のっぺらぼう殺し

暮準

本編

 同じクラスの佐々木さんは、のっぺらぼうだった。

 そんな佐々木さんと僕は同じ図書委員会に属していて、放課後は一緒に蔵書の整理などをして過ごすことがよくあった。

 実は僕は本にそれほど興味があるわけではなかったのだが、佐々木さんと同じ委員会に入りたいがために立候補をしつづけていた。

 僕は普通、のっぺらぼうというのは誰かの顔を真似る“超常”だと思っていた。でも、彼女はありのままの顔で過ごしていた。

 クラスメイトや、こうあるべきという子ども……そういった“誰かの真似”をして生きることしかしてこなかった僕には、彼女はとても眩しい存在に見えた。


 二年生に上がっても僕と佐々木さんは同じクラスだった。彼女は図書委員を続投し、それは必然、僕も同じ図書委員に立候補することを意味していた。

 ある放課後、吹奏楽部が管楽器をチューニングする眠たくなる音を聞きながら貸出カウンターについていると、佐々木さんが隣に来て僕の肩を叩いてきた。

紀田きだ。暇だしアンタの好きな橋本環奈の顔になってやろうか」彼女は悪戯っぽく言った。

 もちろん彼女の顔はのっぺらぼうであり、表情などはわからなかったが、僕は佐々木さんの声色から彼女の感情のニュアンスをくみ取れるようになっていた。

「いや、いいよ」

 僕はそう言って手元の漫画に目を落とした。僕は貸し出しカウンターの下の隙間に漫画を隠しており、暇な時はよくそこから漫画を取り出してこっそり読んでいた。

「え、なんで。好きなんでしょ?」

 佐々木さんが不思議そうに言ってきたので、僕は、

「そのままの佐々木さんの方がいいから」

と答えた。漫画の中ではちょうどヒーロー志望の学生たちがヴィランと闘っているところだった。僕は佐々木さんからいつものような軽口が返ってくるのを期待していたのだが、それがなかったので顔を上げた。

 僕は、そこであることに気づいてしまった。

 のっぺらぼうは、顔が赤くなっているのがよくわかるということに。


 今でも覚えているのは、文化祭の日のことだ。

 その日、僕は佐々木さんと、友人である飯島の出演する劇を見ていた。飯島は演劇部の部長で学年主席という優等生だった。厳しい名家の出身であるが、周りからも好かれる好青年だった。彼はクラスでも有名人の完璧な声真似を披露することがあり、将来は役者か声優になるものと僕は思っていた。

 ステージ上の飯島はのっぺりとした仮面をつけ、普段の彼とは全く違うよく通る声で、『オペラ座の怪人』を演じていた。普段は親しい人でも、知らなければまさか飯島だとはわからないだろう。彼はクラスだけでなく、ステージ上でも観客席の注目を一身に集めていた。

 劇が終わった後で、僕は佐々木さんに一旦体育館前で待ってもらうことにして楽屋に回った。

 楽屋といっても、そこは普段は放送設備室として使われている部屋だ。大道具や衣装、ペンキやカッティングナイフやメイク道具などが放送機材の間で無造作に転がっていた。

 その中で、飯島が他の部員に囲まれて座っていた。

「おー、紀田。見てくれたのか」

 彼はその中から抜けて僕に近づいてきた。

「まぁね。演劇はよく分からないけど、良いと思ったよ」

「よく分からない人にも良いと思ってもらえたなら、それは最高の褒め言葉だな」

「結構遅くまで稽古してたもんな」

 僕は彼のストイックさに素直に感心した。演劇部は体育館のステージでよく、他のバスケ部などの体育会系の部活よりも更に遅くまで練習をしていた。

「てかそれなのに期末テストも全教科ほぼ満点で、って凄いな」

「それくらいできないとウチじゃ怒られるからさ」

「理数科目は赤点の僕が飯島家なら、勘当されてるまであるな……」

「俺もいつそうなるかわからないし、そうなったら紀田が養ってくれ」

「うーん、お前なら家事全般も完璧にこなせてしまいそうで嫌だな……」

「嫌ってなんだよ」

 そんなような会話をもう少しばかりしただろうか。その後、僕は飯島の楽屋を去り、再び佐々木さんと合流した。


 体育館前の彼女は、いつの間にか「よそ行き」の顔になっていた。「よそ行き」の顔とは、佐々木さんがたまに表出させる顔で、彼女いわく「自分の好きなアイドルや女優の顔をうまくミックスさせた」ものらしい。校内を回る時、他校の生徒や参加者を驚かせてしまわないようにという配慮だろう。いくら“超常”が珍しいものではなくなったとは言え、いまだに驚く人も少なからずいるのだ。

