第21話 動揺

 珠樹を無事に家まで送り届けて自宅に着いた朝陽は、音を立てずに玄関のドアをそっと開いた。万が一両親に見つかれば、家族会議になりかねない。高校生が出歩いていい時間ではないからだ。


 玄関で靴を脱ぎ、忍び足で二階の自室へと向かう。ふと、気になって足を止めた。曲がり角の先から光が漏れているのを見つけて、ドクンと心臓が跳ねる。


 もしかすると、母が起きてきたのかもしれない。


 隠れる場所はないため、朝陽はすぐに言い訳を考えた。幸いもう家の中に入っているため、トイレに行っていたという言い訳が出来る。


 ならばオドオドせず堂々としていようと考え、先手を打つように曲がり角を曲がった。


「あ、紫乃」

「ひいっ……!」


 スマホの明かりで照らしながら歩いていた紫乃は、突然現れた朝陽に驚き、声にならない声を発する。そのまま彼女は廊下に座り込み、瞳に涙を浮かべた。


「え、ちょっと大丈夫?!」

「う、うん……」


 手を差し伸べると、紫乃は迷わずにそれを握る。そのまま立ち上がらせても、朝陽の手を離さなかった。


 そういえば、暗闇が怖いのだと話していたことを思い出す。


「どうしてこんな時間にウロウロしてるの?」

「えっと、私、トイレに行きたくて……でも朝陽くんの部屋をノックしても、返事がなくて……」

「ああ、そうだったんだ」


 生理的な現象なら、暗闇でも起きなくてはいけない。それで自分のことを頼ってくれたのが、朝陽は素直に嬉しかった。


「ごめん、ちょっと出かけてたんだ」

「こんな時間に?」

「うん、ちょっとね。それより、早くトイレに行こうか」

「うん……」


 紫乃の手を引いて、朝陽はトイレへと向かう。彼女は「絶対にそばから離れないでね。絶対だよ!」と何度も念を押してきたが、一応音が聞こえない位置まで移動して終わるのを待った。


 やがて水を流す音が聞こえると、不安にさせないようにドアの近くへと戻る。中から出てきた紫乃は、朝陽を見つけるとすぐにその手を握った。


「あの、ごめん……」

「気にしないで。困った時はいつでも呼んでいいから」


 ここを照らしているのがスマホの明かりだけでよかったと、朝陽は小さく安堵する。もう恋心を自覚しているため、顔が見えていたとしたら冷静になれていなかったかもしれない。


「眠れそう?」


 朝陽がそう訊ねると、しばらく沈黙した後、控えめに首を振った。


「ちょっと、怖い夢を見ちゃって……」

「怖い夢?」

「うん。真っ暗なの。何も見えなくて、私がどこにいるのかもわからなくて……それでジッとしてたら、すごい大きな音が横から響いて……たぶん、何かがぶつかってきたんだと思う……」


 紫乃の目には涙が浮かんでいて、身体が小刻みに震えていた。朝陽は、安心させるように強く手を握り返す。そうすることによって、震えが少しだけ収まったような気がした。


「でもね、誰かが私に覆いかぶさって、助けようとしてくれたの……大丈夫だよって、何度も私に囁いてくれた……私より、ずっと辛いはずなのに……それでも彼女は、あなたは生きてって言ってくれた……」


