閑話 シュタール王の後悔
王子の亡骸の一人を抱き抱えながら泣き腫らした目をしたアストリッドを、もう一人の王子の亡骸を抱き抱えた異国の巫女殿が彼女を慰めながらルガトが用意した馬車に乗り込む様子を、執務室の窓からそっと眺める。
私には彼女を慰める資格も、見送る資格もない。ただそっと、彼女と王子たちの亡骸をこっそり眺めることしかできなかった。
――あの日、巫女殿は三日三晩寝ずに癒したにも拘わらず、憔悴しきった顔と涙をこらえた顔をしながらも癒し切れなかったことを、後悔とも悔しさともとれる表情で首を横に振った。それを見た瞬間、罵倒しようとしていた気持ちがスッと冷えた。巫女殿のように、私は全く努力をしなかったことに思い至ったからだ。
私は、ベアトリーチェ付きの神官の話やアストリッド、ルガトの話を真剣に聞いていたか?
それらの訴えに対し、王子たちやアストリッドを守るために何かしらの策を講じたのか?
それは、否、だった。
ベアトリーチェを守るためならばどんな些細な噂の出所を探ったのに、子まで成した正妃を守るどころか、息子である王子たちすらも守ろうとはしなかった。
――私の家族であったはずなのに。
もともとベアトリーチェが正妃になるはずだった。それを覆し、『最高位の巫女を正妃に迎えてはどうか』と言ったのは、あろうことかベアトリーチェの父だった。
『我が娘は我が国の気風に合いません。娘は弟に似て選民意識が強すぎる。それではいずれこの国は駄目になりますぞ』
『そんなことはない! 私に対してはとても愛情深い!』
『殿下。それではお聞きしますが、我が娘は王妃様のように生まれや育ちに関係なく、皆に愛情深く接しておられますかな?』
『それは……っ!』
『それでは駄目なのですよ。この国がどうあるべきなのか、民たちがどのような存在で我らに何を齎しているのかわからねばならないのです。それをいくら諭しても娘にはそれがわからなかった……知ろうとしなかったのですよ。殿下はその辺のことをわかっておいでですかな?』
淡々とそう述べた、ベアトリーチェの父。あの時はただ頭に血が登り、怒りに任せて拒否することしかできなかった。だが父王に
『正妃との間に子供をきちんと成せば、あとは勝手にするがいい。だが、お前はいつかそのことできっと後悔するであろう』
と言われた。その時は、『後悔などしない』……そう思っていた。だが、現在の状況を見るに、結果的に後悔している。
『私がいた国では、王の隣に並び立つのは王妃となっておりますし、王の許しなく発言を許されるのは王妃のみとなっています。私が出会ったのはこの国の王妃様と伺っておりますが、陛下の真横にいながらに何の咎めもなく、陛下の許しもなく勝手に喋っている女性はどなたでしょう? まさか、アストリッド様が王妃様ではなく、そちらの女性が王妃様でしょうか? それとも、こちらの大陸や国では王の許しがなくとも発言していいとか、王妃でもない方が王の隣に並んでも何の咎めもなければ問題もないということでしょうか?』
『側室ごときが陛下の真横に並んだり、王妃様のお名前を勝手に呼んだり、分を弁えぬ……おっと、失礼いたしました。口が過ぎました』
そう苦言を呈した巫女殿。他の大陸から来た巫女殿からそう指摘され、肝が冷えた。私にとっては最愛の寵姫であり、城の者にとっては見慣れた光景。
だが、見知らぬ大陸から来た巫女殿にそう指摘されるのはこの国の恥ではないのか……そう思った瞬間、非公式とはいえ諌めればよかったと後悔したし、その後のベアトリーチェの我儘ぶりも、今までは可愛く見えたものがなぜか鬱陶しく感じ、ルガトに遠ざけさせた。
見えぬものなど信じぬと言った私に
『へえ? てことは、臣下や民の陛下に対する愛情や尊敬、敬愛も、ベアトリーチェや側室様の愛情も、見えないから信じないってわけだ』
冷ややかにそう言われて何も返せなかった。確かに、寵姫であるベアトリーチェや側室二人からは愛情が感じられたし、城で働いている者たちからは、尊敬や敬愛を感じとっていた。そして、見向きもしなかったアストリッドからでさえも、愛情は感じられなかったものの、確かに尊敬を感じられたからだ。
それなのに私は、それを否定するようなことを言ってしまった。
そしてアストリッドは、公私をきちんと分けていた。執務室に於いて、彼女は自身のことや王子たちのことは一切口にしなかった。それに引き換え私はどうだ?