「久々にこの顔になったわー。黄金比を忘れかけてる」

 佐々木さんは表情を色々と変えながら言った。佐々木さんのことを知らない人たちが、見知らぬ美少女が変顔をしているのを見てぎよっとしていた。

「うん。なんか久々に見た気がするよ」

 そのあと、僕は佐々木さんと出店などを見て回ることにした。僕たちのクラスはお化け屋敷を出展していたのだが、僕と佐々木さんは一日目にもう仕事のシフトを終えていた。佐々木さんは怖いものが苦手で、文化祭前に出店のアンケートを取った時には、それを知る僕と彼女だけが黒板の女装メイド喫茶の下に「T」の字を書いていた。

「のっぺらぼうだって、怖いものは苦手なんだけど。しかも、お化け屋敷って準備も出役もやたら大変だし」

 僕の隣を歩く佐々木さんはそうぷりぷりとしながら、いつの間に買ったのかタピオカのジュースを飲んでいた。

「まぁまぁ、もう終わったから」

 たしか僕はそう言って、彼女を宥めた。

「紀田の女装姿も見たかったなー」

 佐々木さんはまだ女装メイド喫茶を引きずっていたらしい。

「僕の? どうかな」

「きっと似合うって」

「本当に? 嬉しいなぁ」

「そういう時、普通は謙遜するものだよ少年」

 佐々木さんは指をちっちっと振って言った。

「僕は、外見を褒められるぶんには素直に嬉しいんだよね。それくらいしか良いとこないし」

 僕は何となく、そう言ったあと、佐々木さんから「まぁ、紀田の取り柄って外見くらいだもんね」というような軽口が返ってくるものと思っていた。

 でも、その予想は外れた。

「……他にも良いところあるじゃん」

「え?」

 その言葉を聞いて、僕は思わず立ち止まってしまっていた。

「いやさ、紀田って私と初対面の時、普通の人と同じように接してくれたじゃん。それって……うん。いい所だと思うけど」

 最後の方は少し口ごもっていた。

「うーん、僕は外見についてもっと褒めて欲しかったなぁ」

 僕も何だか気恥ずかしくなってしまい、そんなことを言って無理矢理に誤魔化した。

「はーい褒めて損した」

 佐々木さんは呆れたふりをして先を歩いて行ってしまう。

 僕はそんな佐々木さんを追いかけた。

 多分、文化祭が終わるまでこんなことをずっとしていた気がする。今思えば、こういった瞬間というのは、かけがえのないものだったのだろう。


「おーい、紀田。一緒に帰ろうよ」

 あくる日の放課後、僕は昇降口で「よそ行き」の顔をした佐々木さんに言われた。

「あ……ごめん。僕、今日は用事あるんだよね」

「あれ、珍しい。勉強?」

「いや本当はそれもしなきゃいけないんだけど」

 僕が言うと佐々木さんは悪戯っぽくニヤリと笑った。

「赤点マンはそろそろ最終手段カンニングも視野に入ってきたかな?」

「その“赤点マン”っていう不名誉極まりない渾名、まさか僕のことを指してる?」

「他に赤点取ったことある人がこの場にいる?」

「むむ、悔しいが僕だけだ……」

 僕は潔く赤点マンの名を冠することにした。

 そこで佐々木さんは一呼吸置いて、僕の目をまっすぐに見つめた。

「でもカンニングなんて……本当にしちゃ駄目だからね」

「し、しないよ」

 珍しく深刻な様子で佐々木さんが言った。そんなに切羽詰まっているように見えるだろうか。

「まぁ、勉強じゃないことはわかった。しかしこの美少女の誘いを断るに足る理由があるのかい、君」

 僕は少し言おうか迷ったが、正直に言うことにした。

「あー、親友の墓参り。中学の時に病気でね。僕が行くと、ありがたいことに彼の家族も喜んでくれるし」

「そーなんだ……。なんか、ごめん」

「え? 佐々木さんが謝ることなんて何もないと思うけど」

「いいから。ごめん」

「ん……まぁ、いいけど。てか、今日はその顔なの」

「いやさ、やっぱ定期的になってないと忘れちゃうんだよね。だからね、練習」

「のっぺらぼうも大変だ」

「ま、いつもメイクしないぶん、普通の女子高生よりは楽だと思うけどね」

 今になって思えば、その時の彼女はやはりどこか浮かない様子だった。彼女は表面上、隠してはいたが。でも僕は、それを汲み取っていたはずだ。その時、彼女と一緒に帰っていればよかった。でも、そうはしなかった。

