71 泣く夕日


 窓掛けの隙間すきまから差し込む光を見つめながら、コンツェは欠伸あくびをもらす。


 空にかかる薄い灰色の雲が、ちらちらと雪を飛ばしはじめていた。ようやく春の兆しが見えていた庭にふたたび漂う大きな雪片。まるでむしられた海鳥メジーの白い羽が、空から散らされたようにも見えた。

 不吉さを感じて眉をひそめると、コンツェは窓に映る自分の隣に人影を見る。


「もう春だと思っていましたら、名残り惜しそうに降るものですわね。……欠伸ばかりなさって、エトワルトお兄さま、お疲れなのですか?」

 ふわりと流れる花のような香りに、ほっとして小さく笑む。


「香なんか、つけるようになったのか」

 横を向いて妹の顔を見やると、シアゼリタは思ったとおり、むくれたような表情をする。今日は薄い桃色のドレスを着けていた。

「わたくしだって、女ですわ。香くらいつけます」

「そうか、例の男だな」


 以前シアゼリタの部屋を訪れたときに、入れ違いになった男――たしかメルトローの丞相で、イグルコ・ダイアヒンとかいうやつだ。テナンの公女欲しさに、丞相自ら求婚しに出向くとは、たいそうなお国柄だった。もっとも向こうはイクパルと違い、国王がしっかりと政務を執っている。少々の穴は埋められるのだろうが。


「えっ!? エトワルト兄さま、知って……」

 一気に顔を赤くするシアゼリタを見やって、コンツェは微笑んだ。この様子なら、単なる政略結婚にはならないだろうと。妹の幸せを願う兄としては、やはり婚姻相手には愛されてほしいと思う。どうりで、最近見る間に女らしくなっていくわけだ。


「なんか複雑だな……もう結婚も決まったのか?」

「婚約、の段階だそうですわ。結婚は、メルトローに渡ってからなのですって」

 シアゼリタはそう言うと、窓掛けに頬を寄せてじっと外に目を向けた。横顔に寂しそうな影を見つけて、コンツェは息をつく。


 いくら女らしくなったとはいえ、まだまだ十四の少女なのだ。メルトローに行くともなれば、母のように慕っていた婦人たちとも別れねばならないだろう。独身ならば帯同もできようが、家庭も子どももいる既婚者なのだから。


「あの……、エトワルト兄さま」

「ん?」

「わたくしね、あの……言おうと思ってたの。ずっと。でも、なかなか言えなくて」

「……結婚のことか?」

「