プラス

矢島好喜

第1話 価値

 突然ですが、「死のう」と思ったことはありますか?

 人が人として生きていく以上、辛いこと、苦しいこと、たくさんたくさんあると思います。

 衝動的に、刹那的に、そう考える人は、きっと少なくないでしょう。

 でも、そうじゃなくて、もっと根本的に。


 私なんて、いらないんじゃない? って。そう、そんな風に。



「いや、でもさぁ、失敗するんじゃない? 雪絵ゆきえんちのお父さん、絶対どっかで噂聞きつけるでしょ。中学の時だってさぁ……」

 金曜日の放課後、特に部活動にも入っていない女子高生三人組は、遠くに聞こえる校庭の野球部の声をBGM代わりに、まだ入学して三ヶ月しか経っていないにも関わらず、自分たちの教室をまるで自分たち専用の領域であるかのように占領して、他愛もないことを喋っていた。

「高校生にもなって、彼氏と出かけるだけのことに、何故こんなに苦労せにゃならんのだか」

「……ご愁傷しゅうしょう様」

 私は何不自由なく、とまで言えば大げさだけれど、誕生日、クリスマス、お正月などの行事のたびにお小遣いが貰える程度には裕福な家庭で育った。少しだけ違いがあるとすれば、その全てが現金であったことくらいかな。夏目漱石から福沢諭吉まで。漢字すらまともに書けない段階で著名人の顔と名前を目にする機会があったのは、教育的にも恵まれていたと言えなくもない。が、周りの友達が一日百円の小遣いをもらって、その日は何を買おうかと頭を悩ませている傍らで、「絶対に使わないで我慢しなさい」と言われた千円札をピンクの可愛らしい財布に忍ばせて、友達の買い物を指をくわえて見ているだけだった私の幼少期は、今思えば恵まれていたとはお世辞にも言えまい。

 父は厳格だった。母は温和で優しい人だった。って表現するとなんだか過去の人みたいだが、二人とも健在だ。私の知る限りでは、大病を患ったこともない。家に帰れば母の手料理があり、連休には家族で行楽こうらくなどに出かける。5つ年上の兄は大学生になった時に家を出て一人暮らしを始めた。これでようやく隣室との騒音戦争も終わりかと胸を撫で下ろす反面、妙に寂しい気分にもなり、気まぐれで連絡を取り始めたせいで、今ではひとつ屋根の下に住んでいた頃にはケンカという名のののしり合いばかりしていた兄妹というのがまるで嘘であるかのように、同級生に話せないことまで相談する良き友人関係を築いている。若干、人見知りがちな私に対して、デリカシーのない、ずけずけとモノを言う兄の性格は、その人見知りの内側に入ってしまえば、存外ぞんがい心地いいものだった。ま、そんな性格だから彼女が出来てもすぐ地雷踏んでフラれるんだけどなアンタは。

 兎にも角にも平凡な家庭で育った私は、これまた凡庸ぼんような人間だった。成績は中の上。運動は嫌いではあったが、出来ないわけじゃなかった。ただ、『出来ないわけじゃない』程度。身長は高い方かな。でもモデルばりに高いとか、スポーツやってる子たち並に引き締まってるなんてことはない。良くも悪くも普通の体型。髪型は割とコロコロ変えてきた。自分の嗜好としてはなるべく短髪で過ごしたいところなのだが、今の彼氏の趣味で、トップでお団子にまとめている。そこまで髪にこだわりのない私としては相手に喜ばれるのが一番だと考えているので、この髪型にさほど抵抗があるわけではないが(面倒ではあるけど)、そうは言ってもそこそこ長身の私なので、あまり似合ってないんだろうな、とは思っている。もし今後付き合う相手を変えるのならば、ロリは避けよう、絶対に。

 洋服とか、芸能人とか、キャラクターとか、和菓子とか、その時々で好きだったりハマったりしていたものはあった気がするけど、どれも私の中には残っていない。門限やら服装やらにうるさい父親の行き過ぎた厳格さは、肉体的にも精神的にも私を傷つけ、時には憎悪さえ抱かせたが(それで数少ない友達を失ったこともあった)、怒られた後、必ず慰めてくれる母親と、3回に1回くらいは止めに入って代わりに殴られてくれる兄のおかげで、そこまで父親や家族が嫌になることもなかった。

