マヤ・ファンタジー

三坂淳一

マヤ・ファンタジー 一の巻

『 マヤ・ファンタジー 』


三坂淳一


一の巻


 「竜王丸さま、ぼちぼちそこらへんで今日はお止めなされ」


 重蔵が庭先で手裏剣打ちの鍛錬に没頭している若者に声をかけた。

 「まだ、夕方まで時間はたっぷりあるぞ」

 手持ちの棒手裏剣を打ちつくした若者は笑顔で振り返りながら、答えた。


 年齢のころは十六、七といったところであろうか、笑顔からこぼれる白い歯が眩しい。

 重蔵は目を細めて若者を見詰めた。

重蔵はこの若者が好きだった。

殿がご存命であれば、どんなにか誇らしげにお思いになられたことか。


 「そのように仰せられても、あまり根を詰められますると、夜の学問の時、うとうととされ、金明さまに怒られまするぞ」

 「余計な心配じゃ、重蔵。それに、金明の講義にうとうととする余裕はないわ。まして、今日からは孫子の兵法の講義が始まるのじゃ。孫子の兵法、楽しみじゃ」

 「と申されますると、四書五経は、はやお済みで?」

 「丁度、きのうで終わった。今日から、いよいよ、孫子さま、呉子さまの兵法を学ぶこととなる」

 若者は手裏剣が刺さっている板に近寄り、手裏剣を抜きながら、答えた。


 「しかし、それにしてもこの棒手裏剣は打つのが難しい。先月の十字とか八方手裏剣は簡単に刺さっていたが、この棒手裏剣はなかなか上手に刺さるものではない」

 「十字剣、八方剣は相手をひるませる程度のものでしかござりませぬ。殺傷力となりますと、この棒手裏剣の方が数段上でござる。棒手裏剣の場合は、何と申しましても、相手との間合いが大事でござる。間合いが短かすぎても、長くても、棒手裏剣の先端が正しく正面を向きませぬ。そのためには、棒手裏剣自体の出来具合も修練によって正しく掴み、適正な間合いに敵を置いて、即座に打たなければなりませぬ」


 若者は歩数を測り、また棒手裏剣を打ち始めた。カツッ、カツッという快い音を響かせて、板に突き刺さっていく。竜王丸さまは武術の天才であろう、と重蔵は目を細めながら思った。


 若者は武芸に稀有な天稟を示した。武士の表芸である剣術、槍術、弓術はおろか、重蔵の忍びの術もことごとく修得していった。五遁の術、忍びの体術、火術、忍薬、骨法術、拳法といった重蔵が修得している術を天性の資質で容易に修得していった。


 「大将となるべきお方に忍びの術はふさわしくないとのお考えもござりましょうが、古くは、大伴細人という忍びをお使いになられた聖徳太子、多古弥という忍びをお使いになられた天武天皇の御喩えを出すまでもなく、忍びを活用され、治世の用に立てられた貴人は多うござりまする。甲賀流の祖となられました天慶年間の武将の甲賀三郎さま、あの源義経さま、楠木正成さまなぞはご自分も忍びの達人でござりました。竜王丸さまの今後のためにも、忍びの術、覚えておいて損はござりませぬ」

