第8話 もう一人の家族

 朝美から借りたパジャマは紫乃には少し大きく、裾と丈を折り曲げて着ている。


 風呂上がりにすぐ朝美に髪を乾かしてもらったため、長い髪は動くたびに毛先までまとまることなくサラサラと揺れていた。そしてそのたびに、シャンプーの匂いが辺りを漂う。


 朝美のシャンプーの匂いを嗅ぎ慣れているはずの朝陽だが、紫乃から漂うそれは変に心を乱れさせた。意識しないように努めるが、紫乃が隣に座ってしまったため意識せざるを得なくなる。今の紫乃は、日中一緒に遊んでいる時よりもどこか大人びて見えた。


 父は風呂へ入り、朝美は珍しく意味深な顔をして母の夕食作りの手伝いをしているため、リビングのソファに座っているのは朝陽と紫乃だけだった。


「なんか、不思議だなぁ……」


 物思いにふけるような声で、キッチンにいる二人に聞こえない声量で紫乃は呟く。


「え、突然どうしたの?」

「お姉ちゃんが出来たみたいだなって」


 そう言って紫乃はくすりと笑った。やはり朝美が姉のように振舞ってくれて嬉しいのだろう。ニコニコした表情のまま、身体をそらして大きな伸びをした。


 胸元から盛り上がったそれが視界に入り、朝陽は慌てて視線を外す。


「ごめん。うるさい姉で……」

「ううん。賑やかでいいと思うな」

「そうかな」

「お姉ちゃんがいたとしたら、朝美さんみたいな人がいいなって思うよ」


 朝美がいることが当たり前になっていたから、朝陽はそんなことを考えたこともなかった。だけど同時に、朝美じゃない他の理想像を考えたことがなかったから、朝陽の中ではかけがえのない人物なのだろう。


「紫乃は兄弟とかいないの?」


 そう訊いてすぐに、自分の曖昧な記憶の中に、紫乃に兄弟はいなかったことに気付いた。もちろん、姉と妹もいない。


 何度か遊びに行って、紫乃とその母親以外の人物と接触した覚えは一度もなかった。


 そう、思っていた。


「いるよ、妹が一人ね。今年高校に入学したの」

「えっ」


 朝陽は思わず驚きの声を漏らす。自分の記憶がどこまで正しいものなのか、一瞬でわからなくなってしまった。


 一度いると言われてしまうと、朝陽は『もしかするといたかもしれない』と思うようになってしまう。母が、まだ幼い妹を抱いていたような、そんな記憶が芽生えてしまう。人の記憶というものはだいぶ適当なのだと、朝陽は身をもって理解した。


「紫乃に妹なんて、いたっけ」

「あ」


 紫乃は唐突に、何かを思い出したかのようにハッとした表情をする。それから何か大事なことを誤魔化すように、彼女の唇がぎこちなく動いた。


 それから紫乃はいつもの表情に戻ってしまったため、湧いた疑問はすぐに消えていく。


「そういえば、朝陽くんは知らなかったよね、私に妹がいること。昔は人見知りだったから、会ってないと思うけど」

「へえ、そうなんだ。記憶になかったからびっくりしちゃった。紫乃の妹って、どんな子なの?」


 朝陽と朝美のように、妹は似ても似つかない性格をしているのかもしれない。自分の妹のことを話そうとする紫乃は、いつもより明るい笑顔を浮かべていて、きっと仲の良い姉妹なんだろうなと朝陽は自分のことのように嬉しくなった。


「乃々っていうの。昔はあんまり自己主張が激しくなくておとなしい子だったんだけどね、今はいつも笑顔を浮かべているような子だよ。お姉ちゃんお姉ちゃんって言いながらいつも話しかけて来て、毎日病院にお見舞いにも来てくれたっけ」

「仲が良いんだね」


 そう言うと、紫乃は屈託のない笑みを浮かべて頷いた。


 乃々。朝陽はその名前を頭の中で反芻する。一度、会って見たいと思った。


 それから朝美がダイニングへお皿を運んでいるのを見て、紫乃は「私も手伝います」と言ってそれに加わる。朝陽も一緒に夕食の準備に加わると、ふと家族が一人増えたような気がして嬉しくなった。


 カレーを盛り付ける大皿を運んでいるときに、朝美は小悪魔のような微笑みを見せて、朝陽の胸を優しく小突く。それからこちらへそっと耳打ちした。


「お姉ちゃん、可愛い義妹がほしいなぁ」

「はぁ、なに言ってんの……」


 朝陽は心底呆れたようにため息をつく。紫乃には聞こえていなかったようで、お皿を運びながらニコニコと鼻歌を歌っていた。


※※※※


 夕食の時間、紫乃はカレーを口へ運ぶたびに口元をほころばせ幸せな表情を浮かべ、何度も美味しいという感想を口にしていた。その感想を正面で聞いていた母はいつにも増して上機嫌で、食事の場はいつもより賑やかだった。


