知らなくていい

吉田はるい

***

ミウは駆け寄った。


綺麗に整えられていない黒の髪の毛に、黒縁眼鏡。きっちり上まで止められた制服。どこからどう見ても「真面目くん」そのものである少年に、親しげに駆け寄った。



「おっはよー、ケイくん!」



ほんのり茶色に染まった髪の毛が揺れる。

相変わらず返事もしないケイに、頬を膨らませた。



「もー、返事くらいしてよ。そんなんじゃモテないよ?」



チラリとこちらを見たが、すぐに手元の本に目を移しミウの存在を無いものとした。ケイの態度に文句を言いつつもミウは隣を歩き続けた。


いつもの通学路。

周りには同じ学校である生徒たちがたくさん登校しており、二人の存在なんて気にもしていない。たとえミウが、大きな声で挨拶を毎回言っても睨む人なんていないのだ。


それは通学路には小学生もいるため、同じくらいかそれ以上騒がしいからだ。


ケイは、最近のミウの服装について気になっていることがあった。


今の季節は春と夏の間。夏になってないとはいえ、気温は上がってきている。ケイも上着を着ているため人のことは言えないが、この時期には半袖に移行しているミウが、長袖のままなのを変に思っていた。


それをケイは決して口に出さないし、そんなに大事おおごととは思っていない。



「じゃあまたね、ケイくん」



二人が通う学校は「コ」の字になっており、右側に一組から三組、左側に四組から六組となっている。ミウは三組、ケイは六組なため別れなくてはいけない。


この時間、ミウは少し悲しげになる。


ケイと離れることが嫌なのもあるが、教室に入ってしまえばに怯えているのだ。



「…………」



相変わらず何も言わずに去っていくケイ。少しだけミウを見たことに気づいた時、嬉しさを感じる。


少しずつ少しずつ近づく距離。その度に表情から笑みが無くなり、休んでいてくれたらいいのにと思いだす。


ミウは学校を休むことまで考えたが、家族に心配をかけたくないと、その考えは捨てた。ケイも心配するだろうと思ったが、「してくれたらいいな」という願望に終わる。


扉に手をかける――その時、



「ちょっと、いい?」



ああ、始まった。ミウは俯いた。








「……もういいよ、行こう」



人気ひとけのない校舎から三人組の彼女らは去っていき、ミウだけが取り残される。壁つたいにズルズルと座り込んだミウの顔は怯えきっていた。


彼女らが何を言っていたのか、ミウにはわかりたくないほどわかっていた。毎日毎日、ミウの元に来ては罵倒し、何も言わないことに面白さを感じなくなると去っていく。そんな日々がここ数日……数ヶ月だったろうか、続いている。


いつからだったかなんて、思い出せない。


ケイには口が裂けても言えなかった。言いたくなかった。ケイの前だけは明るい自分のままでいたいという、ミウの小さな願いだった。



「……いたい、いたいよ」



遠くの方でホームルームが始まる音が聞こえたが、暑いはずの袖をさすり続けるミウの耳には届かなかった。






***






放課後。

教室から人が少なくなったところで帰り支度を行うミウの元へ、今朝の三人組がやってきた。


手元に影ができたことで、その存在に気づいたミウは「ねえ」と話しかけられても、顔をあげようとはしなかった。彼女たちは、いつものことだと諦めているのか話し続ける。



「これ、あなたのよね?」



物を提示しても顔をあげないミウに腹が立ったのか、顔の近くまで物を持っていき顔をあげさせた。


ミウは目を見開いた。


物――それはミウのノートだった。板書を写していたところは色んな色で言葉が書かれており、ミウは心臓の音が大きくなっていくのを感じた。


また……ノートが無駄になった……。


ミウがノートを見て呆気に取られているのを、彼女たちは笑っている。


私のこんな顔を見たくて彼女たちは……いや、クラスの人たちはこんなことしてるんだ。


ミウは耳を塞ぎたい衝動に駆られる。教室にはミウを含めた四人しかいないはずなのに、ミウの耳にはたくさんの声が聞こえてくるのだ。それらがボリュームをあげて、まるで迫りくるかのようにミウを襲う。


震えだすミウを変に思ったのか、彼女たちは手を伸ばした。



「ミウ」



その声が聞こえた途端にミウの体から震えがなくなる。


声の主はケイだった。


ケイの存在に気づいた彼女たちは、ノートをその場に落としてケイをちらりと見た後、教室から去って行った。


ミウはケイがここに来たことよりも、自分が酷い目に遭っているところを見られてしまったということに動揺が走る。ケイにどう言い訳を、逃げ言葉を言うかを、ミウは必死に考えていた。