 重蔵は口癖のように繰り返し、この若者に語った。


 「お茶が入りましたよ。竜王丸さま、重蔵さま、少しお休みになられたら」

 振り返ると、小袖、かけ湯巻姿の春日が微笑んで立っていた。

 「ほい、竜王丸さま。春日さまのお茶だで。いただきましょうぞ」

 「義清、弥兵衛はいずこに? 昼から見ておらぬが」

 「昼から、村に野菜なぞ求めに行っておりまする」

 「竜王丸さま。噂をすれば何とやらでござる。ほら、南部、北畠ご両人とも、あそこに戻られてござるわ」

 重蔵が目で知らせた。見ると、野菜を入れた竹網を抱えて門をくぐり抜け、入って来る二人が見えた。


 「義清さま、弥兵衛さま。お帰りなされませ。今日はどのような菜を購われましたか?」

 春日の問いに義清が竹網の中を見せて、笑いながら答えた。

 「良い椎茸がござった。それに、里芋と葱も買うてまいった」

 「それなら、今夜は芋汁にでも致しましょうか」

 「おお。それがよい。春日さまの芋汁は美味しうござるによって。味噌は身共の味噌をお使いなされ」

 「いやです。重蔵さまのお味噌は塩辛いばかりで体には毒ですもの」

 「ちと塩辛いことは塩辛うござるが、大蒜、葱など体によいものも混ぜてござる」

 「重蔵さまが何と仰せられても、味噌はこの春日自慢の味噌を使いまする」

 

二人の会話を竜王丸はお茶を飲みながら聞いていた。

ふと、耳を澄ました。重蔵に言った。

 「重蔵。お主の仲間が参ったようだ」

 言われて、重蔵も耳を澄ました。

 「確かに。少し、お待ちを」

 重蔵は裏庭に歩いて行った。やがて、一人の行商人を伴って戻ってきた。

 

「弥平次と申す者でござる。笠のままでご無礼をつかまつる」

 「弥平次でござる。忍びの常とて、面体を露わにすることは平にご容赦下されたく」

 「弥平次には諸国の情勢を探らせてござる。話の中に、妙な話がござっての。申せ、弥平次」

 「かしこまってござる。数日前に立ち寄った村の村人から聞いた話でござるが、龍神沼という沼がござって、時折り、龍が出るとの話でござる。夜、沼から龍が出て、天に駆け上り、明け方、天から沼に戻る、との話でござった。目撃した村人もござるが、恐ろしく、その後は二度と沼には近づかないとのことでござる」

 「はて、玄妙な話であることよ。神代の頃ならともかく、今の世に龍などとはのう。竜王丸さま。竜王丸さまはいかがお考えで?」

 「重蔵の言はもっともである。龍は迷信の世界での話であり、今の世に居るとは思われぬ。何かの企みでもあるのか。時に、その龍神沼のある周辺の村で何か変わったことはないか?」

 「恐れながら、竜王丸さまに直に申し上げまする。この弥平次が調べた限りでは、近在の村に龍によるものと思われる被害なぞは出ておりませぬ」

 「無害な龍ということか。龍が本物であれば、何か吉兆の異変が出るはずであろうが」

 「その龍神沼はここから遠いのか?」

 弥兵衛が訊ねた。

 「いえ、それほど遠くはござりませぬ。たかだか、二十里あるかなしかの距離にござりまするが、なにぶん山の奥にござれば、三日ほどはかかるかと存じまする」

 「行って、退治してやりたいものぞ。近頃、腕がむずむずしているところじゃ」

 義清が刀を引き付けながら言った。

 「まあ、義清さま。東郷さまが聞いたら、お怒りになられまするぞ。お家再興という志を忘れたのか、と」

 「春日さま。それはそれ、これはこれ、じゃ。もう、竜王丸さまも元服を済ませ、武芸に関してはとうに我らを抜いてござるによって。竜王丸さまの腕試しの良い機会かとも思われまする。春日さまと重蔵殿の手前味噌の話を聞いているよりは、ましでござる」

 義清の言葉を聞いて、竜王丸も思わず膝を乗り出して言った。

 「腕試しの良い機会、と申すか。義清もそう思うか。実は、この竜王丸もそう思っていたところだ。龍退治、何と面白そうではないか」

 「されど、竜王丸さま。東郷さまのお許しが出るかどうか。恐らく、お許しは無理でござろうなあ」

 重蔵は、東郷金明の謹厳な風貌を思い浮かべ、溜め息を吐きながら呟いた。


 その夜のことである。


 「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦さをせずに、敵の国を勝ち取ることを最善とす。情報を集め、時には計略を用いて、簡単に勝てる状況をつくること、竜王丸さま、孫子のこの言葉、ゆめゆめお忘れなきよう」