 夕食が終わって、当然のように紫乃が皿洗いに加わる。母はお客様なんだから座っててと言ったが、紫乃は「お世話になったのでこれぐらい手伝います」と言って聞かなかった。朝陽も二人と並んで皿洗いをおこなった。


 それから時刻が夜の九時を過ぎても父はリビングでテレビを見ていて、椅子の上から離れようとはしなかった。紫乃はもう完全に麻倉家に打ち解けて、母と朝美の言葉に笑顔で相槌を打っている。


「でさ、こいつ小学一年の時に一時期すっごく落ち込んでたの。私が理由聞いても教えてくれなかったからずっと気になってたんだけど、まさか紫乃ちゃんと離れ離れになってたなんてね」

「あの姉ちゃん、その話は……」

「照れんなってー、ういやつだなぁ!」


 酒で酔っ払っているかのように上機嫌な朝美は、朝陽の背中を三度バシバシ叩いた。その力が思ったより強かったため、むせてしまい小さく咳をする。紫乃に心配されて、顔を引きつらせながら大丈夫だよと微笑んだ。


「お母さん、紫乃ちゃんと朝陽の馴れ初め聞きたいなぁ。そういえば聞いてなかったし」

「私と朝陽くんですか?」

「そうそう! ねえ朝陽、どっちから話しかけたの?」


 突然こちらに話を振られて戸惑いつつも、覚えている限りの経緯を説明した。キャッチボールの球が東雲家の庭に入ってしまったこと。それを取りに行ったこと。紫乃のお母さんに家の中へ入れてもらったこと。そして小さな部屋の中で、紫乃と出会ったこと。


 病気を患っていたことは全て伏せた。今更その話をしたところで心配されるだけだろうし、紫乃も思い出したくないだろうと考えたから。


 その経緯を聞いた朝美は、「なんか漫画みたいだね」という素直な感想を漏らす。たしかに漫画みたいな出会いだなと、朝陽も自分のことながらに感じた。


「朝陽くん、家に来るたびに私のために絵本を読んでくれたんです。それが毎回の楽しみでした」

「うわ、小さい頃の朝陽なかなかやるじゃん」

「いや、もうこの話やめようよ……」

「じゃあ紫乃ちゃんはうちの息子のどういうところが好き?」

「えっと……」


 母の質問を受けた紫乃は、チラと伺うようにこちらを見た。さすがに彼女は照れくさそうにしていて、朝陽もつられて顔が熱くなる。


「えっと……優しいところとか、頼りになるところが好きなんだと思います」

「えー! 朝陽が頼りになるぅ?」

「こら朝美、弟にそんなこと言うんじゃありません。朝陽だってやればできる子なんだから」

「やればできるって何」

「ちゃんと褒めてるから大丈夫よ」


 母の言葉にムッとしたが、朝陽は何も言わずに黙っておいた。


 それから会話はいろんな方向へと弾んだが、十一時を超えたあたりに父がようやく立ち上がったのを見て、みんな我に返った。


「もう寝る時間だ。お客さんに夜更かしはさせるなよ」


 怒っている風にも聞こえるが、ちゃんと紫乃のことを気遣った優しい言葉だった。部屋を出る際に父は一度振り返って「まあ、なんだ……ゆっくりしていけ」と、照れたように声をかける。


 母がくすりと笑みを漏らしたのが、父に聞こえたのだろう。耳を少し朱色に染めて、そそくさとリビングを出て行った。


「もうほんと、あの人は朝陽に似てるわね」

「えっ、全然似てないでしょ……」

「そんなことないわよ」


 そう言って母も立ち上がり話を打ち切る。隣で朝美は大きなあくびをしていた。


「紫乃ちゃんの寝る場所は、普通に朝陽の部屋でいいわよね」

「あ、私は別にどこでも……」

「いや何言ってんの。普通に姉ちゃんの部屋でしょ」


 母と姉に流されっぱなしだが、この主張だけは最後まで貫き通した。紫乃は眠気まなこの朝美に手を引かれ、「今日はありがとうございます。おやすみなさい」と挨拶をしてリビングを出て行った。


 部屋には母と朝陽の二人が残される。


「じゃあ僕もそろそろ」

「ちょっと待って」


 歩き出していたが呼び止められて、朝陽は立ち止まる。母は先ほどのおちゃらけた態度が嘘だったかのように、至って真面目な表情をしていた。


 しかしすぐに、それは柔和な笑みへと変わる。


「珠樹ちゃんとも、仲良くするのよ?」

「えっ、うん」


 どうしてそこで珠樹の名前が出てくるのだろうと思ったが、あまり深くは考えずに頷いた。珠樹と仲良くしないなんて、朝陽には考えられないことだから。


 その反応に満足したのか、母もリビングを出て自室へと戻る。


 喉が渇いたため一度コップにお茶を入れて飲み下してから、朝美の隣にある自室へと向かった。

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