呪印転生

@wirako

第1話

<1>



「ママぁー、行ってきまぁーす」


 三人分の布団をベランダに干し終えた時、真下から拓斗たくとの声がした。覗き込んでみれば、拓斗が修一郎しゅういちろうさんの車の助手席から首を出して、元気よく手を振っている。マンションの七階からでは顔はよく見えないが、きっとこの春の陽気よりも暖かな笑顔でいることだろう。


「行ってらっしゃい。今日もしっかり勉強してくるのよー。あとパパに、ぼうっとしないでちゃんと運転するよう注意してね」


 うん、と元気よく答えた拓斗は、やや名残惜しげに首を引っ込めた。ほどなくして車が発進する。


 これから拓斗は、修一郎さんの車で私立の小学校まで送り届けてもらう。そのあと修一郎さんは、職場の音楽教室で講師として働く。そして私は家事をこなしつつ執筆活動だ。いつもと変わらない日常だが、何よりも愛おしい日々である。


 私は植木鉢のチューリップに水をやったあと、脱衣所に向かった。洗濯物をかごに入れ、ベランダに干す。それから後回しにしていた食器を洗い、手早く掃除機をかける。


 近所のスーパーが開店するまで十五分を切った。今日は卵と牛乳、それから鶏肉の特売日だ。別のスーパーでは野菜が安い。貯金は充分にあるが、拓斗の進学をはじめとした今後を見据えた場合、やはり節約するに越したことはない。


 結局、急いで自転車を漕いだ成果もあって目当ての食材は確保できたが、店舗をはしごした分、帰宅した頃には九時半を回っていた。朝の主婦が忙しいのは仕方ないとして、午前中にすぐ仕事に取りかかれないのは、やはり歯がゆい思いがある。執筆の進捗が滞っているのだからなおさらだ。


「さあ、今日も一日頑張りましょう」


 わざと言葉にして気合を入れる。そうしてコーヒーを淹れたマグカップを手に、自室にこもって本職を開始した。


 ◇◇◇◇


「……な、なにぃぃぃぃ!? なぜ我の至宝級スキル<紅蓮地獄撃ナイトメア・ヴォルケーノ>を受けて、貴様は立っていられるのだ!? あり得ん……いや、あっていいはずがない!」


 グレゴリアス火山の支配者、紅蓮魔王ぐれんまおうディザイアが角の生えた頭を抱えてわめき散らす。俺のスキル<心眼マインド・スキャン>には、奴が『恐慌』状態に陥っているのが見て取れた。


「まあ落ち着けよ。あんたにも分かるように説明してやるから」


 俺はゲーム画面のようなステータスウインドウを表示させ、火口付近で狼狽する魔王に見せてやった。


「……ば、バカな……<虹を渡りし者オール・エレメンタルマスター>に<魔力暴食マナ・ドレイン>のスキルだと!?」


「そう、俺は<虹を渡りし者オール・エレメンタルマスター>のスキル能力で全属性のスキルを操れる。あんたの闇属性と炎属性の複合スキルであるナイトメアなんたらっていうのにも、当然適応があるんだよ。だから<魔力暴食マナ・ドレイン>で俺の魔力として吸収できたわけだ。仕組みが分かれば簡単だろ?」


「ま、待て! どうして貴様のような十七、八にしか見えない人間の小僧が,、千年に一人の確率でしか所有できない神話級スキルを二つも持っているのだ!?」


「どうしてって言われても、元々持ってたんだよ」


 正確には、地球で不運の事故に見舞われて死んだと思いきや、このファーミルブリアって世界に住む子どもに転生した時からな。……って言っても信じないだろうけど。


「あり得ん、あり得んぞ! 貴様の存在、その何もかもがあり得ん! 我より優れた存在など、あり得んのだああああぁぁ!」


「それがあり得るから、俺はこうして生きてるんだが?」


 溜め息をつきながら銀髪の頭をかく。面倒だからさっさと終わりにするか。


「多くの人間を虐殺した罪を、今から償ってもらうぞ」


 俺はブラックコートに手を突っ込んだまま、太陽を覆い隠すほど巨大で赤黒い魔力の球体を上空に生み出した。膨大な熱量が奴の怯えた顔を鮮明にさせる。


「なな、何故、我の<紅蓮地獄撃ナイトメア・ヴォルケーノ>が!? これはまさか、伝説級スキル<鏡の化身ドッペルゲンガー>の力……!? 貴様、貴様は一体――」


「俺か? 俺は、どこにでもいる平凡な人間さ。元地球人ってのを除けばな」


 じゃあな、ドぐされ外道。


 俺は腕を振り上げ、放心状態の魔王へ因果応報の炎塊を見舞ってやった。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああ――!!!!」


 断末魔の悲鳴が黄昏の空に轟く。それが次第に薄れ、やがて消えた頃。炎塊が直撃した岩盤には、火山を斜めに貫通する大穴が出来上がっていた。




「す、凄いですクライス様! 王国の精鋭魔導師たちさえ歯が立たなかった紅蓮魔王を、たった一人で倒してしまわれるなんて!」


 岩陰からカミーナがひょっこりと顔を出し、こちらへ駆け寄ってきた。金の長髪で一層映える白磁の肌が、興奮と火山の熱気のためか、ほんのり赤く染まっている。


「なに、あの程度の敵なら大したことはない。というか、危険だから合図するまで出てくるなって言っただろ」


「えへへー、ごめんなさいですー」


 まったく悪びれていない顔でカミーナが抱きついてきた。やれやれと嘆息しつつ頭を撫でてやると、エルフ族特有の尖った耳が嬉しそうにぴこぴこ跳ねた。


「ちょ、ちょっとカミーナ、あんた何抱きついてんのよ! うらやま……じゃなくて、さっさと離れなさい!」


 少し遅れて、マムルが黒い翼を翻して飛んできた。すぐさまカミーナを羽交い絞めにして俺から引っぺがす。


「……で、あんたはさっきの戦闘で怪我してないの? あたしのスキルで回復してあげるから、じっとしてなさい」


 悪魔族であり露出度の激しい服装のマムルが、聖属性のスキルを使えるのはアンバランスだと常々感じるものの、せっかくの好意なので受け取っておいた。だが彼女はいぶかしそうに端正な眉をひそめる。


「ねえ、あんたもしかして無傷? 全然ダメージなさそうなんだけど」


「まあ、あいつの攻撃はあまさず吸収してやったからな」


「ほんっと無尽蔵の強さね……。もうこの世界で、あんたみたいな化け物に勝てる奴はいないんじゃないの?」


「化け物って、お前な……」


「そうですよー、クライス様は化け物じゃありません。何故ならこのお方は、エルフ族を伝染病から救って下さった勇者様にして、私の将来のフィアンセ様なのですから!」


 カミーナがマムルをすり抜けて俺の左腕に抱きついた。膨らみかけの感触が二の腕にふっくらと当たる。


「か、勝手にあたしの下僕をフィアンセにしないでくれる!? こいつはずっとずーっと、あたしだけのものなんだからね!」


 マムルも張り合うように、右腕を豊満な双丘で挟み込んできた。さらに頭の角で肩の辺りをつついてくる。彼女が無意識に行う愛情表現だ。


「クライス様、クライス様。今宵もたくさんカミーナを愛してくださいねっ」


「あんたは昨日してもらったでしょ! 今日はあたしが、その……してもらう番なの!」


 それからしばらくは、美少女たちの柔らかなおしくらまんじゅうを一身に受けることになった。


 まったくこいつらはいつもいつも……。紅蓮魔王よりもこの二人の方がよっぽど強敵だよ……。


 この分だと明日は腰に響きそうだ。俺は今日何度目になるか分からない溜め息をつくのだった。




 <空間跋扈ワームホール>のスキルで王都まで一瞬でワープした俺たちは、紅蓮魔王の討伐に成功したと国王に報告した。討伐の証拠品は、奴の根城だったグレゴリアス火山に残されていた聖剣や水晶玉や魔導書など、秘宝の数々だ。奴は行く先々で虐殺の限りを尽くしながら秘宝を盗み、その中に蓄えられた魔力を我がものとしていたようだ。


 国王は俺たちの凱旋がいせんを喜び、国を挙げての祝宴を催してくれることになった。宮廷から見渡せる街の大広場では、吉報を告げられた住人たちが早くも準備に取りかかっている。この分なら、日没までには街全体が元の活気を取り戻しそうだ。