 東郷金明は第一回目の孫子の兵法講義を終えるにあたり、このように竜王丸に語り聴かせた。

 「あい分かった。時に、金明。この竜王丸も、はや十七となった。そろそろ、諸国を行脚し、修行の旅に出たいと思う。金明、そなたの考えはいかに?」

 「早い、とは申しませぬ。竜王丸さまは既に文武両道に優れた武士になってござる。そろそろ、諸国を巡る修行の旅に出る時かと思いまする。が、もう少しお待ちなされ。せめて、この孫子の兵法、呉子の兵法の講義が済むまでは辛抱なされ」

 「心得た。そなたの講義が済むまでは待つことと致そう」

 「ただ、お一人の旅はいけませぬ。お家の再興を志す大切なお体でござりますれば、南部、北畠の両名をお連れなさいませ。それならば、この東郷金明、安心にござりまする」


 「それはようござりましたなあ。あと、たかだかひと月のご辛抱でござりまするな。義清殿、弥兵衛殿、その間ゆるりと旅の支度を整えておかれた方が宜しかろう」

 満面に笑みを浮かべて、重蔵が言った。

 「重蔵はいかがする?我らと共に行くつもりは無きか?」

 「はっ。ありがたいお言葉ではござりまするが、はや重蔵めは年を取り過ぎましてござりまする。家と旅では異なりまする。何かと足手まといになりましては、心苦しゅうござりますれば、ここにて東郷さまと共に、お留守を預かることと致しまする。さりながら、万一の場合もござれば、先日の弥平次を陰供としてお付け致そうと存じまする」

 「弥平次は手だれか?」

 「はい、竜王丸さま。この重蔵が保証致しまする。重蔵若き頃の忍びの力をはや備えておりまする」

 「おう、それなら、心安いことじゃ。さて、手裏剣の修練に戻ることと致そう」


 竜王丸は棒手裏剣を打ち始めた。その様子を眺めながら、義清と弥兵衛は嬉しくてならぬといった表情をしていた。竜王丸との諸国行脚の旅を想うと、自然と笑みがこぼれてきた。

 「重蔵さま。先ず、旅の初めは、龍神沼の龍退治となりまするな。時に、龍に刀は通用するものでござるかのう」

 「義清殿。刀より、むしろ矢の方が宜しかろうと存ずるが」

 「弓か。それがし、弓はあまり得手ではござらぬ。弥兵衛殿、汝はいかに?」

 「それがしも、あまり得手ではござらぬ」

 「ご両人、ご心配めさるな。弥平次はなかなかの弓の得手者でござる。あッ、忘れており申した。ほれ、この目の前に名人が居り申した。竜王丸さまほどの弓の名手は未だ見たことがござりませぬ」

 「何と申される。竜王丸さまは弓もお上手か」

 「まさに、武芸百般に秀でておられる。お家再興という大願が無ければ、武芸者として一流を開かれるお方でござるよ」

 竜王丸が打つ棒手裏剣は糸を引いたように板に突き刺さっていった。三人はその光景を躍るような心で見詰めていた。


 それから、一ヶ月ほどが過ぎた。このひと月は長かったものよ、と竜王丸は東郷金明の講義の最終を聴きながら思った。

いよいよ、明日は旅に出る。

旅は竜王丸にとって初めての体験となる。その日の宿が無ければ、樹の下か洞穴を探して仮の褥とする、その場合の野営の仕方はこう、寝方はこうでござる、と重蔵からの教えも聴いた。

このひと月の間、夜の学問は除き、朝の武芸鍛錬、昼の忍びの修練、全て実践に即していた。戦国の世の倣いで、夜盗も横行している。物騒な世情である。武者修行と称して、武芸の決闘に名を借りて、敗者から金品を奪う輩も居るとか、いろいろな噂話も聴いた。


 「竜王丸さま。いよいよ、明日から諸国修行の旅にお出かけになりますること、まことにおめでとうござりまする。明日お召しになる烏帽子、直垂、袴、足袋の類、ここにご用意致しましてござりまする」

