海と約束

期待の新筐体

海と約束 前編

「人って大きくなったら海に帰るんだって!おばあちゃんが言ってた!」

「海に帰る?どういう意味だよ?」

「さぁ、分かんない」


ガキの時分、そういやそんな話もしてたっけと、今更になって思い出す。果てしなく奥に続く海をずっと眺めていると、頭の奥底にある記憶が、気まぐれきかせてぽっと浮かび上がってくる。ざざーん、と波打つ音を聞きながら、高い崖の上に座って、一人でぼーっと海に目を配っているときだった。


「あ、やっぱりここにいた!」


波の音がうるさくても、昔からずっと聞きなれている声は、何者にも邪魔されることなく、すっと耳に入ってきた。無邪気で明るい、そんな声がする。


「エミ」


後ろを振り返ると、そこには幼馴染のエミがいた。にこっといつも笑顔を絶やさない、そんな奴だ。エミがやっぱりと言ったのは、ここが昔から俺とエミが二人で良く来ていた場所だからだろう。ここから海までは随分と高さがあり、落ちたらただではすまない絶壁だというのに、俺もエミも子供の頃怖がらずに何度も来ていたものだ。


「やっぱりいいよね、ここ。潮風が気持ちいいし!」


エミは当たり前のように俺の隣に座り、足をぶらんと宙に放り出す。何度も見ているのに、俺はエミの横顔を間近で見るたび、少し胸の鼓動が速くなる。綺麗だなと、可愛いなと、いつも思ってしまう。いつかいつかと思いながらも、俺はエミに告白できていないし、エミから来ないかな、と考えないこともなかったが、いくらたっても音沙汰なしだから、エミにとって俺は、ただの幼馴染なのかもしれない。恋っていうのは、恥ずかして面倒な代物だ。


とはいえ、そんな苦悩も、明日ですべて終わるのだけれど。


俺が住んでいるここは、10年に一度、魂を神にささげる。

こんな言い方をすると、少しは神聖に聞こえるかもしれないが、単純な話、生贄を捧げるということだ。10年に一度、18歳の男女問わず一人が、海に身投げする。馬鹿馬鹿しい話で、今日日生贄なんてナンセンスだとも思うが、昔、生贄を捧げなかった年、大規模な津波が起きて夥しい数の人間が犠牲になったらしい。そんなもの、つまるところ偶然の気もするが、生贄がないときに津波が起きたのは事実だから、生贄信仰はめっぽう強くなってしまった。


明日は俺の誕生日。18歳。

そう、俺は生贄に選ばれた。


どういった選考方法かはしらない。推薦か利害かはたまたくじ引きか。方法は知らないが、何百という人の中から俺が選ばれた。


こんな時、普通の人間ならば運命に絶望する、というのが一般的だと思う。俺も普通の人間のつもりだし、今までの人生に不満を覚えたことは無かったし、これからも生きていく気満々だったから、実際に生贄になったその瞬間は、頭が真っ白になると思っていた。


でも、正直なところあまり覚えていないが、俺はその運命を、比較的すんなり受け入れてしまったようだった。明日死ぬというのに、今も大して怖がっていないから。


「また遊びたいね!昔みたいに」


俺が生贄になったことは、ここに住んでいる者は全員知っている。だとすれば、俺の隣にいるこの幼馴染が、まったく明日のことについて心を揺らがせていないのが、いささか不思議に思えるかもしれない。なんて淡泊なのだろうと思うかもしれない。


エミが冷酷で非情だと勘違いされても困るので、一つ言っておくと、エミは俺が生贄になった事実を、知らないのではなく、覚えていないのだ。


誰にでも優しく、明るく振舞うエミは、言うまでもなく、皆の人気者だった。容姿も可憐で、彼女は完璧だと思っていた時期もあった。でも、陳腐な表現にはなるけれど、やっぱりこの世に完璧なんてものはなく、彼女には大きな欠点、いや、欠陥があった。


エミは記憶障害を持っていた。博識ではないので、一体脳のどこに障害があるのかは分からないが、エミは何かがきっかけで、記憶を失うことがあった。自分の名前とか、俺のこととか、そういったことは忘れたことはないが、ある地点からある地点までの、短い期間の記憶が時々ぱっと消える。


可哀想だなと、俺はエミを憐れんで、いつか治ればいいなと本気で思っていたが、今だけは、この記憶障害に感謝していた。エミは、俺が生贄になったという事実を綺麗に忘れていた。


揺らぐ。

エミが俺のことに気を遣ったら、多分、いや、間違いなく俺は揺らぐ。死にたくないと、生きたいと、そう思ってしまう。いつも笑うエミの悲しい顔は、見たくない。


一週間ほど前だったか、エミが俺が生贄になることを聞いたとき、エミは号泣してくれた。死んじゃいやだと、もっといっしょにいたいと、そう言って泣いてくれた。嬉しかった。ああ、俺にも、泣いてくれる人がいるんだなって、そう思えたから。ま、今のエミにその時の記憶はないけれど。


海よ。

僕は心で思う。海に感情があるのかなんて、知らないが。

明日、俺はお前に還る。

思えば、ずっと昔から、お前を眺めていたな。誰に言われるわけでなく、俺はここに来た。崖の上から青々しい海を眺め、心を落ち着かせた。


好きだった、この場所が。ストレスを感じたら、すぐにここに来た。昔から、ここには人が近寄らず、静かで俺だけの空間だなって思っていた。でも、最近になって一つ知ったことがある。ここは、生贄が身投げをする場所。かつての生贄たちは、一体どんな気持ちでここから飛んだのだろうか。無念か怨嗟か、そういったものを感じたのだろうか。


海よ、お前は知っているのか?

ここからお前に喰われる人間が、どんな気持ちを抱いていたか。

どうにかして、お前に一矢報いてやりたいが・・・。

思いつかないな。


「そろそろ行くか」


もう、日が暮れる。俺はエミに声をかけ、腰をあげる。


「そうだね」


エミも俺に言われるままに、海に背を向けた。エミが俺よりも少しだけ速く歩いたので、俺の目にはエミの背中が入ってきた。


「・・・」


お前の姿を見るのも、今日で最後だな。

そう思った途端、俺は足を止め、後ろからエミに声をかけていた。


「なぁ」


「うん?」


エミは笑顔を浮かべ、俺の方へと振り向く。


ああ、その笑顔に、一体幾度救われたことか。お前が無邪気に、楽しそうに笑う姿に、一体幾度勇気づけられたことか。


抱きしめてもらっていいか?


キス、してもいいか?


ここで事情をもう一度説明すれば、エミは言うことを聞いてくれるのだろうか。何せ、最後。もう二度とできないのだから。俺も男として、惚れた女にはけじめをつけるべきじゃないだろうか。


「・・・明日もまた来ような」


意気地なし。

我ながらそう思う。最後くらい、勇気を出せばいいのに。これだから、告白も何もできないんだよな。エミはうん、と言って、俺たちはまた歩き出した。


俺は、一番大切な人に別れを告げずに、死んでいく。

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