半分以上は男ちゃうかな。運動経験も履歴に記入欄あるよって、自己申告やけど、そら野球経験者もおるやろ」

「どんなやつがどんな運動経験があるか、学校に提出した履歴簿だか学生簿だかでわかるってことなのか」

「ま、ある程度そうやろ。いまゆうたとおり書く欄はあるよってな。中には詳しく書いとるやつもおるやろな」

 具体的な競技歴や熟達度がわかれば、ピンポイントでアクセスしやすくなる。ちょっと突っ込んでみた。

「たとえば、アメリカから来て文学部で日本文学を研究してるやつが、ハイスクールで野球歴があるなんてこともわかるんだな」

 中藤の顔が曇った。

「おいおい、俺にそんなことごっそり全部、閲覧せえ、言うんか。そんなん、個人情報そのものやんか。一人ひとりの履歴を閲覧するんは物理的にはえろう簡単やけど、そらNGや。もしそんなことやったら照会履歴のパソコンのパスワードで誰がやったんかすぐわかる。情報流出には大学も極端に神経質になっとるよって、いまどき職務に関係ないそんなことしてもうたら、えらいこっちゃ」

 中藤の反応には一理も二理もあった。無理強いできないことは最初からわかっている。となると、わずかでもスカウト活動を前進させるための、取っかかりとなりそうな参考情報を得るだけでよしとしなければならないだろう。

「無理を言ってすまん。確かにそうだろうな。それはよくわかる。そうか、じゃあ、お前の耳に入る範囲でいい。二十五歳くらいまでの留学生で、本国では野球選手だったやつがいないか、周辺に聞いてもらえないだろうか。学務課も統括するお前んとこの総務部だったら、手広く情報は入るんじゃないのか。できたらアメリカ人がいい。ひょっとしてキューバ人の野球経験者なんていないかなあ」

 目的がわかってきたらしい。中藤は人を食ったような表情に戻った。

「ほっほう、なんや外国のやつを選手にしたいちゅうことか、そりゃまたごっついな。えろうごっつい話や。野球部にはもう新入部員がごそっと入ったんとちゃうんか。負け放しなんやから弱いのはわかっとるけど、弱すぎてついにプロ野球の球団みたいなまねを始めおったか」

「中藤、これはまじめな話なんだ。他校では留学生が運動部の主力選手として活躍しているのはお前もよくわかっているだろう。帝京大や東海大のラグビーとか日大や山梨学院大の駅伝とかな。うちの学校の留学生は、体育学や運動生理学を学ぶというよりは数理科学や学術や芸術とかの連中が多いんだろうけど、高レベルなスポーツの経験者がもしやいるかもしれん。そういうやつを発掘したいんだ。ただし、正規入学の留学生で運動部の入部資格があるやつじゃないとだめだけどな」

 つい核心を語ってしまった。目の前の親友はすべてを理解したはずだ。ただ、この男はこちらが持ち込んだ話をべらべら漏らすような人物ではない。協力を得るためにはこの際、正直に伝えた方がいいと思い直した。

 中藤の顔から野木をいじって楽しむかのような表情が消えた。口をへの字に結んだまま考え込んでいる。

「うーん、そこまで言うんやったらけっこう深刻な状況ということなんやな。えろう難儀な話、持ってきよったもんや。そやけどまあ、ほかならぬお前の頼みや。よっしゃ、パソコンの無断検索は無理やけど、なんとか口コミであちこちいろいろ探ってみたるわ。お前がそうまで言うんやったら、そうそう無視もできへん。そやな、確かにお前が言うように、ごっつい図体した外国人が校内のあちこちでようけうろうろしてけつかるな。そうやったら、昔の野球選手もおるかもしれへんな、俺もそんな気はするわ」

「かたじけない。もしこれは、というような候補者が見つかったりしたら連絡をくれ。野球部の戦力アップのためにはなんとしても見つけたいと思ってる。よろしく頼む。ステーキの支払いは俺がしておく」

 コーヒーだけ飲んだ野木は請求書をつかむと肉を待つ中藤を残し、チェックに向かった。


 二日後に中藤から電話があった。

「俺や。総務の生き字引と言われた大先輩が半年前に退職したんや。その人にそれとなくあたってみたった。学内で現役の留学生選手として運動部で活躍しとるような選手は四人いてるわ。弓道部、ラクロス部、剣道部、フェンシング部やった。みんなアメリカ人で、歳は一人が確か三十八で、あとは二十代やそうや。この四人は競技レベルで日本人部員をしのぐほどのレギュラークラスらしい。学内では知る人ぞ知る、ちゅう存在らしいな。みんな日本語も堪能言うとったで。ま、ばりばりの部員ちゅうやつなんやろ。それぞれの部の連絡先は公開されとるから後でメールしとく」

 翌日、野木は白井を伴って二十代の当該部員たちを見に行った。

 弓道部員は身長が二㍍近くもあるアーチェリー経験者。野球の母国出身ながら幼少時から洋弓一筋で、野球はルールをまったく知らないし関心はないと即答した。ラクロス部員はアフリカ系と思われる精悍な顔つきの若者だった。サッカーをしたことはあるが野球はボールを握ったこともなく興味もないと流暢な日本語で答えた。剣道部員も雲をつくような白人の大男だったが、ボールを使った団体競技の経験はまったくないと申し訳なさそうな顔で答えた。三十代のフェンシング選手は当初から除外した。

 のっけからの玉砕だった。中藤の大阪弁を借りれば、「すか食ろうてしもた」というところか。野球とはそもそも種目がまるきり異なってはいたがアスリートには違いあるまい。筋肉骨格は折り紙つきのはず。彼らに少しでも野球経験と野球への関心があればなんとかなるかも、と心の片隅で期待していたが現実は厳しい。具体的進展が、かいま見えたかに思った突撃スカウトだっただけに徒労感が募った。

「白井、これでまた何日かロスしてしまったな。あーあ、という感じだ。それにしてもここまで大きくあてがはずれるとは思わなかった。競技人口からみて、サッカーみたいなメジャースポーツでないことはよくわかっていたが、野球も近年は世界大会をやってるし、少しはグローバルな競技になったと考えていたんだけどな。世界的にはやはりマイナースポーツに近いのかな」

 野木の愚痴に白井もうなずく。それなりの期待があった分だけ失望感が大きく、帰り道の足取りも重くなる。

「目のつけどころは最高だと自分も思ったんですけど。肝心の人材が存在しないんじゃ、外国人だろうが、留学生だろうが、助っ人だろうが、へったくれもないですね。いやあ、甘かった。甘すぎた、ですかね」

 相棒の返事にも張りがない。中藤には引き続き情報提供の依頼をしておいたが、もう多くは期待できまい。一方で部員登録締め切りが刻一刻と迫っていた。

「えーと、監督、きのうまでツイッターとラインでの呼びかけに協力してくれた各部のマネジャーのつてを頼って他の運動部に入学予定の外国人学生の存在を調べてみました。残念ながら過去に野球の経験者はいないようです。それに第一、みんなとくに運動能力が優れている感じではないです。東大でも正選手は無理かなというレベルの者ばかりという印象を受けました。面会するのはもう時間の無駄と思います」

 メモに目をやりつつ白井がふっとため息を漏らした。

 こうしてみると、他校にはたくさんいるラグビーやサッカーや駅伝といったその競技をするために母国を離れて来日したような一流の外国人選手は、わが東大には見当たらないということのようだ。スポーツで名を売る大学ではない。当然と言えば当然だった。

「ああ、そうだ、監督、報告があと一つ」

 仕方がないから言いますといった調子の沈んだ声が続く。

「この前、うちの看板運動部のアメフットに身体能力がとにかく高くてすぐにレギュラーを張れるかも、というドイツ人留学生が入部予定と聞いたんです。自分も一瞬、色めき立ったんですが欧州育ちで野球を全然知らないそうです。それじゃ話にならないでしょう。調べついでに、軟式の草野球サークルの何人かに会ってちょっと話を聞きました。でも、外国人がメンバーに入ってて、そこで中心になって活動してるような同好会はありませんでした。もちろん、そんなレベルのサークルの学生連中には、おおっというような元高校球児も見当たりません」

 成果ゼロ。白井の苦労は多としなければならないが、こんな報告ばかりを聞くとさすがに気が滅入ってくる。そろそろ潮時なのかもしれない。

「でもまあ、ここまでさんざんごくろうだった。感謝する」

「よしてください。結果が出ないんじゃ、なんの意味もないです」

 打つ手なしか。白井を横目で見ながら次の一手を懸命に考えてみる。だが、なにも浮かんでこなかった。

「結局はだめかもしらんが、まだ少し日にちがある。最後の最後まであきらめずに情報は集めよう。白井、野球の試合は下駄をはくまでなにが起こるかわからんとよく言うじゃないか。これはゲームじゃないが、ここは腹のくくりどころだ」

 小さく白井がうなずいた。


 ここのところ、寝つきも寝覚めも悪い。スカウト活動も大詰めに来た。少なくとも一両日中になんらかの手を打てなければ残り日数からみてタイムアウトだ。その場合、現在の戦力をいかに鍛え直すかが課題となる。時間的に、もはやリーグ戦突入後の試合の合間を縫ってやるしかない。プロ野球のキャンプのような濃密な特別メニューが必要になる。選手たちの体力水準を考えると成果があるかはわからないが。

 胸ポケットのスマホが震え出した。例の関西弁が耳に飛び込んできた。

〈のぎいー、いまどこにおるんや? 学内やったら、ちょっと来られへんか。おもろいもん見せたる〉

 総務部の応接室に出向くと、中藤がにやにやしながら新聞を目の前に放り出した。

一面カラーのド派手な見出しが特徴的なスポーツ新聞。監督に就任してからは各社ひととおりの社名は憶えた。これは関西系の「スポーツ日報」だ。東京でも阪神タイガースの記事を一面で報じることで知られている。

「これがどうかしたのか」

「真ん中くらいにあるアマチュアスポーツのページ広げてみい」

 野木が新聞を繰り始めると中藤が前から手を伸ばし、ばしっとページを開いてから記事を指先でぱちんとはじいた。

《え!? 東大生が150㌔?》の小ぶりな見出し。

 新聞独特の黒い点線で四角く囲まれた記事はこんな風に続いていた。

《東京の下町のバッティングセンターに自称東大生の若い男がふらりと現れ、硬球のピッチングコーナーで150㌔の豪速球をばしばし投げてみせ、来場者の話題をさらっているという。素性は不明だが、ぶらっとやってきては三、四十分ほど投球をして帰っていくらしい。当然、居合わせたギャラリーはみなびっくり仰天。「すげー、ありえねー」「元プロですか」「ほんとに東大?」などと質問攻めにするが、若者はすまし顔で「ええ、まあ」と控えめに答えるだけらしい。事実ならかなり痛快な話だが、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。東大の野球部の投手にそんな豪速球を投げるピッチャーがいるなんて記者は聞いたことがないからだ。そうは言っても、こんなタイガーマスクみたいな愉快なネタに出くわした時は、ちゃんと取材するのが記者の務め。そのうちこの男性をつかまえ、相手が取材をOKしてくれれば正体を明らかにしてみなさんにご報告したい。ところで、プロ野球がいよいよ開幕です。なんと言っても新監督になるタイガースに大注目ですね。今季もタイガース情報は引き続き日報におまかせを。(杉)》

「おいっ、なんだこれ! これは一体なんだ!」

「日報の名物記者コラムや。いろんな記者が取材でつかんだ様々な話題を自由気ままに書いとる」

「そんなことじゃない! 記事の中身だ。東大生が150㌔? おい、この話、事実なのか、それともフィクションか」

「さあ、そんなことは俺にはわからへん。記者に聞いてみたらどないや。朝方、俺もこれ読んだよって、お前に教えたっただけのこっちゃ。俺は小学校の五年生からタイガースの理論的指導者やから日報は毎日精読しとるけど、お前はこんな新聞、読んどらんやろ思うてな」

「中藤、この記者を知ってるのか」

「まさか。俺は一読者や。せやけど、『杉』いうんは、杉浦なんとかいう記者やろ。東京で巨人の担当とかしとったんちゃうかなあ。巨人の試合でフルネームの署名入り記事を読まされたもんや。えーと、下の名前はなんやったかな、ちょっといまはよう思いださん」

 中藤とコンタクトをつけておいてよかった。この時ほどそう思ったことはない。

 すぐにスマホを取り出し、通信履歴の最上位に来ている白井の携帯番号をワンタップする。

〈スポーツ日報? スギ? ああ、その人ならスギウラカツヒコという人だと思います。下の名前の漢字はよく憶えてないですけど杉浦克彦だったかな。いまはどうか知りませんが、プロ野球担当でアマチュア野球も時々取材してますよ。スポーツ日報は東京じゃ他の新聞社より人が少ないそうですから、かけ持ちでなんでもやるようです。個人的に面識はありませんけど、六大学創設九十周年の記念イベントの時に日報の腕章を首から提げた記者が何人かいましたから、たぶんそのうちの誰かじゃないかと思いますよ〉

 白井はよどみなく答えた。とくだんの反応はなく、記事は読んでいないようだ。東京生まれで東京育ちのGファンはトラ重視のスポーツ日報など買わないとみえる。

「白井、いま学内の友人のところにいて、そいつにその新聞社の記事を見せられて、それで、そのスギウラとかいう記者が書いたと思われるすごい記事を読んだんだ。白井も読めば私が電話した意味はわかる。すぐに真偽を知りたい。動こう」

早口で記事の大まかな内容を知らせた。

〈…………〉

「もしもし、おいどうした。聞こえるか」

 返答がない。法学部生らしくその緻密で論理的な頭脳で記事の真偽を推察しているのか。それとも記事を真実だと仮定し、もうすでになんらかの戦略を考え始めているのか。

〈……監督、ちょっとその記事、写真に撮ってメールで送ってくれませんか〉

 しばらくして折り返しが来た。

〈監督、これはたいへんな情報です。杉浦記者が記事で書いているとおり、うちに速球投手なんていない。明らかに未知との遭遇ですよ。野球経験者には間違いないでしょうから、実際に東大生でビンゴなのか、それとも冗談ごめんなさいなのか、それがすべてです〉

 同感だ。まさにすべてを言い表している。

「それでどうする」

 相手はまた沈黙した。各駅停車のような間がもどかしい。せっつきたくなる気持ちを抑えながら待った。

〈杉浦記者に会って、その時の状況をもっと詳しく聞き出しましょう。それを手がかりにしてさらにアタックです〉

 白井は会議の結論を告げるように高らかに宣言した。かと思うと、こんどは急に声音が変わった。

〈でも、ちょっと難しいかな、いや、でも、ここは当たって砕けろかな、うーん、どうだろ、やってみるまでわからないかもなあ〉

「どうした? 記者に会うのってそんなに難しいのか」

 さっきまでの意気込みとは打って変わった、ためらうような様子が解せない。

〈いや、会うこと自体は難しくないと思います。難しいのは、記事について背景などを聞きだそうとすることです。監督はマスコミとはつき合いがまだほとんどゼロの状態でしょうからわからないかもしれませんが、報道関係者というか新聞やテレビの記者には取材源の秘匿という守らなければならない重要な職業倫理がありまして〉

 取材で知ることになった情報源や事実関係や背景などについて、記者が記事で書いた以外のことを他者にもらすことはその報道倫理に反している、というようなことを白井は説明した。

「じゃあ、この話はこの記事以外に知るすべがないということになるぞ」

 記事には下町のバッティングセンターとしか書いていない。ということは江東区とか江戸川区とかだろう。いまは昔ほどその種の施設は多くない気がするので突き止めることは至難ではないだろうが、なにしろ時間がない。これでは宝のありかを前にして白旗ではないか。

 反問に返事があった。

〈突撃しましょう。スポーツ日報社に乗り込んで、杉浦記者と面談するんです。そして記者倫理に反しない範囲で教えてほしいと頼みこむんです。このうえは、もはやそれしかないと思います〉

いつになく強い口調だった。

 今回のスカウト活動にあたり、白井は顔見知りのスポーツ関係者や新聞記者にはツイッターなどのSNSで情報提供を呼びかけていたと話していた。何人かの相手は「それじゃあ、こっちも知ってるやつに伝えておくよ」と回答してくれたそうだ。もしかしたら、わが方の人材募集のことを小耳にはさんでいるかもしれない。だからといって協力してくれるとは限らないが、会えたなら事情は説明しやすいだろう。

 野木の目にはすでに謎の剛球投手の面影がちらつきだしている。

 たいへんな情報です――。

 あの沈着冷静過ぎるくらいの白井マネジャーも即座にそう反応した。これしかない。自分もそんな気持ちになる。

 スマホ片手にもう一度、記事に目を落とす。どうみても巷のうわさ話だった。頭を冷やして考えればそうに違いなかった。東京には将来はプロ入りするような大学生や社会人の野球選手も住んでいる。そういう人間がその気になれば、シーズン前のこの時期でも150㌔くらい出せるだろう。その点、記事には信憑性を感じる。ただ一点、「自称東大生」というくだりを除いて。

 ただし、無駄骨に終わった留学生スカウト作戦と違い、こんどは初めて野球というやつが最初から前面に出てきた。それだけは確かだった。

 ――うわさだってなんだっていい。

 確かめてがっかりするならその時はその時。また覚悟を決めるだけのことだ。

「わかった。白井、こうなりゃ、早速あしただ。行ってみて席外しだったら待たせてもらう。出張とかでいなかったら出張先まで追いかけてやる。あすの全体練習は副主務と主将に仕切りをまかせることにする。実際の特攻作戦は君が考えてくれれば私は従う。段取りをメールしてくれ」

〈了解いたしました〉

「よろしく頼む。あ、白井、新聞社の人って、ふつうのジャケット姿で会いに行っても失礼にならないよな」

〈あはは、当たり前ですよ。卒業式や教授会の行事に招かれているんじゃないんですから。フォーマルな格好なんて無用です。記者の人だって、スポーツ新聞の記者さんはネクタイしてないラフな格好の人が多いです〉

 久しぶりに白井の笑い声を聞いた気がした。



 スポーツ日報社の東京支社は都心の官庁街に近い日比谷にあった。JR新橋駅前の繁華街の雑踏をすり抜けるように歩く。日比谷公園や野外音楽堂も近く、ちょうどなにかのイベントをやっているのか、にぎやかなメロディーと司会者のような声が聞こえてきた。やがてオフィスビル街の一角にめざす白い五階建ての建物が現れた。外壁には漢字とアルファベットで社名が掲げられている。他のテナントの看板類がないところをみると自社ビルのようだ。新聞社は昼も夜もないと思っていたが、表玄関のドアが開く業務開始は学校や役所などよりずっと遅い午前十時だった。

 受付で名乗ってから氏名を記帳し、記者との面会を申し込む。面談内容の欄にはこんな風に記載した。

 ――日ごろから杉浦記者の書く多彩な記事を興味深く拝読しております。一方で自分たち学生スポーツの現場も、記者の人たちが関心を持つと思われるいろんな情報を持っております。つきましては、杉浦記者にこうした情報の一端をぜひ直接お伝えすることで、今後の記者活動に役立ててもらえればと考えております――

 白井が昨夜ひねり出した理由だ。むろん東大野球部の監督と主務という身元は明らかにしている。

「お約束というわけではないんでしょうか」

 受付に座る髪の長い女性は困惑したような目を向けた。こういった電撃訪問はあまり例がないということだろうか。クレーマーみたいなややこしい類いの来客でないことはすぐわかるだろうが、アポなし訪問には相違ない。当該部署につないでいいものか迷っている様子がありありだった。

「ええ、前もってお電話とかはしておりません。東大野球部の現役の監督とマネジャーということをお伝えいただいて、もし、お時間があれば十分でも十五分でもけっこうですのでお話をさせていただければありがたいのですが。ご挨拶程度でもかまいません。もちろん、ご本人が会う気はないとか、そうおっしゃるんでしたらあきらめます。どうかよろしくお取り次ぎください」

 野木の顔に「わけあり」と書いてあったかもしれない。ひょっとしたら白井だってそうだ。

 受付嬢は野木と白井の顔を順番に見たあと、「そちらでお座りになってお待ちください」と言って手元の電話をとった。

 ほどなく受付に呼ばれた。

「杉浦が会うそうです。ただ、いま取材の電話をかけている最中だそうで、もしかしたらあと三十分くらいはかかるかも、とのことでした。お待ちいただけるのなら応接室をご案内します」

 通された広々とした応接ルームは立派なつくりだった。きれいに清掃された濃いグレーの床の上に大理石風の重厚なテーブルが鎮座している。その周りには革製らしい品のよいソファが配置され、ホテルのロビーのような豪奢な雰囲気があった。レースカーテンが施された大ぶりな窓からは春の穏やかな日差しが注ぎ込んでいる。

「お待たせしてすみません。杉浦ですが」

 たっぷり一時間は待たされただろうか。ガチャッとドアが開く音がして、ついたての向こうから淡いベージュ色のジャケットをはおった男性が顔を出した。

 四十代くらいか。日焼けした顔に口ひげをたくわえている。背が高いわけではないが、がっちりとした筋肉質の身体に肩幅が広い。目つきもそれなりに鋭く、記者というより刑事のような存在感がある。

「たいへんご多忙なところ、すみません。はじめまして、東京大学の野球部の監督をしております野木と申します。こちらは四年マネジャーの白井翔と言います」

 野木は丁重に腰を折った。両手で名刺を差し出し、杉浦の名刺を両手で受け取る。

「あ、ども、こんにちは。監督さんのことは知ってますよ。この前の就任会見に行きましたから。まあ、若い記者の取材応援だったので監督さんに直接名刺をお渡しするようなことまでしませんでしたが」

 名刺に目を落としながら杉浦は少し表情をなごませた。

「そうでしたか。それは恐れ入ります。その節はお世話になりました。なにぶん初めてのことでつたない会見になってしまって恐縮しております。改めてこれからよろしくお願いしたいと存じます」

 野木は再び頭を下げた。杉浦は白井に憶えはなかったらしい。そばでかしこまったマネジャーには軽く会釈をしただけだった。まったくの初対面でなかったことが、はたして吉と出るかどうかはわからない。ただ、訪問前よりはいくぶん気分がほぐれた。

「で、ご用件はなんでしょう。受付から訪問理由を聞きましたが、よくわからないんですが。いきなりお見えになったんで、ちょっとびっくりしてます」

 杉浦が戸惑った表情を見せた。

「こんなふうに突然押しかけまして申し訳ございません。失礼をお許しください。お忙しいお仕事のなかで時間をとってくださってありがとうございます。お会いできて助かりました」

 記事の中身に触れる前に、ことの始まりから説明するのがやはり礼儀だろう。

「きょうはお願いがあってまいりました。最初から詳しくお話ししたいと思います」

「お願いですか……。まあ、どうぞ」

 不思議そうな顔をした杉浦に促され、白井と再びソファに腰を下ろした野木は記者の目を意識しながら説明を始めた。

「杉浦さんならとっくにご承知の通り、本学の野球部はもう何季も前からリーグ戦で負け続け、現在は九十連敗中です。関係者の一人としては悔しさでいっぱいですし、今季からチームを預かる新任監督の身としてもこの状況には強く責任を感じております」

 杉浦が軽くうなずく。

「ですから、なんとしてもこの面目ない現状を打破し、試合後に選手たちが喜ぶ姿を見たいと考え、いま現在も懸命に戦力アップに努めているところです。私としましては、中でも投手力の抜本的補強こそが最重要だと感じました。大敗するゲームが続いている目下の状況を考えますと、投手力整備がチーム建て直しのためには急務ということになります。そういう観点から学内のありとあらゆる運動選手、ま、野球経験者でないと話になりませんが、かつて早稲田の競争部がそうしたと言われるように、当該の運動部に現時点で入っていなくても、野球をやらせたら特筆して秀でているのではないかと思われる投手の人材を必死で探しております」

「ふうん、なるほど、そうなんですか」

 頭を小さく上下させた杉浦は合点がいったように足を組んだ。

「個人的な人脈のほかにも、ソーシャルネットワークなんかも使いまして人材情報を集める一方で、まず最初に目をつけたのが外国人の留学生でした。本国では野球選手で活躍したような者がいないか、かなり入念に調べてみました。なにせ留学生の人数自体は本学も全国有数なわけですから、ひょっとするぞと考えまして」

 先日までのスカウト活動のあらましと、空振りに終わってしまった首尾を手短かに告げた。

「ですが、いま申しました通り、残念ながら現時点ではこれはもしかしたら、と考えるような人材には巡り合っていません。そうこうしているうち、連盟への選手登録も迫ってきますし、まさに今年度の戦力を確定しなければいけない時期になってしまいました」

 この記者がどれだけ時間をとってくれるかはわからない。電話で取材中とかで長時間待たされたあとでもある。こうしている間にも取材を理由に出かけてしまいそうな雰囲気があるだけについ早口になる。ただ、言葉一つにも誠意を込めたつもりだった。

 一拍おいて反応をうかがう。杉浦の表情に目立った変化はない。興味ありげな顔ではないが、退屈そうでもない。よくわからなかった。

 野木は話を継いだ。

「そんな時に、この記事を見つけました」

 例の記事を貼り付けたノートを取り出した。

「この記事にある(杉)という署名は杉浦さんのことであると、お聞きしました。それで、その中身にたいそうびっくりした次第です。スピードガンなんですから150㌔というのはほんとうだという気がします。それは読んでわかりました。問題は、あの……、問題は東大生と名乗ったということの方です。杉浦さんも記事にお書きになってるように、こんなスピードボールを投げる野球部員はうちにはいません。この人物がもし本物の東大生なら、なんとかしてこの男性をうちの部にスカウトしたい、そう考えております。そのためのなんらかの手がかりを得たいと思いまして、たいへんぶしつけではありますが、この話について、もう少し詳しくお聞きできないかと思いまして、こうして二人しておじゃました次第です。なんとしても、お力添えをお願いしたいというか、ぜひぜひ、ご協力をたまわりたいのですが」

 最後の方は選挙の候補者のような口調になってしまったが、訪問理由は飲み込めたはずだ。あとは相手の出方を待つだけである。

「なるほどねえ。連敗ストップの手段として学内から新しく人材発掘というやつですか。うーん、現役の監督が、そんな動きをするなんてこれまで聞いたことがないなあ。いやはや、確かにこりゃたいへんな事情ですねえ、お聞きしてびっくりしました」

 皮肉ではなさそうだった。心底驚いたかのような表情が顔いっぱいに広がっている。しかし、自身の記事のスクラップにはちらりと目をやっただけで、とくになにも言及しなかった。

「六大学で東大さんの置かれた立場が苦しいのはとてもよくわかります。ここ数年はまたいちだんと東大と東大以外の学校とで実力差が開いた感がありますねえ。接戦すらないもんなあ。10対0とか8対1とか一方的な試合ばっかりだ。昔はもっと競った試合があった気がするけどなあ」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

「おっしゃるとおりです。年配の野球部関係者に言わせれば、ふた昔くらい前までは立教や慶応とはいい勝負ができていたそうなんですが、近年はその二校にもこてんぱんにやられてます。そんな始末でも毎試合、球場に応援に集まってくれる学生たちがいるわけですから、ほんと申し訳ない気持ちになります」

 スポーツ新聞の記者なんだからそんな状況はとっくにお見通しとはいえ、こうずばり言われると、あいづち代わりの渋面でいなすしかない。

「なんといっても私立は推薦があるからな……」

 同情を含んだ声で杉浦がぽつんと言った。

「東大さんと、いわゆる野球校から力のある子どもたちをほぼフリーで獲れる他の大学とを単純に比べてしまうのは気の毒過ぎると思いますけどね。ま、甲子園に出た高校球児が勉強の方でもがんばってどんどん東大に受かってくれりゃ戦力も均衡するんだろうけど、現実はそうはならんからなあ」

「はい、そればっかりは、どうにもなりません。うちの部も決して手をこまねいているわけではなく、進学校で甲子園に出たとか、目についた選手には引退後にうちの野球部員がボランティアで受験指導を買って出たりして東大受験を促しているんですが、ばりばりやった力のある選手ほど学力試験の比重の少ない推薦で私学へ、となってしまいます」

「でしょうね。それにしたって九十連敗はやはりちょっとびっくりするような数字になってしまいましたね。同じ大学生同士の試合でこれほど勝てないと、東大さんにはいやな言い方だけどやっぱりニュースになってしまいますわな。こうやって負けが続く限り、うちみたいなスポーツマスコミがなんだかんだ書くし、最近はテレビなんかも連敗街道のことをちょくちょくニュースでやってますねえ。このまま続くと、百というちょっと考えられないような数字も現実味を帯びてきましたもんね。いや、べつにおもしろがって言っているんじゃないんですが」

「そうです。いいニュースならともかく、こんな話題で世間に取りあげられるんじゃ、バネにして奮起するより先にがっかりしてしまいます。特に今年は連盟創立九十年の記念の年にあたりますし」

「そうだ、今年はそうだったな。それならなおさらのこと、監督さんの心中は穏やかじゃいられないですね、まさに厳しすぎる環境に置かれているわけだ」

 記者は徐々に興味を持ったようだ。連敗街道の話題が潤滑油になったかのように口元が緩んできた。

 で、聞きたいのはこのコラムのことだ。

 野木は再び水を向けた。

「それでなんですが、杉浦さん。こちらはいま申しましたような切羽詰まった事情があるもんですから、あの記事にはびっくり仰天と言ったらいいのか、たいそう驚きました。私どもとしては、こんな学生がいるんなら、なんとしても仲間になってほしいということなんです。何度も申し上げて恐縮ですが、この人物についてヒントの一つでもお教えいただけないかと思いまして」

「先ほどおっしゃった外国人留学生の発掘というのは、非常にユニークでいい考えだったですね。ウルトラC級のプランだったと思いますよ。アマチュア野球大国のキューバ人の留学生を入れるなんてことはできなかったんですか。世界中から相当な人数の留学生が来てるんなら、一人くらいそんなやつがいたっておかしくない気がするけどな。一人か二人、中米のパワフルな野球選手が入っただけでチームはずいぶん変わるでしょう」

 こちらの頼みには直接答えず、杉浦が話を蒸し返した。

「そうなんです。おっしゃるように私どもも当初かなりの期待を持ちまして、学内情報も非公式に動員してあちこち探したんですが、こと野球に関しては優れた能力を持った外国人学生には行き当たりませんでした。野球以外なら、素質を感じさせる運動部の外国人選手はいたんですが。これには失望するしかありませんでした」

