第34話 夢うつつ
礼拝堂から奥に入ると、そこには白いテーブルと小さなキッチンのある休憩室のような部屋があった。その一席に促され僕は座る。少女も僕の隣りの席に座った。するとすぐに目の前にコーヒーが置かれた。
「さあ、どうぞ」
おばさんはやはり気味が悪いくらいに愛想よくニコニコしている。
「・・・」
僕は、黙って目の前の揺れるコーヒーを見つめた。まさか、毒入りってことはないよな・・。不吉な考えが頭を横切る。眠り薬が入っていて、このまま、どこかへ・・。
「まさか」
少女が僕を見る。
「な、なんでもない」
独り言を慌てて誤魔化す。だが、忘れていたがここは祝い町。何が起こっても不思議ではない・・。
「これも食べてください」
ニコニコとおばさんが僕の顔を覗き込む。
「あ、ありがとうございます」
バームクーヘンだった。
「・・・」
さっきの逃げて行ったおっさんの姿が脳裏に浮かぶ。僕はまだ怯え、緊張していた。
「ふふふっ」
その時、ふいに少女が隣りで笑った。
「?」
僕は少女を見る。
「ふふふっ」
少女は少し顔を伏せ、笑い続けた。
「?」
僕は訳が分からなかった。
「ふふふっ」
しばらくして、少女が顔を上げ、僕を見た。
「この人はこの教会の牧師様よ」
「えっ」
僕は改めておばさんを見た。
「あ、そう・・、なんだ・・」
確かによく見るとそれらしい格好をしている。しかし、そう言われてもまだなんか怖かった。
おばさんは給仕を終えると、僕の向かいの席に座った。そして、その大きな顔いっぱいに浮かべたニコニコとした顔で僕を見つめる。
「・・・」
しかし、特に会話を切り出す様子もなく、おばさんはずっとそんな特大の人形みたいに黙ったままニコニコと僕を見つめている。
「・・・」
なんだかよく分からない時間が流れていく。何かしゃべってくれよと思うが、おばさんは何も言わなずただニコニコ笑っている。
「な、なんなんだこの人は・・」
何かキャラクターに掴みどころがなかった。
「あの・・、さっきの人は・・」
僕はたまらず、とりあえず会話をとおばさんに訊ねた。
「ああ」
しばらく何のことか考えていたおばさんは、さっきのおっさんのことと思い至り、そう声を漏らした。
「あれは、罪びとです」
おばさんはまた険しい顔になった。
「罪びと・・?」
「大罪人です」
顔の表情がどんどん険しくなっていく。なんか触れてはいけないものに触れてしまったらしい。僕は焦った。が、もう遅かった。もうおばちゃんはみるみるさっきのものすごい形相に変わっていく。
「あの男は、禁忌を犯したのです。神を裏切ったのです。神の教えを冒とくしたのです。必ず地獄へ落ちるでしょう」
「地獄・・」
なんかすごい単語が出てきた。
「あの男は地獄の業火で永遠に焼かれるのです」
「永遠・・」
僕は隣りの少女を見た。
「アルコール中毒なの」
すると、少女が解説するように言った。
「アルコール中毒・・?」
「ここはアルコールや薬物に依存している人たちの互助会もやっているのよ」
「そうだったのか」
それでさっきの怒鳴り声の意味が分かった。
「要するにお酒をまた飲んじゃったのね」
「そう」
この町には、アル中など溢れかえるようにいる。その辺の道端にだってそれらしいおっさんはごろごろといた。
そうと分かれば、何も怖いことはなかった。僕は大いにコーヒーを飲み、バームクーヘンを食べた。
「うん、うまい」
少女も僕の隣りで小さな小動物のようにバームクーヘンを食べていた。
「またいつでもいらしてください」
僕がとりあえず今日は帰りますと言うと、おばさん牧師はまた気持ち悪いくらいのニコニコ顔で僕に言った。信者獲得のためなのだろうか。それにしても気持ち悪いぐらいに愛想がいい。
帰る時、少女が教会の入り口まで送ってくれた。
「また来てくれますか」
「えっ」
振り向くと、少女は何とも言えない寂しそうな表情をして僕を見つめていた。
「ぜ、絶対来る」
僕は、絶叫に近い声で言っていた。
「うれしい」
そう言って、少女ははにかむように微笑んで、そのまま背を向けるとかけるように教会の中に消えた。
「・・・」
