蒼い追憶
しいな みゆき
第1話
「あーあ… 眠いなあ~」
男があくびをしながら涙が浮かんだ目を擦る。出社をして、2時間も経っていない。困ったことに、頭の中はまだぼんやりとしていて、仕事モードではなかった。朝からくたびれた格好。その手には、煙草とライターが握られていた。
「まだちょっと早いか」
アポイントにはまだ早い。道路も空いてようだし、慌てなくとも大丈夫。
上着と鞄を営業車へ無造作に放り込み、煙草に火を点ける。会社でもすっかり肩身の狭くなった、喫煙者の安らぎの時間。
それにしても、今朝は日差しが肌を刺すように感じる。昨日は涼しかったのに。梅雨入り間近は、天候が気まぐれに変わるから嫌いだった。それに、紫外線も強くて侮れない。
「暑いな」
一年で一番嫌いな季節がやってくる。恨めしそうに細く太陽を睨んだ。
クーラーを効かせた車内で一服も良いが―― 丁度良さそうな場所があるじゃないか。
国道を一本挟んだ向かいには、砂防林が広がっているのだが、細い獣道のような道が延びている。多分、地元の人でも入らないような、見落としてしまいそうな小道。時間の余裕と、以前からの好奇心で、男は左右の確認をすると広い国道を走り横切った。
丁度会社の目の前にあるし、人も立ち入らないような場所だし、息抜きには最高だ。ポケットの携帯灰皿を確認しつつ、煙草を咥えて歩いてきた。
広葉樹とクロマツの多層林は、ジャングルまではいかないが木々が折り重なり、程よく日光が差し込む。涼やかで、国道の脇なのに空気まで違うような気もしてくる。
砂防林を抜けると、高さ3mほどの長い壁に当たった。このまま海に出られれば良いのに。壁に沿って少し歩けば砂浜に抜けられるのだが――
視界の端で、何かが動いた。
何気なく見上げれば、紺色の生地が揺れている。
壁の上に、セーラー服の少女…?
やや仁王立ちの姿は、見上げると下着が丸見えだ。いや、見ようと思っていなくても、見上げれば嫌でも視界に入ってしまうのだから、これは不可抗力だ。
「おーい、彼女!」
呼びかけるが、振り向かない。気付かないのか? 海から強い風が吹いて来たら、身体が煽られるかもしれない。いくらなんでも危険だろう。
男は、もう一度大きな声を出した。
「そこの、セーラー服!」
ようやく、少女が気付いた。ハッとしたような表情をしたかと思えば、声を掛けられたのは、下から見上げる中年男…。瞬時に怪訝な顔になって当然だ。
「…なに?」
「そんなところに突っ立ってると、危ないよ。ついでに、パンツ見えてるぞ」
「オジサン、セクハラって知ってる?」
「そりゃまあ知ってるが、この場合もセクハラになるのか? 心配して声かけてやったんだが」
「心配? それはどーも」
「それより、オジサンはないだろ?」
「なんで? オジサンでしょ? 間違ってる?」
「違わなくはないが――…」
「私からすれば、30越えたらジジイだし」
冷めた視線。馬鹿にした言い方。鼻につく女子高生に、イラッとした。…けど、ここは我慢。
「クソガキ」
胸の内で呟いたつもりが、口に出ていた。
壁の上の少女が、目を丸くする。
クスッ…。
見下ろす視線で薄く笑みをを漏らした少女が、しゃがんで呟いた。
「なあに? オ ジ サ ン」
返ってきた言葉に、男は煙草をギリッと噛んだ。
ロマンスとは程遠い、女子高生とサラリーマンという、異色の二人が初めて言葉を交わした日。
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