外国産人魚のデミグラスハンバーグ

深沢りこ

第1話

 1


 かつて私は、大抵の女という生き物がそうであるように、自分の美醜についての自覚と、それ相応の執着を持っていた。

 女になった瞬間に失う少女性にいつまでも固執していたから、私はそれ自体が滑稽だということを分かっていたのにやめられなかった。

 一つ何でも願いが叶うとするなら、不老不死と言っただろう。


 例えば、早朝から私の部屋の台所で生臭さを纏っているこの少年。彼は出会ったころから容姿が全く変わらない。わたしの夢そのものの形をしている。

「おはよう」

 私の寝ている部屋からは、壁が邪魔して台所を見ることができない。まだ離れることを拒否している瞼を上下に離して、なんとかうっすらそちらを向けば、そのタイミングぴったりに彼の声がかけられた。

 どたばたと何かが壊れる様な危なげな音がしていて、それが止むと、ざりざりと魚の鱗を剥ぐときのような音がしている。

 近くにあるピンク色の目覚まし時計を引き寄せると、時刻は五時を過ぎたところである。秒針が無慈悲に時を刻んでいて、アラームは今日、かけられていない。日曜日は昼まで寝るのが、怠惰な社会人の体力の回復の仕方だ。

 まだ朝であることを恨めしく思ったり、今日が日曜であることに安心したりした後に、私はまた布団の中に白い腕を仕舞った。半袖だから妙に空気が寒かった。

 カーテンの隙間から漏れる光が黄色い。

「僕が今、何をしていると思う?」

「ええー……?」

 枕に伏せ直したお陰でかなりくぐもった声が漏れた。彼にしては珍しく張りのある声が心地よい。血と海の匂いがする場所から話しかけてくる声に耳を傾ける。

「今日の夕飯。人魚のね、肉なの。これで僕と同じになれるよ」

 微睡の中でそれは案外はっきりと聞こえ、起きていても覚えていられそうな強烈な爪痕を私の脳に残していく。

彼は見たことがないほど華やかな、満面の笑みを浮かべているのではないだろうかと想像した。

 人魚を食べると不老不死になれるなんて話は、どこで読んだのだったか思い出せない。私は彼が人間ではないと元々疑っていたから、別に今更人魚が出てこようが、彼が不老不死をカミングアウトしようが、何も不思議に思わなかった。それよりも睡眠欲が勝っているくらいに。

 ラベンダーの匂いがする枕に鼻を押し付けて、私は彼がしていることを想像した。まな板が包丁にあたる音ばかりがそれに拍車をかける。

 泣き叫ぶ人魚の口を塞いで、首を一気に落とす。首から上は食べるところがないからそのまま三角コーナーに刺して、調理の面倒な上半身と下半身もバラバラにする。まずは尾の部分を普通の魚と同じように処理をして、それから人魚の白い腹を切り開く。内臓は美味しくないから取り出して、丁寧に骨からそぎ落とした肉をミンチにする。人魚はやせているからあまり食べるところがなさそうだ。

 やがてそれにも飽きた頃には完全に沈黙していて、次に目が覚めたときには夕方になっていた。

 私の夢がやっと叶いそうだった。



 2


 私が仕事に行く前に化粧をしていると、美少年がその様子をじっと見つめている。

 実家から持ってきたドレッサーの前には、様々な色合いのルージュが落ちている。昨日新しく買ってきたものだけがきちんと自立して立っていて、私はそれを手に取った。

 深いオレンジ色のリップはあまりにも私の唇の色そのままで、少し拍子抜けした。だからといって化粧品売り場でサンプルを実際に唇につけてみる気にはならないのだけど。

「なに?」

 鏡の中で目を合わせながらそういうと、彼は興味深そうにルージュの一本を手に取った。

「唇の色が変わるんだね」

「興味がある?」

「うん。かわいい」

 私の背後に座っていた彼は、私を背中から抱きしめるようにして腕を回し、ルージュを選び直した。会社によってケースが違うから、それを見て選び直しているのだろう。彼が手に取ったのは、黒光りのする一番見た目がシンプルなものだった。

 視線を彼の手から鏡の中に映すと、顔色の悪さをファンデーションでなんとか隠した女が映っている。オレンジ色のルージュは若すぎたかもしれない。

「でもこの色は微妙だったかも」

 はあ、と一つ小さく溜息をついてみても、彼は答えなかった。どうやら独り言と判断されたようだ。手元にある私が持っている中で一番高いブランドの、去年の冬色の口紅をひねって、大きな目を見開いている。

「貸して」

 振り返った私が手を差し出すと、掌の上にころんとリップが転がされた。蓋を外して黙っていると、察した美少年がきちんと足を揃えて床に座り直す。

 赤い唇に私のリップをゆっくりと引く。ずれるといけないから彼の頬に手をのばして、一度触れることを躊躇った。透ける様な肌にはベージュの粉が付いているわけがないから、手に化粧が付く心配なんてないのに。

「貴方はそのままの方が綺麗かな」

 口紅を彼にひき終えて、腕をおろす。ほんのり赤い唇を人工的な色で塗り固めるのは、元々の造形が整っている彼にはあまり向いていないように思えた。そのままの色合いで十分である。