「ま、そういうわけで、悪いけどさき、今度の土曜、咲と出かけたってことにしといて。お願い!」

 私、神崎雪絵かんざきゆきえと、今宮咲いまみやさきは中学の頃からの同級生だ。活発で人当たりが良く、好奇心旺盛な咲は、中学時代、私が授業など一切聞かずに、一心不乱にノートに落書きをし続けていたのに目をつけた。最初は恥ずかしくて、ノート、およびその中に潜む私の享楽きょうらくを絶対見せるまいと奮闘していたが、放課後、私の後を尾行して無理やり家に上がり込み、あまつさえ晩ごはんまで一緒に食べて、両親や兄を懐柔かいじゅうするという作戦に出た咲を止める術など私は持っていなかった。ノートに何を書いているかまでは知らないにしても、授業と関係ないことを書いていることをこの女は知っている。それを家族に暴露されれば、当然私には父親の鉄拳制裁が待っている。今思えば、咲はそこまで考えて行動したわけでもなかろうが、結果、私は級友にその内容を露見することになり、それをきっかけとして心の内側にも入り込まれた。これで天然だと言うのだから、タチが悪い。

「しょーがないなぁ。あ、でもあれだよ? 一応口裏はちゃんと合わせるけど、もしバレたらあたし、全部喋っちゃうからね? 雪絵のお父さんに叩かれるのだけは絶対ご勘弁」

「いやいや、流石にあの人も人様の娘に手を出したりはしないよ。アレは私だけ」

 中学の時、テスト休みに咲と出かけて門限を破ったことがあった。「ただいま」と玄関を開けた瞬間、私一人だと思っていたのだろう、父は玄関先で私の左頬をアザが残るくらいの強さで殴った。後ろにいた咲がそれを見てどう感じたかはお察しの通り。

「でもさぁ、そういうのって『虐待ぎゃくたい』とかってことになんないの? いくら実の娘でも顔面グーパンする父親なんて、雪絵のお父さんくらいしか知らないんだけど、あたし」

「まぁ、さすがに理由もなく殴られたりすることはないし、一旦殴られて怒られれば、後からウダウダ蒸し返されることもないし、これはこれで『しつけ』の範囲でいいんじゃないかなって私は思ってるけど」

 それでも娘に対して顔はやめろよって言いたくはなるけどね。

「……可哀想」

 つぶやくようにそう言いながら、千秋ちあきが私の頬にそっと手を触れる。

「大丈夫だって。『あの一週間』に比べりゃ全然へーきへーき」

「……うん。ありがとう、ね」

「もう! 千秋はそんなの気にしなくていいの。あたしたち、友だちでしょ?」

「……そうだね」

 そう。私たちは、友だちだ。


 速水千秋はやみちあきは高校に入ってからの新しい友だちだ。

 新しいクラスで、咲は相も変わらず積極的にコミュニティを広げていく。対照的に、私は持って生まれた人見知りの才能を遺憾なく発揮し、『対友人バリア』と咲が呼んでいる、相手の目を見ない完璧な作り笑いで、新しい人間関係を作るのを拒んでいた。

 一ヶ月もすれば、クラスの中でもある程度のまとまった単位であるグループがあちこちに形成される。私は咲のそばにいるせいで、その中でも一番大きな6人の女子のグループにいた。話している内容が全く面白くないので、私はいつも通り愛想笑いで聞いているフリだけを続けていたが、ふと6人の中でもう一人、自分と同じような態度をとっているの女子を見つけた。お察しの通り、それが千秋だったわけだが、私と千秋との決定的な違いは、私はグループの面々と仲良くなりたくないからこの態度をとっているのに対して、千秋は周りに嫌われたくない、という強い思いの一点から、その態度をとらされていた。

