圧縮世界ライガンド
寝る犬
第一章:黒の武器編
第01話「ライガンド」
「
「あ、はい」
駅前の眼科医院の待合室。
長椅子の隅に座っていた黒縁メガネの少年が、スマホから目を上げると、少し小さな声で答え立ち上がった。
「失礼します」
大雅が診察室に入ると、初老の医師が椅子を指し示す。
軽く頭を下げて椅子に座ると、小さいが立派な箱を机の上に置き、話し始めた。
「はい、これが君のECNコンタクトレンズ。あっちで看護師さんの指示に従ってつけてみて。」
アイサイト・コレクション・ナーバス・コントロール・コンタクトレンズ、俗にECNレンズと呼ばれるこのコンタクトレンズは、従来の光学的な矯正だけでなく、直接視神経へ伝達物質を出力して視力を回復させる新型で、国に認可された5年ほど前から若者層を中心に局地的な流行を見せ、今では視力矯正以外の機能も付加された製品が各社から発売されていた。
「いてて……あ、入った! ……うわぁ……」
目の中に異物を入れるという初めての体験に5分ほど悪戦苦闘した末に、大雅はやっとコンタクトを装着し、突然鮮明になった世界に感嘆の声をあげる。その時、視界の右下隅に、小さなオレンジ色の文字が点滅した。
〈Connecting...〉
その表示は約10秒ほど続いた後、唐突に 〈Connection failed.〉 の表示に変わり、スッと消えた。
「……すみません、なんか右下にエラー出てたんですけど?」
「あ、スマホのアプリと連携するタイプでしたよね。どのアプリにするかや、インストール、連携の方法などは、法律上病院から指定することが出来ないので、マニュアルを見て自分で設定してください。」
看護師さんに細々した説明を受け、それから更に30分。大雅は病院の待合室で標準アプリをインストールし、オンラインマニュアルの初めて見る単語と格闘する。
「……クオリア・コネクト?」
思わず口に出してしまい、慌てて周囲を見渡すが、幸い待合室には大雅を気にしている人は居なかった。
いつも通りだと大雅は思う。
誰にも気に留められないいい子、どうでもいい子、大雅はいつもそうだったし、自分にはそう言う振舞いが求められている事も分かっていた。
気を取り直して設定を続ける。その他にも分からない単語や設定項目は沢山あったが、その殆どを無視しつつ、なんとか無事ECNレンズとの連携と初期設定まで完了した大雅は、荷物をまとめて立ち上がった。
(アプリの設定画面が途中からマニュアルと全然変わっちゃったのには驚いたけど、とりあえず使えるようになって良かった。機能が多すぎて意味がわからないところもあるけど、これから少しずつ勉強しよう……)
メガネをケースにしまい込み病院を出ると、色も輪郭も鮮明になった世界に心を踊らせながら、大雅はその辺をぶらぶらすることに決めた。
ECNレンズの基本的な操作方法はどれも同じだ。神経から発生した微弱な電気信号を感知して、ECNレンズは動作する。
Bluetooth CLASS18で接続されたスマホのアプリは、連動して各種の通信、演算などの主要な処理を行う。
スマホからのフィードバック情報を受けたECNレンズは、視神経伝達物質を放出して、擬似的に視野上に映像や文字情報を表示するのだ。
(これが心拍数に血圧。で、これが気温。湿度。現在地。カレンダーに、天気。こっちは……ニュース? あと、マニュアルか。情報多すぎだな……少し整理しなきゃ。……これで皆僕のこと少しは興味持つだろ)
眼前に広がるスマホの画面がオーバーレイ表示されたような世界に見とれながら、大雅はゆっくり歩いた。
「あ、すみません」
表示に注意を向けすぎて、人にぶつかりそうになる。本来ならアプリには表示するデータ量などの規制がかかっているはずだが、大雅の目の前には沢山の情報が表示されていた。
(あぶないな。すこし座って設定しよう。この辺にコーヒーショップでもあればいいんだけど……)
大雅の思考に反応し、ECNレンズは最寄りのコーヒーショップまでの道順と距離を表示する。
(うわ、便利だなぁ。よし、ナビ開始)
「……まで……開始します」
ポケットの中のスマホから、ナビ音声が聞こえる。慌ててBluetoothヘッドセットのスイッチをONにして、耳にかけた。
その途端、けたたましく耳に響く警報音。
視界の中央には〈EMERGENCY〉と書かれたフレームに囲まれた〈
(え? なんだ?)