 春日が去った後、部屋で竜王丸はわくわくする思いで、明日の旅立ちの品々を見ていた。太刀、腰刀、扇子も揃えてあった。重籐の弓と矢も用意されていた。

 はッ、とした。人の気配を感じたのである。

 「弥平次であるか」

 「はッ」

 「襖を開けて、こちらに来よ」

 襖が静かに開けられ、農民姿の弥平次が現われた。

 「面を上げよ。明日からは主従となる身じゃ。もう、遠慮は要るまい」

 弥平次は面を上げた。存外若かった。二十四、五の若者であった。

猿に似た、ひょうきんな顔をしていた。

 「随分と前から、隣に居たのであろうが、気付かなんだ。わざと気配を出すまではのう」

 弥平次はにこっと笑った。笑うと少年みたいな顔になった。

 「そちと重蔵の関係を尋ねてもよいか」

 弥平次は少し躊躇したが、思い切ったように言った。

 「父でござる」

 言われて、竜王丸は弥平次の顔を見詰めた。よく見れば、なるほど、重蔵の面影をどこか残している容貌であった。

 「重蔵に子が居たとは。して、忍びの術は重蔵に習ったのであるか」

 「いえ、忍びはおのれの子に術は教えませぬ。あまりに苛烈な修行故。父の弟弟子に習いましてござりまする」

 「なるほど。明日からは四人で旅をすることとなる。力を合わせて、愉快な旅としようぞ」

 「承ってござりまする」

 弥平次がまた隣室に消えた。襖を閉めた途端、弥平次の気配は絶えた。見事な忍びよ、と竜王丸は感じた。


 翌朝はよく晴れていた。


 朝の食事に、鯛の塩焼きが付いた。麦と米を混ぜた飯に、茄子の煮物、大根の漬物、ひじきの煮付け、大根の汁が付いた。

 「ご馳走でござるな」

 義清が嬉しそうに言った。

 「弥平次さんとやらは、いずこに?」

 春日が弥平次の膳を置きながら問うた。

 「弥平次は陰供でござれば、膳は不要にてそうろう」

 重蔵が春日に言った。その言葉を押し止めるように、竜王丸が庭先に向かって言った。

 「弥平次。これへ参れ」

 竜王丸の言葉に、弥平次がためらいがちに庭先に姿を現し、ひざまずいた。

 竜王丸が縁側に立った。一振りの短刀を弥平次に差し出した。

 「弥平次。陰供は不要。本日以降は我が家臣とする。主従の誓いとして、この短刀を与える」

 弥平次は驚き、思わず重蔵の顔を見た。重蔵が軽くうなずいた。

 「はッ。ありがたき幸せ、この弥平次、粉骨砕身し、お仕え致しまする」

 弥平次は眼を潤ませながら、本当に嬉しそうな顔をして、その短刀を恭しく拝領した。

 「さあ、竜王丸さまの家臣となった以上は、我らと同輩でござる。されば、こちらへ参られい、弥平次殿」

 弥兵衛が膳の方に手招きをして、弥平次を招じ入れた。

 

「重蔵。弥平次のことを話してよいか?」

 重蔵は一瞬怪訝な顔をしたが、竜王丸の意図を察し、みるみる頬が紅潮した。

 「されば、身共から申し上げた方が宜しきかと思いまする。弥平次は身共の子でござる」

 「おう、何と。重蔵殿にお子が居られたとは」

 義清が驚いたような声を発した。

 「まあ、それはそれは。重蔵さまもなかなか隅にはおけませぬな」

 春日も驚いた様子であった。

 「重蔵殿、晴れて親子の名乗りも済んだわけじゃ。思いがけないことではあったが、竜王丸さまに仕える者が一人増えたわけであるから、めでたい。これはめでたいことである」

 東郷金明も謹厳な顔を崩して破顔一笑、大きな声で言った。


 朝餉を済ませた竜王丸一行四人は東郷金明、西田重蔵、そして春日に見送られて、諸国行脚の旅に出た。

 南部義清は鹿島の太刀の流れを汲む剣の達人であり、年齢は三十歳であった。

北畠弥兵衛は槍の達人で年齢は二十八歳であった。

西田弥平次は二十五歳とのことであったが、どうも本当の年齢ではなさそうな感じであった。或いは、三十近くになっていたかも知れないが、生来の童顔故、二十歳と称しても通用したと思われた。


