落とし前

@tsujiwaki

第1話

狙撃

五月半ばになりすごしやすい季節に成り、サクラも散り、山々も緑一色に成ろうとしていた。

空は青く雲一つ無く風も無い日が2~3日続いており、こういう日を五月晴と言うんだと真鍋健一は思った。俺は今、千葉県柏市から10キロ程離れたゴルフ場にいた。5番コースのグリーンのそばの林の中にいた。山を崩して作られており、初心者には起伏が多い為、難しいコースと言われていた。5番コースのグリーンから800メートル離れた、山の中の雑木が茂リ笹が生えている中にいた。5番コースのグリーン

からは 俺の姿は見えない自信があった。

「もう5時か今日も来ずかもう2日も居る明日こそ

来てくれ、野宿は年寄りにはこたえる」

リツクサツクから、アルコウルコンロ、を取り出しお湯を沸かした、暗くなるとコンロの火の明かりが見られるおそれが有るため明るい内にお湯を沸かすためだ。沸騰したお湯を魔法瓶に詰めると、真鍋健一は何もする事が無くなり敷き詰めた笹の上に仰向けに寝た、年をとると昔の事が思いだされた、なつかしくも有りほろ苦くも有った、よく生きながえれたもんだ

、数えきれないぐらい死に神が俺を呼んでいたが、何とか切り抜けた、俺は高校3年の1月18日に、天国から地獄に落とされた。 両親が交通事故で亡くなった、其れまで何の不自由もなく,古武道の稽古に夢中に成り家が2代つずいた工務店なので俺も家を継ごうと思い、大学も建築科に願書を出していた。交通事故で俺は全てを失った、叔父が1人いたが早くに亡くなって叔父に子供が居ない為俺は天涯孤独になつてしまつた、交通事故の相手が大手の運送会社だったのと運送会社の運転手が居眠り運転の為、賠償金や保険金などが降りたが多額の負債が残って居たので僅かしか残らなかつた。残ったのは麻布十番に有る、家と土地240坪だけだつた。高校の担任が2カ月で卒業だ卒業だけはしろといってくれたので卒業した、高校卒業してすぐに家を解体して更地にした。此からの俺の人生に此処での思い出を引きずる事を避けるためだ。1967年俺は何の目的も無くアメリカに向かった、強いて言えば近所の人達や高校の同級生に此からどうするんだろうと好奇、と同情の目で見られるのが煩わしく思ったからだ、近所にカトリック教会が有り子供の頃より通いアメリカ人の牧師に英語を習い少しは喋れたのも原因かもしれなかった。

ニューヨークで仕事を探したが人種差別が有り覚えていた英語も余り役に立たず、イエローモンキーと馬鹿にされていた。

レストランの食器洗いと掃除の仕事を給料日に残って床を磨いて要るとコック長が事務所にこいと言うのでいくとズボンもパンツも脱いでおりお前も脱げ穴をかせといつたので断ると掴み掛かってきたので蹴りを入れストレートを叩きこみ辞めた。10日程で金も無くなり2日も何も食べずに居たとき、ぶらぶら歩いているとき、事務所の前の看板が目に飛び込んで来た。新兵募集、国籍問わず、俺はふらふらと事務所に入ってしまった、衣食住が付いており給料も貰えアメリカ国籍、グリーンカード、まで貰えるサインさえすれば今日から飯と寝る所がある俺は腹が減っているので迷わすサインをしてしまつた。

それが間違いの元で7年程地獄の苦しみを味わう事になるとは思わなかった。

寒さと腹が減って健一は目が覚めた。

「春とわいえ日本はまだ寒い年寄りには堪える、明日こそ来てくれこのインスタントラーメン、と固いパン、干肉、ビタミン剤、飽きた、年寄りを待たせるな」

インスタント珈琲を飲みおえると何もする事がないのて寝袋に入り星空を眺め昔を思い出していた。

入隊と同時に3ヵ月程体力と軍隊の規律を守るため行軍と行進ばかりさせられ、夜は英語の勉強をさせられた、命令が解らなければ死ぬと脅かされた、俺は礎知識があつたため何とか覚えた。4カ月が過ぎ要約銃を支給され撃つことを習った。俺は400人程いるなかで射撃はいつも上位にいた、自分の才能に戸惑っていた。5カ月目に入り別のキャンプで訓練をすると言われニューヨーク港から船に乗せられ着いた所はフィリピンだった、ジャングルと言うか密林の中を見たことも無い高い草のような植物を掻き分け行軍させられ敵と味方に別れ訓練をさせられた、楽しみは食事が美味しい事だけだつた、8カ月程で俺達は新兵の訓練を終えた。アメリカ合衆国の軍人になった訳だ。