 杉浦は教える気がないのだろうか。

 野木は記者の沙汰を待つ顔をつくった。

「読んでいただいた記事なんですけど、あれはまあ、まさに風評というか風聞というやつで、真偽のほどは現時点ではよくわかんないんです。ま、記事にあることがすべてですよ」

「自称東大生のことは、杉浦さんもまだご存じない?」

「そう。現時点ではね。でもまあ、へえーという話ではありますし、記事にも書いたけど、これからその謎めいた自称東大生のことをちょっと探ってやろうかなと思っているわけです。なんか新事実がわかれば、コラムのような感じではなく、一般のニュース記事になる可能性もありますしね。でも、そのことに関して、記事になってる以外のことで俺が知っていることを教えてほしいというのなら申し訳ないけどお断りするしかないんですよ。この仕事って、取材で自分が知ったことを報道目的以外に他人にべらべらしゃべったり漏らしたりはできないんですよ、外部の方にはちょっとわかりにくい理屈かもしれませんが」

 記者は頭をかくしぐさをして困った顔になった。まさしく白井が説明してくれたことと言っていることは大意同じだ。野木も頭では理解できた。

 ただ、自称東大生が出没する具体的な場所がわかれば、新聞記者と同時進行でこちらも調査ができる。その点だけでも情報がほしい。

「なんとか事情をくんでいただいて、そのルールの範囲内というか、差し支えない範囲でサジェスチョンお願いできないでしょうか」

 場所だけでも、と野木は食い下がった。

「うーん、困ったな。読んだ読者が押しかけても困るから、そこんところは名前出さなかったんだけど……」

 その時、脇から白井が初めて口を出した。

「杉浦さん、あの糸川選手のトレードのスクープはすごかったですね」

 不意をつかれた顔で杉浦が白井に視線を向ける。

 糸川盛夫は日本のプロ野球のスター選手だ。北海道日本ハムに入団した後、投手から野手に転向して素質が開花。190㌢近い堂々たる体軀とずば抜けた身体能力から生み出される走攻守三拍子そろったプレーで「超人」と呼ばれた。そんな大活躍のさなかにオリックスに複数トレードで出された。絶大な人気を誇り、ゆくゆくは監督になろうかという大スターを放出した球団の決断と思惑が野球ファンを驚かせたものだ。

 そのトレード話をスクープしたのが杉浦なのか。

「自分は東京生まれで巨人ファンなんですが、高校野球をやっていたころから個人的に糸川選手のファンでした。あのフィジカルの強さはすぐに大リーグで通用しますからね。少しでも野球をかじった人間にはあこがれです。朝、地下鉄の駅で、あの記事の大見出しを見てびっくりしてすぐにスポーツ日報を買いました。えー、なんで糸川がトレードなんだ、どういうことなんだ、とむさぼり読みましたよ。あの世紀のトレードを特ダネにするなんて、さすがとしか言いようがないです。これはお世辞じゃないです」

「いや、まあ、あんなのはたんに偶然の産物なんで。ま、うちはタイガースでネタをとってなんぼという会社なんでね、そんなたいしたことじゃないですよ」

 新聞記者は照れたが、まんざらでもない顔をしている。人間誰しもほめられて怒るやつはいない。

 白井が追い打ちをかけた。

「杉浦さん、監督も申し上げましたように、うちの連敗はもはや度を超しています。リミットというかデッドラインというか、このままでは入部希望者がいなくなってしまうかもしれないというところまできています。アマチュア野球界全体の発展ためにも、ご協力願えないでしょうか。杉浦さんなら、よく理解されていることと思いますが、球威のある本格派のピッチャーの前では強力打線でもなかなか点がとれません。打撃のチームのDeNAやソフトバンクでも、戸郷や山本由とかが出てくると1点取るにも苦労しますよね。ですから、杉浦さんの記事の謎の東大生がもしも本学学生なんだったら、なんとしても入部させるために勧誘したいんです。各校の戦力が均衡した方がリーグも断然盛り上がります。どうか、ヒントの一端だけでもいただけないでしょうか」

 ほんとうに土下座でもしそうなほどの勢いだった。

 杉浦が頭の後ろに手を回し、足を組み替えた。

「いやあ、まいったな。まあ確かに、事情はよくわかりましたという気はしてます。ま、それほどまでにおっしゃるなら差し障りない範囲でご説明はしましょう。読者サービスということにしておいてください。ただし、お役に立てるかどうかは別ですよ」

 手が動き、ジャケットのポケットから小ぶりなメモ帳が出てきた。

「もうだいぶ前に、えーと、もう二か月以上になるのかな。取材相手でもある知人から聞いたんですよ。そいつは、また別の人間から聞かされたようなんですけどね。その時は、ほんとだったらおもしろいな、ちょっと取材してみようかなとは思ったんだけど、その直後にプロ野球選手の自主トレの取材とか二月から始まったキャンプに行くことになっちゃったもんで、そのままになってしまいました。それだったら、自分の順番が回って来たコラムに先に書いておこうと思ったわけでして」

 ぱさっという音がしてメモがめくられた。

 ――都内の野球のバッティングセンターの硬式球投球コーナーで、球速150㌔以上をぽんぽん投げる若い男がいた。長い右腕から繰り出される速球は時に155㌔とか157㌔を計時することもあって、おお、これはすごいなあ、もしかしてプロ? それともどっかの大学の野球部? と周囲が聞くと、いやいやプロなんて、ただの野球好きですよ、と若者が答えた。でも部活なんかしていないと本人が言う。じゃあ、サラリーマンなんですか、と聞き返すと、いや、自分は学生で、こう見えても東大生なんですと答えた。それで、ひえーっとまた一同びっくり顔――。

「と、まあ、最初に聞いたのはこんな具合です。ちょっぴり眉唾めいた話ですね。そちらの野球部員でそんな球投げるやつがいたら、とっくに連敗なんて止まってるでしょうから、明らかに体育会の部員なんかじゃない。ま、同好会みたいなサークルに所属してる可能性はありますけどね。となるとですよ、一般学生がプロもびっくりの豪速球を投げるってことになると、これはこれでまた、おもしろいとなりますよね。それをコラムにしてみたんです。まあ、ほんのそれだけという話ですが、書きっぱなしじゃ読者に対して無責任になりますからね。思わせぶりなことを書いた以上は、その東大生とやらが出没するというセンターに近いうちに行ってみて確かめるつもりではいますけど。ちゃんと確認できたらまた続報を書く予定にしてます。ざっとまあ、こんな顛末ですよ」

 メモ帳から視線をはずした杉浦は一息ついた。

 ――東大生が150㌔!? 

 胸の高まりをこらえつつ野木は聞いてみた。

「あの……、どんな感じの若者なんでしょうか」

「えーと、身長は雲をつくような大男。茶髪のロン毛。一見、ロックシンガー風。ロックバンドのギタリストを超大型にしたような感じ」

 ぽんぽんと口ずさむような調子で返事が返ってくる。

「ただ、まあ、あくまで目撃者の言うことが正しければ、という話ですけどね。これじゃ、まるでアニメの進撃の巨人だな、ふふ」

 記者は小さく笑った。

「あの、それでほんとうにうちの大学なんでしょうか」

「いや、会ってないわけですから事実かどうか、まだなんにもわかりません。あくまでその男が自分でそう言っていたということを、また聞きしただけです」

「また聞きですか? すべては」

「ええ、そうです。俺の取材相手からのね。いや正確に言うと、取材相手はそのセンターでのできごとを別の人から小耳にはさんだわけだから、また聞きのまた聞き、ということになりますね」

 うわさに聞く身長が「雲をつく」ほど、高いとなると豪速球を投げる下地も可能性も当然にあろう。野木は日本ハムの大谷翔平投手や阪神のエースの藤浪晋太郎投手らプロの長身投手を思い浮かべた。

「でもまあ、俺としては東大なんてのは、その男のたんなる冗談、ジョークの類という気がするんだけどね。簡単に入れる学校じゃないもんな。早稲田とか慶応あたりならまだしも、だけど」

 そこだけ合点がいかぬという表情で杉浦がメモ帳をひらひらさせた。

「でもなあ、もしニセ東大生だったら、そんなこと言ったあとで学生証を見せてくれと言われたら困るというか恥をかくだろうし、もし豪腕を他人に見せたくて来てるんなら、もう十分アピールしてるわけだよね。だったら、そのうえに東大だなんて必要性のない嘘を言う理由はない気もするなあ。ということは、やっぱ、東大か。マネジャー君、どう思う?」

 杉浦から突然コメントを振られた白井が身を固くしてちょこんとうなずいた。

 肝心な部分が、なんともあやふやでじれったい。知りたいことの本質は杉浦記者の見解ではない。事実そのものだ。

 ――150、155、157。

 三つ並んだ数字が、さきほどからカメラのフラッシュのように野木の脳裏でぱしゃぱしゃと明滅する。かなうことなら学歴がほんとうのことであってほしい。

「あの、それにしても風貌がロックシンガーとはこれはまた……。失礼ですが、杉浦さん、お知り合いの方のことはともかく、このことは最初からはたして信用して差し支えないようなお話なんでしょうか」

「さあて、何度も言うようにそれは正直言って本人に会って確かめてみないとなんとも言えませんよ。もしほんとにそんな男が実在するとしたなら、ですが。あくまで俺の人脈の中で聞きかじった情報ですから。現実はどうだとか、ほんとの話かどうかなんてこと、ここではわかりません。それをこれから探ろうとしてるわけですから」

「なるほど、そうですね」

 まっとうな解説にうなずくしかない。データが不足しているのは明らかだった。

 エピソードに尾ひれがついている可能性はある、と記者は補足した。

 元高校球児あたりがバッティングセンターにやって来て、138㌔くらい出したのをたまたま見た人がいて、素人ではないスピードに、その人なりに驚いたという程度の話が、複数の口コミを経るうちにだんだんと増幅されて大きくなっていき、いつの間にか150㌔になっていた、といった伝言ゲームのような結末である。

「そういう、結局なーんだ、ということかもしれない。当初の見立てと事実関係がまるっきり違う情報のことを俺たちはガセネタと呼んでますが、そういうことはあるかもしれません」

「ガセネタですか……。それは、私にもなんとなくわかる気がします」

「ただし、ただしですよ。この150㌔超という部分が仮にほんとうだったとします。球場のマウンドではなく、たとえバッティングセンターが現場であったとしても、硬式球で150㌔以上出すというのはそうそうあることじゃないですよ。誰にでも簡単にできることではないとは断言できます」

 野木の顔によほど落胆の色が浮かんでいたのか、あるいは突き放すような言い方をしてしまったことを申し訳なく思ったのか、杉浦が野球解説者のような口ぶりで話を少し引き戻した。

「まあ、ここじゃどんなスピードガンだったのか、どんな計測器だったのか、はっきりしないんで確たることはわかんないけど、その手のセンターも昔と違って置いてる機械はかなり精巧なものをいまは入れてますからね。一応ちゃんとしたスピードガンで計測した結果なら、そいつはただの素人じゃないということは容易に想像がつきます」

 野木もうなずく。

「だとしたら、そんな力量があって、現にほんとうに学生なんだったら、なんでちゃんと野球をやらないのか、なんで通ってる学校の野球部に入らないのか、もったいないじゃないか、と考えるのがふつうですよね。それで俺も、がぜん興味がわいたということです」

 なぜきちんとした野球をやらないのか――。

 杉浦の言う疑問は野木も共有できた。体があって豪速球を投げる人間は、ふつうならみな野球選手だ。

「じゃ、いったいそいつはどこの誰で、何者なんだ。正体不明なんだったら、よし一丁、俺が取材してやろうと思ったわけですよ。どんなドラマがその人物にからんで潜んでいるかわかんないしね」

「杉浦さんは正体はなんだと思ってらっしゃるのでしょうか?」 

「うーん……、プロ野球にいる連中って、ほんとすごくて、投手じゃなくても、野手でも単純な球速だけなら145㌔とかの球を投げるやつがふつうにいるんです。イチローとか巨人の中田なんかもそうですよ。ですから、昨年オフに戦力外になったけど再就職先も決まって、ばたばたしなくていいような若い元プロ選手がひまつぶしにやったことかな、と思ったんです。あるいは四国や北陸とかの独立リーグに所属する若手の現役選手とかが遊びでね。可能性としてはそれが一番と思ったんですが、ただ、東大生というのがね……。150㌔を超す速球と東大のイメージは全然合わんからなあ。本人のジョークなのかも含めてさっぱりわからんなあ」

 元プロ野球選手で公認会計士になる人もいるくらいだから人間の努力は果てがない。素質ある元高校球児が猛勉強して東大に入ったのか。それならうってつけだ。でも、三十、四十代とか年をとった人物なら別だが、若者でプロ顔負けの速球を持つ経験者なら素直に野球部の門をたたいておかしくない。腑に落ちなかった。

「うーん、確かにこうやって、あとからよく考えてみると豪速球と自称東大生との整合性がちょっとつかないなあ。NPBにも独立リーグにも、いまは東大出身はいないはずだよなあ。東大出のプロの右腕は大昔に横浜DeNAにいたし、ヤクルトにいた宮代が再入学したわけじゃないだろうし、彼はは左腕だし。やっぱりただの草野球サークルの学生なのかねえ、無名の……」

 杉浦にもそれ以上は想像がつかないらしい。お手上げのポーズをした。

 ちまたの草野球の愛好クラブとか、学内外の同じようなサークルに所属する本学学生ということは可能性としてはありうる。ただ、かなり丹念に白井がその種の団体のことを調べていたはずだ。調査漏れだったということなのか。

「まあ、でも監督さん、素性はわかんないけど、豪速球もそうだけど、その歌手みたいな風貌ってやつもなんだか運動選手らしくなくて愉快じゃないですか、なんかおもしろいというかね。その点、かっこうのマスコミ向けのネタと俺は思ってますけどね。いまの時点で俺が言えるのは、ま、これくらいのもんかな」

 敏腕記者が話を締めくくった。

 まるまる信じていいものかどうか。なんとも判断がつかなかった。

 相手はちゃんとした新聞社の記者なんだから、初めから噓っぱちということはありえないだろうが、なにしろ具体的な人物の素性を教えられたわけではない。真実味があるようでもあるし、ないようでもある。それどころか少し頭を冷やしてみると、ばかばかしい与太話のようにも聞こえてくる。会う前に一定以上の期待をした分だけ、気落ちする思いがした。

「そうですか、結局、杉浦さんにも現在のところは、その男の素性というか正体はわからないというわけですね」

「現状そういうことです。でも、そんなに残念そうな顔をする必要はないと思いますよ。きっとまたセンターに現れますよ、そういう酔狂なやつは」

 くすりと笑った杉浦が野木に持ちかけた。

「監督さん、じゃあ、こうしませんか。謎の東大生はいつ現れるかわからない。俺だって毎日そのバッティングセンターに通うというわけにはいかない。ですから、あなた方と俺とで共闘しませんか。失礼だけど、監督さんたちの方がたぶん俺よりは自由に行動できる時間があるでしょう。一緒に正体を突き止めるんです。それだったら、あなたたちは俺の取材協力者となる。俺の持ってる情報をある程度教えても問題にはなりません」

 むろん異論などなかった。

「えーと、じゃあ、とりあえずセンターのありかをお教えします。もし先に会えたら連絡ください。俺の方でキャッチした時はすぐにお知らせしますよ」

 記者はメモ帳に手慣れた様子で書き留めると、その部分だけをちぎって野木の手に握らせた。



 白井と並んで地下鉄のつり革につかまる。昼時とあって車内は混んではいなかったが、子ども連れやベビーカーを押した女性も目についたので座らなかった。

 ふだん顔をつきあわせる学生相手と違い、マスコミの人間に会うというのは思いのほかエネルギーを使うものと知った。テーブル越しに向かい合っていると相手が自分を値踏みするような目で見ている感じがしてきて、どうにも落ち着かない。野木は疲労感に包まれながら杉浦の言葉のいくつかを思い出そうとした。白井も先ほどから黙りこくっている。杉浦記者が語ったことを彼なりに咀嚼しているに違いない。

「私にしては珍しく、ちょっと緊張してしまったなあ。もうちょっと、いろいろ質問したかったんだが、思うように聞けなかった。杉浦さんに圧倒されちゃったかな。テレビでよく見かけるネクタイとスーツ姿のテレビ局の記者なんかと比べて、スポーツ新聞の人は服装がわりとラフなんだなあ。ピンクのポロシャツの着こなし方といい、業界の人という雰囲気だったなあ。記者さんの機嫌をそこねないようにと思って気を使ってしみじみ疲れたよ」

「へえー、そうなんですか。150㌔の話を聞いたとたん、監督の目がぎらりと光りましたよ。自分も一瞬、キターってなりましたけど」

 白木がふっと笑った。

「いやあ、あのヤマ場に来た時、君が機転をきかせて杉浦さんに話しかけてくれたおかげだよ。いったん断られてしまって、あのあと、どう話を進めたらいいかわからず、私にはどうしようもなかったからな。立ち往生してさすがにやばかった。すかさず白井の助け舟があったので救われたよ。それにしても記者の人たちって、なんとなくがさつなというか、いけいけのイメージがあるけど意外とコンプライアンスとか気にするもんなんだな。白井に事前にレクチャーされててよかったよ。突然、記者倫理みたいな話になってしまうと、私にはぴんとこないかもしれんからな。杉浦さんに黙り込まれてしまって、お手上げだったかもしれん。白井マネジャーさまさまだ」

「いやあ、そんなんじゃなくて、杉浦記者の特ダネの評判を他の記者さんからたまたま聞いていたものですから。まあ、おべっかというより、ほんとの話ですからね。結果的にはよかったです」

 笑みをこぼした白井につられて野木もふっと笑った。

「で、その敏腕記者の杉浦さんのコラム情報だけどな。彼が言ってたそんなことって実際にあるのかな。果たしてどこまで信じていいものなのか。いくら人の多い東京と言ったって、街中のバッティングセンターに突如、剛球投手現る、なんてのはなあ。まるで怪獣映画のゴジラ現るじゃないか。シン・ゴジラじゃないんだから」

「わかります。自分も監督から送信されてきた記事を読み始めた瞬間、えー、という気はしました。これはないだろう、というのが正直な感想でしたから」

「まあそうだろうな」

「あの記事からは時期がもうひとつはっきりしませんが、春季キャンプに入る前のプロとか、そんなキャンプはない社会人チームの現役選手が遊びでやったことではないかと、ここまでは自分も想像できたんです。現役選手がおもしろ半分で、というやつです。そう思ってたんで、杉浦さんの口から150㌔の話を直接聞いた時はほんの一瞬ですが、やった、とは感じました。でも東大生、というのはちょっとなあ。やっぱり、これはないだろうと思いますよ。正直、いまでも」

 野木よりもむしろ研究者然としたマネジャーの顔にへんな期待感らしきものはうかがえなかった。

「お、そうか、さすが白井、沈着冷静男の面目躍如だな。きょうもそうだけど、私は杉浦さんに電話で東大生と聞いた時からもう舞い上がってしまってたよ。とても冷静ではいられなかったぞ。なんと言っても150だからな、それが東大なんて言うんだから、舞い上がらない方がおかしい」

「その気持ちはほんとよくわかります。実を言うと自分はですね、杉浦さんがもう少し具体的な事実をつかんでいて、それをストレートに書くのはなんだから、ちょっとオブラートに包んだ記事にしたのかと思ってました」

「オブラート?」

「そうです。硬式野球の選手じゃなくても、軟式野球とかソフトボールだかの、現役のいいピッチャーとか選手に出くわしたのが真相だった、なんてことを杉浦記者がすでに突き止めていて、ただ、それをそのまま書いちゃったら、思わせぶりなコラムにはならないので、ちょっぴりミステリー味に仕上げたのかと思ったわけです。だから、きょうはひょっとしたら記者だけが知るここだけの打ち明け話でも聞かせてもらえるかなと期待をしていたんですがねえ。要するに、書いた記者も実はなんにもわからない、まさにうわさ話そのものでしたね」

 戸惑いとも困惑とも知れぬ言い方で白井は首をかしげた。

「なるほどそういう見方か。それにしても、どうしても引っかかるのが、この登場人物が『東大』と名乗っている点だ。まあ、バッティングセンターで150㌔の速球を投げるやつがいてもかまわんが、本学学生というたいそうなおまけがついてる。ただ一点、そこだけが問題だ」

 白井が神妙な顔でうなずく。

「仮に東大が本物とすると、やっぱり学内で草野球やってるやつだったという可能性はないだろうか。蓋然性という点ではやはりそれが一番高いような気がするんだが、そっち方面はずいぶん調べてもらったようだけど」

「自分の調査漏れはありえますが、いまの時代、サークルなんかにそんなやつがいたら、こっちが調べ始める前に有名になってんじゃないですかね」

「有名?」

白井がスマホを取り出した。

「友人とか彼女とか知人とか、たまたま見たやつとか、周りの人間がスマホで動画撮影してすぐさまネットに投稿して、たちまち話題になってると思いますよ。野球に限らず、たとえばほらこんな具合に」

 様々なスポーツに関する国内外の投稿動画を白井は見せた。中には高校生ですでに100マイルを超す速球を投げているというアメリカ人少年の真偽不明な映像もあった。

「ほうー、なるほどな。まさしくそういう時代ではあるなあ。全国民が取材者みたいな時代だなあ。確かにそうかもな。ただ、ちまたのバッティングセンター野郎がほんとうにうちの大学だったら、なんとしてでもほしい。縄で縛ってでもだましてでも、言葉は悪いが脅してでも引っ張ってきたいところだ」

「同感です。ふつう、うちのイチョウ並木を見た瞬間から入部一直線の人材のはずです」

「だろ? 記者さんが言ってたように野球部に入らない方がむしろおかしい。事情はわからんが、本人がほうっておかれているんだとしたら、周りの人間だってどうかしてる。おかしいぞ」

 前のめりになった野木の背中を白井がひと押しした。

「監督、こうやって一応の手がかりをつかんだんですから、これから自分たちでそいつをリサーチしてなんとか捕まえましょう。杉浦さんも、それこそいろんな仕事をなさってて忙しい日々でしょうから、あんまりこれだけをあてにできないですよ。連絡をくれるのをただ待つだけじゃなくて、われわれの手でなんとしても本人を見つけ出して、確かめることが重要でしょう。実在してると祈りつつ突進するしかないと思いますよ」

 にわかには信じにくい眉唾とも思える話ではある。しかしながら、人材探しの中で初めて具体的な進展であることもまた事実だった。

 東京下町のありふれた遊技場にふらりと現れ、プロ顔負けの速球を投げてはまたどこかへ消えていく自称東大生の大巨人――。スティーヴン・キングのホラー小説にでも出てきそうなまさに謎の男だった。

〈二部降格を阻止する手段はただ一つ。優勝だ〉

 添田野球部長から唐突に突きつけられた前代未聞のミッション。崖っぷちの東大野球部を救う史上最大の作戦。その任務遂行を義務づけられた野木がかろうじてたぐり寄せた一本の命綱のように思えた。

 ――本人にあたってみるしかない。

「ようし、話は決まった。こうなれば突進あるのみというやつだ。お、もう昼か。腹が減った。この前、ラーメンと半チャーハンのセットがめちゃうまい中華の店を見つけたんだ。私の学生時代はなかった店だけどな。いまは都内も横浜の家系とか言うんだっけ、こってりしたとんこつ系スープの店がやたら多いけど、ここは正統派の半透明な鶏がらスープのすっきりした東京味だぞ。具も刻みネギに焼き豚、シナチクとナルト、ノリのみだ。やっぱ、ラーメンはそうでなくちゃな。チャーハンもだしの利いた塩味でなんともうまい。それに半チャーハンなのにうれしいくらいボリュームがあって、食いごたえがある。東大前の駅からちょっと歩くけど行ってみないか。もちろん、私がおごるぞ」

ぽんと肩をたたかれたマネジャーは白い歯を見せた。



 次の日、野木は白井と連れだって東京の江東区内にあるバッティングセンターに向かった。ナビを見ると地下鉄の最寄り駅からはかなり遠い。タクシーを使えば楽だが、歩いた方がなんらかの手がかりをつかめそうな気がして、徒歩で目的地をめざすことにした。このあたりは近隣商業地域や準工業地域と呼ばれる用途地域であり、住宅と商店、事務所が入る雑居ビル、町工場などが混在している。そこかしこで機械が動く音が耳に入り、陽光にほこりまで映り込むような商工業地区らしいざわつき感があった。朝からの陽気で歩き始めてすぐにシャツが汗ばんだ。

 三十分近く歩き、ようやくお目当ての建物に着いた。エントランスの看板には「野球の殿堂 東陽BC」と色あせてすすけた文字の看板がかかっている。隣の土地には十五台くらい置けそうな細長い専用駐車場があり、スペースの半分くらいがすでに埋まっている。これだけ駅からへんぴな所在となると車での来場がふつうなのだろう。

 入場料を払い、ゲートをくぐる。内部は硬式と軟式のコーナーに分かれていて、硬式コーナーはヘルメット着用が義務づけられ、金網に囲まれている。平日なのにけっこう混んでいた。球速が選べる打撃のコーナーでは順番待ちの列ができていた。部活仕様のような同じデザインのトレーニングウエアを着込んだ若者の一団もあった。硬式目当てに自主トレに来ているのかもしれない。

 暴投防止用のネットが設置された硬式投球コーナーの一角に白井と陣取る。長いすに並んで座り、コンビニで仕入れたサンドイッチとチーズバーガーを二人でぱくつきながら客の様子に目をこらす。自然と背の高い人物に目がいく。長身の若者も目についたが、群を抜くというほどの男性は見かけなかった。

 白井と手分けして常連客とおぼしき何人かにも話を聞いてみた。

「え? 剛球ピッチャー? そんな感じの人は見たことがないです」

「150㌔ですか? そんなすごい話、ここじゃ聞いたことないけど、なあー」

「いやあ、知らないですけど、お前見た?」

 たむろしていた若者たちは互いに顔を見合わせ、一様にかぶりを振った。日がな一日、粘ってみたが、それらしき人物は現れず、結局この日は空振りに終わった。

 選手登録まで残された日数は九日。センターの常連らしき客たちにうわさ話まで否定されてしまったのは少々ショックだが、彼らがたんに見たことがなかったり聞いたことがなかったりしただけ、ということはあるだろう。野木はそう思うことにした。

 杉浦記者の話から推察すると、その男は何度もここに現れ、剛腕ぶりを発揮したと野木はにらんでいる。だからこそ、目撃者の数が加速度的に増えていき、うわさがうわさを呼ぶ形で記者の情報網にひっかかったと考えていい。経験則に照らせば突然来なくなる確率は低いはずだ。

「ここに必ずやつはやって来る。脈はあると前向きに考えるほかない。とりあえず、あすとあさっても張り込もう。粘るぞ」

 白井も合点承知の顔になった。


 記者から電話が入ったのは深夜だった。張り込みは二日連続で肩すかし。行くつもりだった三日目は白井マネジャーともどもはずせない所用で断念していた。

〈ども、スポーツ日報の杉浦です。夜分すみません、先日はどうもご足労でした。先にいい話を先にします。きょう、例の男に会えましたよ、言っていたバッティングセンターで〉

「えっ、ほんとですか。で、ほんとに東大生だったんでしょうか」

 一番肝心な情報がまずほしい。

 スマホに強く耳を押し当てた。

〈ああ、それは間違いないようですよ。本人が言ってました〉

 杉浦はあっさり答えた。

「ほんとうなんですね、信じていいんですね。東大で間違いないということで。あの、どんな風なやりとりだったんでしょうか」

 ぬか喜びだけはごめんだ。その時の情景が手に取るようにわかるような具体的な事実が知りたい。

〈最初に俺が、『あのう、ちょっとすみません。失礼ですが東大の学生さん?』と声をかけたんですよ。そいつはびっくりしたような顔をして俺の方を見ました。そのあと、確か、『そうですがどちらさまですか』とかなんとか言ってたような気がするなあ〉

 こともなげに電話口の相手は語った。

 バッティングセンターのエントランス近くに設けられた喫煙スペースで、杉浦はたばこを吸っていたという。ふと人影が目の前を通り過ぎた気配に気がついた。長い髪が揺れたような残像が目に入り、あっと思って走り寄って声をかけたらしい。

「で、その人が、その150㌔男だったということで間違いないんでしょうか」

〈いや、まあ、ピッチングは見てないんで〉

 杉浦は少し口ごもった。

〈俺は新聞記者だと名乗ったうえで、バッティングセンターで剛球を投げる背の高いロン毛の若者がいるといううわさを聞いたので確かめに来た。それはあなたのことなのか、と聞いてみたんです。そいつは、ちょこっと笑って黙ってしまいましたが、否定しませんでしたから本人に間違いないでしょう。短い時間の立ち話だけだったけど、背格好や風貌がぴったしですからね〉

 確信した口ぶりだった。

〈で、俺はすかさず、もっと君に話が聞きたいと伝え、取材を申し込みました。そいつは考えさせてほしい、というようなことを言ったんで、その場ではOKという返事はもらえなかったんですが、重ねてお願いすると最終的には名前や連絡先は教えてもらえました。俺の方は、何日かたったら連絡させてもらうので気が向いたら、ぜひ取材に応じてほしいと伝えました。黙ってうなずいてはくれたな。俺としてはアマチュアスポーツのページで取りあげたいと考えてます。まあ、彼にとっても、こんなんじゃ急な話だろうから、ちょっと時間をおいてからアタックすることにしますよ。まあそれにしても、でっかいやつだったな。前に取材した俳優の松重豊よりでかかったな〉

 身長は一七三㌢の自分が背のびをしても頭一つ分届かないほどだった、と杉浦はもらし、ひとまず話を区切った。

 下町の遊技場の進撃の巨人はほんとうに東大生だった――。

 最初のハードルは越えた感がする。楽観は禁物だが、うれしさが先に来た。

「あのそれで、私どものことは……」

〈ああ、言い忘れるとこだった。監督さんたちの件は伝えましたよ〉

「ほんとですか。ありがとうございます。杉浦さん、ほんとになんとお礼を申し上げていいか……」

 期待感で詰まった謝辞を言い始めた野木の機先を制するように杉浦の言葉が耳に刺さった。

〈それで悪い話を一つ。彼は野球部に入るつもりはないようですよ。野球は高校時代に完全燃焼した、とかなんとか言ってましたから〉

 野球部に入らない? それではまったくこの話の意味がない。

「えっ、それは大学でやる気がないということなんですか」

〈さあ、真意はわかんないけど、野球はちょっと、もう、みたいなことは言ってたな。口ぶりから素直に推し図ると、高校でもうへどを吐くくらい野球をしたので、いまさら大学の部活動には興味がないということかもしれないですね。いわゆる完全燃焼ってやつなんですかね〉