 だが祝宴の前に、俺には行くべき場所があった。街の北に位置する木造の小さな一軒家――俺の生まれた家だ。


 再び<空間跋扈ワームホール>で宮廷から家の裏手にある丘にワープした俺は、父さんの墓標の前でしゃがみ込んでいるエリーゼ母さんを認めた。


「よう、母さん」


 十八歳の息子がいるとは思えない若き面立ちは、亡き夫に囁きかけるように静かな微笑をたたえていた。


 母さんはこちらに気づくとゆっくり立ち上がった。銀の長髪が夕日色をまとう。


「あら、忘れてなかったのね。偉い偉い」


「当たり前だろ。父さんの命日なんだぞ」


 俺は墓標の前に立ち、目を閉じて黙祷を捧げた。そして紅蓮魔王を討伐したと心中で語りかける。


 まぶたを開けると、母さんが俺の横顔を眺めていた。


「大きくなったわね、クライス。もうすっかり私の身長を追い抜いてしまって」


「母さんが毎日上手い飯を食わせてくれたからな。俺がここまで強くなれたのも母さんのおかげだよ」


「じゃあ間接的に、私が紅蓮魔王を倒したことになるのかしらね」


「なんだよ、もう知ってたのか」


「さっきルベラおばさんが伝えてくれたわ」


「その割には落ち着いてるな。少しくらい心配してくれてもいいのに」


「無事なのは見れば分かるでしょ。それに私は最初から、あなたが勝つって信じてたもの」


 さも当然のように言ってのける。なんとも頼もしい人だ。女手一つで俺を育ててくれただけはある。そんな母さんを俺は慕い、敬い、愛していた。


「……俺もこれで少しは、母さんに親孝行できたかな」


「何言ってるの。あなたほどの親孝行者はいないわよ。父さんもそう思ってるわ」


 母さんは墓標を一瞥し、改めて俺に向き直ると、こう言った。


「クライス。私たちの子として転生してくれて、ありがとう」


「え……」


 俺は身動きが取れなくなったが、何とか口を開く。


「どうして、それを」


 母さんはいたずらっぽく笑う。


「最近読んだ古い魔導書に書かれていたの。千年前にも、神話級スキルを持った勇者様がいたらしいわ。彼は自分が、別の世界からこの地へやってきた転生者だと言ったそうよ。その詳細な文献とクライスの能力や今までの言動を振り返るうちに、あなたもまた、神に選ばれてこの地に舞い降りた勇者なのだと悟った。今にして思えば、二歳の誕生日の夜、突然体が白い光に包まれたあの瞬間に、きっと転生したのね」


 優しく温かなてのひらが、俺の頬を挟んだ。


「もう一度言うわ。私たちの子として転生してくれてありがとう、クライス。たくさんの幸せを、ありがとう」


「……らしくないこと言うなよな。いつもはもっと口うるさいくせに」


「あら、泣いてるの?」


「泣いてねーよ!」


 俺はニヨニヨする母さんを両腕で抱えると、一気に上空へジャンプした。


「きゃあっ! ちょ、ちょっとクライス!」


「母さんも宴は参加するんだろ。そろそろ始まる頃合いだし、せっかくだから上から見物しようぜ。いい景色が見られるはずだ」


 空中を飛び回れるスキル<天翔エア・ドライブ>で紺色の空を飛ぶ。眼下では数多の明かりが闇を払うように踊っていて、祝杯を掲げる人々の笑顔を照らし出していた。予想通り、いい眺めだ。


「わ、奇麗ねぇ」


 腕の中にいる母さんは、首を伸ばして賑わった街並みを見下ろす。まったく肝の据わった母親である。


「ねえ、クライス」


「ん?」


「ありがとう」


「……どういたしまして」


 それから母さんは地上に降り立つまで、時折こちらの顔を慈しむように見つめてきた。気恥ずかしくなった俺はそっぽをむいたままだったため、せっかくの景色をまるで楽しめないのだった。 <第十七巻 了>


 ◇◇◇◇


「はぁっ……」


 私はパソコンから目を離し、机に置いたマグカップの中のコーヒーをあおった。ぬるい。いつも「ここまで書き切ろう」と決めたシーンを終えるまでは飲み干さないというルールを自分に下しているのだが、ここ二年で冷めたコーヒーを口にすることがぐっと増えるようになった。


 原因は分かっている。


 私は左手側にある本棚へと足を向けた。多くの蔵書の中から一冊の文庫本を取り出す。


 『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』第一巻。


 私の二作目の作品にして、異世界ファンタジーブームの波に乗りアニメ化も成し遂げた代表作だ。今秋には、現在鋭意執筆中の第十七巻を発売する手筈になっている。


 およそ十年前から、若者をメインターゲットにした小説であるライトノベル――通称ラノベ――の業界では、異世界ファンタジーを舞台とした作品がじわじわと売り上げを伸ばしていた。いわゆる異世界ものというやつだ。


 異世界ものは大雑把に区別すると、主人公がその身そのままで地球から別の世界に飛ばされてしまう『異世界転移』ものと、事故や病気で死んだ主人公が目を覚ますと別世界の人間やモンスターに生まれ変わっている『異世界転生』ものの二パターンに分かれる。


 そうして新天地に辿り着いた主人公は、現地で学んだ剣や魔法、地球にいた頃の知識を駆使して異世界を巧みに生き抜いていく。ちなみに主人公は、現地の人々が目を見張るような才能やアイテムを所有している場合が多い。


 私の作品は後者の転生ものだ。具体的には憑依転生とでも呼ぶべきか。


 友人も彼女もなく寂しい単身生活を送るサラリーマンだった主人公のノリトは、神社の屋根より落下した鬼瓦から女の子を庇ってその生涯を閉じるのだが、気がつくと彼は、銀色の髪を生やした幼子になっていた。しかも名はノリトではなくクライスと呼ばれており、中世ヨーロッパの景観を彷彿とさせる世界――ファーミルブリアの人間として生まれ変わっていることを知る。


 己の置かれた状況を困惑しつつも受け入れたノリトことクライスは、類稀なる才能を生かして異世界を満喫していく……という物語である。


 このブームの背景には、現代社会の閉塞感が起因していると言われている。世界的な不況や、寿命を削りかねない長時間労働、何かと気苦労の多いSNS、努力が実らない環境、良くも悪くも様々な情報を知れてしまうインターネットの普及などによって、現代人は夢を描くための活力を失ってしまった。自分自身に可能性を見出さなくなってしまった。


 それらの鬱屈した感情が生む「この世界から逃げ出したい、今の自分から解放されたい」という反動が、昨今の異世界ブームに繋がっているのだそうだ。


 私もその感情を持つ一人だった。大学で三年間交際していた同じ研究室の先輩に突然ふられ、卒業後に就職した家電量販店での仕事もミスばかり。愚痴や泣き言を聞いてくれた親友は、実は私が交際中の時から先輩と関係を持っていたと発覚する。


 この世から消えてなくなりたい、人生をやり直したい……。毎日そう思うようになった。そんな時期、仕事帰りに寄った書店で、異世界転生とタイトルに含む文庫本が目に入った。引き寄せられるように私はそれを手に取っていた。


 面白かった。文章はややつたなかったが世界観の構築が優れており、まるで私自身が剣と魔法の飛び交う世界を旅しているかのような気分を味わえた。


 それから二日に一度は書店を訪れて続巻を買い、最終巻を読み終える頃にはもうすっかり立ち直れていた。今度は自分が作家になって誰かに夢や希望を与えよう、と思えるまでに。


 三年後。私はとあるラノベ文庫の新人賞で優秀賞を獲得することができた。残念ながら処女作のラブコメは三巻で打ち切りとなってしまったが、次作で己の原点である異世界転生ものを書いたところ、これが大ヒット。


 そのタイトルこそが『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』。愛称は『かみてん』だ。


 かみてんのおかげで私は売れっ子専業作家になれた。三十代にしては充分過ぎるほどの印税も入っている。私の人生を変えてくれた自慢の作品だ。


 だが同時に、転生を題材としたこのかみてんは、私のトラウマと強く結びつくものでもあった。


 あれは今から六年前。かみてんのアニメ化を記念した、某書店のサイン会での出来事だった。


 開始十分前に席に着いた私は、一列に並ぶファンの様子が何やらおかしいことに気づいた。皆、一様に顔をしかめている。何事かと不審に思った私も、すぐに理由を察した。


 凄まじい臭いだった。確かに私のファンは男性が多いし、中には制汗剤を使わない人もいるだろう。しかし、辺りに漂う悪臭は尋常ではない。浮浪者でもここまでの刺激臭は発しないだろうと思えた。


 くだんの男は八番目にやってきた。


「い、いつも応援してます……。イラストサイトや同人誌で、かみてんの絵を描いたりしてます。……しゃ、写真で見るよりずっと、お、お、お奇麗ですね。スタイルもいいし。僕、とってもタイプなんです……」


 アニメキャラの缶バッジをつけたバッグを背負う中年男は、フケのまとわりついた髪をかきつつ、かみてんの最新巻を手渡してきた。私は触りたくないと内心拒否しながらも、渋々受け取って手早くサインを書いていく。


「かか、彼氏とかは、いらっしゃるんでしょうか」


 初対面にもかかわらず、プライベートをずけずけと聞くあなたは、一体何様のつもりなの……とは言わず、早く終わらせるために「はい」と短く息を吐いた。当時から私は、家電量販店の客として出会った修一郎さんと交際していた。


「……そっか、そうですよね。先生はお奇麗ですもんね。僕じゃ全然つり合わないよなぁ……。でも、いいんです。いつかは僕も、先生に愛される人間になってみせますから……」


 男はうっとりとした視線で私の体を舐め回してきた。身の危険を感じた私はさっさと本を男に押しつけ、「これからも応援よろしくお願いします」の決まり文句と握手もなしにすかさず頭を下げた。幸い彼も、ぬらりと黄ばんだ歯を見せて私に応援の言葉をかけただけで、以降は平穏無事にサイン会が行われた。


 だから二年も経てば、あの男のことはすっかり忘れていた。


 しかし、奴は再び私の前に現れた。手にサバイバルナイフを握り、産婦人科の帰り道に襲いかかってきたのだ。


 真夏の日差しを嫌って裏路地を選んだのが失敗だった。辺りを見回しても人っ子一人いない。このままでは私だけでなく、あと一ヶ月で生まれるお腹の子も危ない。両腕は無意識に腹部へ寄せていた。