 傍らに置いているティッシュを一枚とって、彼に渡した。意図が判らなかったらしく、彼は綺麗に八つに折った。

私はその光景だけで酷く惨めになって、腕の力を抜いてだらんと下げた。絨毯の上に落ちている髪の毛を見ながら、絶望しきった顔で呟く。

「仕事行きたくない」

「僕が家で待っているよ」

「だからよ」

 私と同じ唇の色で、彼は私に生きるように急かす。自分が原動力となることをわかっていて、それでいて自分がなによりも人を駄目にすることもわかっている。後者を彼が理解していることに気が付いてしまってから、私は彼の言葉を盲目的に信じ、そして自衛のためにそのまま流すようにしている。

「愛しているよ」

 そう少年は言った。

 私はますます絶望を深める。

 美少年の彼の愛しているって言葉はなによりも信用できない。信用しないけれど、その言葉で美しい夢をみる。美少年に愛されているという夢。

 私の美少年が放つ言葉の半分はきっと嘘で、美少年は永遠に美少年のまま、私が死んでも何も変わらず、他の人間に嘘をつき続けるのだ。

 私の美少年はいつになっても私を許さないし私を愛さない、私を軽蔑している、私に眼中などない。その赤い唇で嘘をつく、愛しているだって!そんなことあるわけないのに!美少年を壊したい!そして自分のものにしたい!

 私は絶望を引きはがして立ち上がる。彼が持っている八つに折られたティッシュを奪い取って、唇を乱暴にぬぐった。

「ありがとう」

 そしてバタバタとわざと大きな音を立てて部屋を出て、荒っぽい気持ちのままヒールに足を突っ込んで外に出た。風のせいで扉が勢いよく閉まる。

 彼と言葉を交わすたびに、私の脳の中で歯車が欠けていく音がしている。



 3


 美少年を拾った日はもう少し、今よりまともだったと記憶している。

 私がその少年を拾ったのは、春一番が吹いた後だというのに天気予報が外れ、真冬日となった日の夜中だった。私は飲み会の帰りで、酔った上司の相手をすることにほとほと疲れ果てて、最寄り駅で降りた後だった。

 その日も私の精神は擦り減らされて、薄く安っぽくなってしまっていた。煙草の臭いのする、オフィスでも許される程度の茶髪が嫌いだった。大学の頃は派手な見た目をしていたことを思い出す。若さに甘えて夜更かしだってできたし、なにもしなくたって肌の調子が良かった。自分の見た目に自信を持っていたからなおさら、もう若くはないという事実が怖かった。

 ベースメイクに時間がかかり、クレンジングで落とした液体がどろりとした茶色になるまでになってしまったのだから嫌になる。まるで泥みたいな色に染まるオイルで毎日掌を濡らしている。そんな想像をしながら、駅から遠い安アパートの階段を登った。

 若くて綺麗なうちに死んでおけばよかった、そう何度思ったことだろう。

 階段を登りながら鞄から部屋の鍵を取り出そうと手を入れながら、冷たい風にあたっていると、扉の前につく前に、普段の生活とは違う異質に気が付いた。いつもなら私は、このまま部屋の鍵を取り出して、扉を開けて、風の当たらない部屋の中に入って、暖かさに一息つくはずなのだ。

 私の部屋の扉の前に、体育座りをしている人間がいる。

 それは、暖かそうなふわりとした髪を風で揺らし、膝の匂いを嗅ぐようにして、自分の脚を枕にして眠っている。

 少年だった。幼さの残る顔立ちをしていて、それでいて大人になるべく成長を続けるために、アンバランスな細く長い腕をしていた。

 私はその光景を見て、暫く黙っていた。

 彼があまりにも作り物めいた神聖さのある見た目をしていたからだ。

「ねえ」

 こんな寒いところで寝ていたら朝になれば風邪をひいている。

「ねえ、ちょっと君、大丈夫?」

 話しかけても反応がない。臥せっているから目を見ることが出来なくて、彼が起きているのか、いや、そもそも実際にいきているのかどうかも判別かつかなかった。華奢な肩は冷たくて、それこそ美術室で見た彫刻とか、教科書で見た聖遺物みたいなイメージが湧いた。

「エクスキューズミー?」

 彼の目の前にしゃがみ込む。タイトスカートが太腿の形に張る。ヒールのせいで足が痛いから、あまり長く屈みたくはない。

「ちょっと」

 私が彼の肩に手を置いて、軽く揺らした瞬間に、ぱちりと目があった。

 少年が顔をあげる。同じ高さにある私の顔をみて、柔らかく彼は微笑んだ。

「お姉さんこんばんは」

 笑った彼の鼻先は、寒さで赤くなっていた。

 綺麗、とまず思った。それからその言葉をすぐに否定して、「美しい」と称し直した。彼の容姿には死の匂いが漂っていて、おおよそ生きているという感じがしなかった。例えばさっきのように鼻の頭を赤くしていても、それが何かの幻想だと思い違いだと思いたいくらいに。

