第20話 ずっと、好きだったのに……
紫乃と海へ来た時は海風が吹いていたが、今は陸から海へ向かって陸風が吹いている。それが珠樹のポニーテールを揺らし、彼女のうなじがチラリと見えた。
月明かりに照らされているとはいえ、広い海は漆黒に染められていて、見ているだけで不安な気持ちにさせられる。
昔、あの海で珠樹が溺れたのだということを朝陽は思い返していた。いつ思い出しても胸がしめつけられて、海面でもがく彼女の姿が脳裏にチラつく。
「今日の花火、すっげー楽しかったね」
珠樹は振り返り、朝陽へ微笑みを向けた。
「珠樹と一緒に花火をしたのって、何年振りだっけ」
「たしか中学一年の時だったから、四年ぶりぐらいじゃない?」
「そういえばそうだったかも」
中学二年の時は海での出来事があったこともあり、珠樹の母が過敏になっていたから、なるべく彼女は遊びに行かなかった。中学三年の時は受験で、高校一年の時はなんとなくそういう雰囲気にならなかった。
高校に上がったことによって、男女であることを意識するようになったということもある。必要以上に仲良くしていると、周りからはそういう目で見られる。今ではあまり気にしなくなっているが、去年の朝陽はわずかな間、そういうことに悩んでいた。
珠樹は一度大きく伸びをした後、比較的綺麗な流木の上に腰を下ろす。朝陽も隣へ腰を落ち着けた。聞こえてくるのは波の音と彼女の息遣いだけで、まるでこの世界に二人きりになってしまったかのように錯覚する。
「紫乃ちゃんも、すごく喜んでた」
「あれは珠樹のおかげだよ」
「私、紫乃ちゃんと仲良しだからね」
「夕飯の時、珠樹が仲良くしてくれて嬉しかったって言ってたよ」
「手だしてないだろうな?」
「だ、出してないって……」
そうは言っても、好きだと自覚してから意識はさせられている。お風呂上がりの時はなるべく近寄らないようにして、だいぶ時間を空けてから入るようにという配慮をしたりしていた。
それから珠樹は、昔を思い出すかのように話し始める。
「朝陽と海に来たのは、三年ぶりだね」
「そう、だね」
朝陽の声色が露骨に変化したのを察したのか、珠樹はくすりと微笑む。
「やっぱり、気にしてくれてるんだ」
「そりゃあ、あんなことがあったんだし……」
「でも、朝陽は悪くないじゃん」
「いや、僕も悪いよ。珠樹のことを、ちゃんと見てあげてればあんなことには……」
「違う。あれは一人で突っ走っちゃう私の責任だった」
朝陽の言葉を遮るように、珠樹は言った。
「でも、溺れたことは悪いことだけじゃなかったよ」
「どういうこと?」
「朝陽のことを、よく考えられるようになった」
どういう意味か理解しかねた朝陽は、首をかしげる。
「あの出来事があってから、朝陽に迷惑をかけないように振舞ってたんだ」
「迷惑かけないように?」
「うん。もう危ないことはやめようって。もう少しおとなしい人になろうって」
「もしかして、だから陸上をやめたの?」
「そうだよ。でも、吹奏楽も同じぐらい大変なんだけどね」
珠樹はそう言って苦笑する。吹奏楽は肺活量を鍛えないといけないため、毎日グラウンドの外周を一生懸命走っている。その彼女のことを、朝陽はたびたび目にしていた。そしてそのたびに、やっぱり彼女は身体を動かしている方が輝いていると感じていた。
チューバを吹いている珠樹のことも朝陽は好きだが、今までずっと身体を動かしている光景を見てきたのだから仕方がない。
「僕は、少し寂しかった」
そう、本音を口にする。
「珠樹は珠樹なんだから、変わる必要なんてこれっぽっちもなかったのに」
別に責めているわけではない。むしろ彼女を変えさせてしまったのは、自分が不甲斐なかったからだとさえ思った。
「だって、朝陽は紫乃ちゃんみたいな、おしとやかな子が好きなんでしょ?」