 気の毒さをにじませた口調で杉浦がやりとりの一端を伝えた。

 ここまで聞いて、ああそうですかと、あきらめるわけにはいかない。電話の向こうの相手のそのまた先には、のどから手が出るほどほしい本格派がいるのだ。

 野木は直接会えれば口説き落とす自信があった。

 完全燃焼――。美しく響く語感ほどの中身があるかどうか疑問のある、いかにもな日本的表現と思う。いつごろから、誰が言い出したのか知らないが、スポーツ選手が引退する際にはやたらにこのフレーズが登場する。これほどまでに多用されるのは、 むしろ完全に燃焼していないことの裏返しではないのか。野球選手で言えば、まだやるにはやれそうだが、やったところで戦力として認められる自信がない。あるいは、これまでに満足できる成績を残せなかったことが自分でよくわかっている。プロの場合だと最終的に戦力外通告を受けるのも忍びがたい。そんなこんなの思惑やら往生際の悪さから、プロ選手を筆頭に高校や大学の有力選手たちもこぞってこの慣用句を使いたがる。野木はそう考えている。

 まだ見たわけではないが、150㌔を超す速球を現に投げている男が高校野球だけでハイ卒業、でもあるまい。

 こうなったらなんとしても本人に接触し、説得あるまで。

「あの、やっぱり絶対に入部拒否という感じでしょうか」

〈いや、それなんですが、東大の野球部関係者が部員のスカウトの真っ最中だよ、留学生やらサークルの学生やらにまで手を伸ばしているみたいだと言った時、えっという感じで俺の顔をまじまじと見てましたね。まあ、額面どおりにとれば驚いたという顔で、監督さんにたちに好意的に見れば興味を持ったみたいな顔だったけどな。でもまあ、こんなやりとりじゃ本音はどうにもわかりませんな〉

 生々しい話を聞かされ、テンションがまた上がった。

 ――少なくとも関心を持ってくれた。

 現時点では「蜘蛛の糸」にも思える。

「では、杉浦さんから連絡先をお聞きして、こちらからその若者にアクセスすることは可能なんでしょうか」

 蜘蛛の糸にすがった。

〈ああ、東大野球部関係者になら伝えてもらってもかまわないそうですよ。それは、はっきりそう言ってました。まあ、そうでしょう。部外者の俺に電話番号を教えてくれたわけだから、監督さんたちみたいな身内に教えないってことではないんでしょうよ〉

 せいぜい健闘を祈りますよ、軽やかに言って杉浦は話を切り上げた。



「東大生」は当たりだった。

 下町の進撃の巨人は本学学生でほぼ間違いない。150㌔もまさか100㌔というようなことはないだろう。杉浦記者言うところのガセネタの尾ひれがついていて、実際は135㌔から140㌔程度の投手だったということはあるかもしれない。だとしても東大では十分に速い。伝え聞くところの群を抜く長身という素材を考慮すれば、たとえシーズンに入った後であっても、鍛え方しだいで球速はもっと上がる。野木が好きな言葉の「伸びしろ」というやつだ。それに、なんにしたって、計算の立つピッチングスタッフは多ければ多いほどいいに決まってる。

 ジグソーの初期のピースは埋まった、の思いがした。

 ほしくてほしくて、たまらなかったおもちゃをプレゼントされた子どものような気分になる。冷蔵庫から缶コーヒーを出し、一口飲んで気を静めた後、白井にメールした。すぐ返信が来た。「速攻です、速攻!」の文字が踊っている。

 面識のない相手に早朝の連絡は失礼という気はするが、外出してしまったり、予定を組んでしまわれたりしたら時間を浪費してしまう。選手登録にもシーズン開幕にも、ほんとうにもう時間がない。取り逃がす前にアタックした方が賢明だ。

 次の日の午前七時きっかり。野木はスマホをつかみ、震えそうになる手で番号を慎重にタップした。

 呼び出し音が一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回、八回。つながらない。寝ているのか。080で始まる電話番号からすると明らかに携帯電話だ。そばに置いていないのか。

 ――出てくれ。

 正確に数えていなかったが、感覚的にもう二十回は鳴っただろう。着信画面に表示された知らない電話番号を見て警戒して出ないのか。それとも別のところに保管しているのか。男の住所までは知らない。このまま連絡がとれないと縁がなかったことになってしまうかもしれない。緊張で手のひらがじっとりとしてきた。

 もう十分に、はた迷惑な回数の呼び出し音を鳴らしてしまった。ここでいま相手が出たらまずどう謝るか。そう思った瞬間、ピポッというような音がしてつながった。

〈はい……〉

「あ、あの、タナハシさんの携帯電話でよろしいでしょうか、わたし、東京大学の野球部の監督をしています野木と申します」

 杉浦から聞いた名字を口に出す。年下の学生相手には「くん」付けで呼び慣れているが、相手は見ず知らずの部外者だ。野球部員と監督の間柄でもない。ここは「さん」付けだろう。

〈……そうです〉

「あの、先日バッティングセンターで記者の人に会ってお聞きになったかと思いますが、実はいま、私ども東大野球部は選手を強力に募集してまして、あなたが、たいそう速い球を投げると人づてに聞いたものですから、これはぜひとも、私どもの仲間にどうかなと考えまして。ぜひ一度、お目にかかりたいと思っているところなんです。連絡先もお教えいただいたので、こうしてお電話させてもらいました」

 話しているうちに、早朝の無礼なしつこい呼び出し音をわびるのを忘れていることに気づいたが手遅れだ。

 電話の相手は黙り込んだ。

 なにを考えているのか。想像がつかない。ただ、こちらからの連絡はある程度予想していたのかもしれない。朝っぱらからの無粋な電話を怒り出すようなことはなかった。

〈……ああ、スカウトという話はなんとなく記者の方からうかがいました。でも、大学の野球部にはいまは興味がないです〉

 男はつれなかった。声に抑揚がまったく感じられない。

ほんとうに燃焼し尽くして野球に対する情熱を失っているのだろうか。顔が見えないだけにすぐに判断できなかった。

「棚橋さん、どうだろう、会うだけでも会ってもらえないだろうか。遊技場のバッティングセンターとはいえ、ものすごい速い球を投げる学生が本学にいたことに私はほんと興奮してるんだ。こんなやつがうちの大学にいるなんて、ちょっと信じられない。実際、びっくりするしかないからね。いや、驚いたというより、もうどきどきして興奮してしまったというのが正確なところなんだ」

つい、いつもの監督口調に戻ってしまったが、もはやかまってられない。

「そんな学生がうちにいたと思うと夜も寝られないくらいだった。探し続けていた宝物をついに見つけた気分なんだよ。こうして話していること自体、夢ならさめないでくれって思うくらいだ」

野木はすぐたたみかけた。

「あなたが野球部に力を貸してくれたら、東大の優勝も夢じゃない」

「優勝」はとっさに出た。

歯が浮くような場当たり的単語とは思わない。野球部長のせりふじゃないが、置かれている状況はまさに帝国大学からの伝統が消滅しかねない「いまそこにある危機」なのだ。崖っぷちのチームを、いまから頂点に立たせるために自分はここにいる。

「私は東大を優勝させたいんだ。そのつもりでこうして動いている。力を貸してくれないか。会って、私の話を聞いてもらいたい。そのうえで、やっぱり気が進まないと言うならあきらめる。五分、十分、十五分とかでもいい。直接会ってもらえないだろうか」

 相手はまた沈黙した。電話で話す内容とは思えない強引な口説き文句に気を悪くしたか。

 ここは追いぜりふがいる。

「もしよかったら教えてほしい。記者さんから、野球は高校までで完全燃焼したんじゃないかな、と言われたんだけど、めちゃめちゃたくさん練習をやり、試合でもがんばって、もう精も根も尽き果てたということなのかな? 達成感があってやり残したこともないから、もういいや、ということなんだろうか」

 それだったら、いまの君の150㌔は素晴らしすぎる、その素質は決して燃焼され尽くしていない、ガソリンはタンクにまだたっぷり残っている、だから、もっと上をめざしてやってみないか、と続ける算段だった。

 だが、返ってきた言葉は想像とは違っていた。

「完全燃焼したとは言わなかったと思います。もういいですと言ったような機がしますが……」

 さっきまでとは異なる明瞭な声色になったような気がした。

「えっ、だったら」

 言いかけて口をつぐむ。野球を断念しているのが、ごくごくプライベートな理由だとしたら、それ以上問いただすのはさすがに気がひける。会ったこともなく、いま初めて、しかも電話で話しているだけの相手だ。常識的にはそんな人に根掘り葉掘り聞くような失礼なまねはするべきではない。そんな権利はないし、聞かれる当人にとってもそれこそ迷惑千万なことだろう。

 ――ただ……。

 明らかに先ほどとは声のトーンというかニュアンスが違った。どこか逡巡しているような、いや、楽観的な考えに立てば、誰かに後ろ髪を引っ張ってもらいたがっているような、そんな気さえする。

「棚橋さん、お願いばかりになってしまうがどうだろう、とにかく私と面会してもらえないだろうか。お会いすることができたら、なぜ私がこのようなプロ野球のスカウトみたいな真似をしているか、きちんとご説明したい」

 プロ野球のスカウト。

 まさにそうなのだ。チームを優勝させるため即戦力になる選手を探し当てる。いま自分がやっていることはプロの球団スカウトの仕事のそれにほかならない。野木には誠意を伝えるための適当な言葉がもう思いつかなかった。

 またまた黙ってしまった相手の返事を待つ間、ふいに大学の合格発表を見る前の心境を思い出した。

 東大に受かったか、だめで他大学に入るか。結果によって人生の大きな岐路になるその時だ。遠い遠い、はるか昔の記憶なのにこの瞬間だけは鮮やかによみがえった。

 ――いい返事をくれ。

 やがて男の声が受話口から聞こえてきた。

〈考えてみます。もし入りたいような気持ちになったら僕の方から電話します〉

「そうか、私は両手を広げて待つ。ぜひとも連絡がほしい。それと、こちらからお願いしておいて申し訳ないんだけど、こんどのリーグ戦の選手登録締め切りまではもう1週間もない。なるべく早く連絡をもらえれば私としてはうれしい」

〈……登録のことはわかりました〉

 その男、棚橋諒介は抑揚のない声に戻り、それだけ言うと電話が切れた。


 翌日。野木は早朝に合宿所に入り、男からの連絡を待った。あの電話を切る直前にメールアドレスも伝えようかとも考えたが、〈電話します〉の一言であきらめた。したがって、やれることは連絡を待つことだけだ。

「連絡待ちに徹するのが礼儀でしょう。受け身ですがしょうがないですね」

 白井も同意見だった。

 電話はなかった。周囲の雑音で聞き逃すまいとスマホをマナーモードにしてあるが、翌日も振動はしなかった。選手登録締め切り日まではもういくらもない。

 ――やはり脈なしか。

 しびれを切らしてこちらから再度電話するのは逆効果だろう。経験上、わかる。白井が言うように待つしかない。それだけは確かだ。

 東大生が最速157㌔――。

 軟投型の投手しか間近で見ていない野木には、どこをどう考えても、とてつもない宝物の発見に思える。縁があってほしいと願うしかないが、こればっかりはどうにもならない。

 このまま男から連絡がこなかった場合のことが頭に浮かぶ。だからといって、約束をしていてすっぽかされたわけではないのだ。憤りの持って行き場はない。相手が自分でその気になった時にだけ行動を起こすのだから、このまま縁がなかったとしても運命と得心するしかなかろう。

 期待といらいらと失望感が入り混じった複雑な感情が体の中を這い回る。

 この日も朝から合宿所に入った野木は昼食をとる気も起こらず、昨日と同じようにブラックコーヒーを立て続けに何杯もおかわりした。カフェインが体中に染み渡ることで、なんとか平常心は保っている。その代償のように胃とのどの、ざらざら感がやまない。この数日間で何㌔も体重が減った気がした。


 監督室のドアにノックがあった。女子サブマネジャーの繭村恭佳が神妙な顔をして立っていた。

「三年サブマネの繭村です。きのう、監督が二時間ほど外出されてた時に、深草先生がいらして、きょうの午後にもう一度来られるそうです。とくに時間と用件はおっしゃいませんでした」

 サブマネは教養学部社会学専攻教授の深草道夫の来訪を伝えた。野木の反応をなんとなく気遣う表情を浮かべている。

「そうか、深草先生が? ありがとう、ごくろうさま」

「失礼します」

 繭村は心配そうな顔で野木を見つめた後、お辞儀をして引き下がった。

 野球部OBの深草は広報担当者でもある副部長を務めている。文学部を卒業後に教養学部に学士入学し、大学院にも進んで博士課程を経て母校で教鞭をとっている。選手時代の実績はなかったが、大学に残ったことで部と関わりが深い分、発言力がある。著作の「バカに徹してこそ人生はおもしろい」というよくわからないタイトルの本が売れ、近年は民放テレビのコメンテーターに起用されるなど、いわゆるタレント教授の仲間入りをしていた。メデイアで露出されるその皮肉屋の論客ぶりが押し出しの強さにもつながり、OB会にも顔がきく存在だった。部の広報活動や連盟との窓口役、対外折衝といった、いわゆる実務はサブ広報担当の若い准教授があらかた切り盛りしているのだが、深草は野球部の顔役を担う形になっていた。

 ――深草がなんの用だ?

 野木と白井のスカウト活動が耳に入ったか。いやな予感はするが来るなとは言えない。いまさらあれこれ難癖をつけられると困るが、ものは考えようだ。この際、深草の政治力を逆に利用する形で助力を頼む好機にしてしまうのも手ではあろう。野木は楽観することにした。


「なんだかおかしなことをおやりになっているようですね」

 入室してきた深草は開口一番、切り出した。言葉にとげがある。

「は? なんのことでしょうか」

 深草の銀縁眼鏡の目の奥が光った。

「ウェブを使って選手を募集していることですよ。白井マネジャーに事実を確認したら認めました」

「ええ、ご承知のように、いま、わが部はたいへんな危機にありますから。勝つチームをつくるためにはいい選手を見つけることがなにより重要です。今シーズンはなにをおいても絶対に勝たねばなりません」

「こんなやり方、誰の許可をもらったんです」

「部長からは強化方針を一任されています」

「ネット上で噂になったらどうするんです。こんなことはたいへんな不名誉ですよ。あの東大がなりふりかまわず選手を集め始めた、ついにネットの掲示板に募集広告、なんて週刊誌なんかに無責任に書かれたりしたら目も当てられない。広報の私の仕事もマイナスの意味で忙しくなる。野球部長だって、まさかこんなあけすけなみっともない方法を監督がとるとは、お考えになってなかったんじゃないですか」

「いえ、掲示板みたいな、おっしゃるとおりの無責任なツールは使っていません。ご安心ください。あくまで私とマネジャーの人脈に基づいたスカウト活動です。ネットというかSNSはその情報収集手段の一つに過ぎません、情報を得たうえで、結局は人づてに人材を捜し当てるという昔ながらの地道な方策をとっています」

 なりふりかまわず対策を立てることが、いま最優先でやるべきことではないのか。

言い返したい気持ちをこらえ、少し話をそらせることにした。

 こういったケースでは、深草のようなうるさ型の人物はとかく自分がないがしろにされたと考えて根に持ち、ひがみ半分に立腹していることが多い。最初から頼る姿勢を見せるというか、それなりの役割を与えてやれば、ころっと態度というか風向きが変わることがあるものだ。

「実を言いますと、今回のケースでは広報を担う深草先生に真っ先にご相談しようと思ったのですが、なにしろテレビ出演で先生ご自身がお出かけになっていることが多いうえに、人気教授ということで授業のコマ数も多くお持ちなので、ご負担をかけるのもなんだかな、と考えたものですから。ですからスカウト活動の道筋が見えた後でご報告すればそれでいいかなと判断しておりました次第です。それゆえに、いま現在のところでは事後報告的になってしまい、申し訳ございません。現にマネジャーの白井も深草先生にテレビで訴えてもらったらどうですかね、深夜放送だけど視聴率が高い番組だから効果抜群ですよ、と当初から言っていたんですが……」

 歯の浮くようなうそ八百の世辞だが、うそも方便というやつだろう。

 テレビ出演、人気教授――。

 深草の神経質な顔が一瞬緩んだ気がした。

「ま、最初から相談していただければ、私も少しはアドバイスくらいできたかもしれませんが」

 流行の黒い細身のスーツに身を包んだ銀髪のヤサ男がふと目をそらせた。

「申し訳ございませんでした。すこしばかり余計な気を使いすぎました」

 細く差し込んだ一筋の光明が輝きを増した。

 野木はすかさず切り込んだ。

「実は深草先生、一人、気になる学生の存在をつかみまして……」

「気になる? ほう、どんな?」

「とてつもない速い球を投げる男です。本人は本学学生とはっきり言っています。野球経験者であることは間違いないと思います」

 男が身体能力に優れていそうなプロ並みの身長の持ち主であり、150㌔を超す速球を投げるという周囲の評判を聞かされたことなどを手短かに伝えた。荒唐無稽感のあるバッティングセンターうんぬんの話は伏せておいた。

「その人物は本学の野球部に入ることを希望したり、入部に同意したりしているんですか?」

「いや、まだ、本人に直に接触できていない段階でして、そこらへんはなんとも。しかし、説得する自信はあります」

 言葉に力を込めた。深草が入部に向けてOB会にも働きかけてくれるならばこんな心強いことはない。

「まだ会ってもいない? ということは、なんのたれ兵衛かもわからない、ということなんですか」

「現段階ではそういうことになります」

 銀縁眼鏡の奥の眼光が野木を射すくめた。

「説得の必要はないでしょう」

「は?」

「説得などをする必要性はないということです。野木監督、言うまでもありませんが、もう間もなくリーグ戦の開幕です。こんな悠長なことをやっている時間はないでしょう。スカウト活動は即刻切り上げて開幕試合の準備に専念なさい。猛練習こそがうちに必要なことじゃないですか。初戦は慶応だ。前季に対戦した時は、二年生の、えーと、名前は忘れましたが、あの背の高い左ピッチャーにあわやノーヒットノーランを食らうところだった。あの投手に対する攻略法を考える方が、こんなことをやってるよりよほど建設的だとは思いませんか、違いますか」

「しかし……、勝つためのワンピースをいま見つけた気がします。申し上げましたとおり、今季はなにがなんでも、どうあっても勝たねばなりません。この際、この学生の身元を調査したうえで選手として使えるとなれば、ぜひとも獲得したく考えております」

 深草は眼鏡をはずし、ハンカチでレンズを拭き始めた。

「野木監督、監督の使命はなんだと思います?」

「はい?」

「与えられた戦力で戦うことですよ」

「それは……、自分もしっかり承知しております」

「今季は十四人の新人が入ってきます。県大会で私学相手に大健闘した県立高校の選手も含まれています。彼らでは不満だと言うんですか」

 輝いたと思った光明は見間違いだった。

 与えられた戦力で戦う。正論である。プロアマを問わず、監督の仕事の中身を見事なまでに言い表している。ここで正論を持ち出されれば黙るしかない。

「どうしました? わかりましたか。現有戦力で試合をするんです。指揮官として精いっぱいやってください。期待はしてますから。いいですね」

 深草は眼鏡をかけ直し、椅子から立ち上がると部屋を出て行った。


 午前八時。野木はいつものように監督室の自席に座るとコーヒーのマグカップを手に取った。コーヒー豆の減るのが早い。この一週間で何度買い足したろうか。

 机上には白井の手書きの伝言メモがあった

〈連日お疲れさまです。いま現在、自分もかんばしい新情報はとれていません。学内にいる高校時代の野球経験者はあらかた総ざらえできた感じがしますが、残念ながら戦力になれそうなやつにはまだ行き当たっておりません。こうなりゃ、あの下町の剛球野郎のことががぜん気になってきます。でも、最後の最後までがんばりましょう。なんかあったらすぐ連絡入れます〉

 最後までがんばりましょう――。

 選挙運動の終盤で候補者の陣営関係者が振り絞るような決まり文句に、ふっと気持ちがなごむ。

 メモを机にしまうと、野木はコーヒーで温まった息を口からふうと吐きだした。カップは早くもほとんど空っぽになっている。すぐにコーヒーサーバーからなみなみと注ぎ足した。

 深草から駄目出しはくらったが、棚橋に会ってみたいという気持ちは変わらなかった。あの電話のやりとり。最後の声音の変化がなんとも頭にひっかかる。

 ほんとうは野球がしたいのではないか。手前勝手な想像だがそう考えてしまう。

いや、最終的に入部を断られたっていい。ちまたの遊技場で150㌔超の豪速球を投げる東大生とはいったい何者なのか。その正体を知りたい。そんな思いが強くなっていた。

 ――最後の最後までやってみるさ。

壁のカレンダーに目をやる。登録リミットまでの日数が目前に迫っていた。



 卓上の電話がぷるるんと音をたてた。受話器から合宿所近くの東大球場に出向いている白井の早口がもれ出る。

〈あっ、監督ですか? 白井です。いまからすぐこっちに来られますか〉

 メールではなく直電。いいタマを見つけたか。

「ん? どうした、なんかあったか。それより、例の150㌔男からさっぱり連絡がない。やっぱ、こりゃだめかもしれんな」

〈いますぐ球場に来てください。お願いします〉

 白井は野木のぼやきに反応することなく電話を切った。

 東大構内の小道を球場に向かって急ぐ。指揮官になって多くの日数が過ぎたわけではないが、早くも通い慣れた専用道になりつつある。合宿所と球場間は徒歩で十二、三分。絶妙の持ち時間と言っていい。練習前と練習後。実戦を想定した戦略を考えるには長すぎず短すぎず。野木に与えられた思索のためのほどよいインターバルとなっていた。

 その思考を楽しむ余裕を与えない白井の電話が気になった。まさか別件のやっかいごとでも持ち上がったわけではあるまいな。自然と足は速まった。

 カッツーン、カッツーン。

 球場をぐるりと囲むフェンスを目にしたとたん、小気味よい打球音が耳に入った。

 小走りに通用口を抜けグラウンドに出る。三塁側ダグアウト前にたたずんだ白井が野木に顔を向けるなりさっと会釈した。

「あ、監督、呼び出してすみません。あの、あいつを見てください」

「えっ」

 ホームベースの方角を指さした白井の視線の先に男がいた。

 ジーンズとおぼしき青いズボンに赤っぽいチェック柄のシャツ。いかにも学生といったいでたちの男が、打撃マシンを相手に黙々とバットを振っていた。長い後ろ髪がスイングのたびに大きく揺れている。

「あの長い髪は……、おい、もしかして例の男か?」

 白井が前を見たまま「フーエルス?(他に誰がいるって言うんですか)」と英語で返した。

「しかし、ここは野球部のグラウンドだぞ。勝手に入ったってのか?」

 野木はぐるりと周囲を見回した後、改めて男に視線を投げた。

 マウンド付近のマシンからは一定の間隔で次々と球が飛び出している。直球は通常135㌔に設定してある。それほどの球速ではないが、バットがくるんと回るたびに快音とともにヒット性の打球が飛んでいった。百十㍍ほど先の外野フェンスに直接当たる大飛球や両翼のライン際へのライナーもあった。ふだんの練習でもフェンスまで飛ばせる部員はほんの数えるほどしかいない。男がユニホーム姿でないだけに、目の前の光景には違和感すら漂う。

 男は三塁側ベンチに背を向けた右打席に入っていた。ために野木たちに気づいていないようだ。

「うーん、プロ並みの飛距離ですね。左右に打ち分けるバットコントロールもいい。さっき、ちょこっと数えてみたら十スイングで二本が柵越え、四本が長打級、空振りなし、でした」

 白井が感心したように言う。

「おう、そんな、か……」

 硬式野球では、バットの太い部分にある「スイートスポット」と呼ばれるごく狭いポイントで球をとらえないと、きちんと前に飛んでくれない。その芯をはずせばヒットにならないだけでなく、ファウルになったり、自分の足に自打球を当てたり、バットを折ってしまったりする。いわゆる「芯を食う」ことができるかが、安打と凡打の分かれ道だ。それでもって、たった18・44㍍隔てたマウンドから小さなボールが時速145㌔やら150㌔やらの目にも止まらぬスピードで飛んでくるとなると、本塁打はおろか、たんにヒットを打つのにも優れた技術がいる。プロ野球の開幕直後には、かなりの人数の強打者たちが六割とかの高打率をマークしていても、打数が多くなったシーズン終了前にはみんな三割二分から三割程度に収まってしまう。野球とは一種まか不思議な競技である。

 こと打撃に関するそんな奥深さは野木にもよくわかるだけに、素人と思えない打棒を目の当たりにしていささか気押された。

 しかしそれにしたって、大学の野球部の球場に勝手に入り込み、備品である打撃マシンまで操作して球を打つとは。いくら学内の人間であろうといささか乱暴にすぎる。教育上も見過ごせない。

 おーい、と声をかけようとした矢先だった。

ピーッというホイッスルのような鋭い音が聞こえた。音の方に顔を向けると警察官に似たブルーの制服を着た大学の警備員三人がこちらに向かって走って来るのが目に入った。ばらばらとグラウンドになだれ込んできて男に近づいていく。

「白井、行こう!」

 野木も駆けだした。

「もしもーし、ここは大学の敷地内ですよ。野球部専用の施設なんですよ。関係者以外は立ち入り禁止なのはわかるでしょ。どちらさんですかね? 身分証とかあれば見せてくれますか」

 相撲部出身かと思うほど横幅のある若い警備員が打席にいた男のそばに寄り、声をかけた。初老の警備員二人も男の周囲に立った。

 警備員に囲まれた男は驚いた様子もなく、黙ってポケットをもぞもぞまさぐり始めた。

 小声で野木が「野球部の監督です」とそばにいた初老の警備員に伝えると小さく敬礼が返ってきた。白井がマウンドに走っていき、マシンのスイッチを切って戻った。

「ああ、どうも無断で入ってすみません。球場を見たくて来たら、出入り口の鍵がかかってなくてマシンの電源も入っていたので、つい打ちたくなってしまって」

 若い男はクレジットカードのようなものを渡しながら頭を下げた。いまどきの学生証は野木の時代と違いプラスチック製らしい。

 責任者らしい初老の警備員が緊張した面持ちでカードにしげしげと見入ったあと、白い歯をみせた。

「なあんだ、うちの学生さんだったか。やれやれ、最初不審者かと思ってびっくりしましたわ。あんまり脅かさないでくださいよ」

 白髪が目立つ警備員は急ににこやかな顔になった。

「ほんとうは警備室に来てもらって、ちょっとお灸を据えるところですが、こちらに野球部の人もいるみたいだし、うちの学生さんで間違いないようなのでまあよしとしましょう。近ごろは不審者に対する目を厳しくしなくちゃいけないご時世なので、今後はこういうむちゃな行動はしないようにお願いしますよ」

 警備員たちは軽く一礼すると苦笑いを浮かべて立ち去った。

 背の高い男と野木と白井がダグアウト前に残された。

 野木が一歩進み出た。

「もしかして棚橋さん?」 

 若い男はこくんと頭を垂れた。

「電話を待っていた監督の野木です。ともかく会えてよかった。ま、こんな場所でこんな風に会うとは思いもしなかったが」

 安堵のため息とともに野球帽をとって頭を下げる。白井を紹介すると若者は控えめな笑みを浮かべ、野木が差し出した右手を黙って握り返してきた。

 想像していた暗い人物像とは違った。

 グラウンド侵入という無体な振る舞いをしたわりには泰然としている。野木と白井を面前にしても、なにごともなかったかのように穏やかな表情をこしらえていて、むしろ屈託がない。

 杉浦記者が言っていたとおり、ずいぶんと背が高かった。一七八㌢の野木でもかなり目線を上げなければならなかった。一九〇㌢を超えているかもしれない。肩幅は広く、見た目も筋肉質で、いかにも高校を卒業したばかりの運動部選手という風体をしている。ただ、威圧感のある体つきに比べると顔立ちはどちらかと言えば女性的だった。肩付近まで伸びた茶髪の長い髪とあいまって、ぱっと見は芸能人のようでもある。「ロックシンガー」。杉浦記者のジョークを思い出した。

「すぐに電話しなくて申し訳ないです。棚橋諒介です。考えた末にグラウンドを見てからお会いするかどうか決めようと思って、先にここに来てしまいました。勝手に入ってすみませんでした」

 棚橋は両手を広げ、恐縮したポーズをしてみせた。

 無断侵入などそんなことはどうでもよかった。

 すぐ本題に入る。

「いやいや、ほんとうに会えてうれしいよ。うちの学生で間違いないんだね。いやあ、よかった。電話で話をさせてもらったように、うちの野球部は投手をいま懸命に探してるんだ。そんなところに、新聞記者の人からあなたがバッティングセンターで150㌔出したとか、うんぬんかんぬんを聞いたという次第で、それならなんとしてもコンタクトをとろうと思っていたんだよ。150出せるということは野球経験者なんだろ? そういうことならぜひ野球部に入ってほしい。いまなら入部手続きがまだ間に合う。いっしょに早稲田や慶応をやっつけようじゃないか」

「そのことなんですが、ここに来る途中でやっぱり無理だろうと、お断りしようと考えていました。でも、現役の東大の監督から自分のことをほめていただいたことには感謝します」

「無理? おいおい、なに言ってるんだ。いったいどうしてそうなるんだ。この前もちらっと言ったと思うけどべつに完全燃焼したわけじゃないんだよな。いま現に150㌔投げられる能力があれば、実力を発揮するのはまさにこれからだろう。これから練習していけば球速はもっと伸びて155㌔くらいになる。いや、160の可能性だってある。ほめられてうれしいなら、ほんとうに部員になってくれよ。どうだ、この際、私に身柄を預けてくれないか」

「いや、だめなんです。できないと思います」

「ばかな。だから、なに言ってるんだ。いいかい、早く走るのと速い球を投げられるのは持って生まれた才能なんだ。つまり素質だ。少しくらいなら、あとからトレーニングでちょっと俊足になったり、球速をアップしたりはできる。百㍍11秒台前半の陸上選手が大学に入って10秒台になるとかな。でも9秒台とか劇的な進化はふつうは無理だ。野球で言えば、高校で125㌔くらいのやつが大学で140㌔近く投げられるようになるとかな。でも160㌔までは伸びない。いま150㌔以上の球を投げるというのは素質がある証拠なんだよ。体育学が専門の私が言うんだから間違いない。それとも、肩とかどこか故障でもしてるっていうのかい? さっきのバッティングの感じじゃ、そんな風に見えなかったけど」

 理屈の単純さから言って、相手にも十分納得できる解説のはずだ。

 実際、プロ野球のスカウト連中は将来性を見込んだ高校生投手の獲得にあたっては、まず球速を見る。速い球を投げるというのは、それだけ「後付け」が難しいことなのだ。

 ここで逃がすわけにはいかない。野木は相手が承諾さえすれば、いまこの場で実技テストに持ち込む腹を決めた。

 合宿所に戻れば練習用ユニホームがある。目の前で投げてもらえば否も応もない。実力をまさしく体感できる。棚橋の実力さえ本物だったら、追加入部に関して必要になってくる、うるさ型の深草や、もっと口の辛いOB会幹部たちを説得できる材料を即座に手にすることができるというものだ。

 ここは正念場という気がしてきた。このまますんなり棚橋を帰す手はない。

「どうだろう、棚橋さん。ほんとうは棚橋君と呼びたいところだけど、まだ部外者だからさん付けにするよ。ユニホームを貸すから、いまここでピッチングを披露してもらえないだろうか」

 野木はもう一度帽子をとった。脇で白井が固唾をのんでいるのがわかる。

「いや、入らないのにそれはちょっと……」

「どうしてだ。まさか、おじけづいたわけじゃないだろ。バッティングの方はさっき、けっこう見させてもらった。だから打撃力はそれなりにわかった。だったら投げる方を隠す必要なんてないだろ」

 棚橋が尻込みする理由がわからなかった。

 さっきのヒット性連発は、ほんとうに「ちょっと打ちたくなっちゃった」から出た程度の振る舞いだったとでも言うのか。マシン相手とはいえ、堅い皮で覆われ、芯があって重量もある硬球を打つのだ。いかに大柄でもリスト(手首)が強く、かつ相当にバットを振り込んでいないとあそこまで軽々とは飛ばせまい。ちょっとした遊びでやった結果とは思えなかった。そう、例のバッティングセンターで取り囲んだギャラリーにアピールする時のような訴求力すら感じられた。

「電話をくれる前に、私に会う前に、グラウンドに来たということは、あなただって野球がしたい気持ちになったからじゃないのか」

「…………」

「それこそ十球とか、いや五球だけでもいい。自慢の真っすぐを見せてくれないか。下町のセンターでの投球がまがいもんでなかったことを私は確かめたいんだ」

「意味のないことをしても、ご迷惑をかけるだけです」

 野木のアドレナリンが沸騰を始めた。言い分が理解できない。

「意味ない? なんでそうなるんだ。150を超す速球をほんとうに投げられるんだったら、バッターはそうそう打てるもんじゃない。いかに戦力に乏しい東大と言ったって、神宮で二けた勝利は間違いないぞ。通算したらおそらく二十勝近くいくんじゃないか。ドラフト候補になるかもしれん。いや、きっとなる。それともなにか、打つのは得意だが投げる方はからっきしってやつなのか。150や157㌔は周りの見間違いか機械の故障で、実際は120くらいがせいぜいってやつなのか」

「いえ、真っすぐはいつでも150以上出ます」

「だったら、なんで『意味ない』なんだ! おかしいだろ、言ってることが」

「僕は四年なんです!」

 声が出なかった。

 ――四年生だと?

