第20話「またね、の約束」

 東北の春はまだ、四月でも寒い。

 だが、そんな夜気が薄荷はっかのようにんでいるのは、気のせいではなかった。

 それは、目の前を歩く染井吉乃ソメイヨシノを包む空気だからだと、外崎正重トノサキマサシゲは思った。

 その吉乃は、少し前を少しフラフラと歩いている。

 千鳥足ちどりあしとまではいかないが、上機嫌に浮かれた歩調だ。


「正重さん、今日はありがとうございました。その、すみません……お酒、飲めないのに」

「いや、別に……その分、吉乃さんが飲んだじゃないですか」

「そ、そうですね! 少し飲み過ぎてしまったかもしれません」


 振り向く吉乃が、笑っている。

 彼女の優雅な動きに、長い長い三つ編みが尻尾のようにひるがえった。

 今日は、彼女と沢山のことを話した。

 二年前、就職したての吉乃を襲った苦難と、その中での彼女の奮戦を知った。そしてそれは、なるほど吉乃らしいなと思わざるをえない、不器用で誠実過ぎて、愚直ぐちょくなまでに健気けなげな戦いだった。

 孤独な戦いが、一年で彼女を壊してしまったのだ。


「正重さん、じゃあ……私、明日東京に行ってきます。なるべく早く戻るつもりですが」

「ああ、うん。気にしなくていいから、納得いく形でやってもらえると、嬉しいってゆーか」

「何からなにまで、すみません……本当に、ごめんなさい。なんか、甘えてしまって」

「あー、そういえば。以前から思ってたんですけど」


 勿論もちろん、正重はシラフだ。

 だから、少し吉乃との温度差があるかもしれない。

 でも、酒を飲んでなくても、どこかほろ酔いのような高揚感に肌が熱い。

 これがもしかして、人にかれて酔いしれるというものだろうか?

 そうだと断じるには、あまりにも正重は色恋を知らなかった。

 だが、はっきりわかってることはいくつもある。


「吉乃さん、その……すみません、ごめんなさいっての、多過ぎますよ」

「あっ! そ、そうかも、です……ごめんなさい」

「ほら、また」

「んっ! ……え、えと、すみません、じゃなくて! んと、その」


 振り向いたまま、吉乃は立ち止まってしまった。

 そんな彼女の前に立って、眼鏡めがねの奥の星空を見下ろす。

 じっと見上げる吉乃の双眸そうぼうが、月明かりの中で無数の輝きを閉じ込めていた。そして、その中に正重は自分の顔が映っているのが見える気がした。


「こういう時は、ありがとう、とか……まあ、恐縮しないでくださいよ。その……吉乃さん、何も悪くないから。だから」

「あ、ああ! そ、そうですね……えっと、ありがとうございます、正重さん」

「そうそう、それそれ。どういたしまして、って……吉乃さん!?」


 不意に、自分を見詰める吉乃のひとみから、光のしずくこぼれた。

 ほんのり薔薇色ばらいろに上気した彼女のほおを、一筋の涙が伝う。

 それがあまりにも突然で、綺麗で……正重は驚きながらも目が離せなかった。


「……ありがとうございます、正重さん。こんなこと、初めてで……私、ズルして逃げてきたのに。今も、ズルいのに」

「えっと、それ違いますよ。なんていうか、よくわからないですけど……ブラック企業ってやつじゃないですか? いくら一流企業だって、そんなにこき使われれば立派なブラック企業ですよ」

「でも、みんなはちゃんとできてて」

「吉乃さんが作業を引き受けてたから、なんとか成り立ってただけですよ。きっとそうだ」

「でも……私、逃げてしまって」


 吉乃は手の甲で涙を拭って、無理に笑おうとする。

 そんな彼女の口から、意外な言葉が零れ出た。


「私、会社から逃げちゃったんです。システムがある程度形になった時だったので、残りは引き継いでもらえたみたいですけど……ズルいんですよ? 私って」

「……そんな、ことないですよ」

「すぐ、入院になりました。身体もだけど、気持ちが……心が病んでしまって」


 吉乃は一度眼鏡を取ると、ゴシゴシとまぶたをこすった。

 そして、再び眼鏡をかけ直して微笑ほほえむ。


「うつ病、だったんです。一年間、入院してて……その間、色々資格の勉強したりして」

「あ、ああ……それで、薬」

「はい。きっとズルしたから、バチが当たったんだな、って」


 よく、うつ病を『』などと言うらしい。

 だが、以前スマートフォンでニュースサイトを見て正重は知っていた。

 うつ病は、風邪かぜなどという生易なまやさしいものではない。強いて言うなら、『』だ。絶対に完治せず、薬で抑えても再発の可能性が消えない。

 そして、もう二度と元の心身には戻らない。

 一生、うつ病を抱えて生きるしかない。

 吉乃がそんな身の上だとは、思ってもみなかった。

 ただ、彼女の不思議な魅力に浮かれ、はしゃいでいたことが正重は恥ずかしかった。


「吉乃さんは……ズルなんかしてないですよ」

「……そうでしょうか」

「そうですよ! ズルってのは、本当に卑怯で卑劣なことは……」


 つい、声を荒げてしまった。

 自分の中に沈めておいた、あの日のことがよみがえる。


「本当にズルいのは……自分のために、仲間へうそくことだ! 俺は……ずっと、肩の痛みに気付いていた。でも、投げたかった! 一分でも、一秒でも長く……投げたかった!」

「正重さん……」

「マウンドを降りたくなかった。三年の夏、一度降りれば次はない……肩は少し痛いだけなんだ、そう思って、黙ってた! ……結果、俺は……取り返しのつかない、ことを」


 言葉が溢れて、とめどなく零れ落ちる。

 そして、吉乃は何も言ってはくれなかった。

 ただ、黙って抱き締めてくれた。


「ズルいことはいけないって……そう、正重さんは言ってました」

「……世の中、要領よくやってる奴もいる。嘘も方便ほうべんって奴だって」

「でも、正重さんはそうじゃない。だから、こんなに苦しいのに、私の話を受け止めてくれました」


 背をポンポンと、優しく吉乃が叩いてくれる。

 自分より頭ひとつ程小さな、華奢きゃしゃ痩身そうしんからぬくもりが伝わってきた。

 涙を零すまいと、ついつい正重は上を向いてしまう。

 街灯がいとうから街灯への、ちょうど狭間はざまのような暗がりに、そうして二人は立ち尽くしていた。


「正重さん、私……必ずこの街に帰ってきます。三日か、一週間くらいで。なるべく早く、帰ってきますから」

「……さっき、デスマーチっての話してくれましたよね? 俺……徹夜続きの吉乃さんとか、見たくないですから。だから」

「ありがとうございます。ちゃんと片付けて、帰ってきます。それと」


 強く強く、吉乃はギュッと抱き締めてくれた。

 そして、弾かれたように離れる。

 街灯のスポットライトへと躍り出た彼女が、闇の中に朧月おぼろづきのように浮かび上がった。


「それと、正重さんはズルくないです! あと……女はもっと、ズルいですよ?」

「……そう、なのかな?」

「はいっ! ……今日はありがとうございました。これ以上一緒にいたら、私……だから、帰りますね。明日、朝イチで東京に行きます。バグ、やっつけちゃいますから」


 無理に微笑む吉乃に、正重もなんとか笑みを返すことができた。

 月と星とに見守られて、こうして二人は再会するために別れたのだった。

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