 その様子を見た男は、歯の間からえた臭気を吐き出し、下卑た笑みを漏らした。


「あ、安心してください、先生。あなたとお腹の子に危害を加えたりはしません。だって、安全に生まれてきてもらわなきゃ、僕が困るんですから」


 言っている意味が分からなかった。私の子とこの男には、何の因果もないはずなのに。


 恐怖と動揺で金縛りに陥っていた私は、喉が引きつって声が出せずにいた。それに構わず、男がくたくたのポロシャツを脱いでいく。


 窒息しそうなほどに私は驚愕した。男の腹部に、魔法陣のごとき真っ黒な模様が描かれていたのだ。


 よく見るとそれは、模様ではなく文字だった。おびただしい漢字の羅列が腹の上でうじゃうじゃと渦を巻いている。その禍々しさは、呪印と呼ぶにふさわしい光景だった。


「き、祈祷師きとうしをやってたおばあちゃんちの書庫で見つけたんです。こういう風にお腹に文字を書き、中心を刃物で刺して、溢れた血を他人に塗り込むと、死んだ僕の魂がその人に宿るって。胎児に乗り移りたいなら、妊婦のお腹にです。つ、つまり転生ですよ。僕はこれから、先生の子どもに転生して、ずっとずっと先生に愛情を注いでもらうんです――があぁっ!」


 男がためらいもなく腹部をナイフで突き刺した。ぶるぶると身悶みもだえし、吐血と共にナイフを引き抜く。失禁したように、男のズボンが赤い染みを広げる。あまりの恐怖で、私はその場にへたり込んでしまった。


「せ、先生……僕と、かぞくに、なりまじょおお……!」


 血反吐ちへどを滴らせた男が、幽鬼ゆうきのようにふらふら近づいてくる。口から臭気と鉄のにおいをまき散らす。剛毛の生えた手指を己の腹部に突っ込む。鮮血を塗りたくったてのひらを伸ばしてくる。にゅいぃぃっ……と血塗られた口角を持ち上げた。体をくの字に折り曲げた。全身で覆いかぶさってきた。そして――


 ぐっちゃりと、私のお腹をまさぐった。


 瞬間、喉奥に押し込まれていた悲鳴が一気に噴出した。


 私の声を聞きつけ、帰りが遅いと心配して偶然通りかかった修一郎さんが駆けつけてくれた。そこで一旦意識が途切れ、気づいた時には救急車の中だった。すでに破水しており、羊水が股をじっとりと濡らしていた。


 ああ、生まれる。あの男の宿った忌み子が、生まれてしまう……。


 救急隊員の呼びかけにも上の空で、私は絶望の未来を描いていた。


 分娩室ぶんべんしつで陣痛がピークに達した。体の内側から、かきむしられるような痛みが続く。


 あの男が私の体内から出てこようとしている。子宮を乱暴に押し広げ、ちつねぶるように這い出し、乳房ちぶさを思う存分すするために、産声を上げる時を今か今かと待っているのだ。


 痛みから逃れるために、一刻も早く出産を終わらせたい。だが悪魔の子をこの世に誕生させるわけにはいかない。しかし生まなければ激痛で体が張り裂けてしまう。でもあの男を育てるのは絶対にごめんだ……相反する感情が、陣痛の定期的な波に乗って、かわるがわる押し寄せる。


 永遠とも思える葛藤の末、とうとう忌むべき子がこの世に生を受けてしまった。


 ところがその子を抱いた途端、それまでの沈鬱な気分がすべて吹き飛んだ。


 この子は間違いなく、私と修一郎さんの子だ……。


 母としての直感だった。泣き疲れた我が子の無垢な寝顔。愛くるしいまでに繊細で小さな体。熱いくらいに火照ほてった命の温度。こんなにも純粋で神聖な生命の中に、邪な心を持つ人間が干渉できるはずがない。あり得るはずがないのだ。


 それから数週間は事件のこともあって、両親や修一郎さんが何かにつけて私の身を案じてくれた。が、こちらがあまりに平然としているので、全員きょとんとしていたのを今でもよく覚えている。


 その後も母子共に健康で、私と修一郎さん、そして拓斗の三人は順風満帆な家族生活を送ってきた。


 しかし、トラウマという呪いの種は、私の心の奥深くで確かに根づいていた。


 それが芽吹いたのは、およそ二年前。拓斗の私立小学校への入学が決まってからのことだ。




 はっと顔を上げれば、壁かけ時計は正午をとうに回っていた。随分長い間、物思いにふけっていたらしい。パソコンもスリーブモードに切り替わっている。


 ちょっと早いけどお昼にしよう。一息ついたら、かみてんを一巻から読み返してみようかしら。


 長期作品の執筆で行き詰まった場合は最初からその作品に目を通してみるといい、と先輩作家は言っていた。そうすることで方向性がはっきり見えてくるのだとか。


 気持ちを切り替えつつ、マグカップを持って扉に向かう。


 その時、壁に貼られた画用紙が目に入った。一年前に拓斗が課外授業で描いた絵で、都の絵画コンクールで金賞に選出された一作だ。それは色とりどりの花々が鮮やかに咲き誇る風景画だった。


「…………」


 上手過ぎる。いつ見てもそう感じる。小学三年生の作品とは思えない、見事な花畑の風景だ。まるで――


 まるで、絵の知識がある大人が描いたようだった。



<2>



 『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』第一巻 三六頁~


 一週間この家で、この体で生活してみて、ようやく夢ではなく現実だと認める気になった。人生、不思議なことは起こるものだ。


 どうやら俺は、クライスという二歳児の男の子に転生したらしい。しかも魔法同然の現象が実在する、中世ヨーロッパに似たファーミルブリアという異世界の子どもにだ。


 その証拠に、地球には当然あるはずの電化製品が、この古びた木造一軒家にはない。料理をする場合は、たとえば鉄製の鍋の下に薪を置き、火を発生させるスキル――その人物が持つ魔法めいた超能力のこと――で点火する。花に水をやりたい場合は井戸で汲むか、これまたスキルで水を生み出す。


 一見した生活水準は現代の日本より劣るが、一方で地球の技術レベルを凌駕する現象も起こせるへんてこな世界だ。


 そんなファーミルブリアで唯一、電子的な現象がある。それがステータスウインドウだ。この世界では誰もが「ステータスオープン」と頭の中で念じると、自分の身体能力や保有しているスキルなどがゲーム画面のように目の前に表示される。


 俺は再確認のために、ステータスオープンと脳内で唱えた。そうして出現したステータスウインドウにはこう書かれている。


【クライス・ヴァルムーテス】

 年齢:2

 体力:32

 筋力:8

 知力:2524

 魔力:5799

 スキル:神話級…<虹を渡りし者オール・エレメンタルマスター><魔力暴食マナ・ドレイン> 伝説級…<鏡の化身ドッペルゲンガー><空間跋扈ワームホール> 達人級…<天翔エア・ドライブ><痛覚保護ペイン・ペイント><明鏡止水エモーショナル・コントロール><心眼マインド・スキャン>……


 体力と筋力は、二歳児ならこの程度のものなのだろう。知力がバカみたいに高いのは多分、俺が前世の人格と記憶をそのまま引き継いでいるからだ。


 しかし、そんな知力さえはるかに上回る魔力……。見たところ数値は四桁が限度のようだから、9999で頭打ちということか。


 つまり俺の魔力って、すでにとんでもないレベルってことだよな。


 この世界では強力なスキルであるほど、必要な魔力も膨大になるらしい。元々のクライスの才能なのか、俺が転生した影響なのかは分からないが、順調に魔力を高めていけばあらゆるスキルを操ることも夢ではないはずだ。


 最高だ、異世界転生! そうだよ、こういう世界に生まれたかったんだ!


 俺はゲームで何度も目にしてきたド派手な魔法の数々を夢想しつつ、期待に胸を膨らませた。


「クライス、そろそろお散歩に行きましょうか」


 洗濯物を干し終えた母のエリーゼが、子ども部屋にやってきた。


 ああ、いつみても綺麗だ。こんな人が俺の母さんになってくれるなんて。


 名うての彫刻家が手がけた作品のように美しい面立ち。朝日を浴びて輝きを増す銀色のロングヘア。いつも笑顔を絶やさない穏やかな性格。そして母性をこれでもかと詰め込んだふくよかな胸。まさに理想的な母親像だ。地球の母さんとは似ても似つかない(失礼)。


「そろそろ積み木はお片づけしましょうね」


 母さんは俺の手を取って積み木を握らせ、おもちゃ箱に入れる。一つ入れるたび、銀髪の頭をいい子いい子してくれる。もうずっと子どものままでいたい……。


 でも少しは良いところも見せたいのが男心というものだ。俺は意識を集中し、目の前の積み木を凝視した。すると、


「きゃっ! つ、積み木が宙に浮かんで……」


 俺は所有スキルの一つ<念導力サイコキネシス>を発動し、積み木を次々と箱に放っていく。


「この子、達人級の<念導力サイコキネシス>を持ってたのね。しかもこんな自在に。凄いわ、天才かしら……」


 瞠目する母を見て、俺は実に鼻高々だった。


 第二の人生、面白いことになりそうだ!