 私が器用で、千秋が不器用、ということでもなかったと思う。背格好こそ大きく異なる私と千秋だったが、とっていた態度に身長ほどの違いはなかった。なのに、6人の中にいた、やたらとリーダーシップを発揮したがる天海あまみという女子は、千秋の態度『だけ』が気に入らなかったらしい。私に矛先が向かなかったのは、やはり咲の存在が大きかったのだろうと考えていたが、実は後から聞くと、どうやら天海の意中の男子、サッカー部の園部そのべが千秋に告白してフラれたというのが本当の原因だったそうだ。

 ともかく、それから千秋はグループ内でイジメられる存在になった。昼休みに千秋の席だけ座る場所がなかったり、移動教室の時に私と咲、残りの3人が固まって移動するせいで千秋だけ置いてけぼりにされたり。とは言え、天海はそれら全てにおいて偶然を装っていたため、咲はそれが『イジメであること』に気づかなかったようだ。「あー、ごめんね、気付かなかった」「うん……気にしないで」これだけのやり取りで仲直りしたもんだと思っていたらしい。このど天然ポジティブ思考め。

 私はというと、全く違った方向で怒りを覚えていた。何故自分と同じスタンスをとっている人間が、こんなやつらに馬鹿にされなきゃならないんだ。まるで私が馬鹿にされてるみたいじゃないか、とかそんな感じに。

 スタートで違った方向を向いた私の怒りの矛先は、方向転換という器用さを持ちあわせていなかった。イジメが始まってから一週間くらいが経ったある日、千秋が体操服を忘れて「どうしよう……」と呟いたのを明らかに聞いていた天海たちがシカトした瞬間に、

「サボっちゃおっか?」

「え?」

「何言ってんの? 雪絵」

「いいからいいから、ほら、咲も、行くよ」

「え、ちょ、ちょっと待ってって! あたしまだ着替えてる途中……」

 キレた。

「いい加減にしろ! コソコソネチネチうぜーんだよ。気に入らねえんだったらハッキリそう言えよ!!」

 教室を出る前に振り返ってそう言い放った瞬間。

 私たち6人だけじゃなく、その教室にいた全員が固まった。

 天海ですら、私の口からそんな暴言が飛び出すことは想定外だったらしく、呆然とこちらを見つめたまま、何も口にしなかった。

 いや、その実発言した私も、自分がこんなことを言うとは思いもしなかった。人見知りで他人とまともにケンカすらしなかった私にそんな言葉の持ちあわせがあったのは、他ならぬ兄のおかげだろう。いや、ここは兄のせいと言うべきか。

 そのまま、私たちは静まり返った教室をそそくさと出て行った。


「いやー、まさか雪絵の口からあんな暴言が飛び出すなんてねぇ」

「困ったな。あんなこと言うつもり、なかったんだけどな」

「……でも、カッコ良かった、です」

 制服姿の私と千秋、体操服姿の咲の三人で、体育館裏の破れた金網からこっそり学校を抜け出し、近所のお好み焼き屋でお好み焼きを食べた。私は怒りを覚えるとお腹が空くという変な体質をしているせいで、昼休みが終わったばかりの5時限目前に学校を抜けだしたにも関わらず、お好み焼きを一人前ぺろりと平らげた。咲はさすがに全部は食べられない、と言っていたが、千秋がお昼を食べていなかったので二人で半分こしていた。お好み焼き屋のおばちゃんには、どーしてもここのお好み焼きが食べたくなって学校を抜けだした! と言い訳をした。おばちゃんもそう言われて悪い気はしなかったらしく、軽く窘められはしたものの、学校に通報はされずに済んだ。

「ま、なるようになるさ」

「そーだね」

「……はい」

 これで終わっていれば、一件落着、メデタシメデタシ。だったのだが。


「おはよう、千秋」

「…………」

 翌日、私は腹痛で一時限目を休んだ。別に前日の食べ過ぎが原因ってことじゃない。ちょっといつもより重かったのだ。

 さすがにうちの父親もそれについては多少の理解はあるようだが、そうは言ってもやはり男親、この辛さまでは伝わっていないようで、丸一日休むなんてことになった日には不真面目の烙印を押され、下手をすると鉄拳制裁が待っていよう。私は貧血気味でフラフラしながらも学校に行かざるを得なかった。