 「忍びの修練は厳しいものと聞いてござるが、まことか?」

 歩きながら、義清が弥平次に訊ねた。

 「さようでござる。それがしの場合は、五歳の時から始め、もうかれこれ二十年になりまするが、父重蔵の目から見たら、まだまだという修行の身でござるによって」

 「重蔵殿の若き頃の働きは、春日さまからいろいろと聞いてござる。敵方の陣中に紛れ込み、弓の弦を全て切り捨て、合戦の役には立たないようにした武功とか、屋敷に忍び込み、天井裏から部屋に下り立ち、秘密の書状をまんまと盗み取った話とか、いろいろと聞いてござるよ。まことに優れた忍びであったと春日さまはおっしゃっておられた」

 「ありがたいお話ではござるが、優れた忍びには逸話無しというのがそれがしのような忍びの者が理想とする忍びでござる。誰にも知られず、仕事をして、ひっそりと生き、ひっそりと死んでいく。逸話は残さず、武功は全ておのれだけの胸に秘めて死んでいく忍びがそれがしの理想の忍びでござれば」

 「そのようなものでござるか。それがしのような武士の生き方とは反対でござるなあ。武士は合戦において人に知られた武功を立て、名を残し、死ぬ時は華々しく散っていくというのが理想でござるによって」

 義清の言葉に、弥兵衛も我が意を得たりとばかり、頷いた。


 「ただ、恥ずかしながら、それがし未だ武功を立てたことはござらぬ。竜王丸さまとお家再興で武功を立てるのが今のそれがしの夢でござる」

 「それがしも、義清殿と同じ夢を持ってござる。竜王丸さまをお助けして、いつかは天下に北畠弥兵衛の名を轟かせたきものでござる」

 竜王丸は微笑みながら、三人の話を聴いていた。名を挙げることに関しては、竜王丸とて南部義清、北畠弥兵衛の二人と何ら変わることは無かった。幼くして父母を喪った竜王丸に父母の面影として残る記憶は無かった。東郷金明、西田重蔵、春日によって語られる父母が全てであった。父は家の再興を果たす前に流行り病に罹り、若くして世を去った。

 母も同じく疫病に罹り、幼い竜王丸を残してこの世を去った。父母の無念を晴らし、宇多源氏名流の佐々木の家名を再興することが竜王丸の夢となっていた。そのためには、おのれ自身が文武両道の武士棟梁となることが肝要であった。優れた棟梁の下には、優れた武士が集まる。 

今は、南部義清、北畠弥兵衛、西田弥平次という三名の従士しか居ないが、おのれを磨くことにより、おのれの為に奉公してくれる武士を十倍、百倍集めたいものと竜王丸は思っていた。

