Episode1

1話 管理栄養士・朝山橙也の朝


 朝山橙也はアラサーの管理栄養士。


 彼女はいない。


 幼い頃に両親を亡くし、今では妹と二人暮らしだ。


 料理に惹かれた幼い頃の夢と現実的な暮らしのことを考えて、資格職である管理栄養士になったのだ。


 しかし、現実はままならず、料理以外の仕事や職場での板挟みで疲れていた。


 そんな中、妹とともにひょんなことから異世界オーベルへと来ることになり、縁あって健康食堂で働くことになったのは数か月前のこと。


 健康食堂での仕事は楽しい、と橙也は思う。


 本来彼が目指していた、今日も明日も明後日も笑顔でいられるよう、食を通じて少し手助けしたい、という希望に近づけている実感があるからだ。


(変わった価値観のある世界だけど、俺の料理を美味しく食べてもらい、その食事から明日の元気な体を作っていってもらえたら……いいな)


 栄養バランスや適正なカロリーなどを考慮しつつ美味しい食事を提供していく。


 言葉にすると簡単だが、実行するのは容易なことではない。


 この国の「美味くて健康的な料理はない」という価値観を聞いた時、正直戸惑ったところもある。

 燈也からすればそんな価値観こそありえないのだ。


 だが、冷静に考えれば理解できることもあった。

 科学レベル的に栄養素という概念がないため、研究が進んでいないのだ。「●●を食べるとなぜか風邪を引きにくくなる」などは存在するらしいが、それもおばあちゃんの知恵袋レベル。



(やはり概念がないから気をつけたり、工夫したりすることも難しいか……。それにしても極端すぎる価値観が不思議だけど)



 詳しいことはわからないが、この国の過去と関係があるという話だ。


 このような価値観があると「美味くて健康的な料理」はなかなか信用してもらえない。

 そんなこと「ありえない」と一蹴されてしまうからだ。


 そこに難しさを感じる橙也だったが、概念を覆すような料理を提供することに一種の楽しさのようなものもあった。


 幸いにも、健康食堂の責任者であるオーナーが橙也の腕を高く評価してくれて、料理については任せてくれている。


 そのおかげか、かつてとは違い、目覚めも爽快だった。

 毎朝起きて、会社に行きたくないと思っていたのが嘘のようだ。


 オーナーの厚意により借りている家で目を覚ました橙也は、まだ上りかけでオレンジ色をした太陽に目を向けながら、手早く家を出る準備をする。

 街の人たちが出勤途中に朝ごはんが食べられるよう、健康食堂を開けるためだ。


 橙也達の朝食は回転後、店が落ち着いた時間にとることになるため、朝はコーヒーを淹れるだけ。


 お湯を沸かして豆を挽いているうちに、コーヒーの香りに誘われたのか、妹の桃香が姿を現した。


「おはよう、兄さん。毎日、早起きをして本当にすごいね。わたしなんかあと五時間は寝られるよ」

「おはよう、桃香。もっと寝たいっていうけど、お前も着替えは終わっているだろ?」


 やや眠そうな声とは裏腹に、長めの髪はすでにポニーテールにくくられ準備万端だった。

 いきなり異世界にトリップしていまい、大変な状況なはずなのに、自分以上に桃香はたくましく生きている。「ま、こうなったからには異世界を楽しもう!」とにっこりとした笑顔で言われた時は、兄であるにもかかわらず助けられたという気持ちだった。



 そんな彼女に、橙也は砂糖とミルクを軽く入れたコーヒーを差し出す。

 朝は脳を動かすのに使う糖分をとったほうがいい、という情報をテレビで見てから砂糖入りのコーヒーを出すのが習慣になっていた。


 また、コーヒーは胃液の分泌を促すとされていて、起き抜けなどの空腹時に飲むと胃が荒れやすいと言われている。

 そのため、胃粘膜を保護する目的で、欠かさずミルクを入れるようにしていた。


 桃香は甘いものが好きなため、橙也よりも多めに砂糖を入れてあげる。

 そんなところは二十歳を過ぎ、大学生になっても、まだまだ子どもらしい。


「ああ、おいしい。このコーヒーを飲むだけで一日頑張るぞって気になるんだよね」

「褒めてくれるのはありがたいが、大袈裟だぞ」

「嘘じゃないもん。兄さんがいるなら悪魔ばっかりの魔界でも生きていけそうだよ」

「俺は無理だな。ま、悪魔のような笑顔を持つ桃香には簡単なのかもしれないけどな」

「もー兄さんのいじわる」


 頬を膨らませた桃香はカップを両手で包み、息を吹きかけながらちびちびと飲んでいた。


 仕草は子供っぽいがその姿はすっかり成長しており、橙也は父のような気分で感慨に浸る。


 彼女のものより少ない砂糖の入ったコーヒーを飲みながら、朝のひとときを過ごすのだった。

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