 その話をしてくれた紫乃の瞳からは、涙が溢れ出してくる。泣いてしまうつもりはなかったのだろう。当の本人は、自分が泣いていることに驚いているようだった。


「また、眠れるようにココアを作ってあげるよ」


 その提案に、紫乃は迷いを見せているようにも見えたが、結局は首を縦に振った。今は一人が心細いのだろう。


 リビングに移動して、昨日の夜と同じく二人分のココアを作った朝陽は、その一つを紫乃へ手渡した。お礼を言って受け取る彼女の表情は、いつもより沈んでいる。


 ソファーに座ると、今日の紫乃は対面ではなく隣に座った。


 どうにかして元気付けられないかと考えた朝陽は、ふとその提案を口にする。


「明日も、花火をしよう」

「……え?」

「線香花火。結局あれだけ出来なかったし」


 三人で楽しんだ花火よりは迫力に欠けるが、線香花火も風情があって好きだと朝陽は思っている。


「どうせなら浜辺でやろうか。あそこは風が気持ちいいし」

「花火……」

「もしかして、嫌だった?」


 そういえば、今日は時折紫乃の表情に影が落ちていたのを思い出す。それは花火をしていた時も同じで、もしかすると何かを不満に思っていたのかもしれない。


 しかし朝陽がそう訊ねると、紫乃は慌ててすぐに否定した。


「ううん。すっごく嬉しい」


 その返答を聞いて、朝陽はホッと胸を撫で下ろした。


「じゃあ、明日も花火をやろう」

「……珠樹さんも来るの?」

「え、珠樹?」


 朝陽は先ほどの出来事を思い出す。そのせいで顔がいつもより熱くなり、慌ててかぶりを振った。


 誘いたくないというわけではなく、むしろ誘いたいと朝陽は思っている。しかし、さすがに明日は無理だ。


 二日連続も夜に花火をするのは、珠樹の父親がおそらく許してくれない。母親も心配をしてしまうため、そもそも珠樹が断るだろう。


「一応聞いては見るけど、たぶん二人になると思う」


 紫乃はココアの入ったマグカップを大事そうに持って、視線をふちのあたりに落とした。その表情は寂しさに満ちていて、「そっか……」と残念そうに呟く。


 それが珠樹と一緒に遊べないことによる寂しさか、それとも別の何かなのか。今の朝陽には分からなかった。


 そのまま紫乃は、朝陽にしなだれかかる。一瞬どきりとしたが、結局はそれを受け入れた。


「僕、昔の出来事をだいぶ思い出したんだよ」


 日中は珠樹がいたため出来なかった話を、朝陽は切り出す。


「紫乃の部屋に初めて入った時、布団に丸まって全然出てきてくれなかったよね。それで僕が……」

「ねえ」


 縋るように弱々しく、紫乃は話を遮る。


「……その話は、明日の花火の時にしようよ。今は、別の話がいいな」


 そのお願いに、朝陽は素直に従った。


「紫乃の……」そう言いかけて、言葉を飲み込む。一度息を吐いた後、もう一度話を始めた。


「じゃあ、君と、妹さんの話を聞かせてよ。乃々さんの話を」

「乃々の話?」

「うん。ちょっと興味がある」


 乃々という名前が出た途端、紫乃の表情は途端に明るいものとなる。きっと自慢の妹なのだろう。彼女は人差し指を唇に当てて、考え込む仕草を取る。それがなんだか艶めかしく、朝陽の心をわずかに乱れさせた。


「同級生の子、五人ぐらいに告白されたことあるんだって」

「え、五人も?!」

「驚いちゃうよね。誰かに告白されたら毎回報告してきたし、私はもうだいぶ慣れちゃったんだけど」


 そう言って紫乃は苦笑する。


 たしかに写真で見た容姿はとても綺麗だったが、それほどまでとは朝陽も考えていなかった。


「でもまあ、全部断ってるらしいんだけどね」

「意中の相手がいるのかな」

「たぶん、恋愛に興味がないんだと思うよ。男の子と話してるのを見たことあるけど、女友達と同じ風に話してたし」


 もし、紫乃も恋愛ごとに興味のない人間だったらどうしようと、朝陽は軽く不安に陥る。しかし続く彼女の言葉で、その心配はふっと心の中から消え去った。


「私と似てる姿を想像してるかもだけど、全然似てないよ。朝陽くんと朝美さんぐらい違うかな」

「ああ、そうなんだ」


 朝陽と朝美は、本当に姉弟なのかと疑うほど性格が似通っていない。ある程度奔放に行きている姉と、比較的真面目な弟。母は朝美が自分に似て、朝陽は父に似たと話していることがあった。


「なんというか、珠樹さんに似てるかも」

「え、珠樹に?」

「うん。結構賑やかな子だから」


 朝陽は乃々のことを、彼女と似たような大人しい性格をしていると想像していたため、抱いていたイメージは崩れ去る。また、一度会ってみたいという思いが強くなった。


「朝陽くんとは、すぐに仲良くなれると思うな。珠樹さんとも」

「それなら一度会ってみたいかも」


 そのお願いに紫乃は一瞬顔を伏せたが、すぐに笑顔を貼り付けた。


「機会があったら、紹介してあげるね」


 それから冗談交じりに付け加える。


「私の妹、口説いたりしないでよ?」

「ナンパしたことはないから、安心して」


 そもそも朝陽は隣にいる彼女のことが好きなのだ。だから興味を持ったとしても、写真と今までに聞いた話だけで恋愛的な感情は抱いていない。


 話が途切れ、一度ココアに息を吹きかけると、白い蒸気がマグカップの上を漂った。それをぼんやり見つめていると、霧散するように透明となって消えていく。


「僕は……」


 そう言いかけて、一度言葉を飲み込む。それを伝えてもいいのか、ためらってしまったのだ。しかしすぐに考えて、やっぱり伝えるべきだなと思い直す。


 彼女を安心させる言葉として、これ以上のものは思いつかなかった。


「僕は君が何かを隠してても、嫌いになったりはしないから。それだけは心に留めておいて」

「……どうして?」


 朝陽に問いかけるその声は震えている。だから彼女が安心できるようにと、出来る限り微笑んで、優しい声音で答えた。


「たとえば何かを隠してたとしても、珠樹と遊んでた時の笑顔は嘘だとは思えなかったから、かな」


 紫乃は寄りかかっていたから、その表情を朝陽にはうかがいしれない。すぐ隣で、すんと鼻をすする音が響く。それからわずかの間が空いた後に、「ありがとう……」という言葉を彼女は呟いた。