 新聞記者氏から情報がもたらされた時、年齢や学年のことなど、まったく考えもしなかった。当然に一年生だと思い込んでいたからだ。よくよく考えてみれば、そんな保証などどこにもないことはすぐにわかる。

 ――まずいことになったぞ。

 心の中で舌打ちをした。学生野球の具体的な細かい規則に通じているわけではない。

 最上級生での入部は規定上、許されるのか。

 まったくわからなかった。いや、それ以上に四年生で体育会運動部に参加することなど、新設の大学で部員が足りないといった特殊な事情を除けば大学運動部の常識に照らしてまず例がないだろう。

「白井、そんな例を知ってるか?」

 隣の学生服に聞く。

「自分は聞いたことがありません」

 固まった姿勢のままマネジャーが即答した。

 ここは落ち着かなければならない。一度、頭を冷やす必要がある。

「そうか……、まさか四年だとは思わなかった」

 野木は話の矛先を変えた。

「うーん、新入生にしては、ずいぶんと落ち着きがあるなとは思ったけど。じゃ、棚橋君、あ、もう、さん付けも『あなた』もやめるぞ。棚橋君、いままでなにしてたんだ?」

「クラブ活動はせず、アメリカでしばらく生活したり、日本ではトレーニングジムに通って体を鍛えてました」

 改めてその体を眺めてみる。肩幅の広さが目立つが胸板も厚い。両肩はボクサーのように盛り上がっていた。よく見ると野球というよりは、ラグビーかアメリカンフットボールの選手を思わせる逆三角形の体形をしている。

 ――相当なレベルで筋力トレーニングをしている。

 大学院でフィジカルフィットネスを研究する野木の理解は早かった。

「となると、四年生だからもう遠慮したいというのかな」

「はい、仮に入部を許可されたとしても残された時間は少なすぎます。それに、最上級生で新人ではなんとなく格好悪いし……」

 大男が照れている。本音ではあろう。最上級生では確かにこれからあっという間に卒業ということにはなる。

「ということは、だ。規則上、入部には問題がなくて、そして、その、なんというか、格好が悪いなどというメンタルな部分は、こちらがあなたをフォローするようにすれば仲間になってくれると考えていいか」

「たぶん入部できないと思いますが、そこまでおっしゃってくれるんなら、よく考えてみます。ほんとに四年生でもいいんですか」

「規則上問題がなければだけど、もちろんそうならこちらは大歓迎だ。考えてみろよ、それでもあと二シーズンやれるんだぞ。ただし、何度も言うようにピッチングを見せてほしい。それを見て私が部のお偉方に君を推薦する方法をとりたい。すまんが、バッティングセンターのうわさ話だけで私がことを進めるわけにはいかないんだ。それじゃ説得力があまりにもないし、笑われて終わりかもしれん。君をもっと見てみたい。言っていることはわかるよな」

 率直な思いをぶつけた。たったいま入部への言質はとれた感じはするが、なにも見ていない中で安請け合いするわけにもいかない。棚橋にも失礼だろう。

 大男は黙っていた。上背がだいぶ違うだけに上から角度のある目線を浴び、なんとなく居心地が悪い。見つめられてわかったが、涼しい目元をしているわりには伝わってくる目力があった。

 ややあって棚橋の口がゆっくり動いた。

「いまの六大学で、僕の真っすぐを、まともにバットに当てられるやつは、せいぜい一人か二人くらいだと思います」

 しびれるフレーズだった。白井が目をぱちくりしている。

「よし、わかった。それなら話は早い。一緒にハードルを跳び越えよう」

 考えろ。脳内の目まぐるしい血流の動きが次にやるべきことを野木に指示していた。

 規則上、入部は可能だと仮定しよう。

 棚橋は新四年生だ。さっき本人に告げたとおり、あと二シーズンは残されている。  進撃の巨人の実力が本物なら、むしろ二度も優勝の機会があるととらえるべきだ。なにせ本人がプロにも数少ない「150㌔超のストレート」を公言しているのだ。いまからやってみろと言われている手前、自信がなければそうそう風呂敷は広げられまい。

「よおし、いまから私が連盟に問い合わせてこの問題をクリアにする。ちょっと待っててくれ」

 スマホを取り出し、六大学連盟事務局にかけた。

 電話一本で要件は済む。気やすい期待はすぐ打ち砕かれた。あろうことか、つながった声は留守電のテープだった。すでに午後四時を過ぎ、朝八時から勤務の事務員が引きあげてしまったらしい。

「棚橋君、悪いけどすぐ帰らないで、うちの合宿所に寄っていって、そこで待っててくれないか」

 夕方に文京区内で家庭教師のアルバイトがあると棚橋は言った。腕時計を見る。あとちょうど二時間半後だ。

 野木はこのままなにも決められずに棚橋を帰せば、もう会えなくなるようないやな予感がした。

「白井、彼を合宿所にお連れしてコーヒーをごちそうしてやってくれ。冷蔵庫に文明堂のカステラが手つかずであったはずだ。私はこれからこのベンチに座って、知り合いの連盟の職員の携帯に片っ端から電話する。なあに、十五分ですべて片づく。たった十五分だからよろしく頼む」


 仲のいい順番にスマホの住所録からタップする。

〈ただいま留守にしております――〉〈ツーツーツー――〉……。

 連盟事務局職員は二人が留守電、一人は話し中だった。週末の夕刻だ。家族と出かけていても不思議はない。留守電の二人に用件を吹き込んだ後、話し中の番号に三回かけたが無機質な話中音が響くだけだった。

 ――早く電話を切ってくれ。

 腕時計を見ながら舌打ちを繰り返す。あっという間に十五分が過ぎた。ころ合いをみて話中電話にかけ直すと、なんと留守電に切り替わっていた。

 棚橋青年は待ってくれてはいるだろうが、「じゃあ、これで」と腰を上げられればそれまでだ。留め置く根拠も権限もない。

 ――コーヒーはここにはないしな。

 いらいらのあまり、ダグアウト内をぐるりと見回すがそれがあるはずもなかった。

 当初の約束の時間を三十分以上も超過したころ、ベンチの上に置いたスマホが振動で踊り出した。あわてて手に取り、耳に押しつける。

〈岡元です。野木さん? ども、ごぶさたです。いやあごめんなさい、ちょっと出かけてまして〉

 地獄でさまよっていたところにばったり出会った仏様を思わせる穏やかな声音が聞こえてきた。

 岡元は事務局で最も若い。監督就任直前に知人を介して紹介され、一緒に飲みに行ったことがある。連盟の事務職員としては珍しく大学運動部経験者ではなかった。学生時代は簿記会計学研究会とかいう堅いサークルに所属していたという。経理などそちら方面の実務要員のために採用されたに違いなかった。運動部出身者にありがちな、あくの強さなどみじんもなく、人のよさが際立つ好青年である。

「オカちゃんか、よかった。勤務時間外にすまん。ちょっと教えてくれないか。六大学の野球部員って、四年生でも選手登録できるんだろうか」

〈はあ? そりゃまた、どうしたんです、出し抜けに、そんなこと〉

 息せき切ったこちらの様子に感じるものがあったのか、電話口の相手はちょっとの間、けげんそうな声になったが、一拍おいてはっきり答えた。

〈もちろん、できますよ〉

「えっ、それ、ほんと? 大丈夫なんだね、部に入れるんだね」

〈そう、だから当然にできますよ。学生という身分があれば。べつに何年生であろうと登録は可能です〉

 岡元の説明によれば、登録後四年間は選手の身分を維持することができるという。つまり四年生になった時の入部なら残り一年間が有効期間というわけだ。

〈うちの東六や首都圏のリーグなんかじゃ、まずそんな例ないけど、地方のリーグなんかじゃ地元の国立大学の学生が三年とか四年で選手登録することがあるってのは聞いたことありますよ。まあ、選手層が薄い地域や学校だと、それでも歓迎されるんでしょうねえ。サークルのようなノリかもしんないですね〉

 岡元はけらけらと笑った。質問の意図を詮索する感じはまったくなく、聞かれたから答えるというスタンスに人柄が伝わってくる。こちらの思惑など想像もしていないような明るい声だった。

〈監督にとっていよいよ初陣ですね。今シーズンはとにかく一つは勝ってくださいよ。一つ勝てば絶対次につながると思います。東大ががんばるとリーグ戦は一挙に盛り上がりますからね。昔から東大が強いシーズンはおもしろいと事務局の人たちもみんな言ってました。健闘を祈ってます。終わったらまた飲みに行きましょうよ〉

 地方リーグならいざ知らず、わが六大学では前例がないとされる四年生での登録というウルトラC。岡元の誠意に満ちた陽性な応答ぶりに、なんとなく後ろめたい気持ちになりながら野木はいんぎんに礼を言った。

 待ちくたびれたろうが、いまこの時刻だったら棚橋もバイトにぎりぎり間に合う。なんなら自分のポケットマネーでタクシーに乗せたっていい。野木は右手で軽くガッツポーズをつくった。



 野木は監督室で棚橋と向かい合った。入部のために身上書をつくらねばならない。現役の監督とて一存で学生を入部させる権限はない。OB会役員も出席する部総会で認められなければならなかった。総会の場では、身上書をもとに本人が入部条件を満たしているかなどが詰められ、問題がないとなって初めて許可が下りる。そうなって初めて体育会(東大では運動会と呼称する)野球部の一員となる。なにやら銀行が企業に融資する際の稟議と似ていなくもないが、大学の体育会とはそういうものだ。そこらの学生サークルとは違う。

 本人が語ったところによると、東大には一浪後に文科Ⅲ類に合格。大学では文学部インド哲学科に在籍中。野球歴は少年野球から始め、都立白鷺台高校三年時の西東京大会ベスト十六が最高という。

 球歴に見るべきものはなかったが、これまで続けていたという筋力トレーニングの詳細な内容を聞かされ、野木は目をむいた。

 ベンチに横たわってバーベルを胸の上に持ち上げるベンチプレスの最高は百二十㌔。バーベルを肩にかついでしゃがんだり立ち上がったりを繰り返すスクワットは百㌔。腕を太くするためダンベルを上げ下げするカールは片方で二十㌔を使うという。ラグビーやアメフットのような激しいコンタクトプレーを伴う競技の選手ならともかく、野球選手でこの数値はまずない。棚橋の話がほんとうなら、ベンチプレスだけだったらパワーリフティング競技大会に出られるだろう。

「ほう、そりゃまたすごい。まるでロニー・コールマンとかナッサー・エル・ソンバティー並みだな」

 話につりこまれ、著名なプロボディビルダーの名前をあげて野木の口からついほめ言葉が出た。

「アメリカでは大学レベルの野球選手でも、筋トレは練習の中で基本的な位置を占めています。全体練習の前に個人で筋トレをひと通りこなしてからチームの練習に加わる者がほとんどです。体を動かすエンジン部分が筋肉なんですから、容量が大きいほどパワフルに長い時間動けます。野球の技術を磨くための前提のようなものです」

「うん、私にもそれはよくわかる」

 専門家ゆえ、説明された内容はスムーズに頭に入った。これなら身上書にも一本筋の通った履歴話として書き込める。稟議書としての役割は果たせそうだ。入部に向けた書類審査の初期の段階は超えられた気がした。

 とはいえ、難題が一つあった。

 三年間、なにも部活動をしていないという点だ。他の体育会に属して別の競技をしていたというならまだ説明がつくが、これまでまったくの無所属だ。いわゆる「帰宅部」ということになる。目の前にいる大男の身体はフィジカル的にはうそをついていないだろうが、短いスパンとは言い難い部活の空白は、部総会ではたしてどう受け止められるだろう。役員連中を納得させられるだろうか。

「ピッチングと打撃練習は、首都圏のあちこちの硬式コーナーがあるバッティングセンターに通ってました。ランニングも毎朝、センターに行く前に江戸川沿いを走ってます。あえて走らない日もつくって、そういう日はウオーキングにしました。体の糖分を燃やすランニングと体脂肪を燃焼させてくれるウオーキングを交互にやって体脂肪のバランスを保つようにしてました。筋力トレーニングだけに片寄ってしまうと、体の特定の部分が硬くなってしまったりするので有酸素運動は欠かせません」

 そんな風に棚橋は日常を解説した。

 野木の感性では首肯できる部分はある。

 とは言っても、その説明だけでは連係プレーや試合での走力などはまったくの未知数ということになる。高校時代のように、まともにダイヤモンドを駆け回ったり、守備でダッシュしたりするだけの瞬発力や持久力をいまも保持しているのだろうか。野球という競技は局面に応じて選手の動きがあちらにこちらにと、めまぐるしく変化するかなりダイナミックなスポーツだ。投げる、打つ、という単純なスキル自体はともかく、試合の全体像を把握しながら能動的に俊敏に動き、そのつど状況判断をする競技力というか、いわゆる野球センスは維持できているのか?

 ――なんで部に入らなかった? なぜまともな野球をしなかった?

 またものどまで出かかった違和感を野木はあわてて封印した。知ってはいけない背景が一瞬見え隠れしたようなひんやりとした感覚を覚えたからだ。それよりもなによりも、それを聞いたが最後、面前の巨人がくるっときびすを返して自分のもとから離れていってしまうような気さえした。

 卓上の時計を見る。いつの間にかもう午後一時を回っていた。

「白井、イカが来るのは何時だったっけ?」

 後ろに控えたマネジャーが椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がった。

「もうじきグラウンドに着くはずです。きょうは珍しく午後から実験はないそうです。キャプテンはでかい鼻の穴をふくらませ、『おい、いったいなんの用事なんだ』と言って盛んに首をかしげてました」 

 白井らしくないジョークに失笑して棚橋に向き直る。

「これからいよいよ投球を見せてもらうんだが用意はいいね」

「準備はできてます」

 無表情で答えたあと、棚橋がふっと表情をなごませた。

「監督、お願いがあるんですが」

「うん? なんだ」

「もし、入部が許可されたなら、僕のことをゼットンと呼んでくれませんか」

「ゼットン? なんだ、そりゃ」

「ほら、ウルトラマンと闘った怪獣たちがいたじゃないですか。バルタン星人とかレッドキングとかジャミラとか。そのなかでもゼットンが最強なんですよ。なぜだかわかります? そいつがウルトラマンに勝った唯一の怪獣だからです。僕の高校時代のニックネームなんです。最強のエースと言う意味でした。もし東大で入部できたなら、僕はやはり最強のエースになりたい。ですからゼットンということで」

 ゼットン――。ニックネーム――。怪獣――。 

 野木は返答に窮した。

 まだどうなるかわからないが、もし入部が認められれば悠久の伝統に彩られた栄えあるかつての東京帝国大学の運動会野球部員だ。もう気ままな一学生ではない。野球部という組織の一員としての責任が生じ、規律のある生活をしなければならなくなる。正装は詰め襟の学生服である。少なくとも、これまでのような気の赴くままの勝手な行動などは許されない。なんにも縛られることなく自由奔放にやってきたこの男に、前途への不安というようなものはないのだろうか。

 さきほどから野木の頭の中では、棚橋に対する、打ったり投げたりだけではない総合的な守備力や走塁への懸念が渦巻いている。それは棚橋自身にとっても、たやすく想像できる自分に向けられたある種の疑念のはずなのに、真っ先に自分の愛称を気にするとは……。

「まあそんなのは、べつに、かまわないが……」

「あの、監督」という声に振りかえると白井が笑いをかみ殺しながら「そろそろ時間です」と告げた。


 東大球場グラウンドの人工芝に照り返す日差しがぐんと力を帯びてきた。春のリーグ戦開幕近しをいやでも実感させられる。

 ブルペン付近で伊ケ崎豪が現れるのを待つ。ついに、いまこの目で棚橋の実力を確かめることができる。部総会の前になんとしても確認しておかなければならないことだった。

「うすっ」

 理学部応用物理学科四年の大柄な主将が、のそっと姿を見せた。徹底して刈り込んだ坊主頭。無秩序に伸ばした無精ひげ。日焼け顔の奥から小さく細い目がのぞく風貌はなかなかの迫力である。

「なんすか、監督、こんな真っ昼間に。夕方に用事あるんすよ」

「すまんな、キャプテン、実は球を受けてもらいたい新人候補がいるんだ」

 キャッチャーミットやレガースを手渡しながら理由を告げた。

「ひゅー、なんだと思ったら四年の入部希望者すか。そりゃあまた、なんともかんとも奇特なおじさんですなあ。ずいぶんと背が大きいが、ここは確か、なんすか」

 合点がいったらしい伊ヶ崎は離れてたたずむ棚橋に目をやったあと、人さし指で自分の側頭部を突いた。

「おいおい、イカ、そう人聞きの悪いことを言うもんじゃない。いっしょにスキルを見ようじゃないか。お前の研究室の実験のようなもんだろ」

 伊ケ崎はにやりと相好を崩し、スタジアムジャンパーをするりと脱いでTシャツ姿になった。

 棚橋にはかせるスパイクにはちょっと苦労した。高校時代のスパイクはいま手元にないということだったので、一番でかい伊ケ崎のものを本人に無断で貸した。しかし、二十八・五㌢でも小さいようだった。それならスニーカーで、とはいかない。マウンドの土にうまくスパイクの爪がひっかからないと下半身が有効に使えず球威が出ない。それどころかプレートに触れてすべって転倒しかねない。靴下を脱がせてなんとか大足を収めてもらった。

 伊ケ崎に棚橋を紹介する。

「うすっ、本年度主将やっとります伊ケ崎です。よろしく」

「棚橋諒介と言います。よろしくです」

 二人はブルペンの両端に別れたまま大声で言葉を交わした。

 直球のほかにはスライダーやツーシーム、カーブ、チェンジアップを投げられると棚橋は語っていた。サイン違いのように予期せぬ球が飛んでくるとキャッチャーが取り損なってけがにつながりかねない。東大きっての大型捕手に負傷欠場など許されるチーム事情ではない。野木は球種を先に教えてから投げるように指示した。

 棚橋は両腕を二度三度ぐるんぐるんと回し、屈伸運動をして投球準備に入った。野木も球審よろしく伊ケ崎の背後に回った。

〈五球続けて真っすぐ〉

 棚橋はあらかじめ決めたジェスチャーでそう伝えてきた。

 ピッチャーズプレートを踏んだ後、両腕を頭の上にゆっくりと振りかぶる。コントロール重視のためか近ごろはノーワインドアップで投げる投手が多いが、彼はダイナミックなワインドアップ投法だった。

 長い左足が上がり右腕がしなって白球が放たれた――と思うまもなくパッシーンという衝撃音がして速球が伊ケ崎のミットに収まった。まっすぐな球筋が一本の残像としてまぶたに残った。

 速い。野木には初めて目にする球速だった。

 ――150㌔は楽に出ている。

 スピードガンは神宮での試合用にそのつど用具メーカーから借りている。野球部の備品にはない。その必要性がないからだ。野木は安い外国製品を秋葉原あたりで買ってこなかったことを後悔した。まがりなりにも硬球が飛び交う空間で毎日を過ごしている。自分にも球速や球威くらいすぐわかるという自負もあった。だが、これは…。

 二球目、三球目。四球目、五球目……。目で球を追ういとまもなく糸を引くようなストレートが真っすぐにこちらに向かって飛んできた。伊ケ崎同様にキャッチャーマスクをつけているが思わず腰が引けた。球がホームベース付近でホップするように見える。

 ピッチャーの投げる球を科学的に検証すると、ストレートを投げた場合でも球はキャッチャーの位置に届くちょっと前くらいの距離のところで、目にとらえられない極小な幅でわずかに投球の軌道が下がっている。地球の引力によって地表方向に球が引っ張られるからだ。しかるにキャッチャーの位置まで飛んで来てもなかなか球速が落ちない球威のある球であればあるほど、引力の抵抗を受けにくくおじぎ幅が小さい。したがって、ふつうに軌道が下がってしまうありふれた球速の球を見慣れた打者の目には、逆に浮き上がってくるように感じるわけだ。

 ――ものが違う。

 伊ケ崎は腰をぐっと落とし、ミットをストライクの位置にあらかじめ構えて捕球している。球威のある球をしっかり受け止める基本動作だ。

「次はスライダー!」

 棚橋がジェスチャーを省いて叫んだ。ミットに吸い込まれた変化球は、横に鋭く曲がるスライダーではなくフォークのように打者の手元で落ちるような印象だった。打者がバットを出したあたりから消えてしまうような軌道に見える。直球ほどではないにしろ球速があるので打者にはやっかいな球だろう。チェンジアップは直球の腕の振りと見分けがつかなった。この精度の高さからすると投球フォームがすでに固められていることがうかがえた。

 三十球も投げたろうか。

「よおし、もういいんじゃないか」

 野木がストップを告げた。

 伊ケ崎が座ったまま振り向き、マスクをとった顔を上にむけた。息が荒い。

 どう見ました? 真っ黒い顔がそう聞いている。

「速かったな……」

「冗談じゃないっすよ」

 あやうく、けがさせられるところだった。主将の反応にはそんなニュアンスが混じっている。

「あんな重くて速い真っすぐ、人生で初めて受けました。ズドーン、ってやつです、ズッドーン。手がしびれてまだ感覚がない。くっそう、手袋すんだった」

 ミットから抜いた左手をひらひらさせ、伊ケ崎は右手の指でしきりに左の手のひらを揉みしだいた。

「高校のころ、東京ドームで見たダルビッシュのような球のキレだった。なんでうちの大学にこんなのいるんすか。やつは化け物だ。あっ、そういう言い方は人聞きが悪いっすね。だったら、怪物か怪獣だ」

 マウンドで背伸びしている棚橋を見やったあと、野木も応じた。

「そうらしいな。本人も自分でそう言ってる」


10

 

 そこかしこに傷みの目立つ野球部合宿所の木造学舎は、この大学が帝国大学と呼ばれていた歴史と、創部が大正時代にさかのぼる野球部の伝統の両方を体現しているようだ。敷地内に植えられたヤマブキの淡い色が、このところの明るい陽光を浴びて目にまぶしい。季節はもうすっかり春の装いだった。

 監督室の椅子の背もたれに体を預け、野木は腕を組んだ。

 昨秋のリーグ戦。十戦全敗。各校に二連敗し、引き分けもない。いわゆる「逆パーフェクトV」というやつだ。そのうちの一敗には、法政のエースに喫した無安打無得点試合が含まれる。慶応の二年生投手に一安打完封負けと手もなくひねられたゲームもあった。深草に指摘された試合だ。

 スクラップしたスポーツ新聞の記事には、十個の丸くて黒い星がきれいに並んだ順位表が載っている。まるで新任監督の野木を威嚇し、前途をあざ笑っているかのようだ。リーグ六校の中に一校だけ巷の公立高校の野球部員だけでつくったチームがまじっている。そんな風に揶揄されても仕方のない惨敗ぶり。確かにこれでは、入れ替え戦の話題がくすぶり続けるのも無理からぬところだろう。

 野木に硬式野球の経験はなかった。教育学部で人間生理科学を学び、そのまま大学院修士と博士課程で運動生理学を専攻した。指導教授の引きもあって東京郊外の公立大学に籍を得て三年前から准教授をしている。昨春、その公立大学の野球部の体力強化トレーニングアドバイザーを引き受け、選手を指導した。そのことが東大野球部関係者の知るところとなり、母校の野球部監督に招請された。三十代前半という年齢は部史上二番目に若い。

〈他校の選手と野球の技術で決定的な差があるとは思わない。だが、うちの選手は九イニングもたない。最終回にも全力で球を放り、力いっぱいバットを振れる選手をつくってほしい。選手の体力レベルを一段階も二段階も三段階も上げてほしい〉

 就任にあたり、添田野球部長はチームづくりの目標をあげた。理系人間らしくいつも生真面目な表情をこしらえているが、目には切迫感があった。

 野球部OBから抜擢することなく、野球には素人同然の学者風情を監督に起用する――。

 背景にはスキルの向上うんぬんよりも、選手一人ひとりの身体能力の大幅な底上げが野球部強化には不可欠との認識があったことは疑いがない。

 この超難関大学に入学してくる若者たちは体育よりも勉学に時間を割いて生活してきた者が多い。野球一筋、サッカー命、柔道一直線、みたいな連中がごろごろいる他校の運動部選手に比べて、どうしても体格や体力は見劣りがする。こうした絶対的な選手層の薄さがある中で、野球部に絞って言うと、球威のある球を投げて三振を奪ったり、木製バットで硬球を力強く弾き返したりできる投手や打者をつくるにはどうすべきか。空振りがとれるような速い球を投げたり、投手を威圧する鋭いスイングをしたりできるようになるにはどうしたらいいのか。

 徹底して効果的なウェイトトレーニングに打ち込み、選手一人ひとりがサイボーグ並みの頑強な身体をつくりあげることだ――。

 そんな確信がフィジカルの専門家としての野木にはある。そういう頑健な身体ができあがってこそ、バッターは強く振り、ピッチャーは力強い直球を投げることが可能になる。いわば体幹から体をつくり直して運動選手として再出発するのである。それができれば、他校にそうそうねじ伏せられることはない。たとえスキルは人並みであっても、パワーにあふれ、体力も持久力もある選手がそろえば得点力も守備力も向上し、試合での勝機も見えてこよう。いわゆる戦えるチームにするにはそれが近道と思う。

 添田の要望どおり、野木は監督就任が内定した早い段階からフィジカル特別コーチの肩書で練習に参加した。前季終了後は冬場のオフシーズン期間を選手たちから事実上召し上げている。ここまで連日、体幹から鍛える独自の筋力トレを全選手に課し、全員が数値目標をクリアできるまで繰り返し取り組ませ、来る日も来る日も体力面から鍛え直してきたつもりだった。合宿所の管理栄養士に頼み、たんぱく質中心のメニューを増やしてもらう食トレも取り入れた。その結果、伊ケ崎らクリーンアップを打つ選手たちはベンチプレスで百㌔近くを挙げられるようにもなった。高負荷のスクワットによって太ももが一回り大きくなり、ユニホームのサイズを変えた選手もいる。

 選手一人ひとりの力は確実に積み上げられたと思えた。来たる春のシーズンでは、なんらかの成果が現れるはず。少なくとも一方的にやられる状況は減り、その場面、その局面で、他校といっぱししのぎを削ることができるだけの根っこの戦力は整いつつある。そんな期待を持ち始めていた。

 それなのに――。

 想定外の事態だった。シーズンが始まれば一つや二つは勝てる、少なくとも連敗街道は止められる、との目算を抱いていたところに突如下された至上命令。

 東大野球部関係者が誰も見たことがないはるかな山の頂に立つには、どんなとてつもないエネルギーがいるのだろうか。野木には想像もつかない。

 しかし――。

 勝てなければ行き着く先には絶望的な入れ替え戦が待っている。

 六大学史上初のリーグ二部落ち。

 早慶や明治法政などがいない六大学の二部や三部など、たとえ名前こそ「東京六大学」であっても、それは東京六大学ではない。前身の旧制一高をルーツに日本の野球そのものの礎をつくった旧東京帝国大学野球部にとっては、草創期から脈々と続く現在のメンバー構成でなければリーグに加盟している意味などないのだ。野球部生え抜きでなく、言ってみれば外様に過ぎない野木にもそれだけはよくわかった。

 そんな悪夢はごめんだ。だから大胆な手は打った。一般学生をスカウトし、入部勧誘するという異例の、というより禁じ手に近い手段で。

 実際のところ、あの大きな男一人を入部させても、この脆弱なチームがたちどころに強くなるわけではない。リーグ戦の全試合を、進撃の巨人たった一人で投げ抜くことなどできないからだ。