 僕は佐々木さんと昇降口で別れた。

 そしてそのあと、二度と会うことはなかった。


 佐々木さんはその帰り道、住宅街の路地で何者かに殺された。

 刺殺だった。

 翌朝、全校集会が開かれ、校長先生からその事件について聞かされた。


 その後の警察の捜査にも関わらず、犯人は見つからなかった。

 金品が盗られていたため、通り魔的な殺人だろうというのが今のところの見解だった。

 のっぺらぼうを殺すということは、犯人は普通の人間ではないだろう。同じか、それ以上の“超常性”を持つ者だ。普通の人間は、超常性を持つ道具でも使わない限り、佐々木さんのような“超常”を殺すことはできないからだ。

 僕はあくる日から、自分でも犯人を捜すことにした。僕ごときに何ができるのかわからなかったが、そうせずにはいられなかった。

 僕は、普段は話すことのない同級生たちに、殺される日の前など佐々木さんに何かおかしな点はなかったかを尋ねて回った。だけど、収穫はなかった。


 翌週には、警察署にも行ってみた。僕は担当する刑事に佐々木さんの友人だと言ったが、事件についてはほとんど何も教えてもらえなかった。

「何か……何か変わったところはなかったんですか?」

 担当の嶋田という刑事は、面倒くさそうにその長い首を振った。どうやら彼はろくろ首らしい。「何も。ていうか、何か変わったところがあったらこんなに行き詰まってないよ」

「刺殺ってことは、犯人も超常なんですか」

 僕が尋ねると、刑事は考え込んだ。

「どうだろうね。外傷があるから何らかの呪具とかではないと思うけど。刃渡りの短い妖刀かも。……って、だめだめ。これ以上は教えられないよ」

 僕はそう言って追い払われた。

 でも、ひとつ収穫はあった。

 彼女の遺体に、“何も変わったところはなかった”のだ。


 とはいえ、そこからは何の手掛かりもなく、僕は行き詰ってしまった。

 そんなある日の放課後、飯島が声をかけてきた。

「紀田、佐々木さんの事件を調べてるんだって?」

 僕はひとつ頷いた。

「お前、佐々木さんから何か聞いてなかったのか。仲良かっただろ」

 彼は何気なくそう口にした。

 “仲良かった”。

 ――今となってもう、過去のことなのだ。

「いや、だからこそ調べてるんだよ」

 僕は気持ちを抑えて言った。

「そっか。何かあれば俺に言えよ」

 飯島はそう言うと、手元に目を落とした。何か持っていた。

「あ、やべ。体育館の鍵返すの忘れてた」

「相変わらず部長は大変だ」

「体育館ラスイチは大体演劇部だからな」

 飯島はそう苦笑して僕と別れた。

 しかし、実際、飯島の手を借りたいくらいに僕は行き詰っていた。

 ――結局、僕には何もできないのだろうか。

 ふと窓の外を見る。陽は沈み、真っ暗だった。

 ガラスに映った、何の変哲もない見た目の自分が見返してくる。

 その目の奥は真っ黒で、何もないように見えた。


 しかし、ある日、手掛かりは意外なところから現れた。

 次の日、図書室の貸出カウンターについた僕は、そこに隠してあった漫画の下に一枚の紙が挟まっていることに気づいた。ここに漫画を隠していることを知っているのは、佐々木さんだけだ。僕は興奮を抑えながらその紙を開いた。

 そこで、ついに犯人の目星がついた。


 次の日の放課後、僕はある場所にいた。そして、そこに呼び出した人物がやって来た。

「何か用か、紀田」

 飯島はそう言って手近な椅子に座った。場所は美術室だった。よく演劇部がそこで大道具を作ったりしているが、今日はやけにひと気がなかった。

「なぁ、飯島。佐々木さんが殺された日は何をしてたんだ?」

 僕は単刀直入に尋ねた。ほどけた体育館シューズの紐を結ぼうとしていた飯島は、それを聞いて顔を上げた。

「お前……俺を疑っているのか?」

 飯島は眉をひそめた。

「こんなものがさ……挟まってたんだ」

 僕はそう言って一枚の紙を取り出した。

 それは定期テストのスケジュールと、その前日に体育館に最後まで残っていた部活を羅列したメモだった。手書きで書かれたそれは、佐々木さんが自分で調べたりして作ったものらしかった。僕には最初、このメモが何のために作られたのか、そして書かれているそのふたつの事象に何の関連性があるのかわからなかった。