城にいる者たちに、愛情や尊敬を向けられるに値することをしたのか?
周りの状況を良く見ず、唯一人の話しか聞かず、視野が狭くなっていなかったか?
ベアトリーチェを優先させ、王である私がやるべきことを、ルガトやアストリッド、文官や大臣たちに押し付けてはいなかったか?
王であるならば公私を分けねばならなかったのに、『公』であったはずの部分でも『私』を優先させていたことに、今さらながら異国の巫女殿に気づかされた。……気づいたところで、後の祭りではあったが。
王子たちがみまかった次の日、アストリッドが私の執務室を訪れ、挨拶もそこそこに
『陛下、離縁してくださいませ』
と、何の前置きもなくそう言った。
『理由を聞いてもよいか?』
『……陛下がそれを聞くのですか? 離縁のことは以前より考えておりましたが……。原因はベアトリーチェ様ですわ。ベアトリーチェ様がいらっしゃるのに、何故わたくしを王妃にしたのか全くわかりませんでしたし、そのことで散々ベアトリーチェ様に嫌味を言われました。尤も、彼女は処刑されてしまいましたけれど』
『……っ、原因がいなくなったならば、王妃として留まることに何の問題もあるまい?』
『問題? ありすぎですわ! わたくしの味方は二人の子供とデューカス、そして神殿関係者のみで他は全部敵みたいなものでしたのよ?! 夫であるはずの陛下はわたくしや子供たちに何の関心も示さず、守りもしなかったではありませんの! 三年我慢いたしましたわ! けれど、これ以上は無理でございます!』
声を荒げることのなかったアストリッドが声を荒げて詰め寄った。まさか、そこまで酷い現状だとは思いもしなかった。
だが、確かに私はアストリッドの夫であり、妻や王子たちを守る立場の人間だった。それをしなかったのは、私の罪だ。
『それに、陛下はご自分の息子である二人に、滅多に会いに来てはくださらなかった! ただ、乳母を与えただけですわ! ……その王子たちも今はおりません。息子たちにはずいぶん癒されておりましたのに……。わたくしは、この国にも王宮にも、何の未練もありませんわ。今すぐ離縁してくださいませ』
王子たちのことを思い出したのか、アストリッドは目にうっすらと涙を湛えながらも、何とか感情を押さえ、無表情にそう言った。
謁見の間で言われた女神の託宣を思い出す。女神の託宣は絶対だと聞いている。
――そして私は、二人の王子の亡骸をアストリッドに渡し、アストリッドの願いを聞き入れて離縁の書類にサインをした。
王子たちの亡骸は、アストリッドの故郷に連れて行ってそこに埋めるという。
離縁書はそのままルガトに渡し、私のゴタゴタに巻き込んでしまった異国の巫女殿とフェンリルを護衛とし、故郷に連れて行ってくれるように頼むつもりだと、アストリッドは私と視線を合わせることなく、臣下の礼をしたままそう告げた。
翌日、騎士団の団長室から出てきたデューカス・アルブレクを捕まえ、『次の王妃のための護衛についてほしい』と彼に願った。だが彼は騎士を辞めたこと、アルブレク家を勘当されたことを理由に、首を縦に振ってはくれなかった。
次期当主であり、デューカスの長兄にあたる騎士団長に勘当の理由と騎士団を辞めた理由を問えば、『勘当に関しては当家の問題と秘密であり、辞めたのは本人の希望でしたので』と言われてしまい、それ以上詳しくは教えてもらえなかった。尤も、アルブレク家は護衛任務のことや暗部を扱っている部分もあり、その身内に関しては一切秘密を洩らすことがない。