「ん?」

「…………」

 休み時間に教室に着いて、千秋に話しかけたところ、反応がない。咲は風邪で休みらしかった。周囲を見回してみると、天海たちが一瞬こちらに嫌らしい笑みを向けているのを見て、私は何か違う種類の嫌がらせが始まったのだと知った。

 とりあえず休み時間は終わってしまったので、平然と授業を受ける……フリをして、千秋に「何かされた?」とだけ書いた手紙を書いて回した。私の左斜め前の千秋は、手紙を受け取って開き、少しの間その手紙を見つめた後、周囲の目を気にするようにして、

「え」

 その手紙をまるで書き損じのようにクシャクシャと丸めてブレザーのポケットに突っ込んだ。私は自分の目を疑ったが、何度瞬きを繰り返そうが、目の前で起こった現実は変わらなかった。

 そして授業終了のチャイムが鳴った後、

「…………」

 千秋は食い入るように見つめる私の視線を無視して私の横を通り過ぎ、教室の後ろにあったゴミ箱に私の手紙を投げ入れた。

 その日、天海たちと一緒に昼ごはんを食べる千秋を見て、私は自分の置かれた状況を把握した。

 悲しい、切ないといった感情は一切なかった。ただただ、憤りを覚えた。無論、それは天海たちに対してではない。

 そこから、私は天海たちによるイジメのターゲットになった。千秋の時と違っていたのは、私は元々人付き合いを嫌うタイプなので、『シカト』は私にとって何のダメージにもならないこと。そして、天海もそれを知っていることだった。

 身の回りのものがなくなり始め、体操服を雑巾汁につけられ、悪評……というか、妙な噂を流された。一回り上のオジサンと付き合ってるだの、頼まれれば誰にでもヤらせる、だの。咲は真っ向から否定し、私をかばおうとしてくれたが、私は逆にそれはしないでくれと頼んだ。恐らく火に油だから、と。

 相手にするからつけあがるのだ。放っておけばいつか飽きる。そう思って、私はそれこそ何ヶ月でも耐える気でいた。もちろん腹は立つが、直接やりあって、大事おおごとにされて、喧嘩両成敗になるのが一番嫌だった。

 悪いのは、とがめられるべきは、あいつらだ。私は悪くなんかない。やつらにとって一番辛いのは、こっちが耐え切った後、何もない日常に戻った後、言いようのない虚しさを感じることだろうと思った。そういう仕返しをしてやると決めたのだ。

 だが、思いの外早いタイミングで、救いの手は差し伸べられた。


「あの……神崎さん」

「ん?」

 一週間が経った。上履きを『失くした』私が放課後、来客用のスリッパでパタパタと音を立てながら下駄箱へ向かっていると、渡り廊下で呼び止められた。振り返ってみると、そこにいたのは天海の腰巾着AとB(私はそう呼んでいた)だった。

「何か用?」

「どうして……どうして何も言わないの?」

 うつむきがちにそう言う彼女たちの顔を、見下ろすようにして私は言った。

「くだらないから。アンタたちみたいに、後悔したくない」

「…………」

 二人揃って黙りこんでしまったので、私は無視してそのまま帰路へつこうとする。

「もう……嫌なの!」

 絞り出したような声が背中越しに聞こえて振り返る。さすがに私も振り返らざるを得なかった。

塔子とうこが……言うこと聞かないなら次はアンタたちだって……」

「こ、高校入ったばかりで、ハブられるのなんか絶対嫌で……」

 情けない、とは思ったが、別に腹は立たなかった。世の中は、なんて偉そうに言える身ではないけれど、敢えて15歳の女子高生なりの意見として言わせてもらえるなら、『世の中はこんなもんなんだろうな』とそう思った。

 以前読んだ本の受け売りではあるが、人間誰しもいじめられた記憶を持っている。力の弱い子は強い子に、強い子は頭の良い子に、頭の良い子は大人に、大人は社会に、社会は国に、国は世界に。イジメる側に回るのはイジメられる側にされたくないから。言い方を変えると、捕食される側にはなりたくないから。それは最早生物としての本能である、と。