 でも、今は違う。

 恐らく彼女は、これを照らし合わせて、どの部活の誰が“職員室で見かけた人”なのか突き止めようとしていたのだ。図書委員活動の途中でこのリストを作っていたら、貸出カウンターに人が来てしまったから、慌てて裏に隠しでもしたのだろう。

 僕の漫画の下に。

「演劇部で残っていた時、体育館の鍵を返しに行くのは飯島だよな?」

「……それが、なんだ?」

「テスト前ってさ、職員室は入室禁止だよな。でも、鍵を返しに来る生徒は別……。そうだよな?」

「だから、それがどうしたっていうんだ」

「これから話すことは全部、僕の憶測に過ぎない。でも聞いてくれるか」

 飯島は黙っていた。僕はそれを肯定の印だと受け取った。

「飯島。君は毎日のように夜遅くまで練習をし、ほとんど教師のいない夜の職員室に入ることができた。それはテスト期間もそうだ。きっと、中には教師が席を外す瞬間もあっただろう……。その隙に、答案用紙を盗み見るか、持っていたスマホで撮影できた時もあったはずだ。君が演劇をやりつつ、主席であり続ける困難を成し遂げるには……それが必要な時もあったんじゃないか?」

 飛躍がある推理だったが、飯島は肯定も否定もしなかった。なので、僕はつづけた。

「でも、君はその姿を佐々木さんに偶然、見られてしまったんだろう。彼女も図書委員で、たまに図書室の鍵を返しに行くからだ。姿を見られた君は、焦った。佐々木さんと君には面識がなかったからすぐに報告されることはないだろうが、彼女は“のっぺらぼう”なんだ。君の顔を模倣され表出されでもしたら、誰がどう見たって辿り着くのは時間の問題だ。……ここまではいいか?」

 飯島はなおも無言だった。その表情からは何も読み取れない。


「君は焦っただろう。彼女を何とかしなければならないと思ったはずだ。そうしないと今までのカンニング行為もばれるし、それこそ君の家なら勘当もありうる。そこで行き詰った君は、演劇で使っていた仮面と大道具制作のカッティングナイフを手に、帰り道の人気のないところで彼女を襲ったんだ。最初はただ口封じに脅すだけのつもりだったのかもしれない……だけど、結果はああなった」

「もしそうだとして……なぜそれをするのに、わざわざ演劇で使った仮面を着けたんだろうな」

 久しぶりに飯島の声を聞いた気がした。いつもと違い、どきっとするほど冷たい声だった。それでも僕は怯まず、話をつづけた。

「……警察署で、聞いたんだよ。佐々木さんには“何も変わったところはなかった”って。でも、それは妙だよな。彼女はもし見知らぬ人に殺されたって、死ぬ間際にそいつの顔を真似ればそれがダイイング・メッセージであり、動かぬ証拠になるはずなんだ。それなのに、佐々木さんは“のっぺらぼう”のまま死んだ……。それは、模倣しようとしても相手の顔がわからなかったからだ。でも、おかしいんだよ。あの日の佐々木さんは“よそ行きの顔”をしていたんだ。もし本当に通り魔的な犯行なら、その人物は彼女がのっぺらぼうであることを知る由もないはずなんだよ。例えば、同じ学校の生徒でもない限り」

 僕はそこまで言ってふと思った。

 ――飯島は、彼自身のした勘違いに気づいているのだろうか?