 ◇◇◇◇


「拓斗。ママ、お風呂に入ってくるけど、その間にインターホンが鳴っても出ちゃ駄目よ。最近は何かと物騒だから」


「はーい」


 夕食を終え、私は着替えを持って脱衣所に向かった。拓斗は毎週この時間、リビングのソファでアニメに夢中だ。クラスの女子の間で人気の番組らしい。


 今晩の食卓は、拓斗の好きなハンバーグとクリームシチュー、そしてデザートにイチゴのショートを出してあげた。昨日学校のテスト結果が軒並み満点だったご褒美である。


 拓斗は、私たち平凡な親子がびっくりするくらい優秀な子だった。生後一年も待たずに一人で歩行したのを皮切りに、幼稚園では誰よりも優れた運動能力を発揮。頭脳面でも、教えたことはスポンジのように軒並み吸収していった。ものの試しで受験させてみた名門の私立小学校にも、余裕で合格するほどだ。


 最近では日常英会話程度なら難なく話せるようになり、児童小説はすでに卒業して一般小説を読み漁っている。加えて顔立ちは私に似たため、女子にも大人気ときた。


 もちろん拓斗が才覚を開花させるたび、親としては嬉しくもあり誇らしくもある。しかし二年前の、私立小学校に受かったあの頃から、さすがに度が過ぎていないかと感じ始めた。運動も勉強も、お受験ママのように厳しく指導したわけでもないのに、拓斗はいつの間にか、私たちの想像を超えた成長を遂げていたのだから。


 いつだったか、修一郎さんは「拓斗の才能は、きみの小説の主人公並みだな」と屈託なく笑っていた。


 そう、拓斗は修一郎さんの言う通り、転生した大人が宿っているかのような優秀さだった……。


「ああもう、何考えてるのよ、バカバカしい」


 浴室で頭を洗いながら独りごちる。ここ二年で、一人きりになるとたまにおかしなことを考えるようになってしまった。かみてんが進まないのもそのせいだ。転生というワードを見るたび、あの男の顔が嫌でも思い浮かんでしまう。


 汚れと一緒に妄執も流してしまおうと、念入りにシャワーをかける。


 ふと、背後の脱衣所でかすかな音が聞こえた。


 何だろう、と振り返る。同時に浴室の折り戸が開いた。


 そこには素っ裸の拓斗が立っていた。


「ちょ、ちょっと拓斗。アニメ見てたんじゃなかったの」


「だって、ママと一緒にお風呂入りたかったんだもん」


「ママは一人で入るのが好きだって、前に言ったわよね」


「えー。でもいいでしょ、一緒に入ろうよ。ね、いいでしょママ」


 悪びれもせずに拓斗は浴室に入ってくる。


 拓斗は学校でこそ女子にもてはやされているが、実はかなりの甘えん坊だった。一緒に出かける時は向こうから手を繋いでくるし、仕事で遅くなると言えばそんなの嫌だと駄々をこねる。私の胸を布団の中で触ってくる癖も抜けない。


 だから少しずつでも自立させるために、まずはお風呂から……と考えていたのだが、こんな風に何度も失敗に終わっている。


「ママ、頭洗ったばかりなの? じゃあ僕が体洗ってあげるね」


 そう言って拓斗は、私のスポンジを取ってボディーソープを泡立たせる。


「自分でやるからいいわよ。ほら、貸して」


 静止も聞かず、拓斗は私の背中をこすり始めた。こうなってしまうと、こちらも受け入れざるを得ない。


 その間、拓斗は今日学校であったことを話した。みんなが分からなかった問題を自分だけが解けた、先生に凄いと言ってもらえた、男子より女子と遊ぶ方が楽しい、でもそのせいでオカマだとバカにされて悔しい、などなど。私はしっかり耳を傾け、その都度褒めたりアドバイスをしたりと、母親の役目を果たした。


 一方で、神経は自分の胸に集中していた。拓斗の持つスポンジが、私の右の乳房をまさぐっている。次第に、空いた左手でも乳房を揉み始めた。


「た、拓斗、前はママが自分でするわ。だから――」


「ママ」


 耳元で息子が囁く。少年が発したとは思えない、妖しげな響きだった。


「ねえ、どうしてママのおっぱいはこんなに大きいの?」


 突然の質問に、私は答えあぐねる。その時だった。


 ぴた……と、背中に小さな何かがくっついた。


「どうして僕にはこれがついてるの?」


「た、拓斗っ!」


 一喝すると、息子がびくりと離れた。


「そんなの、教えなくても分かるでしょ。ママは女で、あなたは男だからよ。下らないこと言ってないで、さっさと自分の体を洗いなさい」


「うん。……ごめんなさい」


 俯いた我が子を尻目に、私は手早く体を洗い、湯船にも浸からず浴室をあとにした。


 タオルで体を拭いていると、肌がぶつぶつと粟立っているのに気づいた。


 あの瞬間、私は想像してしまったのだ。


 息子の皮をかぶった『誰か』に、犯されるのではないか……と。



<3>



 『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』第四巻 二四九頁~


 山頂に辿り着くと、そこには緑の山々に囲まれた王都を見下ろせる絶景が広がっていた。本当なら<天翔エア・ドライブ>のスキルでここまでひとっ飛びできたのだが、この感動は地道に登ってこそのものだろう。現に母さんは目をキラキラさせている。


 ひとしきり景色を楽しんだあと、母さんは大きな布の敷物を広げた。


「クライス、疲れたでしょ。ここに座りなさい」


「ううん、俺、全然疲れてないよ。ほらっ」


 男としての見栄が刺激された俺は、元気よくその場でジャンプした。実際、<自動再生オート・リカバリー>のおかげで体力はすぐに回復するのだ。


「あらそう。まだ五歳なのに体力あるのねぇ。でもお母さんお腹すいちゃったから、お昼にしましょ」


 そう言いながら、母さんはバスケットを開けた。中には食欲をそそる色味をしたパイがいくつも入っていた。


「こっちはミートパイで、そっちがアップルパイよ。今日のは自信作なの」


「わーい、やったぁ!」


 年相応の振舞いをするのはいまだに慣れない。だが料理上手な母さんの手料理が食べられるなら、子どものふりだろうがモンスターの真似だろうがいくらでもできる自信がある。


 俺はすぐさま靴を脱いで敷物に座り、おしぼりで手を拭いてから、手渡されたミートパイにかぶりついた。


「んめえっ!」


 思わず前世のノリで感想を述べてしまう。それほど美味かったのだ。


 バターの芳醇な香りに誘われてほおばったパイ生地。んだ瞬間、しっとりとしながらもサクっと音のする、絶妙な食感が口いっぱいに広がる。その幸せを文字通り噛み締めると、中から出てきたのはぶつ切りの牛肉。歯で押し潰せばじゅわっと肉汁を滴らせた。薄く繊細なパイ生地とは正反対の、こってりした深みのある味わいだ。


 性質の異なる両者は、しかし口の中で絶妙に混ざり合っている。トマトをベースとしたミートソースのおかげだろう。スパゲティ寄りのとろっとしたソースがお互いの食感の仲立ちを果たしつつ、トマトのほどよい酸味で一層引き立てている。改めて母さんの料理の腕には脱帽する。


 この長い御託を一言で表したのが、んめえだった。


 水筒の紅茶で喉を潤してからも俺は、母さんの愛情がこもったパイを満腹になるまで腹に収めた。一息ついたあと、敷物にごろんと寝転がる。


 爽やかなそよ風が山頂を吹き抜ける。目を閉じ、遠くから聞こえる葉擦れの音に耳を澄ませてみた。音はそうっと鼓膜を叩き続ける。段々と意識がまんじりとしていく。心地の良い眠気だ。耳元ではもう健やかな寝息が聞こえる。息がかかって少しくすぐったい。


 ああ、これが幸せってやつなんだな。


 俺は第二の人生に心から満足していた。


 ◇◇◇◇


 拓斗を寝かしつけたあと、かみてんを読み進めた私は、修一郎さんとソファでテレビを見ながら子育ての相談をしていた。


「あの子の甘えん坊というか乳離れは、いつになったら治るのかしら。今日もお風呂に入ってきちゃったし。それに、何だか変な趣味に走りそうで怖いわ」


「変な趣味って?」


 修一郎さんはあくびを噛み殺して言った。テレビには、彼が昔好きだと言っていたグラビアアイドルが映っているが、今はすっかり興味を示さなくなった。そういえば、休日には頻繁に足を運んでいた地元の友だちとの飲み会にも、ここ二年でほとんど行かなくなった。どうやら父親としての自覚が芽生えたらしい。


「お風呂でね、どうしてママにはおっぱいがあって、自分にはおちんちんがついてるのって聞いてきたのよ」


「うーん、性別の差はそろそろ気になる年頃なんじゃないか。あいつ、女子と仲がいいらしいし、その影響もあると思うぞ」


「そう、それよ。女の子とばかり遊ぶなんて、やっぱり変よ。あなたが女の子向けのアニメばかり見せてるからじゃないの?」


「子どもはアニメが好きなものだろ」


「だからって、あなたまで一緒に見ることないじゃない」


 修一郎さんは飲みに行かなくなった代わりに、進んで拓斗にアニメを視聴させるようになっていた。


「そんなに目くじら立てるなよ。きみの仕事だってアニメ業界に関連があるくせに」


「でも、心配なのよ。拓斗には気持ち悪いオタクになってほしくないわ。アニメ趣味と性の趣味が合わさって変な方向に転がったら大変でしょ」


 その結果、あの男のようになってしまったら……。考えただけでぞっとする。


「気持ち悪いって、あのなぁ。アニメを危険だって決めつけるのはマスコミに毒されてるぞ。俺の職場にもアニメ好きの奴はいるけど、仕事も私生活も至って真面目だ。それともきみは、自分のファンも危険だと思って接してるのか?」