「なんで僕の好みが基準になるの。それに、別におしとやかな人が好きってわけじゃない」
「でも、紫乃ちゃんのことは好きだよね」
核心を突かれてしまい、朝陽は押し黙る。どうして今そんな話題を振ってくるのか、やはり珠樹の考えが分からない。
答えを返さずに黙っていると、珠樹は自嘲気味に笑う。横顔は、悲しみの色に彩られていた。
「ほら、やっぱり……」
「……何が言いたいの?」
「まだ気付かないの?」
「気付かないって、何が」
幼馴染だから、珠樹のことはなんでもわかってあげられていると思っていた。だけどそれはただの思い上がりで、自惚れだったのだとようやく朝陽は自覚する。
そして、気付いていなかったのは自分だけだったということも。
「私は、朝陽のことが好きだから」
風がやんだような気がした。遠くで聞こえていたはずの波の音も、砂がうごめくサラサラという音も、全てが突然消えてなくなる。ただ分かるのは自分自身の鳴り止まない心臓の音と、すぐ隣にいる、自分のことを好きだと言った彼女の気配だけ。
しかしその全ては、珠樹が立ち上がったことによって再び認識を始める。時間は止まってなんてくれなかった。
「な、なにを……」
言ってるの。
言い終わることのできないまま、朝陽は珠樹に押し倒された。昼間は熱せられたように熱い砂浜が、今は驚くほど冷たい。それが珠樹の心の中を表しているかのように錯覚して、朝陽の胸は痛くしめつけられた。
「たま……」
「返事……」
早く、返事がほしい。
驚くほど冷たい声音で珠樹は呟く。感情がこもっていないように聞こえるが、そんなことはない。その声は震えていて、今にも消えてしまいそうな寂しさを持っていた。
だから嘘偽りなく、本心を口にしなければという気持ちにさせられた。朝陽は目をそらさずに、珠樹に告げる。
「……ごめん」
温度を持った水滴が朝陽の頬に落ちる。
珠樹は唇を引き結びながら涙を流していた。それは壊れた蛇口のように溢れ続けて、とどまることを知らない。
「なんだよそれ……」
「ごめん、珠樹……」
今度のごめんは、今まで気付いてあげられなくてという意味を含んでいた。
「もうなにそれっ……私の方が朝陽とずっと一緒にいたのにっ……っ! ずっと好きだったのにっ……! なんで、今さらっ、昔の友達とかやってきて……!」
「ごめん……」
ただ、謝ることしかできなかった。
珠樹は朝陽を見下ろしながら、とまることのない涙を流し続ける。
「ねえ、私が、もっとっ、女の子っぽかったらよかったのっ……? もっとおしとやかで、気が利いてっ、ガサツじゃなくてっ……! あの子がここに来る前に、朝陽に告白してたら、何か少しでも変わってたのっ……!」
その言葉に返事を返すことはできない。紫乃と再会しなかった未来なんて、朝陽に考えることはできなかった。それにそんなことを考えるのは、二人にとっても失礼なことだから。
「ああもう……! 私、最低だっ……! 大好きなのに、来なければよかったのにって、思ってるっ……! 紫乃ちゃんじゃなかったら、ひっぱたいてたかもしんないっ!」
「それなら、僕が受けるよ。気付いてあげられなかった。ずっと珠樹のことを困らせてた。僕は、珠樹にぶたれるべきだ」
そんなことはなんの解決にもならないけれど、罰を受けなければいけないと朝陽は思った。自分は知らず知らずのうちに、珠樹の心を傷つけ続けていたのだから。
知らなかったでは済まされない。気付ける要素は、いくらでもあった。自分自身が気付こうとしなかったのだ。
「朝陽をぶつことなんて、出来ないよっ……」
そう言った珠樹は、砂浜に押さえつけることさえ疲れたのか、そのまま朝陽の胸に顔をうずめた。
「ああ……もう、ほんと最悪……私、かっこ悪すぎでしょ……」
「女の子なんだから、かっこよくなくてもいいよ」
「こんな時だけ女の子扱いすんな、バカっ……!」
軽く胸のあたりを叩かれる。