 ただ、プロ野球の外国人選手を思わせる高身長と厚い胸板を持つ棚橋の並外れた体格は奇妙な説得力があった。

 ひとつ覚えのように「走れ、走れ」とうるさい走り込みや、やれ千回だ万回だ、などと血豆ができようがお構いなしに回数にこだわる素振り。倒れてもバケツの水を浴びせられて続く長時間ノック……。

 旧来の伝統的練習法を好み、むしろ美徳とする学生野球界にあって、大リーガーのようにまず自らの肉体を徹底的につくりあげることから始めるという、あの若者の流儀にはある種の共感を覚えた。

 ――棚橋に賭ける。

 翌日の部総会を思い浮かべ、野木は大きく息を吐いた。


11

 

 本郷キャンパス――。

 野木の要請で緊急の野球部幹部総会が開かれた。添田部長以下、副部長で総務・渉外担当の深草道夫、同じく副部長で設備・ロジ担当の樫村耕三、OB会長の柿澤基一郎、同副会長の緑山誠也ら、いつもの役員連中が顔をそろえた。白井も今回は同席させた。

 議題はあらかじめ伝えてある。開幕直前に追加で新人を入部させる。しかも、四年生を――。居並ぶ幹部たちの誰もが野木に懐疑的な目を向けていた。

「みなさま、たいへんお忙しい中、このたびは急なお呼び出しをいたしまして、申し訳ありません。きょうお集まりいただいたのは、議題にあるとおり新人選手の入部についてご審議いただくためです。どうかよろしくお願いいたします」

 野木が趣旨を切り出した。連盟の部員登録締め切りはあすだ。きょう出席した幹部連中も、柿澤を除き全員が有職者である。あすの夕方までにもう一度集まって意見集約などできないだろう。あのちょっと風変わりで大柄な若者を仲間に迎え入れる機会はたぶんこの場しかない。紛糾して結論が出なかったりしたらそれこそ一巻の終わりだ。野木は一度深呼吸した。

「添田野球部長からのみなさまへの過日の報告で、六大学リーグ内部に最近、とうてい看過できない動きがあることはあらましおわかりと存じます。となればリーグの中にあって、いまわが部は創部以来の深刻な危機に直面し、そして重大な岐路に立たされたと言っても過言ではありません。まさに存亡の危機である、あえてそう言わせていただきます。その一方で、わが旧東京帝国大学すなわち、わが東京大学は長い歴史に加えて今日の六大学リーグ興隆にかかわった大きな功績があることも言うまでもありません。帝大あってこそ今日の六大学の隆盛がある、とわれわれは自負しているわけです」

 出席者を見回し、間をおく。 

「しかし、しかしながら、リーグ戦でいくら負け続けても、どれだけ連敗を重ねようと、リーグのメンバーであることは保証される。このことに異論を述べる声も一部出てきていることもまた事実であります。そしてそれに対して伝統の重みだけを声高に叫んでみても、まことに残念なことですが、絶対的な説得力は乏しいというのも、これまた厳然たる事実です」

 これまで誰も口にしていない、いや、口になどできない真実だった。出席者の多くが苦虫をかみつぶし、下を向いたり目をつむったりしている。そっぽを向くように窓外に顔を向ける者もいた。

「では、どうするか? この前代未聞の緊急事態を打開するために、わが東大はなにをなすべきか」

 一息に言った。

「わが東大が優勝することです」

 ざわめきが起きかけた会議を制するように声の調子を強める。

「わが部は選手一人ひとりの敢闘精神や士気は極めて高いものがありますが、身体能力の高い部員をさまざまそろえる他校に比べて選手層は薄いと言わざるを得ません。こうした現状を打破し、試合に勝つ方策を考えますと、この際一人でも多くの部員を獲得し、互いに競わせることで全体の戦力底上げを図る。このことが、わが部には喫緊の課題として求められています」

 一般論を強調したうえでこう締めくくった。

「この当該学生ですが、身体的な特質から発揮されるであろう運動能力は相当程度に高いとみました。わが部が六大学リーグで悲願の初の優勝をなしとげるために十分な戦力になってくれるだろうという確信があると言いますか、その可能性が十分にある、そしてその力がいま必要である。そういう判断を私はしました。どうか、入部をご了承いただければ幸いです」

 総会の議長は添田が務める。

「では、みなさん、ご意見どうぞ」。出席者をぐるりと見回しながら生真面目な顔が発言を促した。

「これはいったい、どういうことです?」

口火を切ったのは深草だった。銀縁フレームの眼鏡ごしにのぞく細い目の端がつり上がっている。

「野木さん、いや失礼、野木監督。私は先日、スカウト活動などおやめなさいと申し上げたはずですが」

「ええ、副部長の指示を受けた後は中止しました」

「というと?」

「この学生を入部候補にリストアップしたのは副部長のご指示を受ける前の段階です。時系列で言いますと、この学生の情報をつかんだ時は、まだ副部長の中止指示はいただいておりません」

「詭弁を弄さないでください! そんなことをお聞きしてるんじゃない!」

 深草が点火した。

「確かに戦力補強の策は添田部長から一任されていたのでしょうが、具体的にこうしろああしろとは部長もおっしゃってはいない。それで野木監督もこんな前例のない大胆すぎることをなさったんだと思いますが、私は対外的に責任を持つ副部長という立場で、こういうなりふりかまわない真似はしないでくれ、いまある戦力で立派に戦ってくれ、という意味であの時申し上げたんですよ。それなのにこれでは、監督は私の指示を完全に無視したということになります。こんなのは規律を重んじる運動会所属の野球部にあって、とうてい容認できません。少なくとも私は絶対認めません!」

 レベル五のヒステリーというやつだろう。反論したところでさしたる意味はない。それじゃ、他の出席者のみなさん、ご意見聞かせてくれませんかの顔を見せておいて野木は口をつぐんだ。

「まあまあ、深草先生。ここはひとまず、みなさんの話をひととおり聞いてみようじゃありませんか、でないと議論も進みません」

 添田がいきりたつ深草を穏やかな顔でひとまず制し、目が合ったらしい緑山の発言を指名した。

「監督、その学生について知っていることを、もっと詳しく教えてくれませんかねえ。僕、さっきからかなり気になってます」

 頰のこけた浅黒い精悍な顔つきにいまだ青年の面影を残すこのOB会副会長は、小柄ながら俊足巧打の内野手として活躍。四年の春は東大では当時十数年ぶりとなる打撃ベストテンに入っている。経済学部を卒業後は家業の大手薬チェーン店を継ぎ、取締役副社長の要職にある。練習の手伝いや合宿時の手厚い差し入れなど面倒見がよく、温厚な人柄で人望があった。

 緑山は棚橋に関する改めての説明をうんうんという調子で頭を揺らせてメモをとった。

「なんと言っても、ブルペンで投げる球は大げさに言えば異次元のスピードでした。ガンがなかったので数字は出せませんが、真っすぐは見た目150を軽く超えていたと思われます。球を受けた伊ケ崎主将は恐るべき球威だとしみじみこぼしていました。わが部にはちょっと前例のない、力で押すタイプと思います」

「150」の言葉にちょっとしたどよめきが起きた。

「へえ、そうなんだ、キャプテンが受けたんだ。彼がそう言ってるなら、やっぱりなかなかなんでしょうね。そんなことなら僕はガン持ってるんで貸したのに。どうせテストするんなら、ここは正確な数字がほしかったですねえ。それこそ決め手になったのになあ」

 緑山は野木たちの詰めの甘さをなじってみせたが、先ほどから目尻は下がりっぱなしになっている。

「あ、それと、一つ指摘しておきたいんですけど、部活をしていなかった期間がもう三年くらいあるわけだ。体ができているのはいいとしても、ちゃんと走ったり、守ったり、持久力とかもあるんですかね。野球はプロレスじゃないからなあ。試合カンというやつも重要だと思いますよ」

 さすが目のつけどころがいい。ご指摘ごもっとも、と心の中で返すしかなかった。こちらだって当初から危惧してきたことだ。

「副会長のご指摘、まさに言い得て妙と思います。私も初対面の時から、『走塁とか守備とかは大丈夫なのか。五十㍍走はどのくらい?』とか、さんざん聞きました。返事は『毎日ランニングはしていた』『高校時代は六秒ちょっと』でした。これもあくまで自己申告です。私も、空白の三年間は全力疾走する機会がほぼなかったと思います」

 視界の端に入った深草がふっと鼻で嗤った気がした。

「なるほど、そうですか。でもまあ、自分の経験から言えば、試合カンなんてもんは、やってるうちにすぐ戻るけどね。それを言い出せばベンチ入りしていない選手はみんな試合カンがないことになっちゃう。ましてや身体能力が高ければ高いほど順応力があるわけだから、深刻に心配するようなことじゃないとは思いますがね。致命的な重大マターじゃないよね」

 鋭く問題提起する一方で、緑山はぬかりなく野木をフォローしてくれた。つくづくこの万年青年は好人物と知る。

 樫村副部長が手を挙げた。

「聞いてると、ちょっとよくわからないんだけど、もしほんとうに150も出せるピッチャーなんだったら、なんだって一年生からうちの門をたたかなかったの? ふつうに考えたら大活躍だったんじゃないの。いまごろはすでにドラフト候補になって世間に知られてたんじゃないの。なんかテレビのミステリードラマみたいで不思議な話だね。これって、いったいどんなオチがあるんだろうと思っちゃうけど」

 文学部で英文学の教授をしている痩身の樫村は細い両腕を組み、文系人間らしい感想を漏らした。同感とばかりに何人かが小難しい顔をつくった。ただ、その樫村にしても前がかりの姿勢は緑山に通ずるところがある。

「要はほんとうにうちの戦力になってくれるかどうかだよね。力があるのが間違いないんだったら全然いまからでも遅くはないんじゃないの。戦力ってやつは潤沢にこしたことはないじゃん。四年オーケイ、ノープロブレム、ウエルカムという気持ちはあるよ、オレはね」

 樫村のノリのいい発言に緑山が大きくうなずいた。

「いや、ま、その、現場で指揮を執る野木監督からじきじきに持ち込まれた話ではあるし、入部にあたっては、多様な推薦理由があるというのは私も認めたいと思いますが」

 ここで深草がまた一席ぶち始めた。

「そういう建前的なこととは別に、かりにもわが部をしょって立つ学生を入れるのに、たんに身体能力が優れていそうだと監督が思ったというだけではねえ」 

 銀縁眼鏡をはずし、レンズの汚れを確かめるしぐさをしたあとで口をとがらせた。

「私が言いたいのはこういうことです。たとえば灘高きっての強肩捕手、開成で俊足好打の一番バッター、神奈川大会四回戦であの横浜打線を八回までゼロに抑えたピッチャー、こんな風にうちの門をたたく新人たちには程度の差はあっても明確な身上書がついている。身上書を読んだだけでうなづけるわけです。でも、この子についてはなんて言うかな、なんかえたいが知れない、正体不明感というか、具体的なイメージが浮かんでこないんですよ、イメージというやつが」

 場の空気を読んだのか、言葉から怒の字が消えかかっているのは救いだが、これも痛い指摘だった。

 深草の言うとおりなのだ。野木自身も根掘り葉掘り、あれこれ聞かれればたちどころに返答に窮する。白状すればそんな程度の棚橋の履歴だった。

「それじゃあ、いまから急きょ部員をかき集めてシートバッティングとか試合形式に近い実技テストでもしたらどうでしょうか。いまごろは日も長いんだし」

 さっと挙手した緑山が建設的なアイデアを出した。

「あいにくだが、あすの午前中には新人名簿をプレスに流すんだ。これから試合形式の入部テストをやって、その結果についてまた部総会で討議だなんて、そんな悠長なことをやってる時間はないね」

 眼鏡のレンズをハンカチで拭きながら深草がそっけなく言った。首をすくめた緑山を無視するように続ける。

「それに、野木監督、やはり最大の問題は四年生ということですよ。ふつうはそんな年をくった新入部員なんていないわけだ。マスコミだってすぐ気づき、問い合わせてきますよ。連中にきちんと対応できるだけの素材をお持ちということなんでしょうね。うちは国立だ。公費で運営される部活という事業に冷やかし学生を入れたなんてことになったら問題になりかねませんよ」

「問い合わせには私が直接答えてもかまいません。広報担当の深草教授にはご迷惑をかけないようにしたいと思っています」

 深草は面倒な火の粉が自分に降りかかってくるのを嫌がっている。それにもまして部員たちが青春を賭けている舞台を「事業」などと表現する神経が気にくわない。野木は顔をそむけた。

「……野木君、つまりだな、こういうことか。君の言うところの異次元とやらのブルペンのスピードボールにもってきて目を見張る体格がある。それをかんがみれば野球部での活躍が約束されたも同然だと君は感じた、そうことかね」

 目をつむって腕を組み、さきほどからじっと議論を聞いていたOB会長の柿澤がここで初めて言葉を発した。

 九十歳を超す年齢だが、がっしりとした体躯はかくしゃくとしたものだ。旧制高校時代は柔道の猛者で鳴らした柿澤は、これ以上他人を投げ飛ばすのがつらくなり野球に転向した、というまことしやかなエピソードが学内に残っている。薄い頭に太い首の豪気な外見とは裏腹にもの言いは論理的である。

「ええ、ボディビルダーのようなあの体つきは負荷のきつい中身のあるトレーニングをしてきている証拠と思います」

 運動生理学の専門用語も交え、野木は身体の特徴や出会った時の印象を柿澤に強調した。

「そうか。のっぽの野木君より頭一つ以上大きいとなると、ずいぶんとタッパはあるな。事情は飲み込めたが……。あとはやはり実戦でどの程度か、だな。なにせ四年じゃ、もうあとがない」

 柿澤の言わんとすることはわかる。最上級生で入部させて活躍してくれれば問題はない。だが、だめだったら運動会全体の信用を失いかねない。登録後は四年間活動できるといっても、四年で卒業するなら話は別だ。パフォーマンスを発揮できる時間的猶予はあまりに少ない。東大野球部にとって有益か、どうか。すべてはあのゼットンと自称する若者の実力次第だ。野木にも確証はない。

「あの、すみません。よろしいでしょうか。マネジャーをしています四年白井です。本日は特別に出席させていただきました。自分が彼の球歴をわかる限り調べてみました」

 会議がしばし沈黙した後、白井が野木に一瞥をくれてから発言を求めた。野木は棚橋の経歴について可能な範囲で裏付け調査するよう白井に指示していた。

 白井マネジャーの調査によると、棚橋は都立白鷺台高校三年で夏の全国高校野球選手権西東京大会のベンチ入りメンバーとなっていた。その前の二年間は記録上、名前がWEB検索に引っかからず三年になって正選手となったことがわかる。その夏、白鷺台はシード校を破って勝ち上がり、ベスト十六まで進出していた。当時の新聞記事にも試合結果のところに「投―棚橋(白)」とあったという。

「ふふ、白鷺台じゃあねえ。白鷺台でエースと言っても目立った球歴とは言えんだろう。まあ、あそこが十六に残ったということ自体、驚きだけどね。あそこ、硬式野球部があったんだ。白井君さあ、まさかそれ、軟式の話じゃないだろうね」

 嫌味たっぷりに深草がまぜっ返した。

 白井がまた腰を上げた。

「自分ももっと調べる必要があると思い、高校まで行って野球部の関係者から聞き取ってきました。その話をざっと総合しますと、棚橋が一年と二年の時は部員不足のために同校は公式戦に出場していません。つまり、学校として大会に参加できた三年ですぐ背番号1をもらったと言った方がわかりやすいと思います。当時の顧問教諭で、いまは別の高校に勤務しておられる先生を訪ねたところ、こう話しておられました。『細身だったけどとにかく背が高く、他の部員に比べて段違いに素質があったな。だから上級生になれば当然エースだよ。ああ、成績もよかったよ。数学が得意とかで理系の連中よりできたんじゃないか。どっかの国立大に行きたいみたいなことを言ってたのは憶えているけど、私もすぐ転勤してしまい、そのあとのことはよく知らなかったけど、東大に受かったのか。すごいな』と喜んでおられました」

 深草は眼鏡をはずすとそっぽを向いた。

「私はおもしろいと思うんだがね。一野球ファンとして個人的にそのプロレスラーみたいな超人的なガタイとやらを見てみたいもんだ。どうだろう、情報を総合すると神宮で活躍する可能性を秘めた学生と言えそうじゃないのかな。入部にあたって支障がないのなら仲間になってもらうのが、いわゆる一つの合理的な選択であり判断であるという気がするんだけどね。なんたって、うちの選手はみんなそろって華奢だからなあ。体があるってのは、それだけでけっこうなアドバンテージじゃないかねえ」

 添田が少しぎくしゃくした場のムードを和ませるように軽口を飛ばした。

 部長が乗り気なのはありがたいが、議論の行く末はまだ見通せない。硬い表情を崩せないまま野木は居並ぶ顔を改めて見回した。

「要するにだな、野木君。監督であり、フィジカルの専門家でもある君は、その男の並外れた体躯と、ちょっと見せてもらった速球に思わずビビッときた。なんというか、これまで見てきた選手とはかなり違った肉体的要素というか、潜在能力というか、卓越した技量というやつを感じ取った。そんなもんだから野球選手としての総合力については、なおわからんものがあるが、監督の立場としてはそれでも使ってみたい。突き詰めて言うと、つまりは、そういうことだな」

 煮詰まりそうな雲行きにならない会議の進行を促すように柿澤がおもむろに念押しした。

「いえ、ちょっと違います」

「違う? どういうことだ」

 柿澤のいぶかしげな顔が野木に向いた。

「彼の目です。少年そのものといった涼しい目でしたが、それでいて強固な意志を感じさせました。あの目を見ているうちに、あの目に接しているうちに、この男になら頼れるかもしれない。この男にならチームを託せるかもしれない。そう思えてきたんです」

 本心だった。そう言いながら自分で少し恐ろしくなった。深草の言うとおり確たる実績は不明だ。ただの一般学生を過大評価してしまった可能性がないと言い切れるのか。切迫する事態に飲み込まれ、野木自身が自分に都合のいいストーリーをこしらえてしまったような部分はないのか。

 柿澤は黙っていたが、やがてぼそりと言った。

「OBを代表する者として反対する理由は思い浮かばん」

 深草は不機嫌な顔のままだったが異論は述べなかった。

 誰もが裁定を待っていた。一同に異議がないことを確認して野球部長が決を下した。

「白井君、お手間で申し訳ないが、いまからすぐ、新人名簿を君が書き直してくれ。この棚橋諒介君の名前を書き加えた新しいやつを印刷してすぐ副部長に渡してくれるか。あすが選手登録締め切りだ。滑り込みセーフというやつだ。うーん、今年は十五人のルーキーか。十五の数字に届くのは何年ぶりになるのかなあ」

「かしこまりました。あしたアサイチで届けます」

 ぺこりと頭を下げた学生服の白井は野木に視線を送ってから勢いよく立ち上がった。


12

 

 練習ユニホームに身を包んだ新人選手たちが整列し、一人ずつ挨拶する。

「東京の私立開成出身、長峰駿太です。先輩方、よろしくお願いいたしまーす」「筑波大駒場から来ました今野拓真です」「愛知の旭丘の……」。棚橋を除くルーキーたちは直立不動で勢いよく自己紹介を済ませた。

 上級生たちの目が一斉に一人の大男に向く。棚橋は頭二つ分、他の新人たちより背が高かった。いや、すべての部員より大きかった。

「あらかじめ、みんなに説明しておく」

 選手たちの顔を見回しながら野木が話し始めた。

「いまから紹介する棚橋は四年生だ。入部は総会の全員一致で決まったが、実質的に私が入れたようなものだ。したがって、使い物にならないようなら、私も彼も部を去ることになるだろう。棚橋諒介君だ。都立白鷺台。甲子園なし。ピッチャーをやってもらう」

「文学部四年の棚橋です。よろしくお願いします」

 帽子をとり、棚橋が神妙な面持ちでお辞儀をした。長い足が真新しいユニホームに映えてさまになった。

 部員たちは誰も無言だった。みんなエイリアンを見るような困惑した目でこの風変わりな新参者を見つめている。その時、言い忘れていたことをいま思い出した気分で野木が言い添えた。

「そうそう、彼は『ゼットン』と呼んでもらいたいそうだ。よくわからないが、怪獣の名前らしい」

 ダグアウト前に初めて笑いが起き、ざわつきが収まるのを待って伊ケ崎主将が訓示を始めた。

「今年は十五人の新人が門をたたいてくれた。四年生のルーキーまでいる。わが部はもう何シーズンも勝ち星がないが、いつも言ってるとおり、他校ととてつもない実力差なんてない。自分は入学したことからそう感じている。それなのに勝てないでいるのは、なにか見えない壁を越えられないでいるだけなんだと思う。今季は勝つ。そのために自分が先頭に立つ。今季こそ全部員でその壁を越え、勝ちにいき、勝ち点を取ろう! いまこそ赤門野球を見せるんだ、どうだ、いいか!」

「ウィーッス」

 全部員の気合がその場で重なった。初戦の慶応義塾大学戦はもう目の前だった。


「エースをさしおいて、初戦を新人すか?」

 開幕戦前夜――。伊ケ崎はしきりに首をひねった。戦略を伝えるため監督室に呼び出していた。一回戦に棚橋を投げさせて勝ちを取り、二戦目の先発は上遠野。勝てば勝ち点だから、目標達成。負けても三戦目にまた棚橋を投入して勝ち点を奪う。シンプルだが怪獣ゼットンという新戦力を最大限に活用したプランだった。

「そうだ。私は勝ちたいんだ」

「しかし、上遠野も勝ち星に飢えてます」

 連敗して同一カードの対戦が二試合で終わってしまうことの多い東大では、投手が勝ち星を伸ばすためには初戦の登板に意味がある。最初に勝っておけば、その後連勝してけりをつけることがない限り、一勝一敗となって三回戦に突入したり、引き分けたりして試合数が増えていく。つまり、展開次第でまた勝ち投手になる可能性が広がるからだ。

 上遠野は二年秋からレギュラーをつかみ、エース級の評価を得ているが、いまだ公式戦の勝ち星はなかった。好投しても打線の援護がまったくなかったり、終盤に自分が崩れたりと東大に多い負のパターンにはまり込んだままになっている。大手総合商社に就職が内定し、他の多くのナインと同じく野球は大学で打ち止めの選手だ。一勝に賭ける気持ちは人一倍だろう。伊ケ崎もそれをよく知っている。

「初戦で上遠野というわけにはいきませんか。負けても次はゼットンがいます」

「イカ、うちが一カードで二つ勝つためにはこれしかない。最初からゼットンという最強カードを切るしかないんだ。あいつが東大、いや帝国大学にさかのぼっても、史上最強のジョーカーだということは、私なんかよりむしろ、お前の方がよくわかってるはずだ。お前が監督でもこうするだろう。そんなことは上遠野自身もよく承知してるさ」

 伊ケ崎はそれ以上なにも言わなかった。

 入部テストに合格した形の棚橋はすぐに練習に合流した。運動選手としてはとてつもない長いブランクをはさんでの入部である。スタミナ面を考慮して球数など調整は本人に任せた。とはいっても、その球のキレはチーム内でずば抜けていた。控え捕手では受け損なってけがをする恐れがあり、ブルペンでも常に正捕手の伊ケ崎を座らせなければならなかった。打撃投手で登板した時は、直球にせよ変化球にせよ、あらかじめ球種を告げたうえで七分程度の球威で投げさせたが、チームメートのバットはくるくると空を切った。心配された走塁は、五十㍍走がこのサイズでありながら六秒三とまずまず。ダイヤモンド一周も足がもたつくような場面には出くわさなかった。体力も野球センスも見る限りでは保たれていたと判断できた。

 まだ実戦の経験こそないが、他校のエース級にひけをとらない本格派であることは一目瞭然だった。旧帝大からのはるかなる歴史を刻むこの大学に、初めて勝ちを計算できる投手が現れたと言っていい。であるならば、この超大型新人を前面に押し立てて進むしか道はない。

 ――勝ちが欲しい、なんとしても。

 湧きおこる野木の飢餓感にも似た感情に、この新エースが十分応えてくれるように感じられた。


13


 神宮球場――。マウンドの棚橋が慶応のグレーのユニホームを着た一番打者に向かって第一球を投げ込んだ。球場が小さくどよめいた。スコアボードの球速表示は153㌔。続く二球目。156㌔。こんどはちょっとしたどよめきとなった。打者は振り遅れてファウル、たちまち追い込まれた。三球目、これも真っすぐ。内角低めに155㌔が決まった。見逃し三振。棚橋は初回を三者三振で片づけてみせた。東大は六回、田中の二塁打を足がかりに2点を先取。棚橋の球威は回を重ねてもまったく衰えを見せず、終盤にも150㌔以上を連発。十四個の三振を奪い、被安打三で完封勝ち。久しく忘れていたリーグ戦の一勝。それも胸のすく快勝に東大ベンチも応援スタンドも沸きにわいた。


 試合後の夕刻。記念すべき監督初采配初白星だったが、勝利の余韻に浸っているわけにはいかない。あすの二回戦が極めて大事になる。対戦相手も、突如現れたゼットン投手という怪獣に驚き、急きょ分析を始めているはずだ。二回戦はローテ通りに上遠野を先発させる。神宮初勝利を狙う二番手エースは試合をつくってくれるだろうか。右横手からの変則的投法は右打者には十分通じることは過去の対戦履歴ではっきりしている。左がそろう慶応の主軸打者をいかに抑え込めるかが試合の流れを左右しそうだ。途中までリードしていれば、連投になってしまうが迷うことなく棚橋につないで逃げ切る。初戦に勝ってチームは意気が上がっている。あすは悲願の一勝に執念を燃やす上遠野の踏ん張りに期待したいところだ。

 そんな青写真を考えていた時、ノックがした。

 棚橋がひょっこり監督室に顔を出した。彼は合宿所の正選手用の空き部屋がないため、都内の自宅から通っている。とっくに帰宅したはずの勝利の立役者が舞い戻ってきた。

 ――まさか、けがの申告ではあるまいな。

 ゼットン投手をみこしにかつぎ、今季の東大は戦陣を開いた。その大将に肩や肘が痛いなどと言い出されたら根本的な戦略の変更を余儀なくされてしまう。野木は真意を探る目で招き入れた。

「お、ゼットン、きょうはほんとによく投げてくれた。まさにお前の日だったな。私にとっては歴史的な勝利だ。改めて礼を言うぞ」

「まあ、よかったです。このまま監督通算一勝にはさせませんから、どうかご安心を」

 ジョークとも本音ともつかぬせりふをさらりと言う。

「で、どうした。まさか肩とかどっかが痛い、なんて言いに来たんじゃないだろうな」

「監督、あしたも試合に出してください」

 ――そういうことか。

 故障の申告でなかったことで、するりと緊張がほどけた。こうなると監督の役割は難しくない。血気にはやる若者を笑顔でとりなすだけで済む。

「気持ちはうれしいが、あすは上遠野でいく。お前なら連投がきくだろうが、リーグ戦は始まったばかりだ。無理をする時期じゃない。次に備えていったん肩を休ませろ」

「投手じゃありません。打たせてください」

「えっ、なんだって? なに言ってる」

「僕を外野にして四番に入れてください」

「四番だと? つまりスタメンということか」

「そうです。うちは一、二番に好打者がいるし、いま四番の伊ケ崎は、長打力はたいしたことないけど打撃自体はしぶといし、右方向にもヒットが打てる。彼を三番に置き、ランナーをためてチャンスが広がったところで僕が長打を打って得点を稼ぎます」

 先発投手の場合、投げない日は次回登板に備えて休養したり軽めの練習であがったりしてコンディション調整に励む。その大事な調整日に野手で先発出場とは……。負けたら終わりの高校野球ならともかく、大学や社会人やプロ野球では聞いたことがない。そんな芸当ができるのは大リーグにいる大谷翔平選手くらいではなかろうか。

その大谷選手でも打者で出る際は守備負担のない指名打者が多い。それだからこそ、投手のままクリーンアップを打った時は「リアル二刀流」と称賛されている。体格と体力と技術力に優れるプロでもたった一人しか例がない至難なプレーなのだ。

 またまたこの男に難題を突きつけられた思いがした。

「でもゼットン、野手で外野のスタメンだったりしたら体力の消耗は激しいぞ。投げないといっても、フライが飛んでくるたびにフィールドいっぱい走り回るわけだし、外野からの返球だってある。タッチアップとか捕殺を狙う場面じゃ、それこそ全力で内野に返球しなけりゃならん。そんなことして、次また投げられるのか。休ませないで肩は大丈夫なのか」

「連投する方が肩には過酷です。打つために出るんなら、次の登板にたいして影響しません」

 その表情に変化はなかった。

「そもそも今季の東大は勝つしかないとおっしゃったのは、ほかならぬ監督ご自身です。現時点でこれが最も勝利の確率が高くなる戦略と思います。僕を寝かせておく手はありません」

 目の前の大男の顔を見る。黒い瞳がこちらに焦点を絞っている。てらいも気負いも感じられない。本気だ。

 開幕前、棚橋にはバントも含めて打撃練習をほとんどさせなかった。投手なんだからベストピッチをしてくれればそれでいいからだ。それに昨日の慶応戦で彼は四打数無安打だった。あの東大球場でのマシン打撃では快音を連発していたが実戦ではこんなもんか。ベンチから見ていてそう思ったものだ。プロでも元西武の松坂大輔とか元中日の川上憲伸とか、いい投手は打撃もいいものだが四番とはちと大風呂敷が過ぎないか。

「ああ、きょうですか? 全部走者なしで回ってきましたから、体力温存のためバットをまともに振らなかったんですよ。僕が点を取られない、ということが最重要な試合展開だったですからね」

 さも当然、といった顔で棚橋はしれっと言った。

 懸命に考えを巡らす。この偉丈夫な若者にはつくづく驚かされることが多い。ただ、この男は言ったとおりの結果は出している。

「よおし、わかった。やってみよう。でも、私に恥をかかすなよ。外野手が一人スタメンをはずれるんだからな」


「四番、ライト、棚橋君。白鷺台高校」

 二回戦。場内アナウンスが流れると球場にざわめきが起きた。昨日の完封勝利投手のよもやのスターティングメンバー再登場。東大の選手たちが守備位置に散った際には右翼の棚橋に向かって東大応援席から大歓声がわいた。この試合は棚橋の二打席連続本塁打などの活躍で東大が慶応に連勝。序盤にリードをもらったことで先発上遠野は遅い球を有効に使い打者の打ち気をはずす持ち味を発揮、夢にまで見た待望の初勝利をあげた。


