グッド・バイ
やぎこちゃん
Also I
胸の奥にはどうしても吐き出せない痰のような鬱血が溜まっていて、声帯の辺りはそれで焼き焦がされて硝煙の香りを漂わせている。
スピーカーから流れてきている音楽は、生の素晴らしさを説いていた。「How wonderful life is……」。そこから先に僕は耳を塞いだ。こういうナンバーは、必ず「君」があって初めて成り立つ。あるいは独りのとき、それではどうやって世界の素晴らしさを見つければいいのだろうか。僕には見当も付かなかった。
スピーカーの曲は切り替わり、アップテンポなダンスミュージックへと変わった。何の意味もないただ単調な歌詞。だけど、此方のほうが僕には似合っている。
咽喉のヒリヒリは少し収まったように思えたが、そこに神経を集中させてみると確かに焼き付きは残っていた。薬でも飲むように目の前にあるコーヒーを口に流し込んで、束の間の快復を楽しんだ後でまた喉が燃える。
目を瞑って、腰掛けていた1人掛けの革張りソファに体を預けた。依然として音楽は流れ続けている。ダンスミュージックがアウトロの部分に差し掛かった。次は落ち着いたジャズでも流れてくれないかと思ったが、残念ながらまたアップテンポな音符の奔流が僕の耳に届いてきた。友人から勧められたアニメソング。嫌いではないが、今の心情には到底合いそうもない。重い腰を上げて、ガラステーブルに置かれたスピーカーのリモコンを弄る。数曲スキップして、ナット・キング・コールのピアノが聴こえて来たのでまたソファに戻った。
少し目を瞑って、気だるい身体の奥底に沈殿していたまどろみへと耳を傾ける。彼らは何かを語り掛けていた。あるいは眠りの歌だったのかもしれない。気付くと、僕は深い無意識の底に引き摺り込まれていた。
どれくらい時間が経ったかは分からないが、意識の崖を僕がようやく登り終えた頃、窓の外はアメリカの巨大な小麦畑を連想させるような黄金色に輝いていた。時計が無い生活にこういうとき辟易するが、しかし不便でもないので、壁に掛けられた三つの針には単三電池が取り付けられていない。
自分が普段どういう生活を営んでいたのか、まだ働き出したばかりの頭も相まってか、全く思い出せなくなっていた。もっとバイタリティに富んでいた気もするが、ああ、判らない。
ソファに凭れかかっていた首を二、三回捻ってみると、小気味のよい骨の軋む音が聞こえた。数年前にブラジルで聴いた、サンバのリズムを何故か思い出した。
目の前にある貯金をはたいて買ったコンポからまたアニメソングが流れてきて、僕はまたリモコンを握ろうとしたがやはりやめた。時の流れに身を任せるなら、あるいは運命の濁流にさえ身を任せるのも良いかもしれない。いや、濁流とまでは言いすぎたか。
十数歩の距離にある冷蔵庫に掛けられた、一月のカレンダーを横目に見る。赤い丸がいくつもの数字の羅列を囲っていて、バイタリティを誇らしげに纏っていた。つい数日前までの自分のはずだったのに、やけに遠い日々のようにも感じられた。
キツネの鳴き声のような咳をふたつばかりする。今日の午前中に「斜陽」を読んだからだろうか、あるいは自分まで結核に罹ってしまったようだ。肺胞は新鮮な栄養を求め、酸素の海原を呼吸しようとする。
ふと、自分が朝から何も口にしていないことに思い至った。空腹ではあるが、食欲は無い。不思議な感覚だった、下腹部に決して消化できない砂利やれき岩が堆く積まれているような、不思議な感覚。僕は十数歩いて冷蔵庫を開き、ビタミン剤を噛み砕いて冷えたコークをラッパ飲みした。胃壁を有機溶剤が伝っていった気がした。手足が冷たくなったので、暖房の設定温度を二度上げた。生暖かい空気がオキシジェンの海をシー・オー・ツーに染めていく。肺胞は悲鳴を上げ、焼けた声帯を通ってキュウキュウと咳をした。
「傷つくことこそが恋だ」。彼女はそう言っていた。確かにそうなのかもしれない。少なくとも、革張りのソファに腰掛けて音楽を贄にしている自分が傷付いているのは、この世界と同じくらい確かなものだ。あるいは世界は不確か、とも言える。僕は深く息を吐いた。やれやれ、どうやら深いトンネルから抜け出すにはもう少し時間が必要なようだった。スピーカーからはクィーン・ラティファが流れていた。僕は机の抽斗から単三電池を取り出すべく、ソファから臀部を引き剥がした。時とは残酷なものだ、と思った。時間は全てを洗い流す。残酷だからこそ儚く、儚いから美しい。喉の硝煙は一パーセントだけ晴れた。
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