陸軍の二等兵だ、直ちに隊の編成が行われ俺の小隊はいって驚いた、世界中の若者達がおり、まるで多国籍軍だった、そして俺の小隊は14人だったが、フィリピン人4人、メキシコ人5人、中国人3人、チリ人1人そして俺、さすがに軍曹だけははアメリカ人だった。

俺はどうして軍隊に入ったのかと聞いて見ると、みんな密入国者で罪を問わず、除隊したらアメリカ国籍を支給すると言われ、衣食住、が付いて給料までくれる、こんな良い事はないだから入った、みんな言う事は同じだった。

フィリピン人が近づいて来て日本人かと聞くのでそうだと答えると、日本に居たことが有る、といって握手をして来た、お国柄か陽気な奴だったが一生付き合う事になるとはその時は思わなかつた。

親指と人差し指を丸め俺の事は「マル」と呼んでくれ日本でお金のことを言うだんだと島に帰って教えるとみんな、マルと呼ぶようになつた、健一の事を「ケン」と呼ぶと言われ小隊で呼ばれるようになった。

翌日大隊規模の新兵は船に乗せられ、ベトナムの最前線に放り込まれた。

「ケン俺達は使い捨てだ、敵に向かってまだ一発も撃って無いのに此処は最前線だこんな人種差別あるか俺達だってアメリカ陸軍の兵士だ」

「マル家に仕送りするんだろう、俺達はまだアメリカ人じゃあ無い戦死しても見舞金で終わりだ死ぬな」

空が明るくなり寒さと、小鳥の鳴き声で真鍋健一は目が覚めた。

「歳をとると早起きで行けない、今日こそ来てくれよ年寄りは気が短いんだから、早く帰りたいよ」

真鍋健一はフィリピンに住んでいたベトナム戦争が終わり、アメリカ国籍を貰い、日本に帰ろうとしたとき、マルがフィリピンの俺の家に来てくれと言うのでマルの生まれ故郷の島にいつたら、一辺に気にいってしまった。この島の島民は貧しく若者は「マニラ」か外国に出稼ぎに出ていた。

7年程アメリカ陸軍に在籍し要約、上等兵になった、勲章も3個貰った。3年程前に除隊も出来たが軍隊に残った、そしてアメリカ国籍を貰った、マルも一緒で俺達の上官で有るマクレガー准尉も中慰になつており中慰の子飼いと言うことでベトナムに来てからずっと一緒だった。俺達の小隊で残って居るのはマルと俺だけだった、みんな戦死か重傷でアメリカに返された一緒に来た大隊も60%がおんなじ運命をたどっていた、スイスで北ベトナムとアメリカが停戦の話し合いが行われて要るらしい、脱走兵を支援する組織が有るとか、アメリカ本国では戦争反対のデモが毎日行われている、そんな噂が兵士達の中で広まっていた、ベトナムでは北爆が激しく成り「ラオス」にも戦火が拡大していた、特に昨年からは黒人兵が多くなつていた。

韓国軍、オーストリア軍、タイ軍、フィリピン軍、ニュージーランド軍、なども。北ベトナム軍、ベトコンなどと戦火を交えていた、特に韓国軍は、45700居ると言われていた。噂では韓国軍の兵士は米軍兵士の約半額の60ドルを月々支給されていると言われていた。

「今日こそ来てくれよあんまり、年寄りを待たせるな10時かそろそろ来るか」

真鍋健一は5番グリーンに来る人を双眼鏡で見ていた。10時30分過ぎに、ろくでなし、の「レツテル」を貼ったような、グループが現れた。

「来た待たせやがって」

素早く掛けて有るシートをはがし「狙撃銃パレットM82、カスタマナイズされたノズル、サブレッサ付」を取り上げた。

僅かに風が有ったが、距離が800メートルならこの銃の性能なら影響はないと健一は思った。

関西の暴力団「斉藤連合会」の大宮支部長の佐々木の顔をスコープにとらえ、静かに引き金を引いた。耳から上の頭が消失し周りの者達は何故倒れたか分からず頭を見て気絶する者までいた。