カウントが0秒になると同時に世界は色を失い、街の喧騒も遠のく。
空間がガラスのように砕け散り、破片が溶けるように消え去ると、そこは疎らに街路樹が立ち並ぶ見知らぬ草原の道端だった。
視界に表示されていたウィジェットが全て消え、代わりにまるでゲームのようなステータスが表示される。
〈名前:大雅 レベル:1 HP:240/250 TP:0/0 エリア:あおば区〉
その他にもいくつかの表示がなされていたが、確認している余裕はなかった。
突然足元に突き刺さった3本の矢に、大雅は驚いて尻餅をついていた。
「な、なんだこれ! なんなんだ?!」
叫ぶ大雅に向かって木立の影から小柄な人影が飛び出し、低く真っ直ぐに構えられたショートスピアを突き出す。
大雅は身を守るように、咄嗟に正面へ手を伸ばした。
ジジッと言う電気の流れるような音とともに、伸ばされた大雅の手に
その刀は、刃先の動きだけで突き出されたショートスピアを軽々と弾き飛ばす。
「きゃあっ!」
槍とともに吹き飛ばされた人影は、腕から糸を引くように赤い血を迸らせ、悲鳴をあげて街路樹に叩きつけられた。舞い落ちる枯れ葉の中に、三つ編みの髪を長く後ろに垂らした、純白の鎧を纏った少女が腕を抑えてうずくまっていた。
大雅は手に握られた刀をあらためて眺める。刃渡り70cmほど、血に濡れた刀身から拵えまで、ぬばたまの如き漆黒の刀は、美しいと同時に禍々しさを感じさせた。
刀に引き起こされるようにして立ち上がると、襲ってきた少女を警戒しつつゆっくりと近づく。その時初めて、自分が刀と同じような漆黒の鎧を纏っていることに気付いた。
「……大丈夫?」
大雅がそう声をかけると、腕から血を流した少女は彼を見上げる。その大きな瞳は黒い刀に吸い寄せられるように見開かれ、体は小刻みに震えていた。
武器もなく、純白の鎧を自身の血で赤く染めた少女の体からフッと力が抜ける。
突然目の前に〈
「……っく」
自分を中心に世界が収縮するような感覚を感じた大雅は、気が付くと元の街に戻っていた。
足元がふらつき、ビルの壁に寄りかかる。視界の隅に表示されている時間は全く変わっていなかったが、心拍数は185bpmを示していた。
(なんだったんだ今の? 夢? 幻覚? それと……あの女の子……)
先ほどの少女の恐れるような驚いたような、あの瞳を思い出す。
(可愛……かったな)
「あなた、何者?」
急に声をかけられ壁から体を起こすと、目の前には幻覚で見たその少女が腕組みをして立っていた。
幻覚の中と違って鎧は着ていなかったが、長い三つ編みの髪はそのままだった。
ECNレンズが反応し、少女の瞳にカーソルが表示される。
〈LIGAND-0024-撫子-01〉 そこには、そう表示されていた。
「え? 何者って……」
「あなた、ライガンド
戦った。確かに少女はそう言った。それ以外の単語は殆ど理解できなかったが、それだけはわかった。
「……君こそ何者なんだ? それと、さっきのは何?」
大雅が逆に聞き返すと、少女は一瞬驚いたような顔をする。
「……とにかく、ライガンドのフリー戦闘設定をオフにして。こんな所でフリー戦闘ONにしてたら、生命が何年あっても足りないわ」
「ライガンド? フリー戦闘設定?」
盲腸から退院した後の初めての授業の時を思い出す。つまり大雅には、彼女が何を言っているのか全く理解できなかった。
「あぁ、もう! ……いいわ、私が設定してあげる! そこのコーヒーショップに入りましょう」
二人は窓の外に向かったカウンターに並んで座った。
「ECNレンズはどこのメーカー? ……うん、私と同じね。一応標準的な設定にしておくけど、後で自分に合わせて微調整してね」
撫子の操作に従って、大雅の視界に次々とウィンドウが開かれ、設定が変更され、閉じ、ウィジェットが追加される。
追加されたウィジェットには、全てに〈LIGAND〉と言うアイコンが表示されていた。
撫子が設定を行う間にも二度ほど〈
「なによこれ、ほとんど何でもありの設定じゃない。石動くんだっけ? あなたよっぽど大胆なのかしら? それとも、あの黒い刀に相当な自信があるの?」
