第6話 空の青と、海の青の狭間で
海風が強く吹きすさぶ。その風は紫乃の長髪を大きくなびかせた。
波は寄せては返しを繰り返し、砂浜を何度も濡らしていく。
朝陽と紫乃は砂に足を取られながらも、なんとか波打ち際へとたどり着いた。
「すごい綺麗!」
紫乃が海に向かって大声で叫ぶ。眼前には、空の青を映すような海の青が広がっていた。
靴と靴下を脱いだ紫乃は、子どものように大喜びで波打ち際へ走る。綺麗な素足に海からの波が当たって、紫乃は小さく身震いした。
「海ってすごい気持ちいいね!」
「あんまり深いところまで行かないでね」
「わかってるよー!」
スカートが濡れないように両手で持ち上げながら、紫乃は水と戯れる。そんな微笑ましい姿をぼんやり眺めていると、紫乃は唐突に朝陽へ向かって水を蹴り上げた。
足の先から飛んだ海水が、朝陽の全身をまばらに濡らす。
「朝陽くんもこっち来なよ!」
あまり濡れたくないと思っていたが、朝陽も紫乃と同じく靴を脱いで波打ち際へと走った。くるぶしの辺りまで足が海水へ浸かり、紫乃と同じく全身がぶるりと震える。
先ほどのお返しで、朝陽は紫乃へ向かって優しく水を蹴り上げた。
「うわ、つめたっ!」
「あんまりはしゃぐと転んじゃうから気をつけてね」
「大丈夫大丈夫!」
そう言いながら、再び水を蹴り上げようとした。しかし、その拍子に砂に足を取られ、紫乃は思い切り体勢を崩す。
すぐそばにいた朝陽は、慌てて紫乃を抱きとめた。
「危ない!」
「うわとと、ごめん朝陽くん……」
「ほんとに気をつけてね。全身濡れちゃうと乾くまで帰れなくなるから」
「うん……」
なんでもない風に朝陽は振る舞っているが、紫乃を抱きとめたことによって、いつもより心臓の鼓動が早まっていた。
女の子の透き通るような白い肌。細い腕。手入れされたサラサラの長い髪。子どもの頃とは全然違う、大人っぽくなった紫乃。
その全てが真近で感じられて、さらに女の子の甘い匂いが朝陽の鼻を通り抜ける。無意識のうちに紫乃の背中に手を回そうとしている自分に気付いて、慌てて行動に自制を効かせた。
朝陽がこんな気持ちに陥ったのは、生まれて初めてのことだった。
しかし、抱きとめた紫乃が震えていることに気付いて、そんな不純な行いは不安の色に変化する。すんと、鼻をすする音が聞こえた。
「し、紫乃、大丈夫……?」
「うん……」
その声は、少しだけ震えていた。しばらくすると、朝陽からゆっくり身体を離す。
紫乃はふにゃりと、柔らかい笑みを浮かべた。
「ごめんね、朝陽くん」
なぜ謝るのかを聞こうとしたが、突然紫乃がその場にしゃがみ込んだため、言葉は飲み込まれた。いったいどうしたのかと思い、朝陽もその場にしゃがみこむ。
紫乃は海水を手のひらですくい、まじまじと眺めていた。その行動を疑問に思った朝陽は、紫乃へ問いかける。
「どうしたの?」
「海は青いのに、どうして水は透明なのかなと思って」
紫乃の目は、太陽の光を受けて光る海水のようにキラキラときらめいて見える。
手のひらの海水はわずかな隙間から漏れ出て、海の中へと戻っていった。
「僕もよくわからないんだけど、太陽の光が影響してるんだって。青い光が表面で反射されてるんだったかな」
「へぇ」
感心したように紫乃は頷く。しかし、やはりよく分からなかったのか、水をすくって再びまじまじと見つめた。
しばらくするとそれにも飽きてしまったのか、手のひらの水を海へと返す。紫乃はそのまま、寄せては返す波を見つめていた。
「ねえ紫乃、大丈夫?」
改めて紫乃の目を見ると、綺麗な瞳に今は薄っすらと赤みが帯びている。朝陽はそんな彼女のことが、心配でたまらなかった。
その思いが通じたのか、それとも通じていないのかは分からないが、紫乃はふにゃりと表情を綻ばせた。
「朝陽くんに抱きとめられたら安心しちゃって。紫乃、昔のことを思い出しちゃったの」
「昔のこと?」
「うん。昔のこと」
それ以上は何も言わなかった。
だから具体的にいつのことを指して言っているのか、朝陽には分からない。それでも、もし病気が完治する前のことを言っているのなら、それは余計な心配だ。だって紫乃はもう、こんな風に外へ出て遊ぶことができるようになったのだから。
「何か困ったことがあったら、なんでも相談してよ。僕に出来ることならなんでもするから」
「んー、今は取り立てて困ってることはないかな」
そうは言ったものの、紫乃は何かを思い出したかのようにハッとした顔をした。それがよほど大事なことだったのか、困った表情を浮かべる。
「泊まる場所、探さなきゃいけなくて」
「ホテルに泊まってるんじゃないの?」
「今日までの日にちしか押さえてないの。今日までに朝陽くんを見つけられなかったら、そのまま帰るつもりだったから」
「それなら……」
言いかけて、朝陽は昨日と同じく言い淀んだ。
しかし昨日とは状況が違うのだとすぐに気付く。紫乃を誘わなければ、最悪野宿をすることになるかもしれない。もしくは電車に乗ってそのまま帰ってしまう。
だとするならば、もう迷う必要なんてない。困っているならば、すぐにそれを提案するべきだ。
「それなら、うちに来なよ」
「え、朝陽くんのお家?」
「うん。お母さんと姉ちゃんも紫乃に会いたがってたし。泊まるなら、姉ちゃんと一緒の部屋になるだろうけど」