「そういうわけじゃないけど……」


「アニメや漫画が性犯罪を助長してるって憶測もでたらめだ。むしろそれらで性欲を満たして実際の犯罪を防ぐ防波堤になってるんだから。大体な――」


 いつしか修一郎さんもアニメにどっぷりはまってしまったようだ。これでは彼の協力は望めそうにない。


「ああもう、分かったわよ。私が悪かったわ」


 これで終わりだとばかりに私は立ち上がった。言い方は大人げなかったが、このままでは理屈っぽい演説を延々と聞かされてしまう。


「まあ待てって」


 修一郎さんに腕を引っ張られ、再びソファに座り直された。


「最近ご無沙汰だっただろ。拓斗も寝てるしさ……」


 彼はテレビを消すと、いきなり押し倒してきた。普段ピアノを奏でる手指で乳房を撫で回す。


「もうっ、あなたも胸が好きなのね」


「きみのは大きくて触りがいがあるからな」


「んっ」


 弱い部分を摘ままれる。しばらく私の反応を楽しんだあと、彼は自分のパジャマを脱ぎ始めた。


 今日はもう、頭の痛くなることは忘れよう……。


 息子のことも、あの男のことも、執筆のことも、ひとまず置いておこう。今はすべてを彼に委ねよう。


 そうして私は、日付が変わるまで彼と愛し合った。胸の内にわだかまる不安を吹き飛ばすように。


 だが行為が終わってからも、体は満足しているのに心は完全には晴れなかった。


 不安の暗雲が再びわだかまり、心に真っ黒な影を落としたのは、一週間後のことになる。



<4>



 『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』第十巻 一九五頁~


「ごちそうさまでした」


「はい、お粗末様。食器は片づけておくから、すぐに着替えてきなさい。早くしないと遅刻するわよ」


「分かってるって」


 俺は母さんに急かされるままに木の階段をぎしぎしと駆け上がって自室へ戻り、パジャマを脱ぎ捨てた。ワインレッドのブレザーとチェックのズボンに着替えて姿見で確認。


 うーん、いつ見てもイケメンだ。


 光の当たり具合で宝石のように輝く銀色の髪。母さんの血を引き継ぐ均整の取れた顔つき。十三歳にしては高めの上背と、適度な筋肉を備えた肉体。文句のつけようがない美少年だ。自分のルックスを確かめるのが毎朝の楽しみになるなんて、前世ではあり得なかった。ああ、転生万歳。


 俺はにんまり顔のままネクタイとカバンを手に、いそいそとリビングまで戻った。朝の楽しみはもう一つあるのだ。


「母さーん、ネクタイ締めて」


「あのねぇ、中等学校に入ってからもう三ヶ月が経つのよ。自分でできなくてどうするの」


「だって何度やっても上手くできないし。みんなもそろそろ家に来るからさ、早く早く」


「本当に仕方のない子ねぇ」


 母さんはぼやくが、少し身を屈めると手際よくネクタイを巻いてくれた。


 俺はかつてサラリーマンだったから、ネクタイはもちろん自分で結べる。しかし、女性にネクタイを締めてもらうというのが、寂しい単身生活を送ってきた俺の夢だった。それが今、母親ではあるが叶っている。しかもとんでもない美人ときた。ああ、転生万歳。つくづく生まれ変われて良かったと思う。


「クライスくーん、迎えに来たよー!」


 首元がしゅっと締まった時、玄関の木製ドアが叩かれた。外からは賑やかな気配がする。


「おっと、もう来たか。それじゃ母さん、行ってくるよ」


「はい、行ってらっしゃい」


 穏やかな微笑を背に、俺はドアを開け放った。


「おっはよー、クライスくーん!」「うっす、俺の生涯の友よ!」「遅いわよクライス。私をらさないで頂戴」「あ、あの、おはようございます、クライスさん……」「今日こそ実践授業主席の座は僕がもらうぞ。覚悟するがいい!」「やーん、クライスきゅんってば今日も可愛いー!」


 仲の良い同級生たちがそれぞれ出迎えてくれた。前世で友人がろくにいなかった俺には、もったいないくらいの充実した日常。しかも女子が自ら会いに来てくれるなんて、なんたる幸福か。


「クライスくん、早く行こっ!」


 エレシアが俺の腕を元気に引っ張る。それを見て慌てたメリンダたちは負けじと俺を取り合い始めた。取り残された男たちは、いつものようにやれやれと肩をすくめるのだった。


 ああ、転生万歳。


 ◇◇◇◇


「拓斗。これからママ、学校行ってくるから、ちゃんと戸締りはしておいてね。夕飯までには帰ってくるから。あとしっかり手洗いとうがいをして、それから制服は着替えてハンガーにかけておくのよ」


「えー、ママが行くなら僕も行くー」


「駄目よ、先生はママとお話ししたいって言ってるの」


「やだ、僕も行く!」


「わがままばかりだと、お夕飯作ってあげないわよ」


「うー、でもぉ……」


「それじゃ行ってくるわね」


 このまま話していたら泣かれてしまう。私は素早く玄関ドアを閉めた。


「はぁっ……」


 いまだ執筆活動が滞っているというのに、さらに厄介事が増えてしまった。マンションの外廊下から見える曇天模様の空に、重い吐息が混じっていく。


『お子さんのことで、大事なお話が……』


 拓斗の担任教師から電話がかかってきたのは、今日のお昼前だった。肝心の内容はぼかされてしまったが、面白くない話題なのは間違いない。


 バスを使って四十分。目的地の私立小学校は名門なだけあって、全体的に小奇麗な見た目だ。だが今日は校舎の白い外壁が、くすんだねずみ色に見える。


 教室で待っていた担任の女教師は、顔のしわを一層濃くして口火を開いた。


「実は拓斗くんに最近、奇行……が、目立つようになりまして」


「き、奇行、ですか」


 日常生活ではまず耳にしない単語を聞き、ひやりと背筋が寒くなる。


「はい。拓斗くんが、女子生徒と仲がいいのはご存知でしょうか」


「ええ、息子からよく聞いてます。……そのせいで、男子にオカマ扱いされているとも」


「彼らは私が叱りつけたので、安心してください」


 と柔和に微笑むも、


「ただ……」


「ただ?」


「拓斗くんにも、そう揶揄やゆされて仕方ない面があるのは確かなんです」


「それが、奇行?」


 厳かに教師は首肯する。


「男子たちに話を聞くと、どうやら彼は、人目を盗んで女子トイレに入ることがあるそうです」


「えぇっ!」


 思わず大きな声が出る。


「他にも、親しい女子生徒に頼んで、下着や性器を見せ合っているらしく……。これは拓斗くんも認めています。理由は話してくれませんでしたが」


「…………」


 今度は声さえ出せなかった。


「私共も拓斗くんのことは注意して見守っていきますので、お母様も彼とのスキンシップの機会を増やすようにお願いいたします」




 帰りは頭が真っ白になって、どうやってマンションまで戻ってきたのか覚えていない。玄関ドアの前で、鍵を持つ手がぶれる。


 やはり拓斗は、あの男なのか。呪印なるものはこの世に実在していて、私のお腹に宿ったというのか。あの男は生まれ変わったのをいいことに、私だけでなく、同級生の女の子まで毒牙にかけて愉しんでいるのか。何も気づかないでいる私たちを、あどけない顔の裏で嘲笑っているのか。


 もしそうだとすれば、初めてママと呼んでくれた時のあの幸せは、初めてのお化け屋敷でしがみついてきた時のあの微笑ましさは、初めて似顔絵をプレゼントしてくれた時のあの愛おしさは、何だったのか。


 親子で一緒に初めてを経験し、共に成長していくのが子育てのあるべき姿だと信じている。なのに子どもが、前世の人格と記憶を頼りに生きているのなら、それは子育てと言えるのか。本当の親子と呼べるのか。


 私が今日まで支えにしてきた子育ての喜びは、全部まやかしだったのではないのか……。


「違う、違うわ」


 強くかぶりを振った。ファンタジー小説を書いているからといって、思考までファンタジーになってはいけない。現実を見よう。揺るぎない事実は、拓斗の性癖に問題があるという一点だけだ。あの男はなんら関係がない。


 気持ちを切り替えて玄関ドアを開ける。拓斗はテレビでも見ているのか、廊下の先のリビングからは、ニュース番組のアナウンサーの声が聞こえてきた。


「ただいま、拓斗。……拓斗?」


 リビングに息子の姿はなかった。鍵は施錠されていたから、どこかにはいるはずなのだが……。


 とりあえずバッグを片づけようと自室に向かう。


 あら……?


 自室の扉が薄く開いていた。中から人の気配がする。


 拓斗なの……?


