龍槍の少女

@genmaicha

第1話

 深い森に囲まれた静かな泉のほとりで一頭のオスの鹿が水を飲んでいた。降り注ぐ真昼の太陽の光が鬱蒼と繁った木々の枝葉に切り取られ、天に向かって両手を掲げたような立派な角に点々と輝く模様をつくっている。


 その対岸の背の高い葦の茂みに身を隠している一人の少女がいた。まるで肉食の獣が獲物を狙うときにそうするように、身を低く構え微動だにせずじっと牡鹿の様子を窺っている。日の光をところどころ銀色に反射する艶やかな白い髪の一房が、火のように紅い眼にはらりと垂れてきたが払いのけようともしない。


 やがて少女は音を立てないように慎重に左手に構えた弓に、背中の矢筒から一本矢を抜き取りそっと弦に番えた。鹿に気付かれないようにゆっくり弦を引き絞り狙いを定める。


 少女の心を静寂が支配していた。


 どこか遠くで鳴いている森の鳥のさえずりも、通り抜けていく風が木の枝や草むら揺すってざわめかせる音も、少女の耳には入ってこない。


 短く薄い吐息が唇の隙間から漏れた。


 鹿が風の中に何か不穏なものを感じ取ったのか、頭をもたげて周囲を見渡し臭いを嗅ぐように鼻を天に向ける。


 瞬間、少女の右手から放たれた矢がびゅっと風を切り裂きながら飛んだ。矢は真っ直ぐ美しい軌跡をえがきながら、過たず牡鹿の眼の少し後ろを射抜いた。

 

 鋭い濁声をあげて牡鹿が昏倒する。


 少女は茂みから飛び出し、矢を受けて昏倒した鹿に急いで駆け寄る。そして腰に下げた山刀を抜いて、まだもがくように脚が動いている鹿の胸に突き立てた。二、三度全身を痙攣させると、そのまま鹿は動かなくなった。


「やったぁ!」


 少女シェン・エルガは今日の狩りの成果に喜びの声をあげた。


 今朝は早くから狩りのためにホォグアンの里を出て、この鹿の足跡を見つけ追跡してきたのだ。飲まず食わずで森の中を歩いたので、喉はカラカラだし、足は棒のようだった。


 獲物を捌くまえに泉の水で喉の渇きを癒す。染み込むように全身に潤いが戻っていき、一息つくと水面から自分の顔がこちらをのぞき返してきた。


 左目の下から頬にかけて朱色の入れ墨が彫られている。この紋様は自分たちホォグアンの里の人間が祀っている龍の形を模したもので、昨晩、里の巫女である母ケイネ・エルガが、シェンが一人前の巫女になる証として入れてくれたものだった。


 入れ墨なんて初めてだったしあまりの痛さに少し涙目になってしまったが、これで大人の仲間入りだと思うと、新しい自分になったようで胸が弾んだ。


 立ち上がって大きく伸びをする。獲物に気付かれないようにずっと身をかがめていたせいでガチガチに固まってしまった体をほぐしていると、上げた視線の先にスオロ山が見えた。


 シェンを見下ろすようにそびえ立っているスオロ山から爽やかな秋の風が吹いてきて、まだ痛みでぴりぴりしている頬をやさしく撫でながら通り過ぎていく。白色の髪の毛がさらさらと風にゆれた。


 牛が寝転がったように豊かに隆起したスオロ山の頂には、いつももう一つ山を乗せたように雲が高く渦巻いている。


 シェンはその天空の巣のなかに、縄のように長い巨大な生き物がゆったりと泳いでいるのを見つけた。口の端から舌で舐めずっているように紅い焔が漏れ出ている。


 スオロ山に棲んでいる龍だ。


 ホォグアンの里の人間にとって、龍は神の御使いだ。

 シェンは心の中でしばらく祈りを捧げると、残りの仕事に取り掛かることにした。鹿を村まで担いで帰らなくてはいけない。


 鹿の腹を山刀で捌いて内臓を取り除いても、シェンの細めの両肩にはかなり重さだった。けっして大物とは言えないような鹿だったけれど、初めて一人で仕留めた獲物だったし、きっと里の長である父も褒めてくれるに違いない。


 疲労と獲物の重さで足どりは重かったが、心は羽のようだった。


 



 


 


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