「でもそれ、お姉さんに申し訳ないし……」
「姉ちゃんも喜ぶと思うよ。あの人、年下の女の子大好きだから。珠樹とも結構仲が良いんだよ」
少し強引すぎたかもしれないと朝陽は反省した。これじゃあ下心があると捉えられても仕方がない。
しかし、しばらくの迷いの後、結局今からじゃ泊まる場所を見つけられないと悟ったのか、紫乃は首を縦に振った。
「とても申し訳ないけど、泊めてもらってもいいかな……」
「もちろん!」
その言葉に、紫乃の表情はパッと笑顔に変わる。それから何かを思い出したのか、ハッとした表情になり、ポケットからスマホを取り出した。
「どうしたの?」
「ちょっと今日のことを、彩ちゃんに報告しなきゃいけなくて」
「それじゃあ、危ないから波打ち際から離れよっか」
「うん」
二人は波打ち際から離れて、砂浜の上に打ち上げられていた比較的綺麗な流木の上へと腰掛ける。朝陽は紫乃の報告が終わるまで、砂の上を眺めていた。
小さなカニが、横歩きで砂の上を進んでいる。しばらくそれを眺めていると、カニは砂の中へと潜っていった。
視線を上へ向けると白いかもめが数羽飛んでいて、まるで青空に浮かぶ雲のようだと朝陽は感じた。
それからぼーっと視線をあちらこちらに投げていると、ふと紫乃から質問が飛んで来た。
「玉泉さんとは、よく海に遊びに来るの?」
「ん、小学校の頃は遊びに来てたけど、中学の頃からはあんまり遊びに来なくなったね」
「へぇ、やっぱり部活が忙しくなったから?」
朝陽は本当のことを言おうか迷ったけれど、隠すことでもないと考え、中学二年の頃に起きたことを話し始めた。
「珠樹が、一度海で溺れかけたんだよ」
「えっ……」
「僕と珠樹と、あと何人かの友達で海に遊びに来てたんだ。珠樹がもっと深いところまで行こうって言って、僕は反対したんだけど聞かなくて……それで深いところまで来た時に、珠樹が足をつらせたんだ」
海面でもがいていた珠樹のことを思い出し、朝陽の胸にチクリと痛みが走った。もしあの時自分に止めることができていたら、あんな思いをさせずに済んだのに。その後悔だけが、今も朝陽の胸の奥に残っている。
「玉泉さんは、それからどうなったの……?」
「幸い近くにいる僕が浮き輪を持ってたから、なんとか助けることはできたんだけど、溺れかけたことがトラウマになって、それから珠樹は海に入れなくなっちゃって」
共通の友人に海へ遊びに行こうと誘われることがあったが、朝陽は決して海の中へは入らなかった。浜辺に一人でいる珠樹を置いて遊びに行くなんて、絶対に許せなかったのだ。だから朝陽は海へ遊びに来ても、いつも珠樹と浜辺で砂いじりをしていた。
そしてあの出来事があってからというものの、珠樹は朝陽に対して過剰なスキンシップを取らなくなった。きっと、迷惑をかけてしまったことに負い目を感じているのだろうと朝陽は考えていて、気を遣わせてしまっていることに申し訳ない気持ちを抱いている。
「そんなことが、あったんだ……」
「うん。まあ、もう終わった話なんだけどね」
「玉泉さんと朝陽くんは、昔からとても仲良しだったんだね」
「そうなのかな」
「喧嘩とか、したことないんじゃない?」
「ううん。そんなことないよ。一度だけ、ほんの些細なことが積み重なって、喧嘩したことがあるんだ」
紫乃は更にその先を聞きたそうにしていたが、朝陽は話を打ち切って立ち上がった。いつの間にか日が落ち始めていて、青い海を赤く染め上げている。
紫乃も彩への報告が終わったのか、スマホを握りしめたまま立ち上がった。
「今日は本当にありがとね、朝陽くん」
その言葉がどうしてか、お別れを告げるセリフのように感じられて、朝陽は心の中で戸惑いを覚えた。そんなはずはないと、自分に言い聞かせる。なぜなら今から、朝陽の家へ向かうのだから。
焦燥感に駆られて、引き止めるように返事をした。
「ううん。僕も楽しかったから、こっちこそありがとう。明日も一緒に出かけよう」
紫乃は朝陽へ微笑みを見せた後に「ありがとね」と、もう一度お礼を言う。結局のところ、彼女はどこにも行ったりしなかった。
そのまま何事もなかったかのように、朝陽の後ろをついていく。今日から数日は麻倉家に泊まるのだから当然だ。
どうして紫乃がいなくなるかもしれないと考えたのか、朝陽にはわからなかった。そんなこと、ありえるはずがないのに。
朝陽の半歩ほど後ろを紫乃は歩く。先ほど握りしめていたスマホを、彼女は歩きながら確認していた。きっと彩から返信が来たのだろうと思い、朝陽は邪魔をしないように黙っている。
しばらくして紫乃がスマホを片付けたのを見て、ようやく話題を振ってみた。
「綾坂さん、なんて言ってた?」
一瞬目を丸めた後に、紫乃は言った。
「二人が楽しそうでよかったよ、だって」
そういう話をしていると、いつの間にか二人は家の前に着いていた。海にいた時に落ち始めていた太陽は、もう目の届く空からはいなくなっている。浜織には夜の帳が訪れていた。
泊めると言ったのはいいものの、なんと言って母と父に説明しようかと迷いながら、朝陽は家のドアを開ける。
キッチンの方から香ばしいカレーの匂いが漂って来て、それは疲れた二人の身体をゆっくりとほぐしてくれた。
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