「でも、神崎さんを見てたら、なんか私たちの方が耐えられなくって」

「……まぁ、わかるよ」

 罪悪感ってやつだろう。私は連日イジメを受けながらも、常にこいつらには目で訴えかけてきた。

 悪いのは、お前らだ。

 後悔するのは、お前らだ。

「で? どうするの?」

「もうやめようと思って。塔子にはついていけないから」

「ごめんなさい。今までのこと、本当にごめんなさい」

 深々と頭を下げる二人に対して、調子いいなこいつら、と思った私は相当にひねくれているんだろうけれど、嫌がらせはともかく、いい加減、ものを失くされて買い直すことには辟易していたので、形の上での和解を受け入れることにする。

「わかった。やめてくれるなら、こっちも助かるから」

「うん……」

 そんな私の態度から、完全に納得はしていないことを感じ取ったのだろう。その後、途中まで一緒に下校する間、彼女たちの私への態度はまるで腫れ物に触るかのようだった。ただ、私は私で、ここにいないもう一人のことを考えていて、完全に上の空だった。


 2人が謝罪に来た翌日から、私たち6人は2人ずつの3グループに分かれた。私と咲。AとB。天海と千秋。さすがにあの2人も、天海と決別するからじゃあこっちに、などとは考えなかったようだ。彼女らにしてみれば、天海といるのと同じくらい、私といるのも気を遣うだろうし。

「千秋、大丈夫かな?」

「ん?」

 私は咲と2人で帰り道を歩いていた。

「大丈夫も何も、アレがあの子の選んだ道でしょ?」

「かーっ、この冷血女。ってか、最初に千秋がイジメられてた時にキレたの雪絵じゃん」

「別に私はあの子に同情したわけじゃないの」

 そう、決して千秋に同情したわけではなかった。ただ、なんだか無性に腹が立った。だから後先考えず暴言を放った。

「たぶんさぁ。千秋は何か塔子に弱みを握られてるんだよ」

「はいはい。そうやって何でもドラマ仕立てにしない」

 そんなものなくても、あの子の場合、「また仲間はずれにされたくないでしょ?」の一言で済むだろう。

「でもさぁ、あたしらガッコサボって一緒にお好み焼き食べたじゃん? あの時以来、見てないんだよね」

「何を?」

「笑ってるトコ」

「…………」

 だから、罪悪感にさいなまれてるって感じなんでしょ。例のごとく。

「そっか」

「なに? どったの?」

「いや、何でも……」

 今気づいた。私が腹を立てたのは千秋に対してではあるが、どうも具体的な理由がぼんやりしていたのだ。

 あの「私被害者です」って表情。

 あれが気に入らなかったんだ、ずっと。

 『私たち』は可哀想な被害者なんかじゃない、敢えてその道を選んでるんだ。そう言いたかったから、だから私は、

「……なんだ。解決してないじゃん」

「なんかわからんけど、またなんかするなら今度は手伝うよ!」

 もう一回、キレてもいいかなと思った。


 家庭科の授業があった。メニューを班ごとに決めての調理。私はほとんど包丁を握ったこともないし、あまり器用ではないので、オムライスという比較的簡単なメニューにしてもらって助かった。玉ねぎを切らされたせいでボロボロ泣かされたが。普段泣いたところなんて見せない私がボロボロ涙を流しているのが相当おもしろかったのか、咲がお腹を抱えて大声で笑ったせいで、私は級友全員にその醜態を晒すことになった。

 心の中で、彼女を何らかの形で絶対復讐するリストに追加し、私は玉ねぎのみじん切りを終える。後工程は男子に任せて、千秋の方へ目をやった。

 彼女の班はコンビーフでピカタを作っているようだった。実はこれも調理は簡単らしいが、料理が苦手な母親を持つ私としては、食卓にピカタなる料理が並んだことなどなく、凝ったものを作るんだなぁと変に感心していた。

「いたっ!」

「ん?」

「大丈夫? ……血出てるじゃん!」

 てっきり包丁で手でも切ったのかと思いきや、コンビーフの缶を開けている最中に、千秋は開いた缶の切れ端で手を切ってしまったようだった。当然、包丁ほどの切れ味はなく、血が出てると言っても大したことはなさそうだった。ただ、雑菌が入る可能性があるから、一応保健室に行きなさいと先生に言われ、千秋が調理室を出て行く。