 佐々木さんは、実際には飯島の顔を見てはいなかった。だから、鍵を返しにきた部活の人をリストを作って照らし合わせることで特定しようとしたのだろう。教師に報告してその人物を取り返しのつかない状況に置くのではなく、直接「そんなことはよくない」と言うために。

 それを知らない飯島は顔を隠すために演劇部の仮面を着け、それが回り回って僕に犯人が同じ高校の生徒だと結びつけられてしまったのだ。


 そこで、飯島がふと笑った。

「わかった。百歩譲ってそこまではいいとしよう。でも、彼女は“超常”だ。じゃあ俺はどうやって彼女を殺したんだ?」

 僕はそこで息を吐いた。

「飯島。それは君も“超常”だからだ」

「俺が……超常だって?」

「ああ。周囲にはそれを隠していたけど、多分、君は……“やまびこ”だ」

 一瞬、時が止まったように感じた。飯島は笑みを消し、先ほどまでの無表情に戻っていた。

 僕は思い返していた。

 ステージ上の飯島のよく通る声。

 まるで別人のような声。

 クラスでの完璧な声真似。

 それはおそらく、彼自身が自在に声を変え、操ることのできる超常……“やまびこ”だからだ。

「なるほど。俺の劇を見てそう思った訳か」

 飯島は冷たい声で、問いかけるというより事実を述べるかのように言った。

「そうだよ。ただ、今言ったことは全部……僕の憶測に過ぎない。佐々木さんが残した一枚の紙きれを起点とした」

「……証明はできない、わな」

 飯島は呟いた。それは僕に言い聞かせるようだった。挑戦するようでもあった。

「でも」

 と、そこで僕はつづけた。

「明日もし僕がクラスの衆人環視の中で君にナイフでも刺して……それで君が何ともなかったら? だって、一般人に“超常”は殺せない。みんな、君が超常だって思うよな。その後に警察が来て……飯島も事情聴取される。そしたら? そこから何を結びつける?」

 それを聞いて、飯島はふっと微笑んだ。それは、どこか諦めたような笑みだった。

「そしたら、ヤバいな。今の紀田は……彼女のためにそれくらいはやりそうだ」

「……じゃあ、やっぱり」

 僕は唾を呑んだ。いつの間にか、喉が完全に乾いていた。

「そうだな、大体は当たってる。違う所は、そうだな……まるで俺がカンニングのために演劇を頑張るふりをしていたみたいな言い方だったよな。でも、それは違う。逆だよ。演劇を続けるために、俺は親を納得させなきゃならなかったんだ。もしテストで低い点なんか取ろうものなら……俺は唯一の救いだったそれを取り上げられていただろう。俺はな、飯島家の人間として、何もかも完璧でなきゃならないんだよ」

 飯島はそこまで言って、ひとつ息を吐いた。

 僕は汗が背中を伝うのを感じた。

 なぜ、僕にそこまで話すのか。

 答えは明らかだ。


「飯島。君は……僕もやる気なのか」

「紀田。言ったよな。お前がたとえナイフで刺したって俺を殺すことはできないって。その通りだ。今ここでいくらお前が抵抗したところで、俺には致命傷ひとつ付けることすらできない」

 飯島は美術室の机の上にあった、工作用のカッターナイフを手に取った。小さいが、彼がこれからやろうとすることは、それで事足りるのだろう。

「飯島。僕はどこかで……違ったらいいなと思っていたんだ」

 僕は言った。

「残念ながら、お前は正解した。ひとつ教えてやる、紀田。俺は、佐々木さんを殺す時に、お前の声で彼女を呼び止めたんだ」

「え?」

 一瞬、息が詰まった。

「振り返った彼女が見たのはもちろん仮面を着けた俺だが……。でも、俺は佐々木さんが紀田の顔を最後にその顔に浮かべればいいと思ったんだ。でも、彼女はそうしなかった。明らかに自分が知っている声の主に殺される時……その時も、彼女は目の前の人物がお前であるはずがないって信じていたんだよ」