 美少年、といって差支えがなさそうだ。それも、そんじゃそこらの美少年ではない。テレビでもてはやされるタレントやアイドルなどよりよほど美しいのだ。

 自分の容姿が美しいとわかっている、そんな声で彼は私に媚びたのだ。

「今夜、泊めてくれませんか?」



 4


 私も大概女性として迂闊で頭がおかしくて、それは女として正しいのだった。

 部屋の中に入ったその少年はきちんと靴を揃えて、私と一緒にマンションの一室に入った。

 そんな人間離れした美しさの彼は、どう見ても顔の作りや髪や目の色が外国人なのだけど、ケーキ屋の高級なストロベリーゼリーのような唇を開いて、話す言葉は、日本語なのであった。

「ねえ、名前は何というの」

「さあ、当ててみて」

「解らない。せめてどこの国の人なのか教えてくれないの」

「どうだろう。僕、何人にみえる?」

 私は少し考えた後にこう答えた。

「イギリスかイタリアかフランス人」

「どうして?」

「なんとなく」

 海外なんて行ったことがないから、思いつくお洒落な国がそこだったなんて言えはしないのだった。

 日本人でないとすぐにわかるような見た目でしか、私には判断材料がない。よく考えたら、彼がもしフランス国籍を持っているとわかったとしても、フランス人らしい名前を思いつくとは思えなかった。私はとことん無知だったから。

「でも名前がないと不便」

「じゃあ好きに呼んで。拾ってきた猫に名前をつけるのと同じ」

 向かい合って座る少年が脚を崩す。両手を床について、私ににじり寄ってくるそれは、少し獣みたいに荒っぽくて、なんだか迫られているようで心臓が跳ねた。

「レオン」

 煩い心音を誤魔化すために、私は急いでそう言った。これ以上近づかれると、このいくつかもわからないような男の子に、自分が夢中になってしまいそうなのがばれてしまいそうな気がしたし、そういう名前の俳優を、昔映画館で見たような気がしたのだ。

「じゃあ僕は今日からレオンになるよ」

 レオンがいたく気に入ったのか、彼はそう言って笑みを零した。私はそれを見てほっと息をついた。

 それから彼はずっと私の部屋に住み着いている。



 5


 アイツは危険だ、と彼は言った。

 どうして? と私は彼に頭の中で問いかけた。彼は元々私の脳内に住んでいるだけの存在なので、声に出さずともそれだけで十分だった。

「どう考えても危険だ。君は昨日会ったばかりのアイツに、いたく同情的じゃないか」

「だってかわいそうだわ。幼いのになにか事情があるのよ」

「その事情が分からない以上、家に置いておく必要はないだろ」

「まあ、居候風情がよく言うのね」

 彼は何も言えなくなったようだった。

 私は実際には一言も話さずに、パスタを茹でる鍋が沸騰するのを、水面を見ながら待っている。鍋の底からは少しずつ泡がうまれては消えていって、私はそれを急かしたい気持ちでいっぱいだった。

 電気で動く私の部屋のクッキングヒーターは、実家のガスコンロよりも掃除がしやすくていいけれど、中心に熱が集まりすぎて焦げ付きやすいのが問題だった。鍋の底が黒ずんでいて吸い込まれそうだ。

 私は料理が好きだった。一人暮らしをすると決めたときに誰もが一式自炊をするために道具をそろえると思う。その後使い続けるかどうかは別として。私はそれを、一人暮らしを始めたときから、あまり長期間休ませることなく使っている。でもだからといって素晴らしくお店の味になるとかそういったことはなくて、寧ろ歴代の彼氏や、今現在不満そうに口をとがらせている男に言わせると、私は料理が下手な方だった。

「でもエリザ……」

 彼は私のことをエリザと呼ぶ。勿論私は、そんな名前ではない。

「聞き飽きたわ。とにかく、あの子は暫く自由にさせておこうと思うの」

「警察にはいかないのか」

「そんなことしたら私が誘拐犯だと思われちゃう」

 私は彼の容姿について思いを馳せながら、鍋の上に手をかざした。湯気が熱くて、もう少しで沸騰しそうだった。

「ねえ、僕はごはん要らないよ」

 いつの間にか少年が私の立っている場所から見えるところに来ていて、脈略もなくそう言った。

「お腹空いてない?」

「うーん」

「いいの。私があなたとご飯を食べたいだけだから、できれば付き合ってほしいの」

「そういうことなら」

 私の望みをすべて叶える彼は、予想通り肯定した。既に余っているようなパスタが一人分増えたところで家計に圧がある訳もなく。

 少年の額に窓の外からの光が差した。瞳が眩しそうに細められることはなく、美しい人は私のことをじっと見ている。

「なあに?」

「ねえ、」

 彼の舌がのぞく。

「なんだか、僕の知らない人がいるみたい」

 彼は私の頬に手をのばした。キスをするようにぐっとひきよせながら自分も近づいてきたので、私は本当にキスされるのではないかと想像して身を強張らせた。でも彼は寸でのところでとまって、私の目の奥を見ている。

