44 僕がいまできる最後の方法
放り投げられるように畳に落ちた。
天井が映った直後、人の影が視界を覆う。
身体に重い物が乗っかって身動きが取れない。
野球のボールが顔面に直撃したのかと思った。衝撃で首の向きが変えられる。
視界が一瞬チカリと光り、風景がホワイトアウトしかけた。
頬が熱い。
何が起こった?
今度は逆の頬が衝撃を受け、首がグギリと音を伝える。頬の熱はじんじんと、次第に強烈な痛みに変わった。それが左右、交互に繰り返される。
ぼやける眼で目の前を凝視する。
誰だ?
僕の腹部にのしかかる男は警察官の制服を着ていた。
その人は限りなく国前に見える。
でもこんな顔をしていたか?
目を血走らせ、口からよだれを垂らし、こんなに怒鳴り散らす人だったろうか。
「ぼ、ぼくは正しいっ! 間違ってないっ! ただしいんだっ!」
一言吐いては拳を交互に振り下ろす。僕の顔に。顔に。顔に。
怒っているが矛先が見えない。相手の目は焦点が定まっていないからだ。
怖い。
何を考えているのか分からない。
何も考えていないように見える。
理性の欠片もない。人間とは遠い、本能のままに動く野生の動物みたいだ。
「なにがっ! 正義のっ! 高校生っ! 探偵だっ! ふざけた手紙をっ! 送りつけてっ! ずっとっ! ムカついてんだっ!」
探偵……どこの誰だよ、そんな子供じみた手紙を書いたゲス野郎は。
「ぼくは無実だっ! 罪もないっ! 悪いのはぜんぶっ! あいつらだっ!」
鼻の頭に鉄球が落ちてきて、耳の奥から聞いたことない音が聞こえた。口で呼吸するとぬるぬるとした温かいものが流れ込んできて気持ち悪い。
宙にしぶきが舞い散る。ひと際赤い赤色が妙に鮮やかだ。
血だ。前にたくさん見たから知ってる。
「もうやめてぴよ! お願いだからやめてぴよ!」
ピヨの声が遠い。聞いてるこっちが悲しくなりそうな鳴き声だ。
答えてやりたいけど口はまったく開かない。唾液が横を向くたびに口の端から流れ出ていく。
止めたいけど腕も上がらない。下半身にも力が入らなくなっていた。
「ぼくは騙されたんだ」
拳の雨が止む。赤い斑点を顔にまぶした国前が、僕の眼の向こう側を覗く。
「自分の無実を証明したかったんだ……したんだ……なのに」
目の前に何かが突きつけられた。カタカタと揺れる先端には底の見えない穴が開いている。テレビで警察が持ってるのを見たことある。
「なのにお前がぼくの正義を壊しに来た。だから壊される前に……壊さなきゃ」
国前の震える指が引き金にかかる。
撃たれたらどのくらい痛いのかな。
これ以上痛いとどうなるんだろう。
死ぬのかな。
「ぼくは無実だァァッァァッァ!」
「だめぴよぉぉぉぉぉ!」
重なる叫び声のなか、部屋に勢いよく白い煙が吹き始めた。天国に行く準備かと思ったら国前の身体が真横に倒れる。
「大丈夫か坊主!」
「フデムラ!」
白い煙の奥から大家さんの姿が現れた。手には消火器を構えている。
僕の姿を見て表情を変えると、重い容器を捨てて身体を起こしてくれた。
「こんな……なんとひどい……」
しわとふさふさの眉毛に埋もれた目がしぼむ。
「すぐに病院に連れていく。立てるか」
言葉は途中でかき消え、大家さんが部屋の壁に吹き飛んだ。
再び畳の上に身体を落とした僕の真横に、真っ赤な雫が垂れる。僕のじゃない。
「どいつも……こいつも……極悪人どもが」
頭から血を流す国前がふらつきながら大家さんに近づく。動いているのに命を感じない、
「死刑だ……死刑にしてやる」
「ふざけるな。子供をさんざんいたぶって、欲求の捌け口にして、お前こそ極悪人じゃ!」
「お前も、こいつも……罪人は処刑だ」
「かっ、ここは子供を守るための場所じゃ、そこで子供を泣かせたんじゃあ枕もとで妻に叱られるわ。逃げろ坊主!」
壁際に追い詰められたまま、僕に呼びかける。
「部屋から出るぴよユート!」
言われるがまま身体を起き上がらせた。まぶたは開かず景色は細い。顔に手を当てると、べっとりと赤く染まった。自分から出たものに思えない。
走ろうとしてもできなかった。重心を保つだけで精一杯。玄関までが遠い。
片手で開けられたドアは鋼鉄のような重量感に変わっていた。全身を使ってなんとか押し開けたが、バランスを戻せずそのまま地面に倒れ込む。冷やりとして気持ちいい。
「立つぴよ! 早くここから離れないと……」
「脱獄は重罪だ」
足首が掴まれる。激しい痛みを押して感触の正体を確かめると、僕と同じように這いつくばった国前が握っている。
真っ赤に染まった顔が眼を見開き笑っていた。
「牢屋でたっぷりと叩き込んでやる。お前の罪と、ぼくの正しさを……あハはは」
ずる、ずる。
少しずつ部屋のなかへ引きずり戻されている。地面の土を掴んでも留まることはできない。浅い爪痕を残すだけだ。
「誰でもいいから助けてぴよぉーーーーーっ!」
「ぁ…………ぇ……」
小さな身体なのに大きな声。だけどピヨの願いは届かない。
僕の声なき声は夜の闇がさらっていく。
ずる、ずる。
僕は地獄に堕ちようとしている。僕の足を引っ張っているのは悪魔? ゾンビ?
土を削ぐ指がなぞるだけに緩む。考えるのは、終わってしまった後のこと。
僕はどこに行くのだろう。できれば天国に行って、依緒としょうもない話を続けたかった。
会えたら最初に謝らなきゃな。依緒を救いに来たのに……。
そうだ。僕はまだ依緒を救っていない。
魂は救えた。でも身体はまだ冷たい地獄の中に置かれたままだ。
出してやるって約束したのに……まだ果たしていない。これじゃ無責任だ。
まだ終われない!
闇の中に見覚えのあるものが浮かんでくる。それらは僕のポケットに入っていたものだ。倒れたとき地面に撒かれてしまったらしい。
遠くにスマートフォンが落ちている。もう手が届く範囲じゃない。
そばには依緒の髪留め、生徒手帳、有珠杵からもらった羽飾りのペン。
僕は手帳とペンを引き寄せた。適当にページを開いてペンを握る。
依緒がこの部屋にいるってことだけでも書き残す。それで救えるかどうかなんて分からない。でも僕がいまできる最後の方法なんだ。
ペンをノックする。指先に力が入らず押し込めない。
ずる、ずる。
この世にしがみつくのは上半身だけ。
早くしないと間に合わない。全神経を指先に集中させた。
僕の命なんてくれてやるから、依緒を出してやってくれ……!
ノック部分が深く落ちる。
連動するように、クリップ部分にあしらわれた羽飾りが九十度真横に傾く。
天使が翼を広げた――そんなふうに見えた。
キュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュインキュイン!
細く小さな胴体から放たれているとは思えないほど大音量の警報が鳴り響く。遠くなった耳でも分かるほどだ。
公園から驚く声が聞こえる。走る足音もした。
きっとこれで大丈夫だ。
全身に張っていた糸が切れる。
僕が覚えているのはここまで。
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