小説版『カザカミ』

木村

第1話 隠しごと

 ああ、世界はいつも、向かい風。


 いつもだったらアリの大群の様に黒く染まる街並みが、今日はすっきりと涼しげな表情を見せている。週末のこの街特有の光景だ。その中をぽつぽつと通り過ぎる人影を、コーヒーの白い湯気と重ねてみる。……なんだってこんなに黒いんだろう。この程度じゃちっとも、誤魔化せない。


 視界の端に明るい色が映り目を向けると、子供連れが歩いていた。両親と、まだ小さな子供がベビーカーに乗せられている。小さい、といっても、そろそろベビーカーでは不満そうな年頃だ。蛍光色の上着を着せられて、まるで地球外生命体のような趣で、ベビーカーから身を乗り出している。


「なんであんな色の上着」


 そう独り言をつぶやいた時、後ろから声がした。


「迷子になってもすぐ見つけられるように」


 驚いて振り返ると、長身の女性が立っていた。僕の驚いた顔を見て楽しそうに笑っている。


「こんなところにいた」


「あ、すみません……」


「きっとあの子、じっとしてない性質なのね」


「え?」


「上着」


「ああ、そうか。じゃあきっともう歩けるんですね」


「たぶんね」


 二人で家族連れを眺める。彼らはこの街にはそぐわないほどにゆっくりと歩みを進める。よく見ると女性の手には僕のものと同じコーヒーが握られていた。このフロアに申し訳程度に設置された紙コップ型自販機のコーヒーだ。別に僕を探しにやってきたわけではなかったようだ。


「あーあ、なんでこんな週末に働かなくちゃいけないのかねえ」


「……うち、平日休みじゃないですか」


「まーね。でも、週末は週末でしょ」


「ああ」


「合コンにもいけないのよ。こんなんじゃ」


「合コン、ですか……」


「何変な顔して」


「え、や、行くんですか、川瀬さん、合コン」


「あー、うん、誘われたんだけどさ、学生時代の同期に」


「へえ」


「そろそろ結婚ラッシュでさあ。残り物同士でーなんて」


「そう、なんですね……」


「そうそう」


「……許して、もらえるんですか?」


「え?」


 無意識に出た言葉に動揺して、彼女の方に目を向けることが出来なかった。でも、彼女の声には明らかに動揺の色が混じっていた。……一体、どんな顔をしているんだろう。

 視界の端で、彼女が重心を移動させたのがわかった。


「さあね」


「ご、ご両親とか、そういうの」


 誤魔化しだった。今出来る最大限の誤魔化しだった。沈黙の常識、だけれど、知っている、ということを彼女に悟られてはいけないといった、そんな気持ちが、僕を引き留めた。声が震えたのかもしれない。自分の不器用さを呪う。

 彼女は、何に対して、「さあね」なんて返したんだろう。


「だって、そんな、さすがにこの年まで貰い手の無い娘にそんな、許すもなにも無いでしょ、うちの親も」


「すみません、なんか」


「そういうとこあるよね、松井」


「すみません」


「セクハラだぞー」


「はい」


「ま、黙っててあげるけど」


 そう言って彼女は歩き出した。その足取りは心なしか上機嫌そうに見えた。


「あ、それでね、行こうと思ってるんだ。合コン」


「そう、なんですか」


「うん、とっとと仕事終わらせて、明日午前休でももらって。だって、こうでもしないと、何にも変わらないから」


「……はい」


「早く戻っておいでね」


 デスクに帰りにくくなってしまった僕の想いを知ってか知らずか、そう言って彼女は先に行ってしまった。僕を残して。


 こんなことを話して、彼女は僕をどうしたかったのだろうか。いや、きっと何も考えちゃいないのだ。たまたま、ここに居るのが僕だっただけだ。小さな罪悪感が心に居座っている。なんで僕は、こんな自分の人生に何も関係の無いことに罪悪感なんて抱いているんだろうか。

 ……彼女の不倫、という沈黙の常識の上で、僕は彼女の行動が一体どのようなものなのかわからない。浮気、と呼べるんだろうか。それなら責められる行為のような気もするし、でも、ついに不毛な恋から足を洗おうとしているのなら祝福するべき決断でもあるだろう。


 しばらく考えて、最後に思い浮かんだのは彼女の不倫相手のことだった。僕にとっても上司にあたる、仕事の出来る、あの、生命力に満ちた男。彼はどう思うんだろう。彼女の時間を貪っているあの男を、どこかで僕は汚らわしく感じている。


「や、でも、関係ない。僕には」


 関係ない。そうはわかっているのにどうしてこんな気持ちになるんだろう。気づくとコーヒーは熱を奪われ、湯気は見えなくなっていた。


 あの親子の姿も、もう見えない。

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