「せんせー! 千秋が心配なんで、着いてっていいですか? あ、あと雪絵も玉ねぎにやられて涙が止まらないみたいなんで一緒に!!」

 オイコラ。人をダシに使うなこのど天然。

 咲の発言に皆が笑い、雰囲気が柔らかくなったせいか、先生は私たち2人が教室を出ることを許可してくれた。

「明日からの私のクラスでの立ち位置を返せ」

「いーじゃん。無理に愛想笑い浮かべてるよりきっと楽しくなるよ」

「ったくもう……って、あれ?」

 慌てて出て行ったせいか、そこまで出血していたわけではないはずの千秋の血が廊下に点々と落ちていた。ただ、私たちが驚いたのは、調理室は一階、保健室も一階、渡り廊下を挟んで反対側の校舎にあるから多少遠くはあるが、それでも、

「なんで階段登ってんだろ?」

「さぁ……?」

 血の跡が階段を登っていくのはいささか不自然だったからである。


「ごめん……なさい」

 血の跡は屋上まで続いていた。私たちが扉を開くと、どんより曇って景観も悪く、風も強い屋上の隅に彼女は座り込んでいた。

「と、とりあえず、保健室に行ってさ、しょうどく……」

「謝るくらいなら最初からしなきゃいいのに。そんなに一人が嫌なの?」

 なんだかもう止まらなかった。表情もそうだけど、それ以上に、

「なんでこんなところに来てるの? 悲劇のヒロインにでもなったつもり? 天罰だなんて思った? 自分が不器用で勝手に怪我しただけなのに?」

 自己陶酔するようなやつは一番嫌いだった。

「……そういう、わけじゃ」

「ま、まぁまぁ。雪絵は言い方キツいからあれだけどさ。ほんとは千秋のこと心配して…………」

「そういうわけじゃなかったらどういうわけ? なんであれだけのことされて天海と一緒にいられるの?」

「それ……は…………」

「あーもう! はっきりもの言えって!!」

「雪絵!!」

 私の名前を叫んだ咲がいつもの明るい表情ではなく、見たこともないような真剣な表情だったのを見て、ふと我に返った。

「一方的な押し付けはダメだよ。ちゃんと、話聞こうよ」

「……ごめん」

 でも、どうしてだろう。この子見てると、なんかイライラしちゃうんだよ。

「と、いうわけでっと。はいはい! ごめんねー。ちょっと痛むよー」

「っ!」

「咲アンタ……なんで消毒液持ってんのよ」

 気づくと、咲がポシェットから出した消毒液を千秋の手に吹きかけ、丁寧にハンカチで拭いた後、絆創膏を貼っていた。

「備えあれば憂いなし、ってね。ほら、あたしさー、なんだかんだ首突っ込んで、怪我することも少なくないから」

「それにしたって」

 準備良すぎだろ。

「あの……ありがとう…………ございます」

「いーのいーの。そんで? 千秋は一体どんな弱みを握られたんDAI!?」

「おい。だからそういうんじゃ……」

「わたし……何も、ないんです」

「へ? なにが?」

 つぶやくように千秋がそう言うと、咲がびっくりしたように聞き返す。

「勉強も、運動も……趣味だって、何もないし、今宮さんみたいに、明るくもないし、神崎さんみたいに、カッコ良くも……」

「いや、そんなのさ……」

「だから……誰かに必要とされるのは、嬉しいんです。例え相手が誰であっても。私なんて、いてもいなくても構わない存在、なのに。でも、だからって、せっかく、助けてもらって、仲良くなれそうだったのに、わたし、神崎さんに、ひどいこと……」

「私さ」

 話をぶった切って悪いが、このままおめおめ泣き言を聞かされるだけってのはごめんだ。咲が言うように、これが話し合いだと言うのなら、先に自分の言いたいことを言ってしまおう。そう思った。