佐々木・京極氏の家名を再興して、国を樹て、領民を安穏無事に暮らさせること、おのれの使命はそこにあると思う竜王丸であった。


 道中、いくつかの村を通り過ぎた。戦乱の世とて、村は疲弊していた。

どうにも宿が見つからず、神社の社の軒先で一晩過ごした。

商いで旅をしている行商人も見かけた。

中に、陸地から遠い、山深い里ながら、魚を売り歩く行商人が居た。

晩の野営の菜として買おうとした義清を弥平次が止めた。

 「どうして、止めるのじゃ。かなり、生きも良さそうじゃぞ」

 「お止めなされ。魚の肉ではござりませぬによって」

 「それならば、何の肉であろうか?」

 「くちなわ、でござる」

 「くちなわ。蛇のことか」

 「さようでござる。時々、あの者は道を外れ、野原に入って行くはずでござる。野原で蛇を捕らえ、その場で皮を剥ぎ、ぶつ切りにして魚の肉と称して売るために」

 「そういうものか。蛇の肉ということであれば、それがし、ご免こうむる」

 「弥平次。よく知っておりゃるな。そなたも売り歩いた方か」

 弥兵衛が冷やかした。弥平次は笑って答えなかった。これが弥平次の答えかと竜王丸は思い、微笑を口元に湛えた。


 その夜は、運良く、百姓の家に泊まることが出来た。こんなものしか、出せませぬが、と用意してくれた夕餉は玄米粥と梅干、高野豆腐とふきの煮物であった。

 「時に、あるじ殿、龍神沼を知っておりゃるか。このあたりと聞いておるが」

 「知っておりまする。山を二つばかり越したところがその龍神沼でござる。はて、そこに行かれるおつもりでござろうか」

 「さよう、龍神沼の龍を見に」

 義清の言葉に、百姓は滅相も無いという顔をして頭を振り振り話した。

 「おやめなされ。悪いことは申しませぬ。おやめなされ。龍を見るなぞと酔狂なことは」

 「あるじ殿は見てござるのか?」

 「おのれは見てはおりもうさぬが、もう少し先の村にて見た者がおりもうす」

 「その者の話を聞いたことがござるか?」

 「はい、聞いておりまする。何でも、明け方、ふと目を覚まして、庭に出て、用を足していると、空で妙な音がする。そこで、見上げてみると、長いものが空を飛んでおったと。びっくりして腰をば抜かしていると、その長いものは龍神沼の方に飛び去り、見えなくなったということですじゃ。暫くして、ばちゃっという水音がしたとのことでおりゃる。明くる日の夜、龍神沼にその村人は出かけたということでおりゃるが、今度は沼からその長いものが飛び出して来たということでござった。光るものが二つあり、丁度、龍の眼であったそうな。その者は確かに見たものは龍であったと話してござるが。今どき、龍なぞというのは、信じられないものよと村人は話しておりゃったが。果たして、どうしたものでござろうか。さりながら、龍神沼に龍を見に行くなぞという酔狂な真似はおやめなされよ」


 「明日は、ここのあるじが言った龍の目撃者の居る村に行くこととなる。実際に見た者の口から龍の実際の姿を聴きたいと思うが如何であろうか?」

 「竜王丸さま。それが肝心のところと存ずる。あるじが語ってござる、長いものとか眼のような光るもののもっと詳しい話が必要でござれば」

 枕を並べて、雑魚寝をしながら、竜王丸たち四人はいろいろと龍のことを語り合った。

天を天翔けているというのは事実であろうが、そのようなものは鳥以外では見たことが無い。 

また、沼から飛び出たとも云う。鳥でも無さそうだ。一体、何者であろうか。そんなことを語り合っている内に、ここ二日間の長旅での疲れもあったろうか、いつしか四人は眠り込んだ。


朝になった。

四人は玄米飯に干しいわし、昆布とごぼうの煮物、大根汁といった心づくしの朝餉を済ませ、龍神沼へと旅立った。弁当は梅干を握り込んだ姫飯(白米)であった。

「いろいろと世話になり、かたじけのうござった。それと、この手紙、旅の行商人をつかまえて、この宛先のところへ持参させてはもらえないだろうか」

弥平治が礼金と一緒に、重蔵宛の書状を主に託した。

「これは過分に過ぎてござる」

「いや、せめてもの心づくしでござる。気持ちよく、受け取って下されい」

「それならば、ありがたく。手紙の件も、確かに承ってござる」

百姓一家の見送りを受けて、竜王丸たちはこの村を去った。


険しい山をひとつ越え、小さな村に着いた。弥平治が道を歩いていた村人をつかまえ、龍を見たという村人のところに案内をしてもらった。

見たという村人は実直な若者で嘘をつくような男には見えなかった。

「仕事中のところ、すまないが、龍神沼の龍のことを話してはくれまいか」

その若者は昨日の百姓家の主が語ったことと同じような内容の話を竜王丸たちにした。

「あい分かった。して、そなたが見た、長いものとはどのようなものであったのか?」

「長いもの、と申しましたが、今となってはどうも自信が持てませぬ。長く見えたのかも知れませぬ。何と申しましても、飛んでいく速さが速すぎて、本来よりも長く見えたのかも知れませぬな」