「エリザ」

 私の分身が口を開いた。すごみのある怖い声だった。彼は今、美少年と見つめあったまま、私のことを一切見ずに話しかけてくる。

「コイツは危険だ」

 目の前にいるからか、わざと彼は先程と殆ど同じ台詞を、まったく違う声のトーンで言った。

「でも私、悪い子だとは思えない」

「僕は悪い子?」

 少年が口を開いたので私はとても驚いて飛び上がりそうになった。頭の中で話しているつもりが、いつの間にか声に出していたようだ。

 彼は私の首の後ろに手を回して、甘えるように身体を寄せた。自分の魅せ方をよく解っている仕草に私は僅かな吐き気を催したことが不思議でならなかった。

「僕は悪い子だと思う?」

「そんなことないわ。何も悪いことしてないじゃない」

 私ははやく少年から解放されたくて、早口でそういった。少年はその答えに満足したようで、沸騰寸前の鍋と私と彼を置いて、キッチンを出て行った。

 彼の心細いうなじを見ている私に、分身はとことんあきれ果てたようだった。

「勝手にしろ」

 といったのちに、彼はまた黙ってしまった。

 それと同じタイミングで、操作パネルに指が当たったのか、鍋の火が消える。それはすっかり沈黙してしまう。



 6


 彼はかつて私の恋人だった。

 恋をすると何もかもが変わってしまう。私はその頃浮かれはてていたし、この恋が終わった時は私が死ぬ時だとさえ考えていた。彼は決して私の初めての恋人ではなかったけれど、私が初めて恋をしたと心から信じられるくらいには、私は彼の事が好きだった。

 彼のことを思い出すのはことさら冬のことが多い。初雪の降る日にたまたまデートをしたり、寒いを言い訳にしながら手を繋いだり、クリスマスに彼の部屋で鍋を食べたり、冬生まれの私の誕生日を祝ったりしたことが、なぜか他の季節より鮮明に私の頭に残る。

 恋人は私の誕生日を忘れたふりをして何か月も前から何度か確認していたし、私もその度に忘れるなんてひどい、という態度を取りながらも、怒らず機嫌もいいまま、自分の誕生日を教えてあげた。

 でも本当は、誕生日なんか知らないでいいと思っていた。誕生日を祝われることが何よりも嫌いな人間だっている。

「歳を取りたくないの」

 いつもより少しちゃんとしたお店でご飯を食べて、その帰りに駐車場を歩いている間、唐突にそう呟いた。

 私は彼からさんざん、おめでとう、という言葉を貰っていたし、彼が私の誕生日のために準備した労力やお金や時間を無駄にさせたくはなかったから、なるべくそれが深刻そうにならないようにぽつんと地面に落とした。実際そうやって気にかけられているのは嬉しかったからだ。

「段々若さっていうものが擦り減っていって、それはみんなに平等に与えられる財産だけど、それの使い道って基本的に自由じゃない? 私はそれを趣味とかそういったものにあててきたけど、やっぱり本当に綺麗な人って美容にかけている労力が若いうちから尋常じゃなくて、段々私も、今は……まだ綺麗だけど」

「大丈夫だって」

 彼は無責任に明るくそう言った。車の鍵を取り出すせいで、彼と繋いだ手を離さなければならなかった。

 私がおばさんになったらきっと愛してくれないのに、と言えるわけはない。

「ああー不老不死になりたいな」

「俺やだよー不老不死。友達みーんな先に死ぬとか無理じゃない?」

 私は答えなかった。

 そんなことくらいで、私の若さが損なわれてはいけないと感じたけれど、その気持ちが彼の共感をまるで呼ばないということを一瞬で理解してしまったからだ。

 そうやって言わなくていいことも言わなきゃいけないことも黙っていたせいか、私たちは長く続いたけれど、結局は別れることになった。お互いがお互いの将来に相手を置く気にはなれなかったようで、どちらかが言ったのかよく覚えていない別れ話は、すぐ了承されたと記憶している。

 それからは、寂しいと思っているうちはやはり好きなのだと、昔気が付いたことに気が付き直して、狂ったように仕事をしながら数か月を消費して。

 そうしているうちに部屋の中に新しい物が増えていることに気が付いた。それは貰ってきた花束の水を変えるのを忘れていたことを、思い出した瞬間みたいだった。

 勿論彼にはただ寄り添って眠るだけの時間に無条件で安心するような、彼のことが愛しくて仕方がなくなるような、そういった甘美なことは何一つなかったけれど、私は歓迎した。

 彼は照れた様に少し笑った。

「久しぶり」

 冬の日に私の頭の中に現れた彼は、その日から私を励まし甘やかす恋人件分身として、脳の一番柔らかいところで居候している。



 7


 私はあまり自分の部屋にいつの間にか同居人が増えていたとしても驚かなくなってしまったし、彼らが何か新しいことをしだしても、ああ、またか、くらいの感慨しかもう抱けない身体になってしまっている。

 私の帰りを待っている、あの人外じみた少年は、たまに外にでては何かしら汚してくるらしい。

 誤解のないように言っておくが、私は決して少年を監禁しているわけではない。彼には私の合い鍵を渡しているし、家を出るなとも言いつけていない。彼は本当に自分の意志で私の部屋に転がり込んだままそこに住み着き、引きこもっている。