 それきり二人は、何も言葉を交わさなかった。気まずいということはなく、むしろその時間は朝陽にとっては心地よいもので、ただ幸福な時間だけを感じる。


 ジッとしていれば紫乃の心臓の鼓動が聞こえてきそうだが、耳に届いたのは安らかな寝息の音だった。


 彼女が可愛い寝息を立てながら、朝陽に寄りかかり眠っている。きっと、心を許してくれているのだろう。まだ少しだけ残っているココアをこぼさないように、マグカップをゆっくり彼女の指から離す。わずかに眉は動いたが、起きる気配はなかった。


 そして不意に、近くでブルブルと何かが振動する音が響く。二人のどちらかのスマホが振動しているのだろう。


 そっと朝陽が彼女の方をうかがうと、ソファーの上にスマホが置かれていた。それはメールを受信したことにより、画面が点灯している。


 朝陽に他人のスマホを覗く趣味はないが、今だけは何故か注意が向けられた。彼女を起こしたりしないように、スマホの画面を注視する。


 時間が経ったことにより画面はプツリと消えてしまったが、それでも相手先の名前を見るだけの時間はあった。


 綾坂彩。


 今のメールの相手は綾坂彩という人物だと、朝陽は勝手に思い込んでいた。だから実際に表示されていた彼の名前に、軽い動揺を覚える。


『晴野春樹』


 彼は幼い頃、朝陽の友人だった男だ。


 小学二年の頃からなんとなく疎遠になってしまい、それ以降の目立った交流はない。しかし朝陽にとってはかけがえのない友人であり幼馴染であったため、もう二度と会うことはないだろうが、彼だけには転校先の場所を教えた。


 だからそもそも朝陽の転校先を知るには、春樹と会うしか方法がない。なんとなく流してしまっていたが、紫乃がここへ来たということは、つまり確実に春樹と接触したということになる。


 しかしそれでは辻褄が合わない。何故ならば、紫乃は「ほとんど彩ちゃんに手伝ってもらった」と言っていたからだ。それは朝陽もハッキリと覚えている。


 だとしたら、なぜ紫乃が春樹のメールアドレスを持っているのだろうか。


 綾坂彩が、東雲紫乃にメールアドレスを教えたから?


 考えられる線といえば、今思い浮かんだその一つと、もう一つは紫乃も一緒に朝陽を探していたということ。


 本人に聞ければ一番良いのだが、勝手にスマホを見たと思われれば、彼女に嫌われてしまうかもしれない。事実、勝手にスマホの画面を覗いたのだから、なるべく朝陽は自分から聞きたくはなかった。


 そうやって逡巡していると、紫乃の身体がピクリと震える。そしてゆっくりと綺麗な瞳が開かれて、朝陽の顔をとらえた。


「あれ、朝陽くん……?」

「起こしちゃった?」

「……ここはどこ?」


 紫乃は辺りを見渡す。寝ぼけているのだろう。


「リビングだよ。気付いたら寝ちゃってたんだ」

「寝ちゃってた……」


 寝ぼけ眼を朝陽へ向けて、それから時計へと視線を投げる。時刻は三時を示していた。


「紫乃、寝ちゃったんだ……」


 彼女はもう一度呟いて、視線を机の上に置かれたマグカップへ落とした。眠る前よりも、気分が沈んでいるように見える。


「ごめんね、迷惑かけちゃって……」

「ううん。ちょっとだけだったから気にしないで。それより、そろそろ部屋に戻ろっか」


 早く眠らないと、明日の行動に支障が出てしまう。夏休みだからといって、昼まで寝ているというわけにもいかないだろう。


 立ち上がると、紫乃はすぐに朝陽の服の袖を掴んだ。その手はわずかに震えている。


「あの……」


 彼女の言わんとしていることを理解した朝陽は、安心させるように微笑みを見せた。


「いつも通り手握ってくから、大丈夫だよ」

「あの、そうじゃなくて……」

「え、そうじゃない?」


 だとしたら、どうしたというのだろう。朝陽は紫乃の次の言葉を待った。


「えっと、今日は一緒に寝たらダメかな……?」


 瞬間、朝陽の心臓が大きく鼓動する。恥ずかしさで薄紅色に染まった頬と、こちらへ向けるすがるような視線。どこまでも扇情的なそれは、朝陽の心をひどく乱れさせた。


 そして一緒に寝るという提案。一つ屋根の下で暮らしているだけでも意識せざるを得ないのに、その距離がもっと近くなる。


 逡巡していると、紫乃は朝陽の腕を掴み、離さないといったように自分の身体へと引き寄せた。そこでようやく、震えていたのは手だけではないということに気付く。


 彼女は、怯えるように全身を震わせていた。


「……わかったよ」


 結局そう呟いた朝陽は、紫乃の頭を撫でてあげる。そうすることによって、少しは震えが収まったような気がした。


 一緒の部屋で寝ることに、他意なんてものはない。ただ彼女が怯えているから、朝陽はその言葉に従った。


 ただ、それだけ。


 だから一緒の部屋で寝るということになっても、朝陽は何もしなかった。二人分の息遣いが聞こえるはずのその部屋は、いつもよりもずっと静かだった。


 隣で眠る紫乃の寝息が安らかなものであったから、これでよかったのだと、朝陽は自分に言い聞かせることにした。

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