「千秋のこと、嫌いだ」

「雪絵!」

「…………はい」

「シカトされたりさ、もの隠されたり、そういうのは正直あまり気にしてない。ま、失くしたもん返せよ、くらいは思ってるけどね。実は天海に対しても嫌い、とか腹立つ、なんて一切思ってないんだ。どうでもいいから」

 好きの反対は無関心だとはよく言ったもんだ。

「…………はい」

 私はそこで伏せたままの千秋の顔を、座り込んで体を右に傾け、下から覗き込むようにして

無理やり目を合わせた。

「けど、アンタのことは『嫌い』。ハッキリもの言わないことが嫌い。周りに流されちゃう弱さが嫌い。周りに対する憧れを語っているようで、その実僻んで妬んでるだけのとこが嫌い」

「…………」

「なにより、自分がいてもいなくても構わない、なんて思ってるところがサイッコーに嫌い」

「……ごめん、なさい」

 何の事はない。私が嫌いなのは、腹を立てて暴言を吐いた相手は、自分だったのだ。

 過去の自分。

 今宮咲と出会う前の神崎雪絵。

 咲とのきっかけは前述の通りだが、実は咲が無理やり家に押し入ってきた時、私が咲に言った言葉がある。

「『私なんてさ、いてもいなくても変わんないだろ。だからもう、ほっといてくれよ』」

「……言葉をなぞるのは百歩譲ってよしとしよう。声色まで真似ようとすんな!」

 ったく、これでも恥ずかしいんだからな、結構ガチで。

「それって……」

「そそ。中学の時、雪絵があたしに言ったこと、そのまんま。結構似てない? 割と自信ある!」

「似てねぇよ」

 いや、自分じゃわかんないけどさ。

 私は千秋の顔を覗き込むのをやめて座り直す。千秋も顔をあげてこっちを向いた。

「アンタが……千秋がさ」

「はい……」

「私のこと……自分じゃ『何もない』って思ってる私のことをさ、格好良いとか、本気でそんな風に思ってくれてるんだとしたらさ」

「はい……」

「きっと、自分じゃ『何もない』って思ってる千秋のことを、何かしら、思ってくれる人は絶対いるさ。少なくともその人にとって、千秋は『いてもいなくてもいい人間』なんかじゃない」

「…………」

 そう。少なくとも、私にとっても、『嫌い』だって、ハッキリそう思える相手だったんだ。

 『どうでもいい』相手なんかじゃ、決してない。

「だよねぇ。だってさぁ? 考えてみたら、高校入ってまだ二ヶ月経ってなかったってのに、千秋って園部っちに告られたんでしょ? したらさぁ、あたしらより全然可愛いって思われてるじゃん! ってか、聞いていい? なんで断ったの?」

「そ、それは、その……まだ相手のこと、よく知らないし、見た目だけでそういうこと言われるのは、ちょっと、嫌かなって思って……」

「かーっ! 雪絵、千秋のこういうトコは私もキライ。何のモテアピールなんだよ。こちとら15年間、男子に告白されたことなんかありませんってーの!」

「いや、それは別に。私だって告られたことあるし、わかるよ? 見た目だけで判断されるのは私も嫌だし。ってか中学の時普通に彼氏いたし。知ってるじゃん」

「がーん! そういえばそうだった……。ちぇ。なんだよー。あたしだけかよちくしょー」

「あ、あはは……今宮さんは、その、か、活発って言うか、そういうことに興味なさそうだと思われるんじゃないかなぁ、なんて」

「なーに。あたしのことディスってんの?」

「い、いやいやいや! そ、そそ、そういうわけじゃなくてですね!」

「激しく同意。まず咲はその口を止めるところから始めた方が良さそうだもんね」

「ええい! モテる女はみんなあたしの敵だあぁぁ!!」

 急に立ち上がり、屋上から校庭に向かって咲が大声でそんなくだらないことを叫んだ結果。

 私たちは授業中に屋上でサボっていたことが先生にバレ、

 放課後、職員室で3人揃って担任の先生と生徒指導の先生にこっぴどく叱られ、

 辺りが暗くなって、ようやく開放された帰り道、

 友だちになろうって、笑い合えたんだ。

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プラス 矢島好喜 @kaito_blackcat

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