ある日の幻想
晴野
第1話
まだ眠い目を擦ると景色が揺れていた。小さな車の中から見える夜の世界に無数の光が浮かんでいる。
エンジンの心地よい振動と、嗅ぎなれた煙草の香りがが眠気を誘う。見慣れた駅前の風景が窓の外を通り過ぎ、僕等は広い国道の中を流れてゆく。
高校に入ってからずっと、学校に行って部活に行ってバイトに行ってやっと家に帰るという生活を続けている。家に帰ってからは、残された僅かな時間で絵を描いていた。肉体的な疲労は寝れば治るものの、精神的なわずかな疲労は少しずつ積もっていった。
「家」という休息の場もすでに崩壊している。本当の両親は僕が小4に上がる前に離婚した。今は、パートでなんとか生活を繋げている母と、高卒で社会人になったばかりの姉、母のダーリンが家に住んでいる。母のダーリンと言っても、籍を入れていないだけでドロドロした関係では無い。「母のダーリン」という言い方は、この少し変わった家族構成を第三者に簡単に説明するために約10年の中で編み出した言い方だ。「母の愛人」だと重々しいし、「父」とは呼びたくもない。だから僕が幸せであるかのように思わせるために、「母のダーリン」という言い方をしている。
でも、あと数ヶ月でこの地獄のような生活が終わる。僕は卒業後に都市部の会社に就職することが決まっているため、未だ好きになれない教室とも、仕事を押し付けられる部活も、労働基準法なんて眼中に無い低賃金バイトも、濁った家族関係とも、全ての縁を切ることが出来る。僕はやっと自由になれるのだ。
だが、思いがけ無い代償が付いてきた。刻々とカウントダウンが進む度、僅かに残った地獄が今までに無い程に「辛い」と感じてしまうのだ。夜明け前が一番暗いと言うように、光を目の当たりにした今その辛さは日に日に増している。もう、すべて投げ出してしまいたい。もう、すべて許されてしまいたい。僕はそう思ってしまうほどに擦り切れていた。
東京まで続くこの長い国道を僕達はまだ流れている。夜景とも言えないようなちっぽけなビルの光と看板の電飾がぼんやりと続く。無数の朱色に光るテールランプと向こう側から流れるヘッドライト、次第に色を変えてゆく信号機、薄いオレンジ色に街を照らす街頭の光だけが見える。まるで焚き火の火の粉が舞っている様に。
ふと、向こう側から近づいて来る市バスに気が付いた。側面の大きな窓は冷たい水色に揺らめき、暖色に染まるこの世界の中を掻き分ける。なぜかその水色の箱が、昔飼っていた熱帯魚の水槽に似ていると思った。まだ父がいた頃の懐かしい記憶。通り過ぎた水色に、くすぐったい気持ちを抱いた。
僕はそのままゆっくりと目を閉じ、再び暗い眠りの中に落ちていった。
ある日の幻想 晴野 @haruno3987
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