「いじめにでもあってんの」



彼女たちが置いていったノートを、書かれた文字を読んでいるかのように少しずつ、ゆっくりとめくっていく。


パラパラと音が響く中、働かない脳を一生懸命動かすけれど何か言葉を思いつくはずもなく、ミウは口を開いたり閉じたりするしかできなかった。



「……それとも、自分で書いたの」



ミウは顔をあげた。


眼鏡の奥の瞳は、じっとミウを見ていた。相変わらず何も読めない、感情のこもってない瞳だが、ケイが発した言葉はミウにとって救いとしか思えなかった。


まるで、「わかっているけど言わないでおく」と言っているかのように。



「――うん、そう!」



ケイが想像していたであろう返事を、できるだけいつもの自分のままで言った。たとえ知られてしまったとしても、それを黙って言わないでくれるケイに甘えていたかった。なんだかんだ言って気にかけてくれるケイの優しさを無下にはしたくない、というミウの気持ちだった。



「いやあー、日頃のストレスをそこに書いてたらノートひどいことになっちゃって!教室のゴミ箱に捨てたのがいけなかったねー。クラスの人に迷惑かけちゃった」



あはは、と笑った。


何も言わず、またノートに目を移してからミウにノートを返した。


「次からは気をつけないとなー」と独り言のように呟いて、先に教室をあとにしようとするケイの後ろをミウは走って追いかけた。


何かを思い出しそうになった。


追いつきそうなケイの背中を見ていたら、ミウをデジャヴに似たものが襲う。こんなこと前にもあったような気もするが、何だったっけと、大事な具体的な記憶が抜けてしまっている。


あの時はケイくんが…………。


ピリっとした電流が脳内を流れた。頭痛にも似たそれは、ミウに「考えるな」と言っているようにも思えて、それをミウは「かんがえてもしょうがないこと」だとしケイの横に並んだ。






気がついたらミウは、自分の左腕が血で汚れているのに気づいた。もう少しでスカートに垂れるところだったのを拭き取れたからよかった。


慌てて袖の部分についてしまってないか確認したが、ついてはいない。ミウはほっと肩をなで下ろした。


痛々しい打撲の上に面積は広くないとはいえ、擦り傷のようなものがあり血が出ていたことから、ここ数日の傷だと考えられる。


だが、思い当たる出来事がない。


ミウの弱い脳は、前に出来ていた傷のかさぶたを剥がしてしまったのだと解釈した。最近になって気温も上がり、長袖で蒸れてかゆさが増したのだと。そのせいでのだと。


ミウはそろそろやめたかった。長袖を着ることに限界を感じていた。元々暑がりで、(冒頭にも説明したが)今の時期にはもう半袖だ。打撲を隠すために行っていたが、ミウは暑さでどうにかなってしまいそうだった。


脱いでしまいたい。でも、言い訳がない。


「どこかで打った」程度では、あのケイを騙せるはずがない。でもミウは心のどこかで、あのケイだからこそ何も言わずそっとしておいてくれるのではないかと、思っていた。今日がそうだったように。


ケイくんはどう思ってるんだろう。



「何してんの」



いつの間にか開いていた扉。真っ暗な部屋でも外の明かりによってミウの腕の様子くらい、ノート片手に入ってきたケイにはよく見える。慌てて隠しても無駄なことだ。



「ケイくん、なんで、」


「ノート貸してって言ったのはミウでしょ。それを持ってきただけ」



ミウはケイにノートを貸してと頼んだことを恨んだ。

まさか持ってきてくれるとは思わなかったが、誰にも見られたくないと考えていた場面でケイに来られたことが一番嫌だった。


ケイはミウの前にあるテーブルにノートを置き、帰るかと思いきやその場に座る。その姿を見たミウは、ケイに黙って帰る気がないのだと思った。


――沈黙が続いた。

どちらとも話そうとせず、ただケイはミウを見続け、ミウはケイの目線から逃れるように下を向いたままだ。


ミウの口がきゅっと結ばれた。



「あ、汗疹あせもがね、できちゃって……長袖着てるから当たり前だよね、えへへ、ばかだなあ」



ミウ自身、厳しい言い訳だと思った。汗疹じゃないと気づく痛々しい腕。ケイならば一瞬で気づいたはずで、今日の出来事も知られてしまったのだからわかっている。


何を言われるのか覚悟して、ちらりとケイに目線を移したミウはケイの一言に驚きを感じた。



「ちゃんと手当しなよ」



それだけ言い残して、「おやすみ」と扉を閉めて私の部屋から私の家から帰っていった。


安堵と暑さから汗がどっと湧き出る。あれはケイなりの優しさなのかもしれないと考えるだけで、ミウはそれだけでよかった。涙がこぼれ出てくるほど、よかった。



「ケイくん」



小さく呟いた声は、涙ともに空気の中へと流れていった。






***






次の日。相変わらず長袖を着て、相変わらず大きな声で「おはよう」と言いながらケイの元に走っていく。ちらりと見たことが返事だと受け取って、スキップしたい足を抑えつつ歩く。