もう一度謝りそうになったが、朝陽はその言葉をなんとか飲み込んだ。今必要なのは謝罪ではない。謝ったとしても、彼女の心が癒えることなんてないのだから。
「ありがとう、珠樹。僕のことを好きになってくれて」
心の底からそう思った。だからこそ、自分のことを好きになってくれた人の想いを受け取れないことを、とても悲しいと感じた。
「なんで、こんなやつっ、好きになったんだろう……」
朝陽は小さく苦笑する。明確な理由なんていらないけれど、どうして自分のことを好きになってくれたのかが気になった。
「珠樹は……えっと、どうして僕のことを好きになったの?」
「なにそれ。今振ったばっかの女に、そんなこと聞くの……?」
「ごめん、空気読めなくて。嫌なら、別に無理にとは言わないよ」
そうは言ったけれど、一度鼻をすすった珠樹はその理由を話し始めた。
「どんな時でも、朝陽がそばにいてくれいれば安心だと思ったんだ。溺れかけた時、たくさん海水を飲んじゃって、意識がなくなりかけてたときに、朝陽の声が聞こえた。何度も何度も私の名前を呼んでくれて、死にそうだったのに、とっても安心できたんだ……」
「そうだったんだ……」
朝陽はあの時、とにかく珠樹を助けることに必死だった。その思いが彼女にしっかりと届いていて、しかも現在まで心を寄せてくれていたのだ。嬉しくないはずがない。
「……本当は、助けてくれないんじゃないかって思った」
「え?」
「ほら、お互いに喧嘩してたじゃん……なんで喧嘩したのか、今になってはもう忘れちゃったけど。あの時、朝陽もすごく怒ってた。私は朝陽から逃げたくて、危ないよって注意してくれたのに、深いところまで泳いで行った。忘れちゃった……?」
正直なところ、喧嘩をしたという事実は覚えていたが、そこまで細かいことは忘れていた。朝陽は珠樹を助けることに精一杯で、がむしゃらだったから。
ただ純粋に、珠樹には生きていてほしいという感情しか、あの時には芽生えていなかった。
「まあ、忘れててもいいけど……その後は、なんかいつのまにか仲直りしてたし」
珠樹は自分の流した涙を拭った。
「朝陽は、どうして紫乃ちゃんのことが好きなの……?」
「そういえば僕、まだ紫乃が好きって言ってないと思うけど」
「もう紫乃ちゃんしかいないでしょ。ずっと朝陽と一緒にいたんだから、それぐらいわかる」
きっと朝陽が恋心を自覚する前に、すでに珠樹は気付いていたのだろう。気付いていてもなお、変わらず二人に笑顔で接していた。
朝陽はそんな彼女のことが、やっぱり幼馴染として好きだなと思う。
「なんていうか、一目惚れだと思う」
「一目惚れ? 小学校の頃に?」
「ううん。もうだいぶ、昔のことを思い出したから分かるけど、あの時は恋心は抱いてなかったよ。ただ、仲良くなりたかっただけなんだ」
朝陽の一目惚れは、高校生になった紫乃と再会した瞬間。あそこから全てが始まって、行動を共にするうちに彼女へ惹かれていった。
「……でも、やっぱり昔馴染みだからっていうのもあるんじゃない?」
「どうかな。また会えたのは嬉しかったけど、最初は紫乃だって分からなかったし」
「分からなかったのかよ」
「十年も前のことだからね」
「ひっでーやつ……」
朝陽はそう言われて苦笑する。お互いに顔を覚えていなかったとはいえ、あの瞬間まで完全に紫乃のことを忘れていたのだから、珠樹に罵られても仕方がない。
しばらく朝陽の身体に顔をうずめていた珠樹は、ようやく顔を上げた。もう涙は流れていないが、月明かりだけでその瞳が赤くなっているのがわかる。
「あの……」
「もう謝らないで」
ごめんと言いかけたのを制止される。朝陽は口をつぐんだ。
「朝陽は何も悪くないから」
見下ろす珠樹に向かって、決して目をそらさず確かに頷いた。
「あのさ……未練がましいかもしんないけど、一つだけ訊いていい?」
「うん。何かな」
