トムズキャットストーリー Ⅱ
大木 奈夢
第1話 脅迫者
カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。隙間だけではなく、カーテンそのものからも光が透けてきている。遮光カーテンではない、安物のプリントカーテンのせいだ。
それでもというべきか、それだからこそというべきか、プリント柄がオレンジ色のカーテンを通して入ってくる陽の光は驚くほどに優しく、そして明るく室内を照らしてくれていた。
寒くも暑くもない秋の穏やかに晴れたとても気持ちの良い朝である――そのはずだった。
国籍不詳、年齢不詳、本名不詳、出身地不詳、性別不詳……の自称トムは、爽やかな朝にそぐわない顔で目覚めた。
その部屋には、シングルベッドが一つ。それにシンプルなデスクとイスが一式。それ以外では小さな本棚とカバー付きのハンガーラッックが一つずつ。余計なものは何もない。
他には四畳半のダイニングキッチン――いや、そんな洒落た呼び名で表現するのが恥ずかしくなるくらい、狭くて古びた空間だった。
この部屋を借りるときの広告がそんな洒落た表記になっていて、トムは未だにその呼び方で押し通している。
そんな安アパートをトムは『ハードボイルドにふさわしい寝倉』と称していた。
ゆったりと体を起こしながら、単に眠いといのではない翳りのある顔をベッドの横のデスクの方に向ける。
その上に置いてある目覚まし時計は七時を指していた。
約束の時間まであと二時間。時計を見ながら、何やら不快そうに溜息をつく。
久しぶりの休日の朝なのに、どうしてこんなにも暗い表情でいるのだろうか?
一度起き上がってから、ベッドの端に座りなおす。
そしてデスクの上に置いてあるタバコを取ると、その中から一本取り出し口に咥える。少し眉を寄せながら、いかにも難しそうな表情で火を点けた――ジッポではなく百円ライターで。
『百円ライターこそが真のハードボイルドなんだ』というのがトムの持論である。ハードボイルドとは、耐え忍ぶ男の美学だと主張する。
大きく吸って、ゆったりと紫の煙を吐いた。ふわふわとした大きな輪っかが、狼煙のように漂っている。
トムにとっては一日の内で、一番ハードボイルドに浸れる至福のときだった――普段の日であれば。
一服しても気持ちの整理がつかなかったのか、狭い部屋の中をうろうろと徘徊し始める。
そして、浴室の前までくると、いきなり裸になってしまった。どうやらシャワーを浴びて、気分転換を図ろうとしたようだ。
温めの設定にして、頭から全身にお湯を浴びる。ついでにシャンプーも。
風呂場から出るとバスタオルで体を拭きながら洗面所の鏡に顔を映してみる。しかしそこには、朝起きたときと変わらぬ冴えない顔のトムがいた。
結局、気分転換ができないまま、着替えだけをして安アパートを後にする。
通りへ出ると、気ぜわしく駅への道を一方向に急ぐ、まるでヌーの大移動のような通勤族の群れに出くわした。
同じ方向に向かうトムだが、なぜか一人だけ浮いてしまっている。
それは歩くスピードの違いだったり、服装の違いだったり、トムの持って生まれた雰囲気だったり。
しかしそれは何よりも、今のトムの不安定な精神状態が、一番の大きな要因になっているのだろう。
通勤族の群れに流されながら、駅に程近いところにある、喫茶店の前まで来て立ち止まる。
そこは少し歴史を感じさせるシックな趣を備えた、やや古風な喫茶店であった。
ここが約束の場所である。
いったい誰との待ち合わせなのか? トムの暗い表情から察するに、恋人ということはなさそうだ――そう、トムは脅迫者と合う事になっていたのである。
朝起きてからのモヤモヤした気分を持てあましアパートを早めに飛び出してしまったので、約束の時間までにはまだかなり間があった。
他に行くあてもなく少し躊躇しながらもトムは、その古風な喫茶店の中に入る。
昔風に言えば『純喫茶』という趣の店内は、照明も少し控えめな落ち着いた雰囲気だった。
アンティークなテーブルや椅子、それに壁や床まで全てシックなダークブラウンで統一されている。
トムが空いている席を探すため店内をぐるりと見回すと、その脅迫者は早くも一番奥の席に陣取っていた。既にモーニングを勝手に注文して食べている。
「どういうつもりだ。要求は何だ」
トムは脅迫者の前の席に座るなり、咄嗟の衝動に駆られて思わず大きな声で叫んでしまった。まさか相手が、こんなに早くきているとは思いもしなかったのだ。
「入ってくるなりそんな無粋な質問しないでくれる。折角のブレックファーストが不味くなるじゃない」
脅迫者は嫌な顔をしながらも落ち着いた態度で、そんな嫌味を返してくる。
喫茶店のモーニングが、果たして美味いとか不味いとかというレベルで批評できるものなのだろうか?
トムが脅迫者から呼び出しを受けたのは、昨日の夜だった。
気まぐれドッグス焼きのノルマを焼き終えて安アパートに帰ってしばらくした頃、トムの携帯にそのメールが飛び込んできたのである。
『あの事をばらされたくなければ、明日の朝九時に『喫茶ビッグドリーム』に来る事。もし来なければ、自動的にあの秘密は当事者にばらされるものと思って下さい』
『あの事?』
メールの文面を見て、トムは首を傾げながら呟いていた。思い当ることが何もないというふうに。
それでも、そのメールを見ながら暫くじっと考え込む。
『もしかして?』
何か思い出したのか、目線を空中に漂わせながらそう呟くと急にそわそわし始めた。やはり『脛に傷』を持っていたようだ。
「あとサンドウィッチも注文していい? モーニングだけじゃ、ちょっとものたりないの」
ゆで卵の殻を、ボロボロと下の皿に落としながら、脅迫者は図に乗ってそんなことまで言い出した。
二十代中頃と思われる女性である。スマートとか細身とかまでは言えないが、何かのスポーツをしていたのであろうか、引き締まった体をしており、中肉中背で背丈は一六〇センチ弱と推測される。
整った顔立ちではあるが目力があり、見ようによっては多少気の強そうな女性と言えそうだ。ショートカットの髪型が、更にそう印象付けていた。
「あの事って何の事だ?」
「だからあの事はあの事よ。思い当たらないんだったら、別にそれでもいいけど」
そう言われるとトムは、それ以上強気に出られなかった。
脅迫者の名前は立花優里。そう心音の母、栗原美里(旧姓立花)と一回り違いの妹である。
昔からトムと美里と隆一の幼馴染グループに纏わり付いては、歳が離れているという理由で邪険にされてきたという恨みを持っている。
さすがに美里の妹というだけあって人目を引く美しい顔立ちなのだが、今のトムにとっては般若のように見えた。
「ネタは上がっているのよ。心音を締め上げて白状させたんだから。もう観念したら?」
「う~ん」
結局、脛に傷持つ身のトムは唸ることしかできなかった。心音のネタは、それほど大きな破壊力を持っているらしい。
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