下駄箱前で別れて、また恐怖を背負いながら教室に向かう。一歩一歩近づくたび震えそうになる。


だが、今日は何もなくホームルームが始まった。話しかけられることも目が合うこともない。それでもコソコソと話す声はミウの耳にしっかりと届き、嫌なことといえばそれぐらいだった。


そのまま放課後になった。


三人組も帰ったようで教室にはミウだけが寂しく、ぽつりと残っているだけだ。そんな日が来たことにミウは嬉しさがこみ上げ、早く支度をして廊下をいつもより早く歩いてみた。


ケイに会ったら今日のことを話そうと、心に決めて、長く感じる廊下が短く感じそうで笑みがこぼれそうになった……瞬間だった。



「ねえ、ちょっといいかしら」



ミウの耳に、いつもは聞こえないはず のクラスの話し声がミウの愚痴が、大きく響く。






耳を塞いで目もきゅっと閉じて、そのまま去ってしまえたらどんなに楽だろう。この時間はいつも考えることを、いつもより強く考えるミウ。


耳にはまだ、雑音が響いている。

彼女たちの声の重なって響いている。


ケイくん。ケイくん。


何度叫んだところで、それはミウの心の中であって、ケイはもちろん他の誰かに届くはずもない。本当に叫んでも彼女たちが何をしだすかわからない恐怖がある。ミウは何も出来ない。


ケイくん。ケイくん。ケイくん。ケイくん。


大きくなっていく気持ちと並行して、声も大きくなっていく。


もう、限界だった。



「ああああああああっ!!!!」



彼女たちの体がびくりと跳ねる。



「ふう……っ、ふ、あああっ、あああ……っ!」



嗚咽と涙がとめどなく溢れ、息が苦しくなる。

水の中に放り込まれたかのような感覚がミウを襲う。


彼女たちが手を伸ばそうとした時、ケイが声を上げた。「ミウ」とまさに助けを求めていた者に言ったのだ。


意識の途切れる最後の最後で、ケイの姿を捉えたミウは笑った。







バタリと大きな音を立てその場に倒れたミウは、ケイによりすぐさま保健室へと運ばれた。


オレンジの光が仕切りの布越しに差し込み、ゆっくりと呼吸するミウを照らす。


ケイはミウの顔をみながら、頬にゆっくりと触れ、目頭から顎にかけてのラインをなぞっていく。声を漏らすことなく、ミウは寝続けていた。



「“あなたいじめられているの?”」



起こさないように、そっと呟く。

あの時、教室の外からケイがみていた景色を思い出しながら、表情を変えず言い続けた。



「“あなたが心配なの。小さなことでもいいから教えてくれない?”」



ミウを可哀想だと思った。同時に「ああ、よかった」とも。


ミウはケイを疑うことなく、ケイの「優しさ」という名の「愛」を受け取りそばにい続けた。


頼りたくても頼らないようにしている気持ちも、それを少しも隠せていなかった表情も、ケイは全てわかっていた。――そう、ミウが思っていた通り「わかっていて言わなかった」。


長袖を着ることに疑問を覚えた朝。彼女たち三人組に呼ばれた姿を、と心配して人気のない場所に連れていったことを、ケイはよく知っていた。


彼女たちが去った後、ミウ自身からこと。ケイは陰からずっと見ていた。


自分でのに「いたい」と小さく訴えていたミウの姿が、ケイにはあまりにも滑稽で、あまりにも愛おしく感じた。



「ミウ、ごめんね」



そして、ありがとう。



――すべては、ケイが始まりだ。



ケイがミウをこうなるように仕組み、ゆっくりゆっくりケイを必要とするように育てたのだ。


ミウを愛しているがゆえ。


最初の行動はミウのノートに罵倒などを加え、少し汚した後捨てて、ミウが見つけるようにすることだった。だが運の悪いことにミウが、ノートを持ってゴミ箱の前に立つケイを発見したのだ。



『これ、ミウのノートだよね』



捨てられていたのを見つけた。

そう付け加えてミウに渡した。


信じられないと笑っていたが、すぐに顔が歪み今にも泣き出してしまいそうな表情に、ケイは釘付けになった。笑顔で精一杯振る舞うミウにすごく、ケイは釘付けになった。


じっくり調理したおかげで。今の……ケイが望む以上のミウとなった。


ケイがノートを落書きし続け、

ケイが気にしてない冷たい素振りを続け、

ケイが時折優しいと思うような言葉を話し、

ケイが悪口を聞いたとミウに話し、

ケイはミウの姿を見守り続けた。



「ぼくだってことは、知らなくていい」



ミウの体が傷ついていくのは、ケイにとって少し辛いものだがしょうがない。

それは犠牲だと思えばいい。



「………………けい、くん?」



目覚めたミウの表情は明るさを取り戻した。

ケイがそこにいるからだ。


じっとミウを見、こう言った。



「さっき、ミウの悪口を聞いたよ」



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