「私、どこがダメだった……? 乱暴な性格してるって分かってるけど、あれから女の子らしくなろうって頑張ってたし……いつか、朝陽も振り向いてくれるかもって、思ってたんだけど。私って、そんなに魅力がなかった……?」
彼女の言葉は、だんだんと弱々しいものへと変わっていく。本当は訊いてしまうのが怖いのだろう。だけどそれを訊いておかなければ、本当の意味で納得なんて出来ない。素直に朝陽や紫乃のことを応援できない。そう考えているのかもしれない。
朝陽は自分の気持ちを間違えないように、丁寧に言葉を選んで彼女の質問に答えた。
「珠樹は、僕にとってもう一人の家族みたいなものだったから。嬉しかったんだよ。右も左も分からない僕に、初めから優しくしてくれて。ずっと一緒にいたら、やっぱりそういうことも考えたりしたけど、ドキドキするというより、なんだか安心した」
それは、朝美という姉がいたから分かったことでもある。朝陽にとっての珠樹は、同い年の兄妹みたいなものなのだ。
「だからさ、魅力がないとかそんなんじゃないんだよ。もちろん吹奏楽をやってる珠樹のことも好きだし、続けてほしいって思ってる。だけど、珠樹自身は昔のままでもいいと思う。むしろ僕は、遠慮をしてない珠樹の方が好きだから」
今の朝陽の気持ちを、珠樹にそのまま伝える。少しだけ恥ずかしいと思ったが、伝えずに心の中に秘めておくよりは何倍もマシだ。
珠樹はすんと小さく、鼻をすすった。
「紫乃ちゃん以外の女の子に、好きとか言うな……」
「でも、珠樹のことは好きだよ?」
「幼馴染としてだろどうせ」
「まあ、そうなんだけど」
軽く睨まれてしまい、朝陽は苦笑する。
それからようやく、珠樹は朝陽の上から離れた。立ち上がると、服に付いた砂がサラサラと音を立てて落ちていく。
珠樹は、暗い色に染まる海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ふうん……でも、家族、ね……」
「もしかして嫌だった?」
「別に、そんなことないけど。ただ、お前は弟だ。ほんとに世話の焼けるやつだな」
「僕が弟なんだ」
「当たり前だろ。私の方が、誕生日が一ヶ月も早い」
そういう細かいところは子どもっぽいなと思ったが、朝陽は何も言わないことにした。
「あーあ、ほんとどうしてこんなやつ好きになったんだろ」
「いや、僕に聞かれても……」
「……私の初恋返せって感じ」
ポロリと漏らしたそれは、彼女の本音だったのだろう。呟いたあと、珠樹は慌てて口を押さえたが、朝陽にはバッチリと聞こえてしまっている。
しかし次に浮かべた彼女の表情は、清々しく晴れやかなものだった。その珠樹の笑顔を見て、朝陽もホッとする。
「初恋。朝陽が初恋で、本当に良かったって思ってるよ」
「あ、うん……それは、ありがと……」
「何赤くなってんだよバーカ」
珠樹はにこりと微笑み、朝陽もくすりと微笑む。二人はもう、いつもの幼馴染だった。
それから珠樹は、突然住宅地の方へ視線を向けた。
「あ、紫乃ちゃんだ」
「え?!」
こんな時間に一人で出歩いていたら、さすがにまずい。ただでさえ彼女は暗いところが苦手なのだから。
朝陽は慌てて振り返る。しかしどこにも、紫乃の姿はなかった。遅れて、それが珠樹の冗談なのだということに気付く。
「もう、驚かせ……」
安心して、振り向いた時だった。
突然朝陽は彼女に手を握られ、引き寄せられる。身体は珠樹の方へと倒れ、頬が柔らかいものにちょこんと当たった。
それは一瞬だった。
一秒にも満たない口付け。一秒未満の出来事だというのに、朝陽の心臓は驚くほど早鐘を打つ。
そんな戸惑う姿を見て、珠樹は面白そうに微笑んだ。
「幸せになりやがれ、ばーか」
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