「それはありうる話でござるな」

弥平次が大きく頷いた。

「龍ならば、ほれ、蛇のようにくねくねと飛ぶはず。この点は如何であったか?」

「いんや、くねくねとした飛び方ではござりますなんだ。一直線に飛んでござったわ」

「これはまた、妙な話であることよ。して、二つの光る眼ということであったが、これは如何であったか?」

「これは、確かに二つござって、おのおの光ってござった」

「光りかたで妙なことはなかったかのう?」

「それよ、それよ、妙なことは。その光は眼から出て、龕灯のように前方を照らしてござった。このような妙な光がござろうか」

「それも妙なことであるなあ。龍の眼は輝くことはあろうが、照らすという話は過去に聞いたことはござらぬな」

弥平治とその若者の会話を聴いて、竜王丸たちは一様に首を捻った。


「竜王丸さま。どうにも合点がいきませぬな」

「そうじゃ。どうも、龍ではなさそうな感じを受けるが」

「そのものは、夜現われるとのことでござった」

「なれば、義清、今夜龍神沼にて見張ることと致そうか」

「それがようござりまする。龍神沼に着きもうさば、直ちに野営の支度を致しましょうぞ」


龍神沼は周囲を鬱蒼とした森に囲まれた沼であった。いかにも龍が棲みそうな神秘的な佇まいを見せていた。昔、日照りが続いた時があり、一人の娘が雨乞いをしながら入水して命を絶ったと云う。その後、娘は龍となって昇天し、雨を壮大に降らせたという伝説がその名の謂れであった。険しい山道が上り坂となって、上りきったところが龍神沼であった。竜王丸たちは額に滲む汗を拭きながら、龍神沼を眺めた。水は殊の外澄んでおり、弥平次が少し飲んでみた。

飲めるとのことであった。沼の水で喉を潤し、握り飯で腹ごしらえをして夜を待つこととした。


「弥平次殿。そなたの忍びの術には流派がござるか?」

義清が薪を抱えて戻ってきた弥平次に訊ねた。

「ああ、ござりますとも。戸隠流でござる。始祖は仁科大助というお方でござる。別名、戸隠大助とも名乗っておられましたようで、そこから、流派を戸隠流という名になったのかも知れませぬな」

「昨日から気にはなっていたのであるが、そなたの足音は聞こえぬな。これも術の一つでござろうか?」

「お気づきでございましたか。最初の修練に、足並み十法という修練がござって、これが忍びの体術のいわば基本でござる。抜き足、摺り足、片足、小足、大足、刻み足、足り足、狐走り、犬歩み、うさぎ歩みといった技でござる」

「いわゆる、ぬきあし・さしあし・しのびあし、といったことであるな」

「隠れる術にもいくつかござる。狐隠れ、狸隠れ、木の葉隠れ、観音隠れ、鶉隠れといった術がござって、それぞれに必要な体術がござる」

「狐隠れとはいかなる術か?」

「狐は狩人に追われると、水中に飛び込んで、水草や蓮の葉や藻をかぶり、鼻先だけ出して隠れ通すという知恵を持っていると云われておりまする。忍びの術の場合は、潜水し、竹筒だけ空中に出して呼吸する術を言いまする」

「して、狸隠れとはいかなる術か」

「これは、木に登る登法の修得が必要でござる。狸の場合は狩人に追われると、狐とは異なり、樹に登って、樹の枝と木の葉の繁みに姿を隠すと云われておりまする。すばやく、大木に登り、姿を隠す術でござる」

弥兵衛も焚き火の支度をしながら聴いていたが、興味のあるところと見えて、弥平次に訊ねた。

「時に、弥平次殿、そなたは忍び道具を持参してござるか」

「いかにも、持参してござる。手裏剣、撒き菱、くない、しころ、錐の類でござるが」

「あまり、龍退治の道具とは思えぬが」

「いかにも、弥兵衛さまの仰せの通り、龍に通用する武器とは思えぬでござるな」

三人はからからと笑いあった。


夜が来た。

四人は早めに夕餉を済ませ、焚き火の火も消して、目を凝らして沼の様子を窺った。

夏のことでもあり、虫が多かった。弥平次が懐から皮袋を取り出した。中から細い棒のようなものを取り出して火を点けた。それを四人の潜むあたりに何箇所か置いた。不思議と虫が寄り付かなくなった。虫除けの忍薬と思われた。