 続く法政大戦。棚橋は打者の胸元を突く速球がさえ、六回に相手エラーであげた虎の子の1点を力感にあふれた快投で守りきった。二試合連続の完封勝ち。この試合の棚橋の最速は158㌔を計時した。その棚橋は二回戦で四番を務め、二長短打と気を吐いたが上遠野が序盤に打ち込まれ、7対1で敗れた。しかし、三回戦に棚橋が先発。相手の失策がらみで序盤に2点を先制し、棚橋が1失点に抑える好投で完投勝ち。二カード続けて勝ち点を挙げた。


 三カード目の対明治大。先発の棚橋は被安打七ながら要所を抑え、1失点でしのぎ切り完投勝ちした。打線の援護は伊ケ崎の大学通算三本目となる2点本塁打だった。接戦をものにした勢いで東大は二回戦も制する。ゼットンこと棚橋が四番でにらみを効かせ、一番田中の適時打などで終盤に一挙4点。上遠野、大嶋、今野ら四投手をつぎ込んだ総力戦で逃げ切った。


 圧巻は立教大一回戦だった。棚橋のキレキレの速球がうなりをあげ、慶応戦と同じく被安打三の2対0で完封勝ち。打たれた安打はすべて内野を抜けるゴロの単打で長打はなかった。打席に立った棚橋は例によって二死無走者の場面では平然と見逃し三振に倒れた。二回戦は上遠野が走者を背負いながらも終盤まで粘りの投球を披露したが同点で救援した大嶋が打ち込まれ負けた。しかし、三回戦では棚橋が序盤に3点を失いながらも自らの適時打もあって4対3で逆転勝ちした。


 春のリーグ戦は東大が八勝二敗の勝ち点四と、なんと首位に立った。勝ち点三で二位の早稲田大学が虎視眈々と追い上げている。今季は連盟理事会の決定により、リーグ創設九十年記念行事の一環で早慶戦がいつもの最終節ではなく全体の日程の中に組み込まれている。早稲田は慶応から勝ち点を奪えず、東大戦に逆転優勝の望みをかけている。ただし、これまでの勝敗と引き分け数の関係で、東大に一敗してしまうと三連戦で勝ち越して勝ち点で並んでも勝率で及ばない。早稲田の優勝は東大への連勝が条件になる。つまり、東大のいわゆる「マジック1」ということだ。

「春の椿事中の椿事か 東大首位 東京六大学野球」「投げて打つ 怪獣くん仁王立ち」「東大に突如ターミネーター! まさかのV目前」

 スポーツ新聞の仰々しい記事が東大をとりあげることが多くなった。棚橋にスポットを当てた記事がやはり目につく。大学でも分業制が確立された現代野球で、高校野球さながらの「エース兼四番」が、スポーツマスコミの琴線に触れているのだろう。マスコミも現金なものだ。大型連敗中の同情と批判の入り混じった容赦ない記事とは一転、ほめよたたえよと持ち上げてくれる。

 二つ目の勝ち点を得たあたりから、新聞やテレビ局などかなりの報道陣が東大球場に姿を見せるようになった。野木も慣れない記者対応に追われ始めている。白井ときたら、練習中でも隙あらば撮影しようと近づくカメラマンから棚橋をガードする芸能人マネジャーのような役回りを演じる状況になっていた。中でも大はしゃぎなのが、日々の耳目に敏感な民放テレビのワイドショーだ。リーグ最弱チームの意外すぎる躍進とあっては格好のネタなのだろう。

〈さて、きょうの特集は大学野球の東大の快進撃の話題です。みなさん、いま驚かれているかもしれませんね〉

 女性アナウンサーが思わせぶりに前振りをしたあと、〈番組のレギュラーコメンテーターで東京大学教授の深草さんにまさにうってつけの特集になりました。深草教授は知る人ぞ知る東大野球部OBです。私の横でさっきから私よりしゃべりたそうなので早速ご本人から解説していただきましょう〉とやって、他の出演者を笑わせた。

〈どうもどうも。いやあ、東大と言うよりも、東京六大学野球にこれだけの関心が集まるのは、ほんとうに久しぶりじゃないんですか。最近はアマチュア野球の話題といえば甲子園の高校野球ばっかりでしたからね。高校野球の人気に比べれば、大学野球はどちらかと言えば地味と言うか、なんだか影が薄い感じにずっとなってましたからねえ。そんなもんだから、われわれ関係者としては、まことに喜ばしい限りですよ。いやあ、それにしたって、慣れないもんですから新聞に載ってる順位表を見ると東大OBとしては高所恐怖症になってしまいますねえ。それで、いま話題の棚橋投手なんですが、なにせ四年生の新人だったですからねえ、ふつうはこんなおっさんのルーキーなんていないわけです。入部自体は可能でも、ほんとのところ残りの時間が圧倒的に少ない。そういうわけだから部としては大きな決断というか、入部させるかどうか、いや、入部させていいものかどうか、というところまでさかのぼって侃々諤々、いやはや部内でも議論百出になりましてね。そうなったところで最後はもう、言葉は悪いけど言ってみればギャンブルに近い判断だったと申し上げるしかないんですよねえ。いや、ほんとうの話ですよ。ええいこうなりゃ、丁だ半だ、みたいにね。でもここまでやってくれるとは、私どももちょっと想像はできなかったですねえ。ご存じのとおり彼の上背は相当なもんで、それはもうたいしたものなんですが私ら学者上がりからすれば、それがどうしたの? バスケじゃあるまいし、身長って野球とどっか関係あるの? てな具合に、ちょっと意地悪な考え方をするもんでしてね。いや、ほんとうに私自身が最初はそう思ったんですよ。それが、こうやってあの強い明治や法政の前で『あいや待たれい! ここを通ることはまかりならん』と、武蔵坊弁慶みたいにマウンドで大きく仁王立ちしてくれましたからね。いやあほんと、もう、うれしい限りですよ。隣にいるゲストのみなさん、笑ってますけど、こんなうれしいことってそうそうあるもんじゃありませんからねえ。史上初のリーグ優勝が狙えるという段階まで来たことで、私も広報担当としてこの番組のディレクターからも毎日追い回されて、もうたいへんなんですが、いい話なんですからまあよしとしておきましょう。あ、そういえば、棚橋投手の入部が決まる前に野球部内でこんなことがあったんですよ、いまだから言えることなんですがね、まあ、楽屋オチと言ってしまえばそれまでなんですが、テレビの前のみなさんは関心がおありでしょうから言ってしまいますがね……〉

 深草の雄弁はとどまるところを知らなかった。まるで自分が入部させたようなコメントをしている。棚橋の一連の快投で広報担当副部長としての深草の仕事は彼自身が言うとおりぐんと増えた。もとより自分が目立つことには異存はない男である。

「深草先生、なんだか生き生きとしてますね」

 リモコンを持ってテレビの脇に立っていた白井が小首をかしげながら笑いを誘い、野木も失笑をもらすしかなかった。


14

 

 最終決戦は間近だった。野木は監督室にこもった。あと一つ勝てば夢の中ででもかなわなかった優勝が現実となる。腹は決まっている。ここまで来たら投打にゼットン中心の戦略を押し通すしかない。ここは流れというやつに身を任せるのが常道だ。

 卓上電話がぽろんぽろんと鳴りだした。

〈野木監督はいらっしゃいますでしょうか。東日新聞のアキノと申します〉

 女性の声だった。若い感じがした。電話の相手は東日新聞社の社会部記者で秋野彩と名乗った。棚橋について話を聞きたいという。東大の快進撃が始まってからというもの、報道関係者は直接グラウンドにやって来る。事前にアポイントを求めてきた記者は初めてだった。

 翌日の練習前。秋野と向き合った野木は、渡された名刺と相手の顔を交互に眺めつつ質問を待った。細身で小顔の黒いショートヘア。くりっとした切れ長の目にオレンジ色のしゃれた眼鏡をしている。聡明そうな顔立ちだ。

「ちょっと気になることがありまして」

「気になる? どんなことでしょう」

 質問の意味を図りかね、相手の顔色をうかがう。

「『ゼットン』。彼はチームでそう呼ばれているんですよね。そのこと自体がすっごくおもしろいなって、私、思ったんです。ゼットンって、あのテレビ番組の『ウルトラマン』に出てくる怪獣のことですよね。だったら、早稲田でウルトラマンになれる、大暴れしている東大のゼットンの勢いを止められるヒーローは誰かなって考えたんです。甲子園組がずらりといる早稲田なら大勢いるだろうって思いました」

 それで? という顔で先を促す。早稲田のことなら早稲田に行って聞けばいい。

「ヒーロー候補は、いま首位打者の堀川選手あたりが筆頭かな。三番の島津、もちろん四番の高山選手にも期待できそう。そんなことを考えながら、早稲田大学が報道機関に提供しているここ数年の選手名簿の資料をひっくり返していたんです」

 メモ帳を目で追いながら秋野は続けた。

「そうしたら、名簿の隅に記載されていた最近十年以内の中途退部者氏名一覧に棚橋良太という名前を見つけたんです。下の名前はゼットン君とはちょっと違いますけど身長が一九三㌢になっていて、六大学連盟が公表しているゼットン君とまったく同じなんです。この人、入部してすぐに部をやめているようなんですけど、まさかゼットン君のことじゃないですよね。棚橋という名字はそんなに多くない気がするし、名前もリョウタとリョウスケだし。退部者名には高校名や入部年度が書かれてなくて」

 秋野が野木に真っすぐ顔を向けた。オレンジの眼鏡の奥でつぶらな瞳が光った。

「六大学の野球部員だった人は、六大学内のよその野球部に入り直しても選手として試合に出られないそうですね。だからちょっと気になって。そこらへんのことを大学に聞いたんですが個人情報だから一切お教えできないと言われちゃいまして」

 虚を突かれ、息が詰まった。

 野木の全身を這う動脈がどくんどくんと拍動を始めた。顔色が変わったことを気どられないよう両手であごのあたりを押さえ、質問を吟味するふりをする。

 早大野球部の元選手と同一人物? そんなばかなことがあるはずがない。いや、あってはならないのだ。

 秋野記者が言うように一度でも東京六大学で野球部に在籍した過去を持つ者は、リーグ内の他校の野球部選手として再び試合に出ることはできない。わかりやすく言えば、法政で活躍中の一年生エースが翌年の慶応の入試に合格し、法政を中退して慶応の野球部に入っても神宮のマウンドには立てないということだ。一見不合理な規定のように見えるが、プロに注目されるような有望選手をリーグ内の大学同士で引き抜き合戦をしないようにするための取り決めだ。

 推薦入学制度がなく、少なくとも引き抜く側にはなれない東大にはこの規定ほぼ無意味だが、取り決め自体は東大にも原則適用される。

 野木は出会った時の記憶をさっとたどった。

〈いままでなにしてた?〉

 問いかけに「アメリカに行ったり、筋トレとか……」などと言っていた気がするが、それ以上は具体的に説明しなかった。野木自身、目の前の体格に見とれてしまったところもあり、突っ込んでは聞かなかった。ただ、他校にいたならそう言うはずだ。規定だってきっと知っている。試合に出られないのがわかっていて、「六大学で僕の球に当てることができるのは一人か二人」などと見得を切って入部を承諾するはずはなかろう。それに、すぐ退部したといっても、ちょっとでも早稲田にいたなら、これまでの試合を見た早大の選手たちが気づき、指摘してくるはずだ。そもそも発音は似ていても下の名前が違う。

 だが、もし、棚橋がなんらかの事実関係を偽っていたら……。

 東大合格は間違いないとすると、一浪という本人の説明が実は他校への入学歴だったというのは、べつに説明と矛盾するわけではない。仮面浪人の例もある。長い期間本格的に筋力トレーニングに打ち込めば体脂肪の関係で顔立ちも変わるし、ボディビルダーを見ればわかるように体型も一変する。大柄な選手がそろう昨今とはいえ一九三㌢はプロ野球の日本人選手にも少ない。そんな長身ぶりまでぴたり一致しているのをどう考えればいいのか。下の名前は違うとはいうものの、秋野記者の指摘には一定の合理性があった。

 秋野がすぐさま首を縦に振ってくれそうな返答が浮かんでこなかった。

 万が一にも同じ人物なら、困ったことではすまない。もうすでに試合に出ているのだ。連盟規定をないがしろにしたとなれば野球部どころか大学も責任を問われる。彼は練習でも試合でも、いつもそこはかとない笑みをたたえ、黙々と仕事を果たし、自宅に帰っていく。たとえるなら必要な時にスマホの画面に呼び出せるインストールされたアプリのような存在だ。他の部員や監督との接触が少ない分、人物像はミステリアスと言えなくもない。よくよく考えてみると、野木もその私的な部分に関してはなに一つといっていいほど知らないのが現実だった。

 喉にへばりついていた唾液を飲み込む。

「うーん……、その名簿を見たわけではないのでどう言っていいのかわからないけど……。実はうちに来るまでのことは私もよくは知らないんですよ。でも下の名前が違うわけでしょう。それならまあ、常識で考えて同一人物ということではないんじゃないかな。上の名前と身長が同じなのは、まあ、その、たんなる偶然なんだと思いますよ。答えになってないかもしれませんが」

 冷静に答えたつもりが声はうわずった。秋野は硬い表情を変えなかった。

「ただ、あの、なにかわかったら、あとでお教えしてもいいですよ。東日さんなんていう大新聞の記者さんがこうやって私のようなまったく実績のない監督のところにまで話を聞きに来てくれるのもゼットンの活躍のおかげですからね。このことでわかったことがあれば、いただいた名刺の連絡先に電話かメールでもしましょう」

「そうですか。それなら私、もう少し別の角度から取材してみますね。私のよけいな思い過ごしだったとしたらごめんなさい。あ、それから、『東大のゼットン君vs早稲田のウルトラマンたち』という話題ものの記事は書きたいなと考えてます」

 メモ帳をバッグをしまうと秋野は取材の礼を言って立ち上がった。


 翌日の昼休み。大学本部の学務部で野木は男性職員とテーブルをはさんだ。棚橋の経歴を確認できるかもしれないと思って足を運んでみたのだ。中藤という手も考えたがやめた。結局はルール違反を犯させることになってしまうからだ。学務部側が野球部監督という立場を自主的におもんぱかってくれて便宜を図ってもらえるかもしれないと都合良く考えたこともある。

「監督さん、ここまで来てもらった方に向かってこんなことを言うのは申し訳ないんですが、いかに本学の野球部監督の頼みであっても、一学生の個人情報については、本人と、未成年だったらその保護者以外の方には書類をお見せしたり、中身をお教えすることはできません。要するに第三者は知ることができないということです。委任状がある場合でも確認のための審査があります。ですから、無理ということですね。そういう決まりになっています。どうしようもありません。ご理解ください」

 濃紺の地味なネクタイを白いワイシャツの首元できちっと結んでいる三十歳前とおぼしき職員はとりつく島もなかった。言葉使いは丁重でも有無を言わせぬ響きがある。詳しい事情は説明できないが野球部のみならず大学全体にかかわる話であり、緊急事態であり、文書閲覧でなく口頭でこっそり教えてもらう形でもかまわないと粘ってみたが、答えは同じだった。野木は手間をわびて引き下がるしかなかった。


 大一番を控え、緊張感が目に見えて高まってきた。いよいよ、ついに明後日、早稲田と雌雄を決する時がくる。とにもかくにも、数々の名勝負を生んだ伝統のリーグ戦の場で優勝を争うのだ。野木にとって、これまでの人生で想像だにしていなかった舞台回しではある。ただ、現実にこんな高みのステージに立ってしまえば、当初の入れ替え戦や二部落ちの恐怖からの脱出、などといった気持ちは少しずつだが薄れていた。

 誰も手にすることができなかった東大野球部のリーグ優勝――。

 これまで夢想さえできなかった無上の宝物を、この手で、この自分の手で発掘する機会がとうとうやってきたのだ。幼少時に読んだ小説の「宝島」。夜更かしを母親に怒られながら読み切った印象深い傑作。あの時の読後感の興奮に匹敵する思いにかられながら野木はカレンダーの試合日の日付を赤い丸で囲んだ。

 選手とて内心は同じと見えた。

 いかつい風貌から心臓に毛が生えていると思われている伊ケ崎もここ数日、とんと口数が少ない。対戦相手の攻略法を分析しているのか、練習以外は外出もせず自室に閉じこもったままだ。

 悲願の初勝利で一皮むけたはずの上遠野だってそうだ。「なあ、優勝ってさあ、どんな感じなのかなあ」と、ぽつっと独り言を言っては、遠い空でも見るようなふわっとした表情を浮かべていた。

 打棒好調で早大戦しだいでは東大から久々に打撃ベストテンに入りそうな田中にいたっては、練習用バットをグラウンドに置き忘れたあげく、「おい、俺のバット、誰か持ってったか? 困るんだよな。ひと言、俺に言ってからにしろよ」などと大声を出す始末だった。

 こんな有り様だからチームで監督に次ぐ序列のマネジャーの出番が増える。

「まあまあ、みなさん、そうそわそわ、かりかり、しないで。泣いても笑ってもリーグ戦はもうすぐ終わっちゃいますから。まあ、どうなっても結果はなるようにしかなりません。ま、みなさんのせいで今シーズンはやたら長い。楽しいことは長すぎるくらいがちょうどいいじゃないですか。長いシーズンってやつを楽しみましょ」

 白井はことあるごとに誰も笑わない軽口を口にし、失われそうになる一体感を懸命に維持しなければならなかった。

 野木は監督室に引きこもった。

 試合まで一日余裕がある。あす、棚橋を呼び出し、過去を詳しく聞くべきか。問い詰めて取り越し苦労だったなら笑い話で済む。

 だが、経歴が虚偽だったりして秋野記者の懸念が当たっていた場合は大ごとだ。もちろん、本人の試合出場は認められないが、早大戦も不戦敗になるかもしれない。その後、連盟の緊急理事会で正式な処分ということになるだろう。百年に一度、というのは大げさかもしれないが、六大学野球で東大優勝のチャンスというのはこの先も多くはないだろう。なにせ最下位でなかったらニュースになるのが、このとてつもなく長い部史を誇る旧東京帝国大学野球部の来し方だったのだ。

 それがいまや、選手や関係者のみならず、一般学生や卒業生にとっても見果てぬ夢だった優勝がまさに手の届く位置にある。高まる世間の関心に応えるため、早慶戦以外は放映予定がなかった公共放送が急きょ実況中継することになった。けさほどには、東大出身の現内閣の閣僚有志から「祈優勝 突き抜けてみせよ 五月の空のごとく」としたためられた激励文も舞い込んだ。病気のために一年生で退部を余儀なくされたが名誉OBとなっている現職の経済産業大臣は、国会会期中の空き時間に球場に足を運ぶ意向を伝えてきた。やはり部のOBで、現役時代は捕手で活躍した前政権の元官房長官からはこのところ頻繁に豪華な差し入れが届いている。

 腕組みのまま力なく息を吐く。ここでこんな情けない息をつくのは開幕前の戦力分析の時以来という気がする。ところが、いざ開幕してみると突如として参戦した怪獣投手がゴジラ以上に大暴れ。チームは勝ち続け、そんなため息とはすっかりご無沙汰になっていたのだが。

 最悪の場合を想像してみる。虚偽申告の事実を知ったなら、ふつうはただちに大学と連盟に報告すべきだろう。

 しかし――。

 一般の野球ファンは例の連盟規定など知っているだろうか。スポーツ推薦がない東大が有力選手を引き抜けるはずはないから、なぜ問題なのかぴんとこないだろう。早大を中退して東大に入り直して部活にいそしむのがなぜ悪い、と考えるのがふつうだ。

 とはいえ、現実に処分が下されたとしたらどうか。早稲田戦が不戦敗となって消え、優勝が文字通りの夢に終わってしまったとしたら……。

 期待が高ければ高いほど失望も大きい。快進撃に快哉を送っていた世間も手のひらを返すようにバッシングに出るかもしれない。

 一方でこうも思う。自分は教員ではあるが、研究者であって教育者だとは思っていない。いくら学生野球が教育の一環と言ったって、契約で監督をしている者がそこまで気を遣う必要があるのか。こんなことは聞き流しておいていい話ではないのか。

いやいや、監督という現場の責任者は、そういうあいまいで無責任な姿勢ではいけないのか。

 ――わからない。

 棚橋の顔を思い浮かべる。仮に、早大中退選手と同一人物とするなら東大で最上級生になってから入部を決断する動機はなんなのか。

 東大のレベルだったら、自分が野球をしたくなった時にいつなんどきチームに加わってもすぐにレギュラーやエースになれる。そう確信していたので大学生活をゆったりと楽しみ、満喫していた、そうこうしてるうちに時間がたってしまったが、そんなところに誘いがきたからやってみるかとばかりに誘いにのった……。 

 理屈はとおる。しかし、あの球威十分の快速球ならどこの大学でも通用する。東大だからうんぬんという話とは思えなかった。理由としては弱い。

 では、他校野球部在籍歴のほとぼりがさめるのを狙って四年まで待ったか。可能性としてはこちらの方がより大きく思える。ちゃんと体を鍛えていれば時間以外に失うものはあまりないだろう。いやな想像ではあるが、現実はそのとおりに進んでいるようにも映る。

 それとも、なにかもっと卑近で、げびた話なのか。当初は入部するような気持ちは薄かったが誘われたことを渡りに舟として入部し、目前の就職活動に備えていわゆる体育会出身の箔付けを施したかったか。一般に就職に不利とされる文学部でもある。

 いや、待て。出会ったころのやりとりを思い出す。

〈僕は東大史上、最強のエースになりたい〉〈だから呼び方はゼットンということで〉

 あらゆることがさも約束された出来事であるかのように告げる冷静な語り口。負の要素とはおよそ縁遠いような涼しい目元。その瞳にけれん味は感じられなかった。

 ――よし。

 早稲田戦はこのまま出場させる。そのうえで、もしあとで、なにか問題が発覚したなら自分が全責任を負う。

 野木は連絡するつもりで表示していたスマホ画面の棚橋の電話番号を消した。


15


 早稲田大学対東京大学戦――。神宮球場に初夏のさわさわっとした涼風が吹いていた。観客数三万一千人。このカードとしては異例の大入りとなった。「V1までM1」と大書された横断幕とチームカラーのライトブルーの無数の小旗が東大応援席にはためている。ネット裏にはOB連中を引き連れた柿澤や緑山らが東大のTのアルファベットが入った野球帽をかぶって陣取った。テレビ司会者らしき人物と並んで座る深草の姿もあった。中継が始まったスタンド上段のテレビ特設放送席では冷静さが売りのはずの公共放送の男性アナウンサーが興奮を含んだ口調で実況を始めた。

〈プロ野球が職業野球として後に国民的な人気を博すまで、東京六大学野球リーグは大衆の娯楽の中心であったと言われています。なかでも早慶戦は勝ち負けが子どもたちの間にまで話題になるほど関心を集めたとされています。そんな、わが国のスポーツ界を引っ張ってきた六大学の悠久の歴史の中でこれまで唯一、優勝経験のない東大がきょう歴史に名を刻むかもしれません。この早稲田大学対東京大学の三連戦で、東大が一つ勝てば東京大学野球部も六大学リーグも未来に向け新たな一歩を踏み出すことになります。球場全体が、これから起こるかもしれない歴史的な一瞬を見届けようという緊張感と期待感に包まれている気がします。きょうは内外野ともほぼぎっしりと埋まり、大相撲で言えば満員御礼に近い状態です。私ごとでたいへん恐縮ですが、高校で硬式野球を経験している私までなんとも言えずわくわくしてきました。本日のゲスト解説は元学生日本代表監督で社会人の山門石油監督の伊東数也さんにお願いしました。実況はわたくし、松林でお送りします。伊東さん、きょうはよろしくお願いします〉

 アナウンサーは解説者と軽く会釈を交わすと試合開始まであと二十分と告げた。テレビ画面は早大と東大のこれまでの試合の内容を流し始めた。


 ベンチで野木は東日新聞を広げた。ふだんはスポーツ関連の記事にはお目にかかることが少ない社会面に大きな見出しが踊っている。

『怪獣退治か歴史的快挙か 神宮でウルトラ劇場 優勝かけ早東きょう初戦』

 ――東京六大学野球に突如出現した怪獣投手を擁して創部初の優勝に一丸の東大に対し、早稲田のウルトラマンたちが怪獣退治に手ぐすねひいている――

 そんな書き出しで、この日の大一番の行方を分析するユニークな視点の記事が載っていた。記事の末尾には(秋野彩)と署名があった。

 こぼれた笑みとともに新聞を脇に置き、対戦相手のメンバー表に目を通す。選手名と出身校を照らし合わせてみると、桐蔭学園、帝京、天理、報徳学園、日大三、智弁学歌山、それに早稲田実業……。きら星のごとく甲子園常連校が並ぶ。

 早稲田にスポーツ推薦入試がない時代、教育学部に体育学専修、通称タイセンという名の事実上の体育学部があった。学科試験の他に体育実技を入試科目に取り入れることによって高校運動部で活躍した受験生が入学しやすい環境をつくってはいたが、試験は試験である。早大出身の数多のプロ野球選手たちも学科試験の得点力を上げるため高校野球引退後は懸命に勉強したと聞く。しかし、いまはスポーツ推薦で有力選手をごっそりさらって入学させている印象がある。

 野木は、甲子園での活躍で有名になった少数の球児と無名でも一般入学後にレギュラーをめざしてしのぎを削る多数の選手たちが入り交じるかつての早大野球部が好きだった。いかにも進取の精神を気取るこの大学らしい自由闊達さと奔放さがあるように感じたからだ。ひるがえって、完成された選手を意のままに推薦で獲得するような現在の早稲田に共感はない。

 交換したメンバー表をダグアウトの壁にピンで留める。バッテリーを呼び、簡単な打ち合わせに入った。対戦相手の全員が危険な存在ということは確認するまでもなかった。打線は切れ目がなく、投手目線で見て多少とも気を抜けるような打者は一人もいない。相手先発の石岡は棚橋や伊ケ崎だって打ちあぐむであろう、プロ注目の速球派である。今季の三勝は完投勝ちを含めてすべて七回以上投げており、安定感に加えてスタミナも十分だ。打ち崩すのは容易ではない。

 秋野記者の言葉が脳裏によみがえる。

〈誰がウルトラマンになれるかなあって思って……〉

「おいおい、こりゃみんなウルトラマンじゃないか。ウルトラ九兄弟か? ウルトラマンのカラータイマーが鳴るどころか、あっという間にこっちがやられて、きょうの番組は、はい、おしまい、かもな」

 野木のジョークに伊ケ崎は咳き込みながら大笑いし、つられて棚橋も笑みをこぼした。

 そうは言っても、こちらはゼットン投手の力投にすべてがかかっている。相手打線の丹念な分析は欠かせない。

 メンバー表の選手名を一つひとつ示し、細かく指示を出す。

「まず、一番の倉吉はランナーに出したくないな。足が速いから盗塁警戒ということもあるが二番の堀川が当たっているからな。堀川という選手は小技もうまい。セーフティーバントや流し打ちでうまくつながれるとクリーンアップですぐに大ピンチだ。三番の島津もこれまでは大きいのを狙って振り回すだけの粗いバッターだった気がするが、最近はこつこつ当てて率を稼ぐいやらしいバッティングをしている。追い込まれてもしぶとく進塁打にしたりして粘っこい。投手には嫌な打者になった」

 伊ケ崎と棚橋が同時にうなずいた。

 早稲田の好打者、堀川は今季、リーグ記録を更新する勢いで安打を放っている。好調さを考えると一塁に走者がいても定石通りに送りバントはしてこない可能性が高く、彼をのせてしまうと1アウトすら計算できずやっかいだ。

「いいか、うちが勝つには先行逃げ切りしかない」

 戦略を具体的に伝える。

「先取点を取られないようピッチャーが粘り、とにかく一人ひとりのアウトを積み重ねてイニングを重ねていく。その間に先取点を狙うんだ。前季の早稲田戦は、二試合とも過去のうちの戦い方と同じように序盤で5失点とか7失点とか早々にビッグイニングをつくられて簡単に勝たせている。今シーズン、うちは生まれ変わったんだ。もうかつての東大じゃない。大量失点を回避しながら中盤以降まで互角の戦いに持ち込めば勝負にはなる」

 思い描く試合の流れを俯瞰したシナリオを野木は説明していった。

「いくら今シーズン、うちが勝ち進んでいるからといって、連中は東大には一定のイメージを持っているだろう。東大にしては珍しく本格派投手が出てきたけど、決して打てないピッチャーじゃない、東大以外にはふつうにいるピッチャーであって、そういう投手をうちは打ち崩してきている。まあ、世間がなんと言おうと、しょせん東大だ、最後は自分たちが勝つに決まってる、とかな。そんな相手に、おや、こんなはずじゃない、なんか変だぞ、なんでこうなるんだ、という気持ちにさせるんだ。相手に点をやらずに、回を追うごとに早稲田を焦らせるように持っていこう。リードされて終盤にもつれこめば、いかな強力打線であっても打者は焦り始める。それが野球だ。先取点を取れれば理想的だが、ゼロゼロのままでもかまわない。フィットネスをかじる私が言うのもなんだが、野球ってのは究極のメンタルスポーツと思う。相手に勝機を与えないでじらしながらこっちが勝機を探るんだ。納豆みたいに粘ろう、けさ食った納豆みたいに」

 伊ケ崎の喉が動き、ごくんと唾を飲み込むのがわかった。ここまで話してから最も重要な試合のポイントをあげた。

「それで、最後はやっぱりこいつだな。こいつをどうするかだ」

 人差し指をメンバー表の四番打者の名前に押し当てる。

 高山良太――。

 秋のプロ野球ドラフト会議の目玉とされる右投げ左打ちの大型内野手。高校時代は無名だったが早稲田に進んで時間がたってから素質が開花した。三年春のベンチ入りと遅咲きだったが、いきなりの二打席連続弾を含め二シーズンで六本塁打を放ち、にわかに注目された。ヒットゾーンが広く、右に左にと長短打を連発した昨秋は首位打者に輝いている。野球センスと身体能力の高さから早大OBの阪神タイガース鳥谷敬選手の再来と呼ばれ始めている。前節の慶応戦でも本塁打を放つなど好調をキープしていた。

「高山に対してはそうだなあ、必要とあらば……」

 まともに勝負を挑める相手ではなかった。通算アベレージの四割三分もすごいが、こういう短期決戦では好調のピークとも重なってすべての打席でタイムリーを打たれる危険性だってある。

「とにかく、このバッターに対しては、捕手はくれぐれも細心のリードが必要ということだ。流れをよく見て、単調になって勝負を急がないようにしたい。ゼットンの持ち球は全部使って攻めていこう」

 すでにリーグも最終盤。多くの試合が消化され、見えている要素が多い。言わずもがなの感はしたが、念のために口にした。

「それにだ、リーグ戦が始まってすぐ対戦した慶応や明治の打者たちは、ゼットンの東大投手と思えない快速球に面食らったろうが、早稲田はじっくり対応する時間があったはずだ。おそらくDVDに映しこんで丸裸にされてる。言ったように真っすぐで一本調子に押すのはかなり危険だ。なんせいまどきの投球マシンときたら、160㌔に設定できるやつだってある。ゼットンの直球もイチ、ニのサンで振ってこられるとカツンと当てられるかもしれん」

「うっす」

 坊主頭が威勢よく答え、棚橋も口元を引き締めた。

 ――ん? 

