102 夢に見る君の亜麻色の髪


 謁見を終えて部屋に戻ると、長椅子に膝を抱えもたれるアシュケナシシムが目に入る。

「帰るぞ、アシュ」

 長椅子の前に立ち、コンツェは覗き込むようにして声をかけた。

「アシュ?」

 閉じられたまぶたを彩る、金色の睫毛。それがほんのわずかに震えて、吐息のような空気が彼の口から漏れた。


 じっと動かない彼が眠っていることにようやく気づいて、コンツェは首を竦める。

「よほど疲れてたんだな」

 こんなところでうたた寝してしまうなんて。

 その俯けた頬にかかる柔らかな巻き毛を見やって、コンツェは自嘲する。見るほどに〝彼女〟に似通う姿に、どうしても目がいってしまう。


 あわ雲のように癖のある巻き毛と、象牙色の額に頬はやわらかな桃色、小さな鼻は王族に似合わずつんと上向き、唇は厚くも薄くもないが、頬と同じくやさしい桃色に染まっている。

 うつくしい、という形容より、可憐だとか愛らしいとかで、誤魔化される容姿だ。


 髪が長く動作に緩慢さがみられる分、アシュケナシシムの方が〝女性的〟に、機敏で颯爽としているフェイリットがその逆に映るかもしれないが。

 髪を同じく揃え、唯一異なる瞳の色を閉じて動きを止めても、コンツェには見分けられる自信があった。

 あの時見たフェイリットの姿を、気のせいだと思いたい。なにより皇帝の〝寝室〟に、宰相の執務につく小姓が居てはおかしいからだ。



 ――貴族も皇族も王族も、まっぴらごめんだわ。



 以前、はっきりとそう豪語していた彼女が、その最たる位置にいる皇帝――それも彼女からみたら敵国の先導者と、寝室に居るような真似はしないだろう。

「選べ、か」

 もう、とっくに選んでいることだ。自分には、故郷であるテナン公国を、捨て去ることはできないとわかったから。

「大佐に指輪を返して、フェイリットを説得して……軍務の引き継ぎなんて、悠長にしてられないだろうな」


 帝国と決別すると伝えたら、バスクスは自分を捕らえるだろうか。それを考えたなら、選択した意思を伝えることなく、一刻も早くここから去るべきだ。

 けれど安らかに寝息をたてるアシュケナシシムを、無理やり起こす気持ちにはなれなかった。体調不良をこれ以上悪化させないためにも、彼には休息が必要なはず。


 コンツェは少しだけ空きのある長椅子の端に腰をつけて、ひと息に肩を揺らした。

 そうしてふと、入り口にかかる幕の下に、何者かの足が並ぶのが見える。

「コンツ・エトワルト殿下」

 その声を聞いて、コンツェは「ああ、」と口を開く。

「トリノ?」

「はい。お見送りに参りました。お帰りになられますか」

「ああ、これから帰るが、案内はつけなくていい。宮殿はだいたいわかるから。ありがとう」


 仕切りの幕から姿を出すことなく、形式的な挨拶を述べてトリノは去っていった。

 〝コンツ・エトワルト殿下〟――あんな呼び方を、彼は前からしていただろうか。不思議に思うのに、なぜだか記憶がかすれている。中隊長、とか、コンツェさん、とか……呼ばれていたのではなかったか。

 そんなことを考えながらも、コンツェは室内にあった書棚から、本を一冊取りだした。普段は本など手にもかけないが、アシュケナシシムが自然と目を覚ますまで、暇がつぶせたらそれでいい。


 父……いや、義父・テナン王のものと思われるその本は、随分と古く色あせている。木材の貴重さから、羊皮や布地を代用することの多いイクパルで、このように装丁された本が見られることはまずない。こんなに貴重なものを国に持ち帰らず、テナン王はこの室内で読んでいたのだろうか。