 がたごとと、タンスの開閉する音が鳴る。布のこすれ合う音が聞こえる。


「…………」


 見れば後悔する。そんな気がした。が、見ないわけにもいかない。


 私は恐る恐る、扉の隙間を覗いてみた。


 えっ……。


 拓斗が服の上から、女性ものの水着を着ていた。


 いや、違う。


 それは私の下着だった。拓斗は私の下着を身に着けた格好で、タンスの中身を――私の下着を漁っていた。


 どっと汗が噴き出す。体がぶるぶる震え出した。思うままに呼吸ができない。頭がぼうっと熱くなる。重病をわずらったがごとく、全身が異常を訴え出した。


 覗かれていることに気づかないまま、拓斗は下着を引っ張り出しては次々と床へ広げていく。


 整列した下着をしばらく眺めていた彼は、一枚のショーツを両手で摘まむようにして眼前まで持ち上げた。


 にゅいぃぃっ……と口の端がつり上がった。さも満足げに、舌舐めずりでもしそうなほどに。目を凝らせば、くちびるには薄いピンクの口紅が塗られていた。


 その異形のかおは、あの悪魔のごとき男に瓜二つだった。


 私の芯に憎悪の炎が点火した。


「やめてっ!」


 扉を叩き開けるのと、両手からショーツが離れたのが同時だった。


「あっ、ママ……ぎゃっ!」


 頬にビンタを喰らわせた。小さな体がうつ伏せに倒れる。


「ママ、ごめんなさ――」


「出てって! いいから出て行きなさい!」


 着ていた下着を剥ぎ取り、突き飛ばすように部屋から追い出した。


「ママぁ、ごめんなさぁい」


 扉の外で、わんわんと泣き始めた。うるさいと怒鳴りつけると、余計に大声でわめき出す。


 そうやって私を騙す気か。いたいけな子どもを演じて、ちょっとしたいたずらだったと弁明して有耶無耶にしようという魂胆なのか。


 ふざけないで。


 私は床の下着を両腕に抱え、すべてゴミ箱に突っ込んだ。壁に貼ってあった花畑の風景画も破り捨てる。それからは泣き声を無視して自室に籠城ろうじょうを決め込んだ。



<5>



「……俺もこれで少しは、母さんに親孝行できたかな」


「何言ってるの。あなたほどの親孝行者はいないわよ。父さんもそう思ってるわ」


 母さんは墓標を一瞥し、改めて俺に向き直ると、こう言った。


「クライス。私たちの子として転生してくれて、ありがとう」


「え……」


 俺は身動きが取れなくなったが、何とか口を開く。


「どうして、それを」


 母さんはいたずらっぽく笑う。

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


 ◇◇◇◇


 私は今まで、こんなにおぞましい物語を書いてたのね……。


 かみてんを読み通した私は、パソコンの前で愕然がくぜんとしていた。執筆活動が進まない本当の原因が判明した。それは、この物語があまりにも歪んでいるからだ。


 何故クライスは……いや、ノリトはこんな風に異世界を楽しめるのだろう。どうしてエリーゼに対して『親孝行』などと言えるのだろう。


 彼が転生したせいで、クライスという幼い子どもの体は乗っ取られてしまったばかりか、その人格が消滅してしまったというのに。


 本来ファーミルブリアで生きるはずだったのはクライスという、エリーゼとその夫の間から誕生した男の子だったはずだ。彼には、親の慈愛を一身に浴びながら、すくすくと成長していく未来が約束されていた。しかしそれが、ある日突然絶たれてしまう。転生者ノリトの器として選ばれてしまったばかりに。


 そう、クライスはノリトに殺されたのだ。


 にもかかわらず、ノリトは罪の意識を持たないばかりか、第二の人生を謳歌おうかしようなどと罰当たりな夢を掲げる始末。さらにクライスの肉体を強奪しておいて、何を勘違いしたか、自分がエリーゼの息子だと錯覚するようになる。エリーゼに対して『罪滅ぼし』ではなく『親孝行』と口にしたのは、皮肉を通り越していっそ邪悪と呼ぶにふさわしい。


 エリーゼの心情も理解しがたい。我が子が得体の知れない存在に抹殺されたことを知って、どうして「転生してくれてありがとう」と思えるのか。自分がこれまで注いできた愛情が、赤の他人に搾り取られていたというのに。母としての幸せが、何もかも虚構だったというのに。


 人間に憑依し、元の人格を消滅させ、体を奪い取る……。ノリトはまさに、ホラー映画に出てくる悪霊そのものだ。


 そうよ、かみてんはファンタジー小説じゃない――


「ホラー小説だったのよ……」


 途端、私の両指が狂った生き物のごとくキーボードの上でうごめき出した。ようやく自分の書きたかった方向性が掴めた。もう止まらない。止められない。


 今なら書ける気がする。本当のかみてんの物語が……。


 ◇◇◇◇


「えっ……母さん、何を……!?」


 墓標の前で母さんが取り出したのは、父さんが愛用していたという狩猟用の短剣だった。


「私の息子を殺した罪を、今ここでお前に償ってもらうわ」


「は? 息子を殺したって、何だよ。母さんの息子は俺だろ? 下らない冗談はよせって」


 そう笑いかけるが、血潮のような夕日を背に受ける母さんはにこりともしない。逆光となって表情が読めないのが不気味だった。


「お前が二歳の時、クライスの体に転生したのは知ってるわ」


「なっ!?」


 予想外の告白で頭が真っ白になる。と、


「ぐぁっ! な、何だこれは……!?」


 突如、足元にどす黒い魔法陣が発生した。すると俺の体が意思に反して動き、十字架にはりつけにされたような格好をとる。


 自由のきかなくなった俺を眺め、母さんがほくそ笑む。


「その魔方陣の呪いがある限り、お前は体を動かせず、スキルも使えない。私が罰を与え切るまで」


 実際にスキルを発動してみるが、どれも空振りに終わる。信じがたいが、常に発動し続ける<自動再生オート・リカバリー>も、この場では意味を成していない。


 このままでは、本当に死んでしまう。最強のスキルをいくつも持ち合わせているはずの……無敵なはずの、この俺が。


 一歩、一歩、彼女が距離を詰めてくる。


「ねえ、息子のふりをして私を欺くのは楽しかった? 他人の体で名声を得るのは爽快だった? 真実を隠して女の子をたぶらかすのは気持ち良かった?」


「や、やめてくれ母さん! 俺はクライス――ごげぇっ!」


 刃が俺の喉を貫いた。……痛い。痛い。痛い、痛い。痛い痛い痛い痛い! <痛覚保護ペイン・ペイント>が発動しない! このスキルのおかげでどんな痛みにも平然としていられたのに!


「黙りなさい。私はお前の母親じゃないわ。そしてお前はクライスでもない。お前は、別の世界から来た、卑しい赤の他人でしょ」


 短剣を喉から引き抜く。傷口が真っ赤な洪水を噴き出した。彼女の服が鮮血に染まる。


 俺の目から滂沱ぼうだの涙が溢れてきた。口と喉がぱくぱくと、ゆるしを乞うように開閉する。紅蓮魔王の威圧さえものともしなかった<明鏡止水エモーショナル・コントロール>も働いていない。スキルのない俺など、ちっぽけな存在だったと思い知らされる。


 腹のど真ん中に凶刃が突き立てられた。一瞬遅れて、全身が捻じ曲がるような激痛が襲いくる。続けてぐちゃぐちゃと臓腑を執拗にえぐられ、かき回される。俺の血反吐と嘔吐物おうとぶつを浴びても、彼女は一心不乱に内部を切り刻む。


「許さない、絶対に許さない。私からクライスを奪ったお前を。クライスからすべてを奪ったお前を。幼いあの子を蹂躙じゅうりんした、お前を!」


 もはや彼女の形相はくる同然だった。しかしその裏には、悲痛な母の顔が垣間見えた気がした。


 俺が彼女の姿を目に焼きつけたのは、これが最後だった。


 獣のごとき咆哮を発した狂い女が、真っ赤な刃を振りかぶる。


「あの子はこの目で! 多くの美しいものを見るはずだった!」


 両目が突き刺される。真っ暗で何も見えなくなった。


「この口で! 私の手料理をお腹いっぱい食べるはずだった!」


 口舌が切り裂かれる。濃厚な血の味で喉が詰まった。


「この腕で! 数え切れないほどの幸せをつかむはずだった!」


 腕が穴だらけになる。指先にも力が入らなくなった。


「この体でクライスは! 素晴らしい人生を送るはずだったのに! 喜びも幸せも、痛みや苦しみだって! 全部あの子のものだったはずなのに!」


 胸をめった刺しにされる。ぐちゃぐちゃの傷痕が熱い血を吐き出す。逆に体の芯は急速に冷えていく。


「お前のせいで! お前のせいで! おまえのせいでぇぇっ――!」


 彼女が腕を振るたび、頬に温かい飛沫が飛ぶ。それはきっと俺の赤色ではなく、純粋で透き通った色をしている。ここまで追い詰められて俺はやっと、己の罪を理解できた。


 ゆっくりと痛みが遠のいていく。死が近づいてきたのだ。俺は混濁した意識の中で、ただひたすら神に祈った。


 第三の人生はいりません。このまま死なせてください……と。  <『神に愛されし転生者~異世界で第二の人生満喫ライフ~』 完>


 ◇◇◇◇


 パソコンをシャットダウンする。真っ暗なモニターに映る自分の満足げな顔を見て、有終の美を飾れたと今一度確信した。


 こっちも終わらせよう……。


 悪しき転生者を野放しにしておけない。ノリトが死んだように、あの男も殺さなくては。犠牲になった、本当の拓斗のために。


 扉を開けると、すぐ前の廊下であの男が寝ていた。あたかも胎児のように身を屈めている。


 どこまでも腹の立つ……!