 浮かんだものがあった。棚橋の顔にほんの一瞬。クールがトレードマークの男が試合前に、いや試合でなくとも、これまでそんな感情のほとばしりのようなものをのぞかせたことはなかった。

 これから戦うことへの緊張感か、それとも強敵への畏怖か、はたまた彼なりのファイティングスピリットの発露か。どれも違う。監督室で味わったいやな感覚がまたもずんと胸に覆いかぶさってきた。

 良心の呵責? 出場資格がないことを隠し続けていることに対する……。 

 それだけはあってはならない。野木は懸命に考えを打ち消した。


「ガンバレ、ガンバレ、トー、オー、ダ、イー」

 応援スタンドのエール交換の歓声でわれに返った。反対側のベンチに目をやると恰幅のよいベテラン監督が報道陣に囲まれていた。その人は九年間にわたって母校早大の監督を務めた後、社会人チームの総監督として手腕をふるい、昨年また大学野球に復帰した。うんうん、とうなずきながら質問をさばく様は遠目にも堂に入ったものだ。威風堂々としたその態度物腰は同じ指揮官でも実績のまるでない野木を威圧しているようにさえ見える。その名将はしかし、けさのスポーツ新聞にこうコメントしていた。

〈よもやの東大との優勝争い? いやいや、うちはうちの野球をやるだけですよ。べつに相手が東大さんだからといってとくに意識はしていません。うちが優勝するためなら、相手が慶応だろうが明治だろうが法政であろうが、目の前にいる相手を倒す。ただそれだけのことです。みなさん、東大、東大とおっしゃいますが、みなさんが思っているほど、とりたてて意識するようなことじゃありません〉

 行間には優勝を左右する試合を、こともあろうに東大としなければならないという、いかにも不本意な心情がにじみ出ていた。

 ――勝ちたい。

 開幕前に抱いた痛烈な思いが胸によみがえった。


 一回。東大の攻撃は三者凡退。その裏の早大の攻撃。マウンドに棚橋が小走りで向かう。肩まで伸ばした茶髪が初夏の風にそよいだ。「頼むぞおー、ゼットーン」「菊川怜も来てるぞー」。東大応援席の声援が大きくなった。『ゼットン』をデザイン文字にしたボードを手にした観客も目立った。棚橋がふりかぶり、長い左足をあげて第一球を投げ込んだ。球場の球速表示は156㌔。うなる速球に「ウオー」という歓声が東大側からわき、早大スタンドからはどよめきが起きた。

 棚橋も先頭の倉吉を三振、堀川と島津を凡打にうち取った。二回、東大は石岡の投球に翻弄され三者三振。その裏、早大は高山が中前打したが後が続かない。

三回。東大は七番の井上が四球を選ぶが、送りバント失敗。下位にすわる棚橋も凡フライに終わり、得点できず。この回の裏、棚橋は早大に連打を浴びたが後続を絶ち、得点は与えなかった。四回も五回も動きはなかった。

 五回を終了して両校ともゼロ行進のままだった。安打は東大が田中の内野安打一本のみ。早大は棚橋から五安打した。

 アナウンサーが解説者に問いかけた。

〈両チームとも予想通りというか、ピッチャーのできがよく、互いに譲りません。伊東さん、これは投手戦といってよろしいんでしょうね〉

〈ええ、まあ、そうでしょうね。ただ、見たところ球が走っている早稲田の石岡君に比べ、きょうの東大の棚橋君はいつもより変化球が多いのが気になりますね。球も全体的に高い感じがします。いい時の彼の真っすぐは低めにびしっと決まっていた気がするんですが、きょうはそれがあまり見られませんね〉


 グラウンド整備の合間に野木は伊ケ崎を呼び寄せた。

「イカ、ゼットンの調子はどうだ?」

「うす、真っすぐがちょっと……」

 伊ケ崎が汗まみれのおでこに手をやりながら言いよどんだ。

「直球がきれていないということか」

「そんな感じっす。球速はそんなに変わんないと思うんすけど、開幕のころより球威は落ちてる」

「そうか、これまで先発投手兼四番打者でフル出場だからな。いかにあいつでも疲れはピークのはずだ。スライダー、チェンジアップにカーブやツーシームも持ち球なんだから緩急をもっと使おう。あいつをリリーフできるピッチャーはいない。ここからはかわす投球も増やしてゼットンのスタミナを温存させるんだ。それにもうここまできたら、どうにかして援護もほしいなあ。先取点を取ったらあいつも気合いの入り方が違ってくるだろう」

 二度三度うなずいた伊ケ崎は、タオルでごしごしと黒い顔を拭いた。


 両校スコアレスのまま進んだ八回表、東大に大きなチャンスが訪れた。一死後、大津が放った平凡なセンターフライを中堅手がグラブに当てながら後ろにそらし、打球がフェンス近くまで転がる間に大津は俊足を飛ばして三塁に滑り込んだ。

 どうやら太陽光が目に入ったらしい。中堅手はすぐにタイムをとり、ベンチからサングラスをかけて戻った。早大には不運だったが、打てない東大にはビッグな贈り物になった。試合終盤なので早大からすれば相手には1点も与えられない。内外野とも定位置より前で守る前進シフトをしいた。


 この場面、相手のスクイズ警戒は明らかだったが、野木はあえて初球にスクイズのサインを出した。えてしてこういう場面では、内野手は深読みしてバントの構えから投球と同時にヒッティングに切り替えるバスターを警戒する。バントと見せかけた強攻策もあると考えていたりした場合、打球へのチャージがワンテンポ遅れ、バント処理にもたつくことがある。それが狙いだった。ボール球で大きくはずされたりすると一巻の終わりだが、そうなったらそうなったまで。腹をくくった。


〈ゴロゴー〉。野木はサインを出した。ゴロゴーとは、打者がバットに当てて転がると判断した瞬間に三塁走者がスタートを切る一種のギャンブルプレーである。サインを確認した後でベンチを出た代打の上遠野が内角胸元への難しい球をなんとかバットに当て、三塁線に転がした。代打を出したことで強攻もあると踏んでいたらしい三塁手の打球処理が一瞬遅れ、ホームに高投した。

 セーフ! 捕手のタッチをかいくぐってベースに手で触れた大津が小躍りしてベンチに戻った。東大応援席に歓声が渦巻き、小旗が打ち振られた。

 1対0。棚橋は八回裏の早大の攻撃をこの回に三安打されながらもなんとかしのぎリードを守った。九回の東大の攻撃は棚橋からだったが、打つ気配は見せず三振。後続も倒れた。

〈さあ、いよいよ九回。早稲田の最後の攻撃です。大変なことになってきました。東大は終盤に相手守備につけこむ形でノーヒットで1点を先制、リードしています。早稲田は好投手の棚橋から九安打。しかし、もうこの回しかありません。伊東さん、早稲田としてはどうすればいいんですか〉

 アナウンサーが解説者にコメントを振った。

〈とにかくランナーを出して得点圏に進めることですね。どんな形でもいい。二塁まで行って棚橋君にプレッシャーをかけることです。東大の選手たちはこんな優勝がかかった大一番のようなしびれる試合を経験していないですからね。1点とったことで、守る野手にはかなりの重圧がかかっていると思いますよ。この1点を守りたい、守り切りたいという心理が働きますからね。そうなると硬くなって守備にミスが出たりすることもありますから、だから、四球でも敵失でもなんでもいい、塁にまず出ないと……〉

 解説者のコメントが終わらないうちに早大スタンドから歓声がわいた。棚橋が先頭打者に四球を与えた。投げ終わった後、幅広の肩が上下に大きく揺れていた。


 ――ひとつ間をとれ。伊ケ崎にサインを送った。

 いやな展開だった。プロ野球でも「先頭打者へのフォアボール」は投手のミスとよく言われる。統計的にどうなのかは知らないが、得点が入る印象は確かにある。サッカーなどと違い、試合を中断できるのが野球の利点だ。使わない手はない。


 ベンチを察した伊ケ崎がマウンドに行きかけたが、棚橋が手で制した。

 次打者は巧打で鳴らす倉吉。盛んに送りバントのポーズを見せているが信用はできない。案の定、初球の145㌔を強振しファウルになった。放送席の解説者がきちんとバントで送るべきだ、と苦言を呈した。しかし、倉吉は二球目をきれいに流し打ち。打球は一・二塁間をゴロで破り、処理した右翼手が打球をファンブルするのを見て判断よく二塁を陥れた。この間に一塁走者は三塁まで到達した。

 無死二塁三塁。打者走者に二塁まで行かれたのは東大にとって痛かった。併殺網が崩れて上位打線を迎えねばならない。解説者の言う守備の不安が露呈した形となった。東大にとって、あっという間にサヨナラ負けの状況ができあがった。ライトブルー一色の応援席が静まりかえった。


 流れは向こうに行きかけている。なんとか引き戻さなければならない。

〈もう一呼吸おけ〉。伊ケ崎にまたサインを出した。

 サインに気づいたらしい主将が、タイムをとってマウンド近くまで走り寄り、ミットと右手でメガホンをつくって棚橋となにか話している。棚橋は右腕をぐるぐる回し、「だい・じょう・ぶ」の仕草を繰り返した。伊ケ崎はミットでぽんと棚橋の腰付近をたたき、守備位置に戻った。


 棚橋が二番・堀川と対峙する。初球142㌔。二球目140㌔。序盤で連発した150㌔が出ない。握力も低下してきたのか球が高めに抜け出していた。伊ケ崎がキャッチャーミットを下に向け、しきりに「低めに、低めに」のジェスチャーをしている。何球かファウルを打たせた後、ウイニングショットに選ばれたのはチェンジアップだった。直球と同じ腕の振りで球速を抑えたふわりとした球がミットにすとんと収まり、見逃し三振。伊ケ崎のサイン通りだろう。速球にヤマを張っていたらしい堀川は投手に一瞥をくれてからベンチに下がった。

 続く三番の島津は内角の甘く入ったように見えたスライダーを打ち損じ、平凡な内野フライ。すぐにインフィールドフライが宣告された。二人の走者は動けない。二死までこぎつけた。東大スタンドが息を吹き返した。「あと一人! あと一人! あと一人! あと一人!」。地鳴りのようなコールが球場を揺らした。

〈ここまで早稲田はいっさい小細工をせず正攻法で攻めています。打線に自信があったのでしょうか。それとも伝統の力がそうさせるのか。ただし、もうツーアウト。東大はあと一死をとれば歴史に新たなページを加えることができます。早稲田はあとがありません。しかし、続くバッターは……〉

 アナウンサーの言葉に覆い被さるように場内アナウンスが流れた。

〈四番、ファースト高山君、祥陽高校〉


 こんな場面で一番対戦したくない相手だった。六大学、いや大学球界一のスラッガー。この試合こそ安打は単打の一本だけだが、二塁と三塁に走者がいるのでもう一本その単打が出ただけで試合は逆転サヨナラで片がつく。右に左にと打ち分け、時にスタンドまで持っていく力がある典型的な中長距離打者だが、この局面では確実にヒット狙いでくるだろう。ただし、一塁は空いている。五番打者も怖いバッターだが高山とはステージが違う。

 〈敬遠〉。五回からベンチで立ち放しだった野木はすぐにサインを出した。


 一球目、外角に大きくはずれたボール。二球目も直球がほぼ同じコースに収まった。早大応援席から猛烈なヤジが飛ぶ。「よーわむし、よーわむし」。敬遠をからかう痛烈な弱虫コールの中、三球目は捕手がほとんど立ち上がるような姿勢で球を受けた。ヤジに怒号も交じり始めた。

 四球目。球場が大きくどよめいた。バッシーン。伊ケ崎があわててストライクゾーンに構え直したミットに速球が吸い込まれた。ストライク。球審の右手がさっと上がった。149㌔と球速表示が出た。


 球を見送った左打席の高山が、バットを構えたポーズのまま顔を捕手に向けている。棚橋同様に鉄仮面が看板の男の視線が伊ケ崎の顔をさっとなめたように見えた。

 あいつ……。野木は舌打ちした。敬遠と伝えたはずだ。伊ケ崎をもう一度、サインを徹底させにマウンドに行かせるべきか。その伊ケ崎は棚橋に返球した後、立ったまましばらくマウンド付近に顔を向けていたが、やがておもむろに腰を落とした。


 五球目。バッスーン。キャッチャーミットに派手な乾いた音を残し、高山の膝元あたりの厳しいコースに直球が決まった。148㌔。伊ケ崎がマウンドに駆け寄った。


「バカヤロー、なに考えてる!」

 スキンヘッドが吠えた。

「監督の指示は敬遠だと俺がサインを送ったろう。おい、いまの二球はなんだ」

「…………」

「なに考えてんだと言ってんだ。ベンチの指示は敬遠だ。おいっ、ゼットン、答えろ!」

「勝負する。必ず俺が抑える」

「な、なんだとう、監督のサインを無視しようってのか、ふざけるな!」

「必ず俺が抑える。心配するな、お前は次の球を受けるだけでいい」

 伊ケ崎の太い両腕が拒絶反応を示すように左右に伸びた。

「ここは敬遠だ。いいか、よく聞け! 俺は監督の指示に反対しなかった。なぜだかわかるか。お前の球威が落ちているからだ。お前の球を開幕戦からずっと受けてる俺だからよーくわかる。開幕のころより、明らかにスピードもキレもなくなりかけてる。無理もない。お前は慶応の牧野や法政の加藤、明治の大森といった各校の四番打者たちとずっと力勝負をしてきた。あいつらウルトラマンとの戦いで、わが東大の怪獣ゼットンはスペシウム光線を浴びすぎてんだよ!」

 内野スタンドに伊ケ崎が顔を向けた。

「おい、あの大応援団を見てみろ。スタンドがもうブルー一色だ。早稲田の方にさえブルーの旗がある。外野だって半分以上がそうだ。いままで想像もできなかったすごい光景だと思わんか。永遠に夢だとしか思えなかった俺たち東大野球部の優勝を見届けようと来てくれてるんだ。全国のOBやOGも、きっとテレビを見てる。あとワンアウトでそれがかなうんだ。ワンアウトだぞ、わかってんのか。高山がすごいバッターなのは言うまでもないが左打ちだ。お前の球はただでさえ見極めやすい。一塁があいてんのは、きっと神様が俺たちを勝たせようとしてくれてるんだ。右の五番でうち取ろう」

「勝負する」

「バッカヤロー、なぜそこまでこだわる!」

 血相を変えてにじり寄った髭面の耳元で棚橋の口元が動いた。とたん、伊ケ崎が二、三歩よろよろと後ずさりした。

 駆け足で近寄った球審が身ぶり手ぶりで早く守備位置に戻るよう促した。


 ――くそっ。

 マウンドのバッテリーを凝視していた野木はスパイクのかかとでベンチの床を蹴った。いまこの局面で投手と捕手がじっくり話し合うことなどなにもない。敬遠。そう指示した。それなのに、なにをぺちゃくちゃやってやがる。


〈さあ、試合再開です。1点を追う早稲田は二死二塁三塁で一本出ればサヨナラ勝ちの大きなチャンス。一方の東大は抑えれば歴史を変える悲願の初優勝。バッターは四番高山。カウントはスリーボール・ツーストライクのフルカウント。これ以上の場面はありません。六大学の歴史がかかったまさに大一番のラストにふさわしい場面になりました〉

 かすれ声に聞こえるほど興奮を含んだ実況を続けるアナウンサーに呼応するように解説者が合いの手を入れた。

〈もしかしたら、今シーズンのすべてを象徴する場面かもしれませんね。地力からみて東大はもう、いっぱい、いっぱいでしょう。ここで勝てないと、あす以降の勝利もちょっと苦しいかもしれません。東大にとっては、守り切って初優勝か、打たれて負けて、優勝に逆王手をかけられてしまうか。私も長いこと大学野球を見てきましたが、これほどまでに極端な場面というのはちょっと記憶にありませんね〉


 ドン、ドンッ。野木はたまらず右拳の底で自分の右胸を二度たたく仕草をした。

〈サインは了解したか〉

 ピンチの時に、監督が全選手に伝達する東大独自の守備体系確認の合図だ。ベンチに目をこらした伊ケ崎が同じようにこぶしで右胸を突いた。

 よおし、それでいい。腕組みをやめて腰に手を回し気持ちを落ち着かせる。

 棚橋も守備陣に向かって振り返った後、右拳を胸に持っていった。それを見た内野手たちも一斉に同じ動作をした。

 ――頼む。

 不満だろうがなんだろうが、ここは敬遠しかない。相手はセンス抜群のスラッガーだ。中途半端にはずしては危ない。バットの届かない遠いコースにボール球を投げろ。噛みしめた歯で下唇が切れ、ぬめっとした血液の感触が野木の口中に広がった。


 マウンドの棚橋が打者に向き直った。

 それから、ほんの数秒の間だった。するりと左手のグラブをはずし、右に持ち替えた。投球姿勢がそれまでと逆になる。と、次の瞬間、セットポジションで静止するやいなやノーサインで投げ込んだ。

 アナウンサーの絶叫が放送席に響き渡った。

〈あっ、あー、左で投げたあー〉

 左腕から繰り出された直球が左打者の外角低めのストライクゾーンをかすめるようにホームベースを通り過ぎていった。バットを出しかけた高山はスイングの軌道を途中で止めたまま見送った。

「ストラック、アウト!」

 球審が大声でコール、右手が高々と挙がった。

 伊ケ崎がバンザイのポーズをしたまま猛烈な勢いでマウンドに突進した。百㌔を超す体で棚橋に体当たりする。上遠野や田中や大津や堤や今野も続いた。野木も控え選手も記録員もベンチの全員が飛び出した。くしゃくしゃにゆがんだ顔だらけのなかで棚橋だけが微笑をたたえ、控えめに左手を突き上げた。

 アナウンサーの声はいまにも枯れ果ててしまいそうだった。

〈東大勝ちましたー! 東大勝ったー! 悲願の六大学野球初優勝です! なんということでしょう、ほんとうになんということでしょう。東大のピッチャーのウイニングショットはそれまでの右腕ではなく、なんと左腕から投じられました。東大の、この東大の初めての劇的な、あまりに劇的な優勝は、誰も予想しなかったこれまた劇的なシーンから生み出されました!〉


 膨大な紙吹雪が舞うネット裏では、目をつぶり腕を組む柿澤の肩を緑山が右手で抱きかかえ添田と一緒にむせび泣いていた。他のOB連中も互いに抱き合って人目もはばからず涙を流している。深草は司会者に抱きつかれて上半身を揺らしながら銀縁眼鏡をはずし、ハンカチで何度も目元をぬぐっていた。

 野木は生まれて初めて仰向けの姿勢から雲ひとつない神宮の夕刻の青い空を見た。こんなにも東京の空は美しいのか……。甘美な感傷とは裏腹に、胴上げされている間にも優勝の実感はわいてこなかった。七十㌔の自分の体は選手たちにとってはさぞや軽いだろうなと場違いなことだけが頭に浮かんだ。


 早大ベンチ前では、こわばった顔で引きあげる主力選手たちを報道陣が取り囲んでいた。記者の一人が高山に尋ねた。

「まさか左で投げてくるとは、さすがの高山君も想像できなかった?」

「そうですね……。いや、あいつなら」

「えっ、と言うと?」

 言葉尻に疑問を持った記者の再質問には答えず、高山はベンチ奥に消えた。


16


 東大近くのシティーホテルを会場にした祝勝会は午後六時開式予定だった。

 野木はホテル内の別室で添田と向かい合った。その二時間ほど前、野木とともに優勝記者会見に臨んでいた添田の目元はまだ赤く充血し、はれぼったくなっている。会見中、野木の横でずっとハンカチを目に押しあてていたのだからいたし方ない。全身これ理論、のはずの物理学者がこんなにも感情をあらわにするものなのかと野木が驚くうれし泣きぶりだった。

「なあ野木君、優勝ってここまで感激するものなのかと、当たり前だが初めて知ったよ。もらったことないけど、ノーベル賞受賞に匹敵するレベルなんだろな、こりゃ」

 生真面目な顔が自分のジョークに自分で反応してふふっと笑った。

「そうですか。よかったじゃないですか。優勝して泣くなんて経験、うちの大学にはなかったわけですから無理もありませんよ。記者会見も無事に終わったことだし、どうぞ好きなだけ泣いてください、うれし泣きはいいもんでしょう」

「いやあもう、球場の出口で柿澤会長の顔を見た瞬間はさすがに感極まってしまってね。握手した時の会長の目も潤んでおられたな。鬼の目にもなんとかというやつだ。そういや、君の方は涙なんか少しも見せなかったな」

「私はそこまで感動はなかったですね。胴上げされたその瞬間は、神宮の青い空はなんて美しいんだろう、宇宙飛行士はいつもこんな地球の青さを見ているんだろうな、というようなことが頭に浮かんだだけです」

「おや、そうなのか。そりゃまたずいぶんとクールだな。なんだかゼットン投手みたくなってきたじゃないか。一緒にやってるうちに似てきたな」

 白い歯をのぞかせておどける野球部長にあいまいな笑みを返しながら、野木の脳内は別の動き方をしていた。

 棚橋の素性がどうしても気にかかる。

 いつ本人を詰問するか。祝賀パーティーのあとか、最中か、それともその前か。

どう切り出すか。そのあとは……。

「あ、そうだ、野木君。さっき、ホテルのエントランスで早稲田の石井理事に会ったよ」

 添田が話題を変えた。

「差し入れを持ってきてくれた。あの男、あれで案外いいところがある」

「それだけですか、用向きは」

「もちろん違う。例の連盟提案は取り下げます、だとさ。タヌキだと思っておったが、その時ばかりはコアラのように愛嬌があったな」

 添田は愉快そうに笑った。

 一件落着――。この瞬間、本来ならなにもかもがそのはずだったのだ。なのに、このもやもや感をどうとらえたらいいのか。えたいのしれない息苦しさを覚え、野木はごほっと空咳をした。

「さ、行こうか。そろそろだぞ。こんな時は時間がたつのが早い」

 添田が腕時計を見て快活に言った。

 野木は達成感が減殺された気分のまま、軽い足取りで大ホールに向かう添田の背中を追った。


 祝勝会の会場は華やかだった。なんと言っても泣く子も黙る東大だ。政界や官界、経済界などに確固たる地歩を築き、わが国で各方面のリーダーとなっている卒業生が数限りなくいる。ずらり並んだけんらん豪華なお祝いの花はもちろんのこと、宴会場のテーブルには企業経営者や国会議員、中央省庁幹部らから届けられた山海のごちそうが山のように盛られ、ホテル側が用意した心づくしのオードブルがかすんでしまうほどだった。

 大学当局と野球部関係者のあいさつや選手紹介のあと、東大出身の著名人やら東大となんらかのゆかりがあるらしい来賓やらのメッセージ、その代読披露が延々と続く。男女の陽気な笑い声が織りなすさんざめきが大ホールに渦巻いた。白井は、といえばムービーカメラマン役をおおせつかり、あちらこちらせわしなく動き回っている。なんともはや器用な男と言うしかない。

「やあ、監督。やりましたね、ついに。おめでとうございました」

 背後で聞き覚えのある声がした。

 スポーツ日報の腕利き記者、杉浦が満面に笑みをたたえて立っていた。メディア対応は記者会見ですべて済ませており、内輪の祝勝会場には立ち入り不可のはずだが、どうにかしてもぐりこんだようだ。

「杉浦さん、ほんとうにお世話になりました。杉浦さんがあの時、私たちにお話してくれなかったら、いまのこの状況はありません。なんとお礼を言っていいか、言葉が見つからないほどです。命の恩人と言ってもおかしくありません」

 差し出された手を握り返しながら野木は本心から礼を言った。怪獣男ゼットンと野球部を橋渡ししてくれた因縁の男。すべてはここから始まったと言える。「恩人」は決してオーバーな表現ではない。

「いやあ、そんなたいしたことはないですよ。東大ナインが棚橋君を中心に力を結集したまさにその結果ですよ。こんな仕事をしてても、歴史的な優勝に立ち会えるなんてことはめったにないですからね。記者冥利につきますわ。俺は早稲田なんだけど、あの試合は本気で東大を応援しましたよ。最後のシーンなんか、もう東大に勝たせたい一心で見てられないくらいだったな。中高年の心臓にこたえましたわ。いや、ほんと」

 選手たちがたむろするひのき舞台の方に顔を向け、杉浦は目を細めた。

「それにしても監督、あんなすごいのが一般学生にいたとはねえ。事実は小説より奇なりって言うけど、まさに地でいく話ですねえ。俺も長いことプロアマの野球選手を取材してるけど、大谷みたいなあんな素材がぽっと出てくるとはねえ。よくぞ監督がアクセスして掘り出したもんです。ま、おかげで俺らスポーツマスコミはとたんに忙しくなりましたけどね」

「いや、やはり杉浦さんがきっかけをつくってくださったわけですから。杉浦さんがゼットンという新エースを見つけたのと同じことですよ。きょうはどうぞゆっくり飲んでいってください」

 俺らマスコミも忙しくなった――。そうこぼした杉浦。その彼は棚橋の身辺について、そのあとはどこまで取材しているのだろうか。ふとそんな気持ちがわいた。

 ゼットン投手に関して、あとからなにかつかんだ情報はないのか。聞いてみる手はある。

 初優勝に至った歴史的な今季のリーグ戦を二人でしばし振り返りながら、野木はしばらく談笑につき合った。話の流れをみて棚橋に話題を戻し、さりげなく杉浦記者による前歴のつかみ具合に探りを入れるつもりだった。

「そうそう、野木監督、連盟が棚橋君に関心を示しているようですよ」

 どきりとした。

 ――関心?