健一は素早く自分の周りを見渡し忘れ物、ゴミなど無いのを確認し立ち去った。車、電車、など交通基幹などは危険なので山越えをし、コンパスを頼りに我孫子市に出た。検問しているおそれがあるので更に2日山にいた。何もする事がないのて昼は風の音を楽しみ夜は星空を眺めて過ごした。雨が降らないのが有り難かった健一は2カ月前の事を思い出していた。ベトナムに居たときも年に一度だけ日本に帰っていた、健一と日本を結びつけるもの、それは、麻布十番に有る土地だった。「固定資産税」を払う為に帰っていた。帰る度に固定資産税が高く成り。健一が居たときの面影がまるで無く周りがビルだらけに成り、高級レストラン、ブティック、BAR、などが立ち並び、「都市開発」とかで健一の土地がメーンストーリーに面していた、日本に帰りいって見て驚いた俺の許可もなく。軽量鉄骨の3階建ての建物が建つていた、おまけに「株式会社麻布十番開発」と言う看板まで出ていた。俺は登記所に行き、調べると仮登記されてをりおまけに根抵当権まで付けられていた。登記した弁護士の事務所にいくと、閉鎖されてをり近所に聞くと交通事故で轢き逃げされ、まだ犯人が捕まらないと教えられた。調べると関西の暴力団「斉藤連合会」のフロント企業と分かった。俺は完全に頭にきた、そして、45年前のベトナム戦争時のようにアドレナリンが体中駆け巡り「斉藤連合会」を叩き潰し土地を取り返す。俺にとっては立った1つの日本とのつながりだ、俺の子供にとつてもだ。

俺はその夜、アメリカに飛んだ、そしてニューヨークのはずれに軍の払い下げを扱っている元上官のマクレガー中慰の元を訪ねた。退役してもクリスマスカードや2~3年に一度はあつていた。

「健どうした連絡くれたら空港まで迎えにいつたのに、なんか難しい話か何でもいつてくれ」

「ヤクザ、と揉めそうだ、嫌、揉める、奴らを叩き潰す、完璧に潰す、武器が要るそれで来た」

「どんな物が要る何でも揃ういつてくれ、日本にもフーリパスで送ってやる、米軍に頼む、立川の基地に送る。手数料が掛かるが間違いなく届く。マル、はこのことしつているのか。私も手を貸してもいい」、

「嫌、私事だいつてない「ベレッタM1934」(拳銃)2丁欲しい「M92FS」では大き過ぎる「サイレンサー」を付けてくれ、それと、狙撃銃、M110サブレッサー付、以上だ」、

「1人でヤクザと戦争するのか止めても無駄か、だがM110では威力が弱いビルだらけの中で射撃すると風の動きが掴めない、良い狙撃銃がある「パレットM82」だ、口径50nn有効射程1800nn、サブレッサー付だ健なら使いこなせる。だが重い、10キロ程有る。ベレッタのサイレンサーはない。アメリカでも所持は禁止されている、所持しているだけで処罰される。だが、かなり出回っている2~3日くれ良い物を作らせる、その間に送る段取りを取る」

俺は狙撃銃の試射をして過ごした。俺のベトナム時代に使っていた狙撃銃とは比べ物にならない程。進歩していた観測兵もいらなかつた、赤外線レーザー距離計、暗示装置、などが着いていた。50口径なのに発射音が驚く程小さいかつた。ベレッタ(拳銃)などはほとんど音がしないと言えた。

「健、何時でも電話くれ、助けに行く、それと何でも送る、これは俺からのプレゼントだ、ケプラー社製の防弾チヨツキだ、ベトナム時代と違って軽くて性能が各段に違う、「サイレンサー」はアメリカ軍が使っている奴だ取り外しが出来る、仕事が終わったらまた会おう、成功を祈っている」

俺はすぐに日本に引き返し3日後、立川で品物を受け取った。「斉藤連合会」の資金源は、覚醒剤、の密売と分かったので売人を付け回した、斉藤連合会、は三国人が多いので、覚醒剤、の密輸がしやすいのだろう

俺はなるべく幹部らしい奴らを付けた。新宿で襲おうと思ったが深夜まで人がいるのであきらめ、上野でやることにした、2~3日売人のチンピラを張っていると深夜の2時頃、幹部らしいのが上野公園の下に有る池之端でチンピラから売り上げを集めて要ることがわかつたのでそいつを襲う事にした、その時間帯はほとんど人もいない所であった。

翌日の深夜2時頃500のベンツが止まり、男が1人車から降り池之端の奥に向かった、チンピラがすでに来ており売上を渡すと立ち去った。男が車に戻ろうとしたとき後ろから拾った拳大の石で頭を殴った。男は崩れるように倒れた、男を奥の植え込みの中に引きずって行き手と足をガムテープで縛り小瓶の中の「アトモニア」を嗅がせた。

「目が覚めたかい聞きだい事が有る、覚醒剤の置いてある所教えてくれ」

「てめーえどこの組だこんな事して只ですむと思っているのか、ほどけ忘れてやる」

「忘れてくれなくても良い、いつたことに答えろ言いたくなければ体に聞くお前、日本人じゃあ無いだろう此処で死ぬか」

俺はアメリカの泥棒市から買って来た、両刃で刃渡り7ミリx10センチのナイフを取り出し行きなり、右股を刺した。勿論口を抑えてだ。

「てめーえよくもやりやがったな組の者達が黙ってない殺してやる」

「お前立場が分かって内容だ、聞くことに答えろ」

俺は、左足を刺した。

「俺が本気だという事が分かったろう時間がたつと失血死するぞ」

「てめーえ、あんたわ、なにもんだ、東京の極道にこんな事する奴は居ない。内の組でもこんな手荒な事しない、止めてくれ言う。足立区の竹の塚に有る、ゴミ焼却炉、の裏に自動車の修理工場が有るその二階だ高い煙突が有るすぐ分かる」