 私はさっそく男を仰向けにし、その上にまたがった。細い首に両指を絡める。


 この手で終わらせるのだ、すべてを。


 ぐっと力を込める……まさにその時だった。


「ママ……」


 囁くような寝言が耳朶じだを打った。驚いて手を離しかける。その指になにか冷たいものが触れた。


 涙だった。目元から顎を伝い、乾き切らずに残っていたのだろう。よく見れば、フローリングの床には小さな水溜まりができていた。


 この子の、後悔と反省の表れだった。


「あ……あぁ……」


 首をつかんでいた指がわななく。体が一気に脱力する。


 私は、もう少しで、大変なことを……。


 拓斗が生まれた時に確信したではないか。この子は私たちの子だと。


 この無垢な寝顔が、私の目を覚まさせてくれた。私を助けてくれたのだ。


「……ありがとう、拓斗」


 涙をそっと指で拭ってやる。愛息子は眠ったまま、くすぐったそうに身じろぎした。


 疲れてるのね、私……。


 息子を絞め殺そうなんて正気の沙汰ではない。きっとあの男を意識し過ぎたのと、学校でのショックが大きかったせいで、今はまともな精神状態ではないのだろう。


 玄関の置時計は八時を過ぎている。夕飯を作る気力は湧かないし、無理やり拓斗を起こすのもかわいそうだ。今日はこのまま寝てしまおう。修一郎さんは仕事の都合で外食するようだし、心配はいらない。


 かみてんは書き直そう。怒りや憎しみを我が子同然の登場人物たちにぶつけるなんて、作家失格だ。


 確かに、かみてんには負の面がある。ノリトのせいで、クライスの人格は消滅してしまった。また、彼の理不尽なまでに常軌を逸した才能を前に、劣等感を抱いたり夢破れた登場人物もいる。読者に夢や希望を与えてきたノリトは、裏を返せば、登場人物たちからそれらを奪ってきたのだ。


 しかし正の面も存在する。ノリトの成熟した精神は、学友たちの道標となった。困っている人を見捨てない性格は、エルフ族を伝染病から救った。弱気を助け強きをくじく心は、紅蓮魔王をはじめとした世界の脅威を幾度となく退けてきた。


 どんな事柄でも、見方を変えれば様々な面が現れる。その取捨選択は作品のジャンルや流行、ターゲット層の嗜好しこうなどを考慮する必要があるが、私のかみてんは、読者に夢や希望を与える小説であるはずだ。


 ならば私は、私の信じた道を進もう。拓斗がくれたこの気持ちを忘れなければ、きっと素晴らしい物語を紡げるはずだ。


 私は拓斗を抱きかかえ、畳の敷かれた寝室に移動した。押し入れから三人分の布団を引っ張り出して並べる。リビングのテレビも忘れずに消しておく。


「明日の朝、お腹いっぱい食べさせてあげるからね」


 橙色の豆電球が、布団の上で横になった拓斗を照らす。天使のようなその寝顔。私たちの、最愛の息子。


「おやすみなさい、拓斗」


 もう少し眺めていたかったが、眠気が襲ってきた。私は柔らかな頬を一撫でして、ゆっくりとまぶたを閉じた。





 ……せぇ……せぇ……


 暗闇の中で、声がする。


 ……せぇ……せんせぇ……


 誰かが私を呼んでいる。


 ……せんせぇ……ああ、せんせぇ……


 息が苦しい。妙な圧迫感を覚える。


 ……ああぁ、せんせぇ…………ママ……ままぁ……


「何……? 何を、言って……ひぃぃっ!」


 寝室で仰向けに寝ている私のお腹が、胎児をはらんでいるかのごとく膨らんでいた。


「あ、ああああぁぁ!」


 お腹がますます膨らんでいく。何かが出る。出てくる。出てきてしまう。


「ああぁぁっ!」


 風船が破裂したような音と共に、盛大にお腹が突き破られた。


 頭を出したのは、胎児の大きさになった、あの男だった。


 ままぁ、ままぁ……


「い、嫌、来ないで……」


 ままぁ……どこぉ……


 ぬちっ、ぬちっ……と私の体を這ってくる。


 ままぁ……だいすきだよぉ……


 触手のようにうごめく手指が乳房に触れた。男は顔をしわくちゃにして笑い、歯の揃った口をいっぱいに開いた。


 いただきまぁす……


「いやぁぁぁぁっ!」


 悲鳴を上げた時、視界には橙色の豆電球が映っていた。


 数秒硬直した私は、脱力と共に事態を悟った。


 あ、夢……。良かった……。


 大きく息を吐いた。まったく最低な夢だった。まだ胸の辺りが重苦しいくらいだ。


「…………」


 いや、胸元には依然として現実的な圧迫感がある。目をつむってやり過ごせるほど、この重みは無視できない。


「…………」


 意を決し、私は顎を引いて目線を下げた。


 そこには、私の衣服をめくって乳房をしゃぶる拓斗がいた。


 ひっ……と息を呑む。そうして引っ込んだお腹を、小さな手がまさぐった。


 その感触は、忌まわしきあの日の感覚そのものだった。


 頭がカッと熱を帯びた。


 やっぱりこいつは、こいつは……!


 私は雄叫びを放ち、寝ぼけ眼の男を跳ね飛ばした。


「ま、ママ……」


「よくも騙してくれたわね……!」


 私は馬乗りになり、今度こそ両指を首に食い込ませた。ぐぐっと力を込める。


「ママ、ぐるじぃ……」


「うるさい、この悪魔め! 殺してやる……殺してやる!」


 男の手が私の腕を必死にかきむしる。全身を揺らして暴れてくる。だが絶対に離してなどやらない。


「やめで……まま……」


 徐々に相手の力が抜けていく。目が光を失っていく。もう一息だ。


「死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ!」


 心臓マッサージさながらに体重をかける。あらん限りの殺意で圧し潰す。


 何回か喉からくぐもった音がしたのち、真下の体がくたりとなった。が、こいつなら死んだふりなどお手のものだろう。絶対に手は緩めてやらない。体力の持つ限り、何度でも殺し続けやる。


「死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねぇっ――!」


 まだだ。まだ足りない。もっともっと丹念に殺さないと。二度と生き返らないように。生き返ろうなんて思えないほどに。もっともっともっともっともっともっと――


「おい、何をしてるんだ!」


 突然怒鳴り声が響いたかと思えば、体が仰向けに倒れていた。一拍置いて、痺れた両腕に勢いよく血が巡る。


「きみは……どうしてこんなことを……!」


 修一郎さんが立っていた。いつの間にか帰ってきていたようだ。


「あら……お帰りなさい、修一郎さん。ほら見て、あの男を殺してやったわ」


 男は白目を剥き、泡を吹いていた。首もおかしな方向に曲がっている。素人目にも手遅れであることは一目瞭然だった。


「き、きみは一体何を言ってるんだ……?」


 まだ状況を掴めていない修一郎さんのために、私は説明する。


「昔、私を襲ってきた男がいたでしょ。私のお腹に呪いをかけたあの男よ。修一郎さんは呪いなんて信じなかったし、私もそうだったけど、あれは本物だったの。だって私たちが普通に育ててきた拓斗が、あそこまで優秀だなんておかしいでしょ。私を性的な目で見るのも、成人の男が子どものふりをしてると考えればつじつまが合うわ。それに、今日担任の先生から聞いたの。拓斗が女子トイレに忍び込んだり、女子と下着や性器を見せ合ってるって。あの変態、小学校でも好き勝手してたのね。おまけに、私がいない間にタンスを開けて下着を物色してたのよ、口紅まで引いて。その時の貌に本性が見て取れたわ。だから殺してやったの。清々したわ。これは私たちを騙してきた当然の報いなのよ。ねえ、修一郎さんもそう思うでしょ?」


 同意を求めて問いかける。しかし修一郎さんは険しい表情のままだった。


「きみは、とんでもない勘違いをしてるな」


「勘違い?」


 私を諭すように、彼は語り出した。


 それは、思いもよらない一言だった。


「拓斗は多分、性同一性障害だったんだ」


「え……?」


 性同一性障害。肉体と精神の性別が一致しない症状のことだ。体は男なのに心は女、もしくはその逆という不安定な状態のため、日常生活において多大な精神的苦痛を伴うらしい。


「この前風呂で起きたことと、今話してくれたことを聞いて合点がいった。拓斗は自分の性について悩んでたんだ。でもまだ子どもだから、そういう病気だという自覚もなかったと思う。だから自分でもよく分からないまま、女性の体に興味を抱くようになった。男子より女子と気が合ったのも、心は女の子なんだから当然だ。きみの下着や口紅に手をつけたのも、大人の女性への漠然とした憧れだったんだろう。きみは本当に……とんでもないことをしてしまったな」


「…………」


 …………。


 もし。もし彼の言うことが本当なら。私は、妄執で息子を殺めてしまったことになる……。


 認めない。認められない。認めるわけにはいかない。


「ち、違うわ、何言ってるのよ! 拓斗はあの男だったの! 修一郎さんは実際に被害に遭ってないからそんなことが言えるんだわ!」


「違わない。きみは間違ってる」


「間違ってない! 私のしたことは正しかったのよ! だって――」


「きみは間違ってるんだよ」


 修一郎さんが言葉をかぶせる。有無を言わせぬ声音に、私は一瞬言葉に詰まる。


「ど、どうして、そんな風に言えるのよ?」


「そんなの決まってる。……だって、『先生』の言うあの男は」


 彼は口を三日月のような形にして……にゅいぃぃっと笑った。


「僕なんですから」


「……え?」


 ぽかんとした私に、修一郎さんはハイハイで近づいてきた。鼻息のかかる距離で顔を覗き込んでくる。その不気味な笑顔は、私の知る彼とは似ても似つかない邪悪な形相だった。


 あの男そっくりだった。


「ねえ、覚えてますか。あれは血を塗った相手に僕の魂が転生する、という呪いでしたね。胎児に転生する場合は、妊婦のお腹に塗り込むのが条件でした。でも実際はね、僕はあなたのご主人に転生してしまったんですよ。ほら、あの場に彼がやってきて、先生から血まみれの僕を引き離したでしょ。つまりご主人も転生の対象となってしまい、僕は結局そっちに宿ってしまったんです。しかも精神が成熟した大人だから、体を乗っ取るのも苦労しました。完全に主導権を握ったのは二年前ですね。それまでは車の運転中に、彼の意識が朦朧とすることもあったので大変でしたよ。あ、向こうの精神はとっくに消滅してるのでお気になさらず。これからも僕が先生の夫として精一杯頑張りますね」