 一般的に言って、警察とか検察庁みたいな捜査機関が主語にならない限り、ふつうは悪い意味にとりにくい言葉だが、いまの野木には素直に受け取れない。

 関心とはどういうことか。

 ただ、相手の方からエースに話題を振ってくれた。ここは突っ込みどころだ。

「杉浦さん、それ……」

 問いただそうとした時、杉浦の携帯電話が音を立てた。

「ちょっと失礼。はい、杉浦です。ああ、いま戻りますから。大丈夫ですよ、わかってますって。全部で二百五十行くらいなんでしょ、社に上がったらすぐにやっつけますから。だいたいの原稿はもうできてますんで。いや、ここから地下鉄で三駅なんですから。すぐです。だから大丈夫、ご心配なく」

 杉浦はあきれたように首を振って携帯をしまい、一口飲んだビールグラスをたんっと音を立ててテーブルに置いた。

「まったく、小心者のデスクには困ったもんだ。きょうは新聞輸送トラックの交通渋滞を見越して締め切り時間が早くなってるとか、原稿の分量はどうすんだとか、なんだかんだ細かいんで現場はやりにくいったらありゃしない。監督、またお会いしましょう、じゃ」

 質問するいとまも与えず杉浦はきびすを返した。


「あのう、深草先生が先ほどから監督を探してました。『あ、繭村君、監督を見なかった? どのあたりにいるのかな』なんて言って……」

 サブマネジャーの繭村が近寄って来て野木に小さい声で告げた。下の名前が恭佳という男性っぽい字を書くが、おとなしく控えめだ。深草の性格を知っているだけに早くも野木を気遣うような表情になっている。

「ああ、そう。わかった。じゃあ、私も探してみるよ」

 野木は場所を移動した。

 深草はホールのひな壇近くで来賓らしき人物と歓談していた。いつものように眼鏡をつけたりはずしたりを繰り返している。野木の姿が目に入ったらしく、そばに寄ってきた。

「野木監督、このたびは例えようもないすばらしい結果を出していただき、野球部副部長としていまここで改めて感謝を申し上げます。口では言い表せないようなほんとうにすばらしい初優勝でした。私なんかはあまりにも感激してしまい、ところどころ試合の記憶が飛んじゃってまして、あとでうちはほんとうに優勝したんだよなと周りに確かめたくらいなんです」

 ふだんの皮肉っぽい口調が影をひそめている。

「人生でこんなに感動したのは女房と結婚できたこと以来だったですよ。あの最終回の場面なんて、正直見てられなかった。ヒットを打たれたら優勝どころかサヨナラ負けですからねえ。怖くて目をつぶってしまい、その瞬間は大歓声でこんな風におそるおそる目を開けたんです」

 アルコールでほんのりと朱に染まった頰の筋肉をゆるめ、深草は銀縁眼鏡をとって目をしばたたかせるまねをした。

「いやいや、深草先生たちに部総会の時に棚橋の入部をお認めいただいたからこそ、ですよ。白状しますと、私は深草先生のおっしゃることに理論的には反論材料を持っていなかったんです。あの時に、入部させたい根拠をもっと具体的に示せ、と先生にさらに突っ込まれていたならギブアップでした。私の方こそ感謝しているしだいです」

 お愛想ではなく本音を返した。

「そう言ってもらえるのはありがたいんですが、私自身はちょっぴり反省しているところがございましてね」

 野木から一瞬視線をはずした深草が意外なことを口にした。

「反省? といいますと」

「持論と言いますか……、かねてより野球部の監督はやはり部のOBじゃないとな、と思っておりまして……。選手時代に夏合宿の猛練習で血反吐の一つも吐いていないやつが監督もくそもあるもんか、という気持ちが正直ありまして。そんな気持ちがなんでわいてくるのかと自分なりに分析してみると、こう、なんていうのかな、嫉妬と言ったらいいのか、監督候補にすらならなかったわが身と野木監督を無意識に比べているというか、なんでだ、こんちくしょうという部分があったのかなと思っているんですよ」

 深草が照れ笑いを浮かべた。通りかかったウェイターに野木のためにグラスワインを注文し、運ばれてきたグラスを野木に手渡した。

「野木監督、監督というものはやっぱり野球をやった人間の一つの夢ですから。俺だっているのになんで外部からなんだ、という思いが強くあって、それで監督に少々つらくあたってしまった感、なきにしもです。お恥ずかしいことだし、おわびしたい」

 皮肉屋のコメンテーターが殊勝に頭をたれている。

 深草が監督に少なからぬ野心を持っていたなんて考えたこともなかった。

「深草先生、それを言うなら私の方こそ、先生が何度もテレビで『うちの野球部』と連呼されて、口から唾を吐く勢いであれこれ話されているのを拝見してて、いいなあOBは、とずっと思っておりました。そもそも部のことを語る資格があるのは元部員だけです。なにせ私は競技経験がありませんから、本来ならなにも言えません」

 野木にとっての素直な気持ちの部分でもあった。大学時代の野木は運動系サークルの同好会にいたが、厳しい練習はおろか、試合での勝利至上主義もなければ上下関係もない。心地のよい汗をかいては飲み会で青春を謳歌する日々。そんな一学生からみれば運動会の連中など別世界の住人だ。テレビで少年のように喜々として自分の出身運動部のよもやま話を語り続ける深草の姿がどこかうらやましくもあったのは事実だった。

「深草先生はご自身が青春を注ぎ込んだ自らの部のことをとくとくとお話しする資格がおありです。私にはその資格はありませんので先生にメディア対応をしていただいて私も力づけられました、それこそ私もお礼を言わなければいけません」

 深草は驚いた顔で口に運びかけたワインのグラスを止めた。

「……まあ、でも、監督の手腕は見事に尽きます。わが野球部に来ていただいてよかった。こうなりゃ来たるシーズンも連覇といきたいですねえ。あの怪獣投手に十分に肩を休めてもらって、秋もまたスタートダッシュだ。秋もやれれば当然、ドラフトって、話になるんだろうなあ。いつぞやの宮台投手以来ですかね。まあ、いつもいつも早慶あたりにドラフトの話題をさらわれていてもつまらん。私の仕事は増えるが、そういう忙しさなら大歓迎だ。ちょいとテレビで指名しそうな球団を予想してやるとしましょうかね」

 ワイングラスを目の高さにひょいと持ち上げ、野木に返礼した深草は人の輪に戻っていった。


 ふいに後ろから両肩をつかまれた。

「いよう、果報もん! ようやったやないか」

 中藤が陽気な顔で酒臭い息を吹きかけてきた。

「お、来てくれたな。中藤、ありがとう。お前のおかげだ。さっき、杉浦記者に会ったんであいさつしておいたけど、お前があの人の記事に気づいてくれなかったら、なにも生まれなかった。お前とコンタクトとっといたのは神のご加護だよ、ゴッドブレスユーだ」

「なに言うとる、いつからキリスト教徒になったんや。野球したんはお前らや。お前ら野球部の力やで、そら間違いないわ」

 中藤については、野球部からの招待者という形でパーティーに出られるよう手配しておいた。グルメで酒好きの中藤だ。濃い水割りをすでに相当やっつけているらしく、赤ら顔のかつての学友はすこぶる上機嫌だった。

「のぎぃ~、このたびの功績で、お前を教授に昇進させるよう東京公立に言ってくれと学務部長に頼んでみたんや。そしたらな、『いや、よその大学なのでそれはちょっと……。それとこれとは別の話ですので』と言いおった。あそこはうちの子会社みたいな学校やで。教授と准教授だけやない、助教連中から事務屋までなにからなにまで人事権は実質うちが差配しとるいうのに、そんなこともよう言わんようや。ほんま、ケツの穴のちっこいおっさんやで。毎日ソーメンみたいなうんこしとるんやろな。ケツゆうたら、野球じゃビリケツだらけの東大が優勝したんやで。そやのに、あのおっさんときたらなんや、ねぶたいこと言いくさって、アホらしゅうて屁もこけん、ちゅうのは、ほんまこういうことやで、ちゃうか、なあ、のぎぃ~」

 中藤の饒舌は止まりそうになかった。

「そうか、ありがとうよ。お前の気遣いだけで十分だよ。ほんと世話になった。ここは存分に飲んでいってくれ。さっき司会の人が紹介して笑いをとってたドンペリとかいうバブル時代にもてはやされた高いシャンパンは飲んだのか。あと、お前が俺を誘う時にいつも言う、なんぞうまいもん、という食いものがたっぷりあるぞ。OB連中からの差し入れがとにかくすごい。キャビアまであった。ありゃ一缶万円単位じゃないか。もう残ってないかもしれんが。お前の好きなカニもあったぞ。タラバガニの足が皿に何本ものってた。あんなの見たのは、お前におごってもらった大阪のかに道楽で目にして以来だ」

 まだ話し足りなそうな中藤を振り切って野木は棚橋を探した。


 旧帝大に有史以来の初優勝をもたらした遅れて来たエースはいまやちょっとした有名人だった。ずば抜けた長身に野球人らしからぬ端正な顔立ち。髪形は選手まかせにしている東大でも目をひく茶髪のロン毛。いつでもヒーローの誕生を求めたがるスポーツマスコミには格好の素材とみえ、タレントのような扱われ方をされている。この会場でも乾杯の音頭の直後からツーショット写真をせがむ来賓の女性やチアリーディング部の女子学生たちが群がり、本人の照れ笑いが途切れる暇もない。

 ころ合いをみて隅のテーブルに呼び出した。

 聞いておかねばならないことがある。

 まずは、あのサイン無視の場面からだ。ベンチからの観察では、サインを徹底しにマウンドに行ったはずの伊ケ崎が棚橋になにかを告げられたとたん、引き下がったように見えた。

「おい、ゼットン、なぜ敬遠しなかった。監督の指示は絶対、というのがプロも含めた野球界の常識中の常識だぞ」

「いやあ、サイン無視はすみません。僕の判断で無視したことは間違いないです。謝ります。処分するというなら甘んじて受けます」

「ふん、殊勝だな。まあどっちみち、あすの二回戦からお前は事実上の登録抹消だ。塩飴でもなめてベンチを温めてろ」

 長髪に手ぐしを入れて頭をかく若武者に笑って告げた後、訊ねた。

「そんなことよりも私が知りたいのは、あの場面、マウンドでイカになんと言ったのかということだ」

 にが笑いを引っ込め、棚橋が真顔をつくった。

「どうしてそんなことを?」

「ベンチから見てて、あいつはお前に対して怒ってるのがよくわかった。実は私もかっかしていた。一塁が空いているにもかかわらず、敬遠指示に従わないばかりか、大学屈指の強打者と勝負しようとするんだから当然だ。怒るに決まってる」

 棚橋の目を見ながら続ける。

「それなのにイカは、お前からなにかを聞いたあと、あっさり引いた。お前に殴りかからんばかりの勢いだったのに、だ。私はてっきり、お前がサインを最終的に了解したんだと思った。だけど、そうじゃなかった。サイン了解のポーズは、うそっぱちだったことになる。じゃあ、いったいなにがあったというんだ。さっき、イカに聞いたらゼットンと直接話してくださいと言うだけだった」

 沈黙があった。大男が息をのむ気配が伝わってきた。

 唇がゆっくりと動いた。

「早稲田の高山は俺の弟だと、やつに言ったんですよ」

「えっ、なんだって?」

「高山は、あいつは僕の双子の弟なんです」

「…………」

 ゆっくりと棚橋は語り出した。

「あいつは地元のボーイズの頃から注目された野球少年でした。中学校を卒業する前には地元の東京だけでなく関西の野球校とか、あちこちの高校から誘われていたけど、私立の進学校の祥陽に合格して入学した。進学実績なら祥陽はすごいけど野球は都立並みに弱い。あいつは投手をしていましたが、都大会でノーヒットノーランを一回やったくらいで残念ながら高校時代は正直、華々しい実績はつくれなかった。足は速いし体力的には僕より上のところがあって、素質からすると私立の野球校に行ってたら高校時代からスターになってた可能性があったやつだと思うんですが……。あ、でも実績と言えば、僕も人のことは言えませんがね」

 手にしていた空のグラスを棚橋が通りかかったボーイに渡した。

「僕も野球の技量そのものはあいつに負けてなかったので、同じように私立にずいぶん誘われました。でも性格があまのじゃくなんです。ふつうの公立校に入って野球部を強くしたかった。甲子園へとまじめに思ってました。だから白鷺台でけっこうがんばったんです。三年の時のベスト十六なんてたいしたことないかもしれませんが東京ですからね。あのメンバーであそこまでやれたのは、振り返るとすごいとしか思えないです。おかげさまで勉強もそこそこだったので東大に来ることができました」

「……じゃあ、あの場面は、あそこは、兄弟対決、だったっていうのか」

「巡り巡って神宮球場で、東大の歴史がかかったあんな大きな場面で、生まれながらの好敵手に再び遭遇した。弟に背中を見せるようなまねはできない。だからあそこは勝負です」

 ――そうだったか。六大学一の強打者と実の兄弟だったとは……。

 想像もしなかった返答に次の質問がただちに出てこなかった。

 しかし、向こうは高山姓だ。つじつまが合わぬ。いったいどういうことなのか。

 だが、ここまで聞いたならもう遠慮はいらない。最も気がかりだったことを問いただすことにした。

「ゼットン、もう一つ、いいか。お前にどうしても確認したいことがある。お前の返事しだいでは、やっかいなことになるかもしれん。しかし、どうなっても責任は私にあると思っている。だから正直に答えてくれ」

 けげんそうな表情になって棚橋は押し黙った。

「新聞記者の人から気になることを聞いたんだ。その記者は取材の一環で過去の早稲田の部員名簿を調べたらしい。そこで、ここ十年間ほどの退部者の名簿の中に『棚橋良太』という名前を見つけたそうだ。一年生で入部し、すぐに退部したと記者は言っていた。高校名はない。ここ十年の、というだけで入学年度もはっきりしないんだが、まさにお前たちみたいな四、五年前かもしれん。なにより身長が一九三㌢で、お前とどんぴしゃりだ。おい、ゼットン、その名簿にある棚橋という部員はお前のことじゃないだろうな。下の名前こそ違っているがリョウまで一緒だ。いまのお前と名簿の名前と、もしどっちかが偽名で同一人物だったりしたら、ただじゃすまんぞ!」

 棚橋は口をつぐんだままだった。表情は読めない。

「ゼットン、確か、高校卒業後は自宅で勉強したり予備校の講習に通ったりしてたと前に言ってたよな。つまり浪人生活を経て東大に受かったというわけだ」

 ここで息を吸い込む。

「お前が申告したその浪人というのは、もしやいったん早稲田に入り、その後中退した事実を含めてのことじゃないだろうな。知ってのとおり、リーグの他校の野球部経験者は公式戦には出られん!」

 一息に疑念をぶつけた。

 慶賀の場にそぐわない剣幕に気づいたのか、そばにいた何人かの来賓がちらちらとこちらに目をやっている。いつの間にか白井と繭村が近くにやって来て、不安そうな顔でやりとりを見つめていた。

「あっははー」

 棚橋が突然、大笑いを始めた。ふさっとした長い茶髪を両手でかき上げては気持ちよさそうに顔をくしゃくしゃにしている。豪快な笑いが止まらない。

 野木はあっけにとられ、しばし眺めているしかなかった。

「もしかして、監督、そんなことでずっと悩んでいたというわけですか? こりゃあ、おかしい、はははー」

「おい、なにがおかしい、ふざけるな!」

 破顔をにらみつけた。

「いや、そりゃ笑っちゃいますよ」

 笑顔を消さないまま棚橋がよどみなく言った。

「棚橋良太ってのは、高山のことですよ」

「え?」

「プライベートなことに説明責任はないと思いますが、悩んでおられたのだとしたらお気の毒だから言いましょう」

 例の涼しげな目に戻った棚橋は、ひと呼吸入れるかのように手近なテーブルにあった生ハムを左手で持ったフォークで器用にさらって口に放り込んだ。

「えーと、僕の両親は僕たち兄弟が大学に入るころに離婚したんです。父親と母親が話し合った結果、二人は社会人になるまで別々に面倒をみてもらうことになり、僕はこれまで通り父親の姓を名乗り、父親が借りた家で生活しています。母と暮らすことになった良太は母の旧姓の高山姓を名乗ることになりました。あいつから聞いたところでは、一年生の途中で姓が変わることになり、『母親のためにも心機一転がんばりたい』と野球部に申し出て、いったん野球部名簿から『棚橋良太』を退部扱いで削除してもらい、すぐに『高山良太』を部員登録してもらったそうです。まあ、まさに形式的な話に過ぎませんが、早大野球部もあいつの気持ちをくんで特別に認めてくれたようですね。人情味のあるいい大学です」

 棚橋は得意のすまし顔になると注釈をふるようにつけ加えた。

「顔は双子なのにまったく似ていません。二卵性だからでしょうね。その代わりと言ったらなんですけど、身長一九三㌢は両親から等しく授かりました。神様も僕を女性的なあっさり顔にして、あいつを男性的な濃い顔にしてしまったので上背でバランスをとったんでしょうね、きっと」

「しかし、ゼットン。お前は一浪でも、早稲田の有力選手なんてだいたい推薦で現役入学じゃないのか。双子だったら彼と年次が合わないぞ」

 こんどは棚橋が意外そうな顔を浮かべた。

「監督はご存じなかったんですね」

「なにをだ?」

「良太は祥陽を卒業した後、米国でマイナーリーグと契約してメジャー挑戦してるんですよ。早稲田で活躍しだしたころからは、この経歴は野球関係者には知られることになってたんですけど」

「マイナーだって? メジャーにも挑戦? そりゃ、ほんとうか」

「契約時にスポーツ新聞で小さな記事になりました。あの全国的な進学校から野球で本場のプロをめざすのは珍しいからだと思います。とはいえ、メジャーじゃなく、よくあるマイナー契約なんてのは、全国でいくらも例があります。ドラフトに引っかからないレベルの選手がけっこう海を渡ってますから。つまりそんな程度の話だったということです。世間の注目を浴びるほどのことではなかったということですね」

 淡々とした口調を締めくくるように、棚橋がふっと小さく息を吐いた。

 そんな話題など知らなかった。

 四、五年前だと野木自身、野球にかかわっていない。フィジカルの研究に没頭していた。新聞や雑誌の野球記事に注目していた訳でもない。それに、棚橋が言うとおりマイナー契約で米国に行く高卒選手は当時から複数いたと記憶する。棚橋姓の高山の記事に接した憶えはなくとも、マイナーと契約した若者たちの記事は読んだ気がした。

「それで、彼はアメリカでどうだったんだ?」

 筋書きはほぼ読めた思いがした。そしてその回答も想定内のものだった。

「1Aからスタートして3Aの途中までいきましたが、最終的に大リーガーは断念しました」

「そうなのか。壁は厚かったということか。いまの彼だったら最初からメジャー契約だろうにな。当時もいまくらいの身長があったのかい? アメリカ人並みに背が高くて素質があっても、高卒で入ってすぐにメジャーに上がれるほどアメリカのプロ野球はやはり甘くはないんだな。で、一年遅れで早稲田か。私はそこまでの経歴は知らなかったよ」

「おわかりいただけてよかった。良太も大学で花開いたわけだから、結果これでよかったと思います」

「そうだったか、なるほどな。さっきはいやな言い方をして悪かったな」

「やっぱ、理系の人たちって、根がまじめなんですかね。そんなことを監督が長患いしていたなんて思いもしませんでした。イカもそうだな。あの時、マウンドで『いま、バッターボックスにいるやつは俺の弟だ』って言ったら、あいつの赤黒い顔が真っ青になりやがった、あははー」

 長く胸につかえていたものが、すとんと胃の中に収まり、胃液と混じってすーっと溶け込んでいった。これでもう処分うんぬんで気をもむ必要はさっぱりとなくなった。優勝の余韻に浸っていられる。

 しかし――。

 こんどは別の疑問が頭をもたげてきた。それも先ほどよりもむしろ勢いよく。

 野木はテーブルの瓶ビールを取り、棚橋に真新しいグラスを渡して注ぎ入れた。自分のグラスにもついだ後でカチッと合わせてから飲み干した。舌にまとわりつくホップの苦みがなんとも言えない。

「ゼットン、もう一つ聞いていいか」

 グラスを口につけていた棚橋が目でOKを返した。

「どうして東大入学直後に野球部に入らなかったんだ?」

「……………」

 予想外の長い沈黙だった。

 なにか機微に触れてしまったか。言うか言うまいか迷っている表情に見えた。

 だが、目の前のこの進撃の巨人にやましい点などなにもないはず。とすれば、他人が詮索すべき類いの話ではないということなのかもしれない。英語に堪能な白井なら「ツーパーソナル(あんたにゃ関係ねえ)」とでも応じるのだろう。

「話したくないなら、ま、べつにいいが」。言いかけた時、棚橋の口が動いた。

「……デッドボールです」

「デッドボール? 死球?」

 訳がわからない。

「……僕が食らった、というわけじゃありません。与えたんです……」

 たったいままでなめらかだった口調がぎこちない。

「僕は浪人している時にアメリカにひんぱんに行っては、メジャー挑戦している良太の自主練習の相手もしていました。会社を経営している父親が旅費を出してくれたからです。まあ、母との同居を選んだとはいえ、国内で時差があるような途方もなくでかい国で一人暮らししている実の息子がやはりかわいいというか心配でもあったんでしょう。それになんと言ってもマイナー選手の場合、練習また練習の積み重ねによってメジャーには実力で這い上がるしか道はありませんから、チーム練習以外の個人トレーニングもその質と量は半端じゃないです。だから父親なりに応援したかったんだと思います」

 その声が沈んだ。

「当てたんです……。トレーニング中に。打席の良太に。利き腕の右肘に僕がストレートを当ててしまいました。あいつは左打席に立つので当然右肘が前にくる。いつもどおりの練習だったし、肘当てもたまたま着けていませんでした。すぐに病院に行きましたが骨の一部が複雑骨折し付随する筋も一部裂傷していました。良太はもともとは投手です。打てるピッチャーに、というのがあいつの夢だった。大谷選手みたいに」

 口はまだ動いた。

「内角ぎりぎりに速球を投げる、というのはあいつの強い要望でした。つまり僕たちは実戦を想定して練習していたんです」

 メジャー選手の最低年俸は日本円で約六千百万円。これに対しマイナーはせいぜい三百万~五百万円ほどだ。一度でもメジャーに上がった経験があれば加算はされるがそれでも千五百万円程度。かの野球王国では大リーガーでなければプロとは言えない。

 プロとして生き残るためにメジャーにのし上がる。そのためにマイナー以下のリーグの投手は、打者の内角の厳しいコースをどんどん突いてくる。体に近い球でのけぞらせ、打撃フォームを崩したうえでストライクゾーンを少しはずした外角の直球や変化球で凡打させたり三振に討ち取ったりする投球術だ。打者はそんなきわどいボールに対して、恐怖心を克服して見逃したりファウルしたりしてしのぎ、そのあとのストライクをほしがって投げてきた甘い球を確実にしとめられなくては明日はない。

「見逃せばストライクにとられかねない球で厳しく内角を突いてほしい、それがあいつの注文でした。僕はアクセントに予告なしに変化球を交えながら内角いっぱいのストライクを投げ続けました。良太も、くさい球はうまくカットしたり明らかなボール球は自信を持って見逃したりした。打てる球の何球かはヒット性の当たりで打ち返していたんですが、二十球以上投げたあとでストレートがまともに肘に飛んでいった……」

 沈んだ目で棚橋は振り返った。

「ぺきっと音がしました。僕はすぐになにが起きたかわかった」

 球団専属の医師の診断は、「今後、投手は難しい、遠投が必要な外野手も厳しい」というものだったという。

「日本に戻ってセカンドオピニオンも受診しましたが、同じでした。所属のマイナー球団は、良太は体もあるのでもう少し球速が伸びれば投手で、打撃がよくなれば強肩の外野手で、というのが育成プランのようでしたが、どちらも断念せざるを得なかった。これからも野球選手としてやっていけるとしたら一度も経験したことのない内野手しかない」

 棚橋の視線が野木をとらえた。

「早稲田も推薦ではなく一般入学です。あいつは進学校にいて早稲田には難なく入れる学力はあったけど部活は手探りの賭けのようなものでした。伝統校の体育会で果たして通用するのか。打者として成功するにも、左打者の場合、右肘はスイングをリードする役割があるから非常に重要です。肘や関節、靱帯、肩なんていう部分は野球選手にはまさにアキレス腱で、一度痛めると完全には直らない。良太は骨がある程度くっついたあと、修復した肘周りの筋肉を鍛える懸命なリハビリをして、野手として、強打の内野手として、生き延びる道を選びました。僕はその時、誓ったんです。小さい時からプロ志望だったあいつが早稲田で打者として認められ、将来の展望が開けるまでは自分は野球部に入らない。それまでは兄として、一般学生として、あいつの練習を支えると」

 この瞬間、すべてが一つの線でつながった気がした。

 野球部に入らなかったのではない。入れなかったのだ。

 ウルトラマンに勝った怪獣ゼットンを気どるほどの投手の球威だ。大げさではなく死球によってあやうく肉親の選手生命を奪うところだった。

「ゼットン弟」はぎりぎりの一線でどうにか選手として踏みとどまった。そのあとは猛練習とリハビリを重ね、いまプロに注目されるスター選手に成長を遂げた。

 たぶん、この棚橋諒介という男は早大野球部の公式な練習以外は、ことごとく弟の練習につき合ってきている。

 そして時は流れた。

 舞台は巡り、六大学リーグの優勝を争う大一番。最終回の高山の打席。複雑な内面を抱えた新エースは名字が変わった頼もしい弟と、試合を左右する最も重要な局面で対峙することになった。

 その場面とあのデッドボールのシーンは重なり合った違いない。

 生き残るための真剣勝負――。

 そのステージが、日本の大学野球の優勝決定戦に形を変えてやって来たのだ。棚橋にとっても自分自身に区切りをつける場だったはずだ。

 ――この男に敬遠の選択肢はなかった。

 野木は深い息を吐いた。

 鼻をすする音が聞こえた。白井だ。隣に立っている繭村以上に顔をぐちゃぐちゃにして大泣きしている。黒縁眼鏡をはずし、ポケットティッシュを繭村にもらってはだらしなく頰を伝う大粒の涙を鼻水とともにぬぐっている。野木にしても、こみ上げるものがあった。

「そうなのか、そういうことだったのか……。高山選手は三年の春から彗星のように現れ、がぜん注目株になったんだったな。そのちょっぴり唐突で、なおかつ颯爽としたデビューぶりを、あのオリックス時代のイチローになぞらえるスポーツ新聞もあったからな。そうか、なるほど、それを見届けたあとのゼットン登場というわけだったんだな」

「結果的にはそうなりますが、もちろん誘っていただけたということがやっぱり大きいです。もう自分なりの謹慎期間は解けたかなとは思っていても、うちの運動会というか体育会の門というのは一般学生の身には敷居が高くてなかなか簡単にはたたけません。ぶらぶらしていた自分の背中を押していただいたことに感謝してます」

 どこかしんみりした物言いにうなずいた時、胸ポケットに入れたスマホが震えだした。

 秋野記者からだった。

「ありがとうございます。おかげさまで優勝できました。夢ってかなうものなんだなと、感激しているしだいです。この電話、聞こえにくくないですか。いま祝勝会の最中でしてね。盛り上がりは最高潮です。こんなステージがやってくるとはまさに夢のようとしか言いようがないです」。祝意に返礼する野木に、秋野は東日新聞のインタビュー欄に棚橋を載せたいと言った。

「それからあの時、秋野さんが気がかりだとおっしゃっていたことで、お教えしたいことがあるんですよ。お会いした時に詳しく言いますが、結論から言うとご心配には及びません。安心していただいてけっこうです。それと一つ、記者さんたちがよく言う特ダネというやつをお話ししたいと思います。ええ、もちろんゼットンに関するとっておきのエピソードですよ。期待してください」

〈え、そうですか、それはすっごくうれしいです。ぜひ教えてください。私の方はいつでもお伺いできます、あしたでも大丈夫ですよ〉

 明るい声を出した秋野に取材の日取りを知らせ、野木はスマホをしまった。

 またすぐにスマホが振動した。こんどは杉浦だ。

〈あ、どーも。カントクー、さっきは失礼しました」

 ごきげんな声だった。さては社に戻ってからさっさと記事を仕上げ、さらに一杯ひっかけていたか。ろれつが怪しかった。

〈カントク、さっきですけど、俺になんか聞いてませんでしたかあ?〉

「さっき? ああ、棚橋のことで連盟が関心とかなんとか、杉浦さんが言いかけていらっしゃったので、なんだろなと」

 懸念材料が消えているので野木の言質も軽い。

〈あー、なんでも東大の初優勝に多大な貢献をした、しかも六大学に大いに世間の目を向けさせ、リーグを盛り上げた。ちゅうことで特別に表彰してはどうかという話が出てるそうですよー。そのうち通知とかあるんじゃないすか。本決まりになったら、また取材にうかがいますわー〉

 思わず頰が緩む。連盟も粋なことをする。開幕前とはだいぶ違っているであろう理事の面々の神妙な顔が脳裏に浮かんだ。

〈カントク、そんじゃまた〉

 わざわざ連絡ありがとうございます、と伝えている途中で電話は切れた。


 初優勝祝賀パーティーはいよいよ佳境に入っている。これまで気にとめたことはなかったが東大の卒業生には芸能界で活躍する人もけっこういるようだ。名前までは知らないがテレビのドラマやCMで見かけたことのある妙齢の女性が司会者と一緒に笑みを振りまいていた。

〈監督、ついに夢が現実になりましたね〉〈ほんとうに、ほんとうによくやってくれました〉〈まさか、こんな日が現実に来るとは。いやあ長生きはするもんだね〉

 野木の胸のネームプレートを目ざとく見つけては、赤ら顔の何人もの来賓が握手を求めて近寄ってくる。野球部OBと名乗る面識のない年配の男性たちがたくさんいた。知らない顔に順番にビールを豪快につがれては立て続けに飲み干すものだから野木もしだいに酔いが回った。

 成功体験は媚薬だ。こうして優勝監督の役得に甘んじていると、どうあってもあの優勝のシーンが頭に浮かんでくる。胴上げの最中は頭が真っ白だったが、その前の場面は不思議なくらいによく覚えている。

 圧巻はなんと言っても棚橋が高山を三振に切ってとったクライマックスだ。ややサイドスロー気味に左腕から投じられた外角への真っすぐは、左打者にはさぞやボールの出どころが見えにくかったろう。俗に言う背中から球が飛んでくる感覚だ。さしものイチローばりの強打者も最後まで反応することができずスイングが途中で止まってしまっていた。鮮やか過ぎるほどのウイニングショットは六大学の球史に残るだろう。

 イチローばりの左打者を相手に左腕からの速球。 

 ――おい、ちょっと待てよ。

 なにかが野木の内耳にまたささやきかけた。端数が出るというか、すぱっと答えが割り切れない消化不良のような思い。そんな、こめかみをじりじりとさせるなにかが頭をもたげてきた。

 棚橋の言うとおり、理系人間は目の前の問題をすぐに解決しないとどうにも落ち着かない。

 来賓に飲み物をつがれないうちに野木はさっとグラスを手放し、選手たちの輪に戻っていた棚橋のもとに向かった。彼は日焼けしたブルドッグのような顔をした伊ケ崎となにやら笑い合っている。近くまで行ったところで選手と談笑中の来賓の人波に阻まれてそれ以上は近寄りにくくなった。仕方がないのでそこから声をかける。

「おーい、ゼットン、最後にもう一つだけ、ちょっと聞かせてもらっていいか」

 長髪がこっちを振り向いた。

「監督、ずいぶん、僕にご執心ですね。男にあんまり関心持たれるとなんだか気持ち悪いなあ。なんですか?」

 人の波をかき分けながら近づいてきた大男にまた質問を投げた。

「いつ、左投げの練習してたんだ」

「ああ、そんなことですか。練習なんかしてませんよ」

「うそをつくな! 私が運動生理学の専門家だということを忘れたのか。あれは左で投げてみました、というレベルの球じゃなかった。だから、高山だって手が出なかったんだろう」

 すまし顔のエースを見るとついむきになる。

 あの決め球となった投球は球速表示で138㌔だったと、あとで誰かから聞いた。厳しいコースに決まれば空振りがとれる球だ。ふだんから投げ込んでいないととてもこうはいくまい。

「いいか、人間の体ってのはなあ、繰り返し練習して脳や体に覚え込まさないと利き腕以外では効率よく投げられない筋肉機能や神経組織になってんだよ。おい、いつの間に、どこで、どうやって、左投げの練習してたんだ」

 突き詰めて解を求めなければいけない話でないことはわかっている。ただ、野木の内耳をひりひりさせているものがなにか知りたかった。これくらいのわがままは選手を預かる監督には許されるだろう。

「あははー」

 吹き出すように棚橋が笑い出した。

「簡単なことです。僕はキョウセイウワンなんです」

「キョウセイウワン?」

「そう、矯正右腕。つまり、僕はもともと左利きなんです」

「ということは、最初はサウスポー投手だったということなのか」

「そのままだとそういうことになったと思います。でも、親が左利きは生活に不便だからと小学校に入るころに右手を使うようしつけをしたんです。そうは言ってもリトルリーグで野球を始めたころは、やっぱり投げやすいので左で投げたりしていました。直球だけならいまも並みの投手くらいの球速で投げられるんですよ」

「対早稲田の作戦として狙っていたと?」

「いや、最初はそんな考えはなかったんです。でも、あの試合、中盤から僕はもうアップアップでした。五回以降は握力もなくなってきて真っすぐは走らないし、変化球でかわそうとしても思うように曲がってくれなかった。最終回のあそこは、たとえ敬遠しても五番に打たれる気がしたんです」

 棚橋が遠くを見る目になった。

「でも、良太からツーストライクをとれれば、ピッチャー優位の『左対左』のこの手があると思ってました。だから右で余力のすべてを使い切って追い込んだ。そして最後に左投げに賭けたんです。ただ、ファウルされればもうこの手は使えなかった。たとえもう一度左で投げても良太なら打つ。見逃し三振で決まってくれてよかった」

 大柄な若者がもっと大きく見えた。

 野木は歩み寄り、黙って両手で抱き寄せた。

「どひゃー、監督、気持ち悪いからやめてください。おーい、イカ、このお兄さん、なんとかしろー」

 大柄な男の悲鳴に気づいたパーティー会場が爆笑に包まれた。

                 (了)

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