第6話
テーブルを挟んで、牧村を真っすぐに見つめる。
思い出している彼の眼差しから、瞳を逸らせない。今、彼は母を思い出しているのだ。
「ここで、友達と飲み会をしていたんだ。酔っ払って、結構騒いだから丸聞こえだったと思うけど」
恥ずかしそうに頭に手をやる。
「トイレに立とうとした友達が、壁に掛けていた俺の背広を引っ張って、テーブルの鍋に突っ込んじまった」
「ええっ!? シミになって大変…」
「うん。そうなんだよ。二着持っていたけど、その一着をクリーニングに出していてさ。それも前日にだぜ? 焦って、汚れた背広を抱えてクリーニング屋に走ったよ」
〈クリーニング屋〉と聞いて、思い当たる節がある。昨年、母はクリーニング店の受付と、もうひとつの仕事を掛け持ちしていたのだ。勤めていた店は、チェーン店の受付窓口。細かい作業がたくさんあるが、主には客から衣類を預かり、返却をする仕事。
「閉店した直後だったけど、受付をしていた君のお母さんが応対してくれたんだ。といっても、そこじゃ何も出来なかったんだけどね」
「それで、背広はどうしたんですか?」
「うん。君のお母さんが見かねてさ、家に持ち帰って汚れを落としてくれたんだ」
「…全然知らなかった。そうだったんですか」
優しかった母だから、その光景が目に浮かぶようだった。
「あの時は、本当に助かったよ。今でも感謝しているくらいにね。…だから、いつどんな形になるか分からないけど、お返ししようと思っていたんだ」
美緒は黙って頷いた。
「…こんなに早く、亡くなるなんて思わなかったな」
母が亡くなる間際のことが思い出されて、美緒はテーブルの下で手を握り締めた。
「…ゴメン!思い出させるつもりじゃなかったのに」
悲しそうに彼女の眼差しが曇る。今にも泣き出しそうな瞳にオロオロしてしまう。
牧村は慰めるつもりで、彼女の頭に手をやった。本当に慰めるつもりだったのだ。それなのに何故か逆効果で――。
(ああっ…!)
心で叫んでいた。美緒の頬に、涙が伝っているではないか!
掛ける言葉もなくて、彼女を見守ることしか出来ない。上手い慰め方など分からない自分は、どうしたら……。
――グイ!
衝動的とは、こういうことを言うのだろうか。気付いた時には、腕の中に美緒を包んでいた。
引き寄せられた美緒は、当然驚いた。そっと胸を押し返したのに、それ以上彼から離れられない。ドアの鍵は開いているのだ。逃げてしまえばいいのに、それが出来ない。
何故? 美緒にも、自分が解らない。寂しい気持ちに、心が覆われる。一度涙が溢れると、簡単には止められない。拭いても拭いてもこぼれてくる。
そういえば、葬儀から今日まで、母を思い出してこんなに泣いたことはない。常に気が張っていたのか、感情が麻痺していたのか…。
その姿は、無言でもう一度抱きしめてくれるのを待っているようだった。
彼女の思いが聞こえたように、再び牧村の腕が美緒を捉えた。軽く濡れた髪から香る、甘い香り。腕の中で震える、小さな女の子。今度は容易く離さない。
『傍にいてあげたい』 そんな気持ちが膨れ上がっていた。
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