 ……ああ、そうか。


 すでにあの男になっていたから、現実の女性に興味がなくなり、人づき合いが悪くなり、アニメに食いつくようになったのか。


 つまり私は、愛する夫を失っていたことにも気づかずに、あまつさえ最愛の息子を手にかけてしまった……。


 涙は出なかった。そんな余裕もないほどに打ちのめされていた。頭の中が墨をぶちまけたようにどす黒く染まっていくのを、ただただ感じていた。


 男が言う。


「拓斗くんはまあ残念でしたが、後処理は僕に任せてください。なにせ僕はあなたの夫なんですからね。頼りにして下さいよ。落ち着いたら、今度は僕との子どもをつくりましょう。あ、前のご主人のように振舞ってほしいなら言ってくださいね。記憶は全部奪ってあるので上手く演じられますよ。現に先生も気づかなかったくらいですしね。ああ、これからも先生に愛してもらえるなんて幸せだなぁ。クライスの言う通り、転生って最高だ!」


 男は拓斗を布団に寝かせる。


「先生、ビニール紐を持ってきてもらえますか。遺体を簀巻すまきにするので。僕は布団で遺体をくるんでおきますから」


「……分かったわ」


 私は立った。台所に向かう。


 目当てのものを見つける。一番大きいものを選んだ。


 男の待つ寝室に戻る。こちらに背中を向けている。


「ああ、早かったですね。こっちはまだ全然……え?」


 男は背中に生えた包丁を見た。くぐもった悲鳴が漏れる。


 それを塗り潰すように、私は何度も包丁を突き立てた。


 しばらくすると、床には赤黒い物体がうずくまるようになった。


「修一郎さん……仇はとったわ」


 私は包丁を抜いた。


 今度は切っ先を自分のお腹へ。


 これは拓斗への、せめてもの償い。


 思い切り刺した。


 喉からかすれた呼気が這いでる。でも、拓斗が味わった痛みに比べれば。苦しみに比べれば。


「ごめん、ね。ごめんね、拓斗……」


 体が崩れる。視界が霞んでくる。それでも最期にてのひらを、拓斗のまだほの温かい頬に伸ばした。


 そして祈った。どうかこの子が、天国で幸せに暮らせますように……と。



<6>



 青々と輝くヴァリナ海を一望できる土地を開拓し、赤煉瓦の屋根と白い漆喰しっくいの外壁で家々を統一した町、パルッテタウン。


 昔から漁業で生計を立てており、三十年かけて隣町と共同でドオウ山に隧道ずいどうを開通させてからは、新鮮な魚介類を馬車で遠方へ運べるようになり、一層栄えることとなった。


 そんな町の高台にある住宅街の一軒家に、一組の夫婦と今年九歳になる娘、ティリアの三人家族が住んでいる。


 逞しい父は海に出て日が暮れるまで漁に励み、気さくな母はてきぱきと家事をこなし、娘は仲の良い友だちと元気に学校へ通う。彼らは日々、何げなくも幸せな生活を送っていた。


 一ヶ月前までは。




 潮の香りを乗せる海風が、二階の子ども部屋に入り込む。波打つカーテンの隙間から陽光が漏れ、本棚やベッドや勉強机を照らした。椅子に座るティリアの亜麻色の髪と白いワンピースも、ふわりとそよぐ。


 窓外の十字路から、石畳を軽やかに踏み鳴らす足音がする。午前七時半。ティリアの親友、ナナプが通学の道中でこの家に寄ってきたのだ。


 ナナプがドアを叩くと、ティリアの母親が出迎えた。


「おはよー、ティリアのお母さん。ティリアの調子はどう?」


「ありがとうねナナプちゃん、いつもお見舞いに来てくれて。でも、今日もお話しできないみたいなの。……本当にごめんね」


「謝らなくていいよ。だって私はティリアの友だちなんだから。友だちが苦しんでたら助けてあげるのが友だちだよ。だからね、えっと、うーんと……私はティリアの友だちなの!」


「ふふっ、ほんとにナナプちゃんは面白い子ね」


 その後も二人は何度か言葉を交わしていたが、やがてナナプが別れのあいさつを切り出した。そしてこの部屋にいるティリアに向けて声をかける。


「ティリアー、また明日来るからねー! お腹出して寝ちゃダメだよー!」


 足音がみるみる遠ざかっていく。こうして彼女は毎日、登校時間ぎりぎりまでお見舞いをする。


 そばかすが特徴のナナプは、快活で友だち思いのとても良い子だ。読書が好きで物静かなティリアとは正反対だが、二人は大の仲良しだった。


 その友情を、「私」は壊してしまった。


『返して……』


 再びカーテンが波打ち、陽光がティリアの髪に注がれる。


『返してよ……』


「ごめんなさい……」


 ティリアの悲痛な訴えに、私は謝ることしかできない。脳裏にこだまする彼女の願いを、頭を抱えてただ受け止めるしかない。


「本当に、本当にごめんなさい……」


 自殺という形で死んだはずの私は、どういうわけかベッドの上で目覚めた。だがそこは病院ではなく、やけに生活感のある見知らぬ部屋だった。


 慌てて腹部を確認する。外傷がない。それどころか、体が幼くなっていた。髪も亜麻色に変わっている。空に目をやれば、太陽が二つ昇っていた。


 まさか、と思った。夢ではないかと疑った。しかし現実だった。信じがたい悪夢が起きてしまった。


 私は、異世界の少女に転生してしまったのだ。


 それから一ヶ月。私は、頭の片隅で響くティリアの声に苛まれ続けてきた。


『この悪魔! わたしの体から出て行け!』

『ナナプ、こいつ…にせも…よ! 本当のわたしじゃないの!』

『おかあさ……わたしの声が聞……ないの!? たすけ……お母さん!』

『ねえ……お願いよ。お願……から、出て行って。わたしの………を、かえ…て……』


 日に日に、ティリアの声が薄れていく。でも、この世界には魔法もスキルもない。だから私は何もしてあげられない。この先も一つの体を二人で共有していくのだ。


 いつか彼女が滅ぶまで。私が彼女を殺すまで。


 階段を上ってくる音がした。


「ティリア。食欲がなくても朝ご飯はちゃんと食べにきなさいよ」


 部屋に母親が入ってきた。手に持った木のトレイには、クルミのパンとスクランブルエッグとクリームスープが乗せてある。どれもティリアの好物だ。


「今日もナナプちゃんがお見舞いにきてくれたわよ。これ、あんたにだって」


 渡されたのは麻の袋。私が逡巡していると、開けるように視線で促された。中身を手に出してみる。


 いくつかの黒い貝殻だった。日光に当たると、夜空に浮かぶ星々のように表面が瞬いた。名前はティリア貝。ティリアの名前の由来だ。


「昨日の放課後に、学校のみんなで集めてくれたらしいわ。あんたの具合が良くなりますようにって」


『触らないで!』


 彼女が頭の奥で叫んだ。


『これはナナプたちがわたしのために……あなたのじゃない………だから……さわ……ない、で…………………』


 ふっ……と、風が弱まった。カーテンが太陽を遮っていく。貝の輝きが失われていく。声が、遠ざかっていく。


「ティリア」


 母親がトレイを机に乗せると、そっとティリアの肩に両手を置いた。


「黙ってないで、そろそろ話してごらんなさい。学校で嫌なことがあったの? 告げ口したら仕返しする、とか言われた? 大丈夫よ、何があってもお母さんが守ってあげるから。お父さんも、ナナプちゃんたちもいるじゃない。商店街の人たちも心配してるわ。……みんなあんたのことが好きなのよ。力になりたいと思ってくれてる。だから何にも怖いことなんてないわ。ね、そうでしょ?」


 安心させるように彼女は微笑み、自分と同じ亜麻色の頭を胸に包んだ。


 それを私は、静かに押し返した。


「やめて、下さい」


「えっ……」


「私に、優しくしないで下さい。私は、違うんです。そんな権利、私にはないんです……」


「ティリア……?」


「ごめんなさい。皆さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」


 ティリアの美しい顔を涙で汚してしまっても、そう繰り返すしかなかった。


 私はこれから、どうすればいいのだろう。皆を欺いてでも生きていくべきなのだろうか。それとも今すぐ死ぬべきなのか。


 どちらを選んでも誰かを裏切り、誰かを傷つける。いずれにせよ、辿るのは地獄の道のりだ。


 この地獄はもしかすれば、永遠に終わらないのかもしれない。ティリアとして死んだ私は、また別の人間に転生して宿主の人格を殺し、生き永らえる……。


 それがきっと、息子の命を奪った私にかけられた呪い。罪のない人たちを地獄に叩き堕とす、決して解けない呪印なのだ。


 いつしか、風はやんでいた。


 てのひらの貝はすでに、光を失っていた。

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呪印転生 @wirako

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