もし私の我儘で秘密を暴けば、恐らくアルブレク家は我が王家の敵に回ることは間違いなく、それは王家にとっても得策ではない。
優秀な護衛がいなくなるのは残念だが、『アルブレク家には、デューカスのような優秀な護衛がまだいる』と言われ、潔く諦めることにした。
そして、もっと意外だったのはルガトが宰相位を次の世代に譲り、自分は隠居すると言ったことだった。
『なぜだ?! まだ隣国のことに関して何もわかっておらぬではないか! 今ルガトに辞められては困る!』
『そのことに関しては既に情報は集まっておりますし、引き継ぎの時に策も情報も渡しております。それに、何年も会ってない娘に会いたいのですよ』
『娘……?』
『今年二十になる娘なんですが、病弱でしてな。この国よりも気候のよい国でずっと療養しておるのです』
『そなたに病弱な娘がいたとは知らなかった』
『病弱故に外には出ませんでしたし、七つの時に療養先に行ってしまいましたから。デビュタントもしておりませんからな……知る者はほとんどいないでしょう。いい加減顔を出さないと、父親である私の存在を忘れられてしまいます』
苦笑しながら話したルガトだったが、よくよく考えれば、私が王になってからはルガトに休みすら与えていないことに気づく。もちろんデューカスにも。護衛任務は交代制であったはずなのに、アストリッドの護衛にはデューカスしか置いていなかったのだ。
そして、私が守るべきはずの王子たちには護衛すら置いていなかった。ベアトリーチェや他の側室には、きちんと交代できるだけの人数を置いていたのに……。
私が引き留める間もなくルガトは何の未練もないとばかりに、執務室を出て行ってしまった。
「貴女は嫁いだ時からずっと……最後まで、私の名を呼んではくれなかったな……自業自得、ということなのか」
走り出した馬車を見ながらそっと呟く。
手のひらから水や砂が零れ落ちるように、大事な者が自分の手から零れ落ちて行く。そのことに、失って初めて気づく。いや、やっと気づかされた。
ベアトリーチェがおかしいと言われた時点で全てのことに手を打っていれば、ルガトも、アストリッドも、二人の王子も、優秀な護衛だったデューカスも失わずに済んだのだろうか。自分の手を見ながらぐっと拳を握り、自身の愚かさと孤独感に苛まれる。
「陛下、とある国から使者殿が来ております」
その思考を遮るように、新しく宰相になった、私よりも少し年上の者にそう声をかけられ、窓から離れて声のしたほうに向き直る。
「とある国の使者?」
「はい。我が国とは、ユースレス国を挟んだ一つ向こうの国です」
「……他にも、ユースレス国に隣接した国々から使者が来ていたな?」
「はい」
「順次目通りしよう。それで構わぬか?」
「はい。もし目的が同じであれば、一同に会して話し合いをした方がよいかと」
ルガト様はそう仰られておりましたがと言った、現宰相。
ルガトの置き土産かと半ば自嘲し、宰相と一緒に執務室を出る。向かう先は謁見の間。今度は間違えない。後悔しない。そう、心の中で誓いながら。
――この日から半年後、民や神官を生け贄とし、犠牲者を出し続けた悪名高きユースレス国は隣接する国全てから攻め入られ、国の名をその地図から消した。そのゴタゴタの途中で側室の一人を王妃に迎え、その一年後に王妃は王子を、側室は姫を産み落とし、さらにその二年後には王妃は姫を、側室は王子を産み落とすことになる。
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