第20話「またね、の約束」
東北の春はまだ、四月でも寒い。
だが、そんな夜気が
それは、目の前を歩く
その吉乃は、少し前を少しフラフラと歩いている。
「正重さん、今日はありがとうございました。その、すみません……お酒、飲めないのに」
「いや、別に……その分、吉乃さんが飲んだじゃないですか」
「そ、そうですね! 少し飲み過ぎてしまったかもしれません」
振り向く吉乃が、笑っている。
彼女の優雅な動きに、長い長い三つ編みが尻尾のように
今日は、彼女と沢山のことを話した。
二年前、就職したての吉乃を襲った苦難と、その中での彼女の奮戦を知った。そしてそれは、なるほど吉乃らしいなと思わざるをえない、不器用で誠実過ぎて、
孤独な戦いが、一年で彼女を壊してしまったのだ。
「正重さん、じゃあ……私、明日東京に行ってきます。なるべく早く戻るつもりですが」
「ああ、うん。気にしなくていいから、納得いく形でやってもらえると、嬉しいってゆーか」
「何からなにまで、すみません……本当に、ごめんなさい。なんか、甘えてしまって」
「あー、そういえば。以前から思ってたんですけど」
だから、少し吉乃との温度差があるかもしれない。
でも、酒を飲んでなくても、どこかほろ酔いのような高揚感に肌が熱い。
これがもしかして、人に
そうだと断じるには、あまりにも正重は色恋を知らなかった。
だが、はっきりわかってることはいくつもある。
「吉乃さん、その……すみません、ごめんなさいっての、多過ぎますよ」
「あっ! そ、そうかも、です……ごめんなさい」
「ほら、また」
「んっ! ……え、えと、すみません、じゃなくて! んと、その」
振り向いたまま、吉乃は立ち止まってしまった。
そんな彼女の前に立って、
じっと見上げる吉乃の
「こういう時は、ありがとう、とか……まあ、恐縮しないでくださいよ。その……吉乃さん、何も悪くないから。だから」
「あ、ああ! そ、そうですね……えっと、ありがとうございます、正重さん」
「そうそう、それそれ。どういたしまして、って……吉乃さん!?」
不意に、自分を見詰める吉乃の
ほんのり
それがあまりにも突然で、綺麗で……正重は驚きながらも目が離せなかった。
「……ありがとうございます、正重さん。こんなこと、初めてで……私、ズルして逃げてきたのに。今も、ズルいのに」
「えっと、それ違いますよ。なんていうか、よくわからないですけど……ブラック企業ってやつじゃないですか? いくら一流企業だって、そんなにこき使われれば立派なブラック企業ですよ」
「でも、みんなはちゃんとできてて」
「吉乃さんが作業を引き受けてたから、なんとか成り立ってただけですよ。きっとそうだ」
「でも……私、逃げてしまって」
吉乃は手の甲で涙を拭って、無理に笑おうとする。
そんな彼女の口から、意外な言葉が零れ出た。
「私、会社から逃げちゃったんです。システムがある程度形になった時だったので、残りは引き継いでもらえたみたいですけど……ズルいんですよ? 私って」
「……そんな、ことないですよ」
「すぐ、入院になりました。身体もだけど、気持ちが……心が病んでしまって」
吉乃は一度眼鏡を取ると、ゴシゴシと
そして、再び眼鏡をかけ直して
「うつ病、だったんです。一年間、入院してて……その間、色々資格の勉強したりして」
「あ、ああ……それで、薬」
「はい。きっとズルしたから、バチが当たったんだな、って」
よく、うつ病を『心が風邪を引く』などと言うらしい。
だが、以前スマートフォンでニュースサイトを見て正重は知っていた。
うつ病は、
そして、もう二度と元の心身には戻らない。
一生、うつ病を抱えて生きるしかない。
吉乃がそんな身の上だとは、思ってもみなかった。
ただ、彼女の不思議な魅力に浮かれ、はしゃいでいたことが正重は恥ずかしかった。
「吉乃さんは……ズルなんかしてないですよ」
「……そうでしょうか」
「そうですよ! ズルってのは、本当に卑怯で卑劣なことは……」
つい、声を荒げてしまった。
自分の中に沈めておいた、あの日のことが
「本当にズルいのは……自分のために、仲間へ
「正重さん……」
「マウンドを降りたくなかった。三年の夏、一度降りれば次はない……肩は少し痛いだけなんだ、そう思って、黙ってた! ……結果、俺は……取り返しのつかない、ことを」
言葉が溢れて、とめどなく零れ落ちる。
そして、吉乃は何も言ってはくれなかった。
ただ、黙って抱き締めてくれた。
「ズルいことはいけないって……そう、正重さんは言ってました」
「……世の中、要領よくやってる奴もいる。嘘も
「でも、正重さんはそうじゃない。だから、こんなに苦しいのに、私の話を受け止めてくれました」
背をポンポンと、優しく吉乃が叩いてくれる。
自分より頭ひとつ程小さな、
涙を零すまいと、ついつい正重は上を向いてしまう。
「正重さん、私……必ずこの街に帰ってきます。三日か、一週間くらいで。なるべく早く、帰ってきますから」
「……さっき、デスマーチっての話してくれましたよね? 俺……徹夜続きの吉乃さんとか、見たくないですから。だから」
「ありがとうございます。ちゃんと片付けて、帰ってきます。それと」
強く強く、吉乃はギュッと抱き締めてくれた。
そして、弾かれたように離れる。
街灯のスポットライトへと躍り出た彼女が、闇の中に
「それと、正重さんはズルくないです! あと……女はもっと、ズルいですよ?」
「……そう、なのかな?」
「はいっ! ……今日はありがとうございました。これ以上一緒にいたら、私……だから、帰りますね。明日、朝イチで東京に行きます。バグ、やっつけちゃいますから」
無理に微笑む吉乃に、正重もなんとか笑みを返すことができた。
月と星とに見守られて、こうして二人は再会するために別れたのだった。
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