もう、僕の心は完全に彼女のものだった。完全に完全に彼女のものだった。
僕はその足でそのままママの店へと向かった。その道中、僕はまだふわふわと天国を歩いているようだった。
「また来てくれますか」
僕の頭の中では、彼女のあのはにかんだ微笑みが何度もリピート再生されていた。
あの少女の微笑みにはそこはかとなく儚さが含まれていた。それがまた、彼女の美しさに何とも言えない神秘性を与えていた。その儚さがどこから来るのか、なぜそう感じるのか、それは分からなかった。しかし、そこに彼女の深い何かを感じた。
「どうしたんだ?」
「えっ?」
インテリさんが僕の隣りから驚きの表情で覗き込んでいた。すでに店に来ていたいつものメンバーも、驚いて次々僕を見つめている。
「・・・」
気づけば僕はもうママの店のいつもの正面のカウンター席に座っていた。僕はしばらく席に座ったまま夢見心地で呆けていたらしい。
「遂に気がふれたか」
ママも驚いた目で僕を見ている。
「ママがやさしくしないからですよ」
ももちゃんがママを見る。さすがにママもバツの悪そうな顔をする。
「お前がそんなに悩んでいたとはな・・」
僕はたった今夢から冷めたみたいに、黙って両隣りのインテリさんとももちゃんを交互に見つめた。二人が隣りにいること自体今初めて気づいた。
「大丈夫か?」
インテリさんが心配そうに僕を見つめる。反対側からはももちゃんが、更に心配そうに僕を覗き込むように見つめている。
「だ、大丈夫ですよ・・」
すると、カウンターの向こうからママの太い腕が伸びて僕の額に手を置いた。
「熱はないみたいだな」
「病気じゃありませんよ」
「じゃあ、なんなんだよ」
そこで僕は、背筋を伸ばし、胸を張った。
「僕は目覚めたんです」
「はあ?」
全員が一斉に僕を覗き込む。
「何に目覚めたんだ」
インテリさんが恐る恐る訊く。
「神の愛に」
僕は夢見心地で虚空を見つめた。
「か、神?」
普段落ち着いているインテリさんが、目を丸くした。
「神の愛は偉大です」
僕の目の前には、あの少女の姿がまだはっきりと見えていた。
「鬱から統合失調症になったんだわ」
ももちゃんが深刻な顔で言った。
「やっぱりママが厳しいこと言うから、病気が・・」
ももちゃんが哀れな目で僕を見る。
「なんか悪いことしちまったな・・、そんなに悩んでいるとは・・」
あのママが、反省の言葉を漏らした。
「鬱って統合失調症になるの?」
いつものインテリさんの隣りの隣りの席に座っていた源さんが訊いた。
「現になってるじゃないですか」
ももちゃんがすかさず返す。
「あっ」
その時、僕は叫んだ。全員がビクッとして再び一斉に僕を見る。
「名前を訊くのを忘れた」
少女の名前を訊くのを忘れていた。
「何言ってんだ?」
ママが訝し気に僕を見て、インテリさんを見る。インテリさんもママを見返し、首を傾げる。
「せん妄だわ」
ももちゃんが言った。
「やっぱり・・」
ももちゃんが更に深刻な顔をする。
「・・・」
彼女の名前を訊くのを忘れた。増々周囲の目が怪しくなる中、しかし、僕の頭の中にはそれしかなかった。
「まあ、この手の奴はこの町には多いから、大丈夫だろ。この前も、絶叫しながら走ってる奴いたしな」
「そう言う問題じゃないです」
ママの呑気な発言にももちゃんが突っ込みを入れる。
「まっ、とりあえずビールでも飲め。そしたら治るかもしれんし」
「治りませんよ。そんな単純じゃ・・」
更に呑気なことを言うママにももちゃんが怒る。しかし、そんなももちゃんをしり目に、僕は目の前に出されたビールを自分でコップに注いで飲んだ。
「うまい」
「ほらっ、だいぶ戻って来たぞ」
「そんなはず・・」
ももちゃんが僕を見る。しかし、僕は、まあ明日、また教会に行って訊けばいいさと思い至り、再び夢見心地であった。
「うまい、うまいなぁ」
僕は一人上機嫌でビールを飲んだ。
「こいつは頭の作りが単純だからすぐ元に戻るよ」
ママがそんな僕を見て言った。
「・・・」
ももちゃんは何とも言えない表情で僕を見つめ続けていた。
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