短編小説の練習
彩森いろは
忘れられない水
人は、水失くしては生きていけない。なぜ?
なぜなら、人の体の約60%が水分でできており、温度調節や体内の老廃物の排出など生きるために大切な役割を担っているからである。
そんな難しい話は今はどうでもいい。
でも確かに、生まれてこのかた水を飲まなかった日はなかっただろう。
1年前だって、昨日だって、そして明日だって人は生きる限り水を飲み続けるだろう。
果物や野菜の味をした水や、葉っぱや豆から作る水、さらには飲むだけで陽気になれる水だってある。
沢山の水を飲んできたが正直なところ、1年前の今日、10年前の今日にどんな水を飲んでいたかなんて覚えてはいない。
だけど私には忘れられない水がある。
夏の暑かった日、私はとある野球場で黒くて甘い炭酸水を売る仕事をしていた。一般的には売り子と呼ばれる仕事だ。
その日の試合は序盤から白熱し、観客もヒートアップして、喉がよく渇くのかその日はよく売れた。
序盤から点の取り合いの試合は、9回裏まで同点で進んだ。
点の取り合いの試合は、自然と贔屓球団の観客に一体感が生まれてくる。
点数が入る度にヒートアップして、陽気になれる水を沢山飲んだ観客は、9回裏のサヨナラを願って叫んでいる。
売り子の私も、その陽気な観客に呼ばれて黒くて甘い炭酸水を缶から紙コップへ移し渡す。
投手が1球、また1球と投げる間に、陽気な観客達は喉が渇くのか次々に黒くて甘い炭酸水を買うため私を呼ぶ。
手元に20本あった黒くて甘い炭酸水の缶があと3本に迫ろうとしていた時、一際大きな音が球場に響いた。
木製のバットが何かを弾き飛ばす音。
グラウンドに背中を向けて、黒くて甘い炭酸水を紙コップに注いでいた私の横の観客が立ち上がる。その横の観客も、またその横の観客も。
高く上がったボールは弧を描いて反対側の柵を越える。
観客は各々に叫び、球場が少し揺れた気がした。
サヨナラホームランだ。
喜びに跳び跳ねる観客。
隣の客と、後ろの客とハイタッチする観客。
私に黒くて甘い炭酸水を注文した陽気な観客も、一緒に来たのであろう観客達とハイタッチし叫んでいる。
喜び終わるまで紙コップは渡せない。こぼしでもしたら大変だ。
試合の終わり。
つまり私の仕事の終わりの時間でもある。
手元の腕時計を確認すると、試合開始からすでに4時間半近く経っていた。
ホームランを放った選手がホームに帰ってくると、もう一度歓声が球場に響いた。
観客たちが各々席に座り、ヒーローインタビューを待つ。
私に黒くて甘い炭酸水を注文した陽気な観客も席に着き、私から紙コップを受け取る。
その時、陽気な観客は私に向かって、
「兄ちゃん。もう1本!」
興奮冷めやらぬ声でそう告げる。
笑顔でそれに応じ、紙コップに黒くて甘い炭酸水を移す。
お金を受け取り、紙コップを渡そうとすると陽気な観客は、
「これは俺から兄ちゃんへのおごりや。お疲れさん!」
そういって肩をポンポンと叩かれる。
あっけにとられていたが、ベンチからホームランを放った選手がヒーローインタビューのために出てくると観客達は再び総立ちになって叫ぶ。
陽気な観客も、選手の方を向いて叫んでいたので、小さな声で感謝を伝えその場を離れる。
そのまま、観客が入っていない座席の方に移動し、遠くからヒーロー選手に湧く球場を見渡す。
いつもと何ら変わりない職場だ。
ホームチームが勝つ日だってあるし、負ける日だってある。
だけどいつもと違うのは、手に紙コップを持っているということ。
その時飲んだ黒くて甘い炭酸水の味は未だに忘れることがない。
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