時折り、夜の鳥が鳴く他は音とて無く、沼は静謐さを保っていた。静かな夜であった。このまま、無為に時が過ぎていくのかと思われた、その時であった。


静寂が破られた。

沼の中央が急に盛り上がった。

ザアッという音と共に、飛び出すものがあった。

それは一直線に天に駆け上り、一瞬の内に闇空に姿を消した。


「見たか?」

「確かに、見ましたぞ。竜王丸さま!」

「あれは、龍ではない」

「仰せの通り、龍ではござらぬ」

「大根のような形をしてござった」

「白い色をしてござった」

「二つの眼から光が放たれてござった」

「一直線に空に駆け上りましたぞ」

「何という、すばやさ。とても、この世のものとは思われませぬ」

四人共、今見た、この世のものとは思われぬ光景について口々に叫んだ。

茫然自失の四人とは別に、沼は微かにさざなみを漂わせながら、元の静謐さを取り戻し

つつあった。


四人は、不思議なものが沼に戻ってくるのをひたすら待った。目を皿のようにして、周

囲の空を見上げた。その不思議なものはなかなか戻って来なかった。

 明け方になって、漸くその不思議なものはキーンという音と共に戻って来た。

 姿を見せたと思った一瞬、それは斜め上方から沼の中央にざんぶと飛び込んで、あっという間に姿を消した。

 竜王丸たちは興奮してそれぞれに見たことを語り合った。

 「やはり、龍ではござらぬ」

 「白い大根でござるわ」

 「長さは二十尺ほどでござった」

 「頭は五尺ほどもあったかと」

 「尻の方に、小さな出っ張りがござった」

 「翼のような出っ張りでござったわ」

 「やはり、眼から光線を発しておった」

 「しかし、それにしても素早い。一瞬の間でござるわ」

 「沼に潜って、調べようではござらぬか」

 「おう、それは良い。潜んでいる姿をじっくりと見たいものじゃ」

 「身共は、水練はどちらかと言えば、苦手の方でござる」

 「義清さま、安心めされい。この弥平次、魚でござる」

 「それでは、皆の者、沼に入る支度をせよ」

 「竜王丸さま。畏(かしこ)まってそうろう」


 やがて、四人は褌姿となって、沼の水に体を入れた。夏のこととて、沼の水はさほど冷たくはなかった。それぞれ、水中に潜り、不思議なものの探索を始めた。藻が生え、魚が泳いでいる他は別に異常は見受けられなかった。

 「弥平次、何か、あったか?」

 「いえ、竜王丸さま。何もありませぬ」

 「あちらの方も調べよ」

 「承(うけたまわ)ってござる」

 「義清、大丈夫であるか?」

 「はっ、何とか無事でござる」

 「弥兵衛、そちらはどうであるか」

 「それがしも潜ってはおりまするが、特に何もござりませぬ」

 

 一刻も探したであろうか。

 弥平次が竜王丸を呼んだ。

 「竜王丸さま。こちらにおいでくだされ」

 「何か、あったか?」

 「別なところに繋がる抜け道のような口がござる」

 竜王丸たちが弥平次のところに近づいた。その口は水面から十五尺ほど下がったところにあり、幅は二十尺ほどはあった。この口ならば、先刻見た不思議なものはたやすく往来できるものと思われた。


 「よし、この口を潜り抜けてみることとしよう。弥平次、義清を手助けせよ」

 「承ってござる。さ、義清さま、この綱におつかまりなされ」

 「すまんのう、弥平次殿。世話をかける」

 竜王丸たち四人は弥平次を先頭に潜り始めた。口を潜り抜け、上方に向かった。



一の巻 終わり
















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マヤ・ファンタジー 三坂淳一 @masashis2003

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