「大雅でいいよ。……双葉さんが何を言ってるか未だに分からないんだけど。そのライガンドって言うアプリは、僕がさっき入れたECN連携用アプリだよね?」
「私のことも撫子でいいわ。 ……はい、設定終了」
頬杖をついた大雅は、抹茶クリームフラペチーノ・エクストラホイップをつつきながら、撫子に差し出されたスマホを少しふてくされたように受け取った。
「……どこでどうやってライガンドを手に入れたのかは知らないけど、大雅、本当に何も知らないのね。でもボイスコマンドの〈クオリア・コネクト〉はやってるんでしょう? 変なの」
撫子の目が少し動くと、大雅の視界の中にファイル受信のポップアップアイコンが表示された。
「私たちが知っているルールは全部そこに書いてあるわ。それから、ライガンドの基本用語も書いてあるから、それは辞書登録して。ルールは……後でちゃんと読むこと」
撫子がキャラメルマキアートを飲む間に、とりあえず大雅はアプリに辞書データを登録した。
「じゃあ大事なところだけ掻い摘んで話すね。まず、ライガンドは、ECNレンズ連携機能を持った対戦型ゲーム〈ストラグル・オブ・ライガンド〉のクライアントソフトよ。ライガンドはECN
〈ECNアーカイブ:ECN同士の接近による相互干渉を利用して1ミリ秒毎に最大1分相当の情報を神経パルスに圧縮して送信し、体感できる別空間を構築する技術〉
〈フェイト:ライガンドで使用されるポイント。生命。ライガンドVer.1.50以降では、登録者の生命を1日単位でベットする事ができる。それ以前のバージョンでは1年単位となる〉
撫子の声に合わせるように、大雅が疑問に思った単語の説明が表示される。ECNレンズ連携は正常に動作しているようだ。
「……とりあえず続けて」
「……あなたは……まぁ私もだけど……、今は
〈ノービス:初心者。2回以上の勝利を経験するまでの制限付き状態。条件をみたすことで
〈マルチエンカウント:複数人戦闘。ライガンドVer.1.50以降のクライアントでは同時戦闘人数は最大10名〉
〈オーバーキル:戦闘終了時の体力がマイナスの場合、その数値と同量のフェイトがベットされたポイントとは別に移譲される〉
撫子の言葉と、次々とECNに表示される説明文を必死に追いかけていた大雅は頭を抱える。
「それから――」
「ちょっとストップ。一度に説明しすぎだって」
「……そんなに長く説明したつもりはないけど?」
「ゲームは好きだけど、どっちかって言うとマニュアルより実戦で覚えるタイプなんだ」
「そんな事言ってたら、あっという間に死んでしまうわ。ライガンドでベットされるのはフェイト、生命よ。さっきの戦闘だって私の生命は1日分確実に減っているのよ。このゲームは、ゲームであってゲームじゃない。本当に命をかけた戦いだって言うことを忘れないことね」
厳しい目で睨みつける撫子を見て、大雅は怯む。
「……生命をかけた……って、撫子はこのゲームで死んだ人でも知ってるの?」
大雅の言葉に身を竦めるように目をそらし、撫子は溶けた氷で薄くなったキャラメルマキアートをもう一口飲み込んだ。
「……ちょっと……ね。でも、これだけは覚えていて。今は1日単位だけど、以前は年単位でフェイトのやりとりが行われていたの。フェイトが無くなった人は、脳に損傷を受けた状態で発見されて、突然死として処理されるわ」
最後の一口を飲み干し、撫子は椅子から降りる。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいたように大雅には見えた。
「じゃ、私は行くね。念の為に言っておくけど、誰にもこのアプリの事を教えちゃダメよ。……それから、設定までしておいてなんだけど、大雅はライガンドをやる理由もないんだから、出来ればもう戦わないで。……でも、もしあの黒い刀を振るう気なら……その時は私に連絡して。SNSのIDはさっき登録しておいたから」
さよなら。と、カップをゴミ箱に捨てながら、大雅の言葉も待たずに撫子は歩み去った。
窓の外を早足で歩き去る撫子を眺めながら、大雅はSNSの設定画面を開き、〈撫子〉の名を探していた。
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