「今から傷の手当をする医師の所に連れて行ってやる嘘だったら殺す」

「嘘なんか付かん、早く医師の所に連れて行ってくれ」

俺は抱き抱え奴の延髄をナイフでえぐってやった。目を大きく開き信じられないと言う顔をし、死んだ。

俺は奴を信じる事にした、拷問されて死んだと分かると警戒されるので今夜、此から襲う事にした。

停めて有る50㏄のバイクを失敬して竹の塚に向かった。大型バイクだと力負けし転倒するおそれが有るからだ。フィリピンの俺の島に居るとき泥棒で生計を立てていた若者に、ありとあらゆる、鍵、の開け方を面白半分に教わっていた。竹の塚に近ずくと煙突に付いている赤い点滅の明かりを目当てに向かった。

焼却炉の塀にバイクを立てかけ修理工場に向かった外に階段が付いており登ろうと上に有る「ドウ」を見たら赤い小さなパイロットランプが見えた。

「防犯カメラだまずいな」

俺は階段を諦め修理工場の正面にあるシャッターの端に付いている人の出入り口の鍵を開けた、思った通り二階に行く階段が有った。

音を立てないように静かに上がり「ドウ」に耳を付けて聞くと3~4人がいるドウのノブを回したが、鍵が掛かっていた。面倒臭いのでドウの鍵に、3発撃ち込んだ、素早くドウを開け室内に居る3人に2発ずつ撃ち込んだ、高級幹部らしいのが机の前で金を数えていたが額に1発撃ち込んでやった。

3人は覚醒剤を小分けしていたらしく、机の上に電子秤りと小分けした小さな袋が無数に有った。

大きなバックがあつたので机の上に有った金と大きな袋に入っていた覚醒剤を詰めた。持ち上げると15キロ程の重さになった.1キロ程を部屋中にばらまいた。案の定翌日の深夜自動車修理工場が放火とかで全焼した、警察が捜索するとバラまいた覚せい剤がばれるので放火すると思ったからバラまいたのだ。死体も彼らが始末したようだ。其れから10日程俺は「週刊誌」のフリー記者を名乗り。新宿、池袋、上野、六本木、と関東の極道の幹部らしい者達に此から関東の極道界を束ねる人は誰かと聞いて回った。勿論。BAR、居酒屋でだ。新藤正信、の名をほとんどの者達が上げた。酔っ払って彼の住所まで教えてくれた。池袋に有る彼の住まい「タイガーマンション」を見張る事にした。1日で新藤正信に会えた。12時頃1人で帰ってきたので拳銃を見せて危害は加えない頼みがある部屋にいこうと言ったら黙って頷いた。部屋に入り、単刀直入に話した。

「此処に3千万円ぐらい有る後の物は手土産だ情報が欲しい」

俺はそぅいつて「ボストンバック」を彼の側に投げた。

「開けていいか、何と大したお土産だ、関西の奴らを騒がしている人が居るときいたが、聞くまい、どんな情報が欲しい」

「斉藤連合会、の親分の住所、癖、趣味、、仕事、事務所の住所、日本中の親分のだ」

「わかった事務所に行けば有る、極秘だが俺ならコピー出来る。何処に届ける」

「どつかの「コインロッカー」に入れてくれ鍵はあんたの「レターボックス」に頼む」

「池袋駅の東口の地下に有る明後日の、12時までに入れて置く」

2後タイガーマンションでコインロッカーの鍵をレターボックスから取り出し池袋駅で紙袋に入れて有る書類を取り出した。中に手紙と、携帯電話、が入っていた手紙には、2台手に入れたこの番号は誰も知らない、居るもの、手を貸して欲しいとき、電話をくれと書いて有った。健一は話しただけでこの男は出来る「腹」の座った男だ、噂道理の男だと認め、だから何も心配せずに書類を取りに行った。その書類を見て一番狙撃の楽な、大宮支部長の佐々木を狙撃した、。、

2日後、ひげを剃りもつてきた服に着替えて、我孫子市からタクシーで柏市に出、タクシーを乗り換え松戸市に出、またタクシーを乗り換え東京に着いた、東京で4回も乗り換え遠回りして東京での仮住まいに着いた。

この仮住まいはベトナム人の「ラム、ズウン」が借りてくれた。今は難民を認められて日本に帰化していた。

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