 そんな彼も最近は少しだけ散歩に出るらしく、特に近所の公園はお気に入りらしい。そういう時にしっかり施錠しているかどうかは定かではないが。

 私は彼が外に出てくれるならそんなことは些細なことだと思う。彼に出会ったのはほんの数か月前だけど、私は引きこもりのどうしようもない親戚の子とずっと暮らしてきたような気持だった。

「ただいま」

 返事は返ってこない。

 私が帰ってきたときに部屋の鍵は開いていた。そして珍しく家の中には誰も居なかった。序に言うと窓は全開で、レースのカーテンが風を受けて大きく広がっている。

 私は特に取り乱したりだとかはしなかった。彼がいなかった頃のようにパンプスを脱ぎ捨てて部屋に入り、ベッドの上に鞄を投げ捨てて、会社の制服を脱いでハンガーにかけた。ワイシャツのボタンを上から一つ一つ外していき、下着だけの姿になる。肩からずり下がるブラジャーの紐をなおして、その姿のまま部屋の中を歩く。洗濯機にシャツを入れる。

 窓は開け放ったままだ。カーテンがひらりひらりと揺れるから部屋の中は外からもしかしたら見えているかもしれない。どうでもいいことだ。

 ガチャ、と音がして扉が開く。私はまだ服を着ていない。少年が玄関を開けて入ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

 ブロンドの髪は艶やかに私を魅了し、彼の生白い項を擽っている。

 その光景から目を逸らしながら、美少年のように永遠であるにはどうしたらいいかということを最近はよく考えている。

「お風呂貸してくれる?」

「いいけど、その泥の付いたシャツは、分けておいてね」

「うん」

 彼のシャツはべっとりと茶色い泥が付いている。よく見ると髪の毛の毛先にもついていて、彼の金髪に一部が、汚らしい色になっている。浴室にいく彼と、洗濯物を出した私はすれ違った。彼は土と河原の草の匂いがした。

 私は彼が脱いだ服を洗濯するために、脱衣場まで戻る。

 私はこういう時、自分が女であることがたまらなく嫌になる。

 掃除も洗濯も料理も好きだし自分でする。しかしそれが当たり前で、当たり前のように女がする、という現実の認識に、自分から当てはまりに行っているような気がしてとても陰鬱な気持ちになる。

 風呂場の向こうは見えない。ただ、彼の薄い身体のシルエットだけがよく見える。

 あのとき市販のパスタソースを使ったお昼ご飯をご馳走した後すぐ、彼は実は食べ物そのものを必要としていないことに私は気が付いた。食べても食べなくてもいいのは休みの日の私と同じで、一緒に居る時はご飯を食べさせたけど、中々同じ時間に居られないことが続いたとき、彼が家を出たような痕跡は全くなく、冷蔵庫も食品庫の中身も一ミリだって動かされていなかった。

 彼が家から出るようになったのは、ここ最近の事なのだ。なにも彼は口にしていないまま過ごしていることになる。

私は下着姿のまま洗濯物のスイッチを押し、泥の付いたシャツを軽くすすいでから小さな洗面器に入れた。お湯と液体洗剤で満たしたその中に浸しておく。

 脱衣所に放置していたパーカーを見つけたのでそれを着て、私は洋室の方に戻った。裸の彼と鉢合わせしてしまうのは、非常によろしくないからだ。

 携帯を見ながら無駄な時間を過ごしていると、彼が脱衣所の扉を開けて部屋に戻ってきた。その顔を見て、私はたいそう驚いて思わず水色のクッションから跳ね起きた。

 彼の巻き毛の一部が切られていた。斜めに一閃入れられた状態で不揃いなそれを見ていると、何か悪いことをして大人に怒られる前の子供に戻った様な気分になった。顔から血の気が引いていくのがわかるし、心臓がぎゅっとしめつけられる。

「どうしたの?」

「鋏借りたよ」

「変だよ」

「いいんだよ」

 彼は自分のブロンドを指先でつまんで見せて、その後すぐに爪の先でぴんっと弾くようにした。私はすっかり動揺してしまって、泣きそうにまでなってしまっているのに、彼は全くいつもと同じように自由に過ごそうとし始めていた。私はそれを無理矢理引き留める。

「どうして髪を切ったの?」

「知りたい?」

 クスクスと含むように彼は笑う。

「毛先に泥が付いていたんだ。全く美しくないと思ったんだ」

 それは彼の異常性を私に伝えるには十分な役割を果たすはずだったのに、私はそれに疑問を抱きたいとは思えなかった。

 彼の人懐っこく、また従順な性格は、歳を取ることに怯えている事務職の女の心を酷く満足させた。

 風呂あがりの少年からは、それにしては湯気が少ない。



 8


 今日帰ってくると、少年の髪は元に戻っていた。

 私は特に驚いたりはしなかった。なんとなく想像していたからだ。でも私の中に住んでいる男は驚いたようで、私の頭の中の華奢な白い椅子から転げ落ちそうになっていた。

 ああ、少年はきっと人間ではないのだと、とうの昔から私は気が付いていた。あまりにもその浮世離れした容姿と透き通った眼がその証拠だった。晴れた日の夜にやけに私たちに近い場所にいる月の匂いがする少年が、人間と同じ種族で存在していい筈がないのだ。

「あいつは怖いな」

 彼がぽつりと言った。椅子の背もたれを抱え込んでいる。私の分身は最近沈黙を貫いているけれど、私が実は動揺しているときに、美少年の様子を伺いに出てくるのだ。

 私が床に座ったまま部屋の茶色い絨毯に落ちた塵を一つ一つ座りながら拾う。そうして暇をつぶしながら彼と話していると、少年がいつの間にか私の隣に陣取って、私の顔をひっそりと観察しながらにこにこ笑っていた。私は掃除のふりをすることをやめた。私と違う色の目をしっかり見た。

「人間の目をしたクジラの話を知っているかい?」

「何の小説に書いてあるの?」

 レオンは少し悲しそうな眼をした。

「これは僕が実際に見てきた本当の話なんだよ」

 少年はそういって楽しそうにおとぎ話を始めた。レオンはでたらめを話して聞かせるのが好きな少年だった。

 私は、彼の言動に耳を傾けているだけで、特別な存在に慣れたような気がしたのだ。だからついつい黙って聞いてしまうのだけれど、それをいつも、よく思わない人がいる。彼の話を聞きながら私の分身は黙っていたが、ついに我慢しきれなくなったようで、私の身体を借りて話し始めた。

「クジラの目はもともと人間に似ていると思う」

 その声は確かに私の物だったけれど、少年には特別に響いたようだった。彼は目の中でぱちくりと星を煌めかせて、私の瞳を覗き込んだ。それからみるみる口角をあげていった。悪魔の微笑みだった。

「やあ、こんばんは」

「こんばんは」

 男は不遜な態度で不機嫌そうにそう返した。私ははらはらしながらその様子をぼんやり見ていることしかできなかった。

「あまり嘘を吹き込むのはやめてくれないか。エリザは騙されやすいんだ」

「エリザ?」

「君の目の前にいるだろう」

「そうなんだ。エリザのことを教えてよ。僕、あんまり知らないんだ」

 少年は彼、いや、私の太腿のすぐ横に手をついて、わたしに対してぐっと距離を詰めた。その様子に少なくとも彼はひるんだようで、私の頬はぐっと引き攣った。

「エリザはとても寂しがりで、自分に対するコンプレックスでいっぱいだから、美しい君のことを無条件で……いや、止める。こうした情報を与えても君はどうせ悪用するだけだろ」

「やだなあお兄さん。僕のこと、実は嫌い?」

「嫌いだね」

「そう」

 少年はそれがまるで愛の告白だったかのように顔を蕩けさせて、その顔を至近距離で見た彼はナメクジを見たときを彷彿させる表情になって、私よりも少し後ろに下がった。その隙をついて私は一歩前に出て、彼と無理矢理交代した。

 美少年との距離はよけい近くなってしまう。首が少しがくんと揺れたので、私の長い髪が揺れて、痛んだ毛先が目についた。それを見た彼はやはり不機嫌そうに私を押しのけようとしてくるので、私は少しだけそれに抗った。

「ね、ねえ、そのクジラってどのくらい大きいのかしら」

「うん? ああ、この家三戸分くらいだよ」

「本当に?」

「本当さ! だって永遠を生きるクジラだからね」

 生き生きと少年は話し出した。

 私は羨ましいと思った。永遠を生きるクジラだなんて、なんて素敵なのだろう。きっとクジラはいつまでも若々しく力強い姿のまま旅をするのだろう。それでも少しだけ、身体の一部に巣食う藻や穏やかな人間と同じ瞼で、クジラの歳をはかりみることができるのだ。

「それはとても素敵ね」

「そうとも」

 少年はいつもの通り機嫌よくしていた。機嫌よく自分の白い靴下を少し引き上げたりしながら、私にその話をし続けてくれていた。

 私はそれを黙って聞きながら一つのことに気が付いた。彼はいつの間にかいつもの脳みそ色でピンクに染まったふかふかのベッドの中から姿を消していた。私はそれにひどく動揺する。あまりに私が美少年の肩を持つから、愛想をつかされてしまったかもしれないという強迫を受けてしまう。

 違う。確かに目の前の美少年のことを愛している。

 でも憎くてたまらない。私の物にならないってことをわかっているからちゃんと理解しているから、それでいて私に当然のように愛され、私だけを愛してくれるようなそぶりをする美少年が、本当は自分しか愛していないことが憎い。悲しくも悔しくもないただただ憎い。

 美少年の瞳孔がこちらを見ている。私をあざ笑っているような気がする。

「エリザ!」

 私の中で彼が叫んだ。私を呼んでいる。これ以上はもういけないと、教えてくれていると知っている。それでも。

 少年と、レオンと。共にいるだけで代替の利かない、唯一人の自分であることを認識して自信を持てることがとても楽だった。

「嘘だわ」

 私は震える声で呟いた。

「貴方の言うことは全て嘘だもの」

 それが今の精一杯だった。

 日曜日の夜みたいに、急速に時間が過ぎて言って、すぐに彼が何を言っていたかを思い出せなくなっていくのだ。私はレオンから目を離せない。警鐘を鳴らしてくれる彼と目を合わせることはもうできない。

私は彼を呼ぶときには彼をレオンと呼んだけれど、彼がいないときや彼のことを考えるだけの時は、彼のことを心の中で美少年くんと呼んだ。

「どうして?」

「え?」

 レオンはいつも通りに、本当にいつもと寸分変わらない表情のまま私に問いかけた。それが明らかに違う、ということを、私は瞬時に理解した。その人にとって大事な発言があるときは空気が強張る。

「どうして僕が嘘をついていると断言できるんだい?」

「だってそれは……貴方の言うことは本当にでたらめが多くて、そして私の……とてもじゃないけど理由がわからないことを、理解の及ばないことを、貴方はやるじゃない?」

「それに何の関係があるんだ?」

 妙に強い口調でレオンは言った。それがあまりに聞いたことのない響きだったので、私は押し黙った。

 彼が助けに来てくれたらいいと思った。彼はとても勇敢で精神が強固で、かつ穏便だったから、これほどの人を相手にしても、ちっとも怖がらないとわかっていた。

 私が逃げ腰になっている間も、レオンは私を責め続けた。

「僕が今嘘をついていたとして、その今の僕の行動と過去の行動にどう関係があるのか、君のそのかわいい口で説明してみてほしいんだ」

 私は何も言えなかった。結局彼がいなくては、私は自発的に何もできない弱い女だった。



 9


 テレビを特に見る予定もなくつけっぱなしにしていると、たまに料理番組が始まっている。

 私はそれを、レシピなどをメモしたりはせず、ぼんやりとテレビの淵を見るような気持で眺めている。

 愛嬌のあるおばちゃん、といったかんじの女性がエプロンを付けて、次々と解説している。

「まず人魚は鮮度が命なのでー、なるべく生きたまま連れてくることをお勧めします。その場合生でも食べることが出来るのですが臭みがあるのでやはり火を通すのが一番いいですね。火を通す調理をする場合でもやはりすぐ料理するのがいいので、生きたまま解体しましょう。

解体する前に彼女達には薬を飲ませることを忘れずに行ってくださいね。下半身はまだしも上半身の血抜きを急速に済ませる便利な毒は、いわずもがな加熱前は人体に悪影響を及ぼすので、その錠剤を誤飲しない様に気を付けてください。

 彼女達の抵抗はその華奢な身体とは裏腹に驚くほど強く、それはまあ生命がかかっているので当たり前なのですけれど、成人男性が料理する場合でも人魚の手は縛っておくことをお勧めしますし尾びれの先も固定してしまった方がいいですね。初心者はその上下半身をまず分けてしまうのがいいけれど、その場合出血多量もしくはショック死してしまうので、結局上半身はあまり食べられないことになってしまいますー。

 それと、口は必ず塞いでおくこと。彼女たちの声には魔力が宿っているので、先に喉を壊すかタオルでも詰めておくといいですね。

 さて、前置きが長くなりましたが、下準備に移りたいと思います。

 まずは人魚の鱗を剥がしていきます。包丁を使ってもいいし最近はペットボトルの蓋を使うと効率的に飛び散らず鱗が剥がれるらしいと豆知識でやっていましたね。参考までに。また鱗は高く売れるので捨てないでおいたほうが賢いですね。この段階でかなり時間がかかるので覚悟をして挑んでください。そうして鱗を剥がしたものがこちらになります。

 そしたら要らないヒレを切り落とし、三枚に下ろしましょう。下ろした後には必ず水ですすぎ、氷水でしめると美味しいかと思われますよー。刺身にする場合は言うまでもないですけれど、下半身が美味です。尚三枚におろすぐらいになると流石に人魚は自然死しているかと思うので手早くいきましょうね。あとはこうして切って……はいっお刺身の完成です。

 大きくて切りにくい場合は小分けにするのもいいかとおもわれますー。こういったように……見て下さい、付け根の部分は人魚の骨格上骨が多く、食べにくいんですね。ですけれど、それを逆手に取りまして、小骨が多いので大まかな骨を捨てたらミンチにしてしまうのもおいしい料理方法に数えられます。その場合は速めの加熱調理をお願いしますね。今回は使わないので、ミンチにして少々加熱、のちに冷凍しておきましょう。

 上半身から先に調理するのは暴れられるためと、下半身の鱗に時間がかかるために効率が悪いからだということが、お分かりいただけたと思います。

 さて、上半身に移りましょう。死んだ人魚の腐敗ははやいので、上半身ははやめに調理をします。ここでポイントなのは必ず加熱調理をすることですね。人魚の上半身と下半身は、あまりに味も取り扱い方法も違います。上半身はデリケートなのでお料理上手なママさん向けですが、挑戦してみて下さいね。

 人魚はやせている個体があまりにも多く、正直食べる場所は少ないです。食べる場合はしっかり血抜きをする必要があるますが、それは人魚を殺す前に飲ませた毒のお陰である程度は出来ている筈ですね。その錠剤の入手方法はホームページを参考にしてください。

 ここで私のおすすめの調理方法は、ひき肉のようにミンチにしてしまってあとは通常の肉のようにハンバーグにしてしまうか、圧力鍋にぶつ切りで入れて、骨までとろとろの煮物にしてしまうかの二つですね――」

 私はテレビのリモコンのスイッチを押してそれを消した。



10


「いつものおとぎ話をしよう」

 レオンが言った。

「聞きたいかい?」

「ええ」

 私は即座に答えた。

 見知らぬ部屋になってしまったようなすっきり片付いた私の部屋で、私はイブニングドレスを吟味している。レオンは台所に立ったまま、私に話しかけてくる。

 最近私の中に彼はいない。服装についてアドバイスをしてくれる人がいないのは少し困った。私はいつだって美しくありたくて自分の容姿を選択するけれど、たまには人の好みに染まってみたかったのだ。特に今日みたいに大事なデートをするときに、男の人の意見は素晴らしい。

 私たちは各々作業をしながら、どちらかの話に耳を傾ける。

「永遠を生きるクジラはいつも何も考えてなさそうな目をしているけれど、本当に何も考えていないのだから笑えるのだ。あいつは夢を渡りながらこうした現実との狭間に落ちてしまった子供を気まぐれに掬いあげて、それらは大体社会一般から見た死、を迎えて終わりなのだけど、稀に少年のように美しき姿のまま永遠に封印された生き物を作りあげてしまう羽目になる」

 私はそれが全てデタラメであることを知っていた。私が過去に想像した少年の過去そのままだったからだ。

 それで構わないと思った。美少年は元々語らない生き物だからと私は納得していた。美少年にとって与えられるものが全てで、彼が与えるのは官能じみた空気だけである。結局彼が私に与えるものは何もなく、私が与えることが彼の全てだった。受動的であることで、彼は彼として存在し続けた。

 私がドレスを決めてそれに着替え、ドレッサーの前で髪を丁寧に纏め上げている間も、レオンは話し続けている。時折彼の声に混じって、肉の焼ける音がしている。

「永遠に少年には父性も母性もあるいは少女性も宿らず、だから少年には人間の女のように愛に翻弄されることもなければ、自分のその見た目にそぐわないような性に翻弄されながらも、生きてはいけなかった。

 しかし彼をそうした当の本人のクジラは何でも知っていたので、人間の世界でなにが求められているのかを知っていた。彼が何を求めているのかも知っていた。人間の世界で何が信じられているのかも知っていた。その知識は膨大で溢れかえるのでとてもじゃないが与えられても管理しきれないけれど、時間は無限にあった。その中で一つ思想を見つけた少年は嬉しくて初めて笑った。これで僕と同じ生き物を作ることが出来るかもしれないと思った。

 そこにはこう書いてあった。人間は、人魚の血肉を摂取すると不老不死になれると信じていると」

 何が正しいのかどうかは、もう誰にもわからない。私にも、彼にも、きっとレオンにさえ。

「さて、これでこのおとぎ話……は終わり」

 食器が移動する音がする。

 私は今、レオンが料理した人魚を食べようとしている。

 私が長い睡眠から覚めたとき、部屋の中に生臭い香りは一切なかった。あるのは、素敵な夕飯になるだろう、それは家でのデートになるだろう、といった確信だけだった。

 私は最後の支度をする。あの日選んでいたオレンジ色のリップはあれ以来使っていなかったから、まったく減ることなく、ドレッサーの前に転がっていた。私は目もくれないで、彼が選んだ真っ赤な口紅を指で弄んで、綺麗に化粧をした顔に最後の一筋を引く。彼に会う準備を整えて、まるで高級ディナーのお店に行くみたいに精一杯着飾った。黒いシンプルな膝丈のドレスに、いやらしくない色のストール。

 かちゃかちゃとお皿が用意された音がする。料理のいい香りがしている。

 私は急いで、私の部屋に唯一ある脚の長い白い椅子に座った。いつも私の脳内で彼が座っていた椅子によく似ている。

 同じく脚の長いテーブルには、真っ白いクロスが敷かれ、よく磨かれたナイフとフォークの用意も既にされていた。

「カーテンコールをするのは君なんだね」

 料理が運ばれてくる。

 私のために料理してくれた、というレオンの甲斐甲斐しさと、いつも帰宅したときにある癒しと珍しい彼の料理、少年と同じものになり、人魚の肉を食べたっていう永遠の美を手に入れる嬉しさ、美しい物を美しい物が殺して穢したその光景の想像。

 それらのうちのどれかが、あるいは全部が。どんな嘘でも嬉しいと思う。後悔もなかった。だが、レオンはもう美少年ではなくなったのかもしれないな、と心の底では感じていた。

 春にもらった真っ白いお皿から湯気が立ち上っている。それを手に持ったレオンは、皿の下に掌を敷いて、まるで喫茶店のボーイのように優雅に運んでくれた。

 私の前に料理が置かれる。

 前菜はない。メインディッシュしかない。

 いつも食べているものよりちょっとだけ形が歪な、美味しそうな匂いのするハンバーグ。

 私たちはごっこ遊びを始める。

「シェフ、今日のメインディッシュは」

「外国産人魚のデミグラスハンバーグです」

「美味しそう」

「ありがとうございます。お客様」

「ふふ」

 肉を切る前の、未だ汚れていない銀のナイフに、私の顔が映っている。





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外国産人魚のデミグラスハンバーグ 深沢りこ @rikofukazawa

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