 僕は自分の身体が急速に冷えていくのを感じた。目の前の飯島を見つめる。

「紀田……すまないな」

 カッターを手にどんどんと飯島が近づいてきた。キリキリと音を立てて刃を出す。彼は完全に決意を固めていたようだった。そこで、僕はこう告げた。

「確かに、君は僕を殺せる……。でも、その逆が起きないって何で思うんだ?」

 僕のこの問いかけに、飯島は足を止め、しばし思案した。

「だって、お前は……」

 そこから先の言葉を、飯島は飲み込んだ。

 そしてその代わりに、彼は呟いた。

「お前も……“そう”なのか」

「僕からも謝るよ。さっきのは君の自白が聞きたくて言った……ハッタリなんだ」

 夜の完璧な静寂が美術室を覆った。


 そして、僕は、“それ”をした。


 中学の時からずっとしていなかった……いや、むしろずっとそうしていたことを。

 突如、静寂が破られる。

 “それ”を見て、飯島が笑い出していたのだ。

「あー、なるほど。なるほどな。佐々木さんとお前は、確かにお似合いだよ」

 僕は、窓の方を見た。夜になり、暗くなったガラスに反射する自分を。


 今の僕は、の姿をしていた。


「紀田。お前は……影法師。いや、それともこう言われた方がいいか? ……“ドッペルゲンガー”」

 ドッペルゲンガー。

 相手の姿をそのまま写し取る“超常”。

 そして、それと出会ってしまった者は命を落とす。

 僕は、自分が嫌いだった。自分なんてものは“ない”から。ずっと、誰かを真似ることしかできない存在。そして、そうしたなら相手を殺してしまう存在。

 僕はそれが嫌で、中学の時、病気になった親友にあるお願いをした。

「息を引き取る瞬間に、君の姿になってもいいか……?」

 親友とその両親は快く承諾してくれた。そして病院のベッドで親友が息を引き取るまさにその瞬間、僕は彼の見た目を写し取った。そしてその日以来、僕はその親友の姿を借りて生きてきた。ドッペルゲンガーではなく、普通の人としての人生を歩むために。

 そして、この高校に入った。僕はそこで佐々木さんに出会った。彼女は僕と同じく超常の“のっぺらぼう”で……だけど、誰の真似もせず、ありのままの姿で生きていた。僕はそんな彼女を眩しく感じた。

 そして、そんな佐々木さんは文化祭の日、外見ではないところで僕を褒めてくれた。

 誰かの真似ではない僕を。

 だけど。

 もう、そんな彼女はいないのだ。

「たとえドッペルゲンガーだろうと……武器もなく俺を殺せるのか?」

 飯島はそう言って、カッターを手に僕に向かってきた。僕は動かなかった。動かずともよかった。自分のドッペルゲンガーと出会ってしまったなら、その者の運命はただひとつの避けられない結末に向かう。

 そこで、飯島は前につんのめった。彼は、自分のほどけた体育館シューズの紐を踏んでしまっていた。

 飯島が頭から床に倒れ込む。そこで、湿った音がした。

 しばらくすると、まるでうがいをするような音が飯島の方から聞こえてきた。

 その音は、今のこの場にとてつもなく不釣り合いに思えた。

 僕が見てみると、彼は倒れる自分をかばおうとして出した手の、その握っていたカッターの刃で自身の喉を深く切り裂いていた。

 うがいのような音はしばらく続き、飯島も起き上がろうともがいていたが、やがてそれも収まった。

 そして僕は、元の姿に戻った。

 慣れ親しんだ、かつての親友の姿に。

 飯島は確かに“やまびこ”だったのだろうと僕は思った。親や周囲から期待された自分という声を真似て、その後ろをずっと追いかけ続ける……その“やまびこ”。


 翌朝、早朝練習に来た野球部員が窓の外からたまたま飯島の死体を見つけた。

 佐々木さんの時と違い、全校集会は行われなかった。

 飯島の件は自殺だと片付けられることになった。佐々木さんを殺した自責の念に耐えられなかったのだと。凶器のカッティングナイフと佐々木さんの財布がやがて飯島の家から見つかった。なぜ彼がそれをとっておいたのかはわからない。僕を容疑者に仕立て上げるために、いつか使う予定だったのかもしれない。

 そしてその後、捜査も正式に終了した。

 容疑者自殺という形で。


 あの日からしばらく経ったあと、僕は一度だけ、家の鏡の前で佐々木さんの姿になってみたことがある。それは完璧な模倣であったが、その姿は郷愁どころか激しい苦痛と後悔を伴うもので、とても見続けるのは心が堪えられなかった。だから、僕は一瞬で元の姿に戻った。そして、それからもう二度と佐々木さんの姿を真似ることはしなかった。


 僕には、子どもの頃からずっと不思議に思っていたことがある。もしドッペルゲンガーがドッペルゲンガーの前に現れて相手を殺そうと思ったら、それは何の姿になればいいのだろうか? ずっと真の相手の姿になれないまま、膠着状態に陥ってしまうのだろうか? 韓非子の『矛と盾』の命題のように。

 ずっと、それが不思議だった。

 でも、今ならわかる。

 僕というドッペルゲンガーを殺したいならそれは簡単だ。

 僕の場合、それはきっと、初めて恋をした人の形をとるのだろう。

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のっぺらぼう殺し 暮準 @grejum

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