「……メルトローの古代記か」

 しばらくぱらぱらと流し読んで、ふとコンツェはその手を止めた。


「こ、」

 目に写り込む、一枚の挿し絵。



 その絵の下に、テナンの古い文字で一文、〝タントルアスと竜〟。



「エトワルト」

 コンツェがその開いた本を取り落とした途端、アシュケナシシムはぱっちりと目を開いて言った。

「居たよ」

 寝ぼける風もなく発したアシュケナシシムを、コンツェは気の動転したままに見つめる。

「見つけた」

 何かを言おうと口を開けるが、空気だけが漏れてゆく。〝居た〟というのが何を指すのか。その疑問まで辿り着けるのに、しばらくの時間を要してしまう。

「居たって、何がだ?」

 コンツェのその問いに、アシュケナシシムはすぐには答えなかった。こちらを見つめたまま、眉をひそめる。


「シアゼリタ」

 そんな、夢だろう? そう言って笑おうとするものの、コンツェはアシュを見やって、いよいよ顔色をなくした。彼の素振りに冗談じみたものは感じられない。

「彼女が誰によって殺されたのか、君には突き止める使命があるだろう? 急ごう、玉座の間だ」

 言うや否や、立ち上がるアシュケナシシムを目で追う。

「何でわかる? あ、おい!」


 飛び出してゆく彼の背中に声を上げながら、コンツェはその後に立ち走った。

 先ほどまで眠っていた筈なのに、その足取りはしっかりとして迷いが無い。それはこの宮殿のつくりを、完全に把握しているかのような素振りだ。

 彼が滑走というに近い走りを止めたのは、先ほどまでコンツェが謁見していた室――玉座の間の手前。

「アシュ、」

「しっ、黙って」

 彼の手のひらに口を押さえられ、コンツェは目を瞬く。気配を消して、アシュケナシシムはそっと仕切りの幕に手をかけた。


「――……その箱は、」

 ふと、室内の声が耳に入る。この低い声は、さきほど聞いたばかりのもの。イクパル帝国皇帝、バスクス二世の声だった。

 箱、という言葉に目を細めて、コンツェはそっとアシュの開けた仕切りの隙間に目をやる。

 玉座に立つバスクスと、それに向かう宰相ウズルダンの背中。ついで彼が掲げるようにして持ち上げた、 貝殻装飾ロカイユの純白の箱……。


「首です、シアゼリタ公女の」

 ウズの言葉を耳に、コンツェは喉奥から捻るような呻きを漏らす。

「そうか」


 皇帝の返答は、何の感慨も抱かぬように、あっさりとしていた。



 金糸で縫われる仕切りから、アシュケナシシムが手を離す。

「エトワルト」

 冷たいなにかで思いきり頭を殴ったら、今のようになるだろうか。彼の気遣いの声さえ聞くことなく、コンツェは怒りに拳を震わせた。

 シアゼリタは、やはり――バスクス二世が。

「行こう、あいつらこっちに向かってくる」

 冷たい衝撃に頭を抱え、ただ引き摺られるままに帝城をあとにする。

 城下は夕方の色合いに満ちて、息をのむほどに美しかった。夕焼けが照らす土色の民家は、城の建つ高台からしか見下ろすことができない。


「両殿下、」

 その前方に、忽然と立つ人物を見つけて、コンツェとアシュケナシシムは足をとめた。

「お前は……アロヴァイネン伯」

 覚えていた名前を口にして、コンツェは顔をしかめる。

「あなたは聡明なお方だと聞き及んでおります。よもやこのご相談が、決して貴国の不利益にはならぬことも、すでにご承知でしょうね」


「……なんのことだ」

「そうして、解らぬ、存ぜぬと繰り返してこられたのでしょうが、もうあなたには立つ背すら無いことも、ご理解頂かねばなりません。振り返れば帝国が、前方からは我々が、そして両脇からは貴国の重鎮方があなたを取り囲んでいるような状況です。どの手を取るかはあなた次第ですが――無知の仮面をお脱ぎくださいエトワルト王子。どれが一番利に適うのか、おわかりのはず。共に手を取り、イクパルを滅するのです。……シアゼリタ王女を殺した、イクパル帝国を」


 それはあまりに見計らった発言だった。テナンを捨てろと皇帝に言われたことも、シアゼリタを殺した犯人も、そして内々にテナン公国から立太子を迫られていることも……考えてみたなら、彼が知るはずはないのに。

 けれど冷静になれぬまま、怒りに震えるコンツェが深く思慮することはなく、

「当たり前だ」

 きつい眼差しをわずかに歪めて、そう応えたのだった。


 たった一人のテナンの王女。ひとつも血が繋がらないのに、兄と慕ってくれた優しい妹。彼女の無惨な死を、決して許しはしない。

 アロヴァイネンは小さな紙にその旨を走り書き、口笛で呼んだ鷹の脚にくくりつける。

「サディアナ王女を連れ帰る手筈は整えてあります。あなたが立太子すると同時に、我々テナン・メルトロー連合は彼らに宣戦布告する。共に参りましょう」



 ――鷹が空に飛び立った。



 その報せがテナンにつく頃、彼は王太子の冠を戴く。

 そして、この青空に続く平穏が、夢の日々とも感じられるほどに……遠い場所へと向かうのだ。



 テナン公国第五公子――いや、第五王子コンツ・エトワルト・シマニの立太子の報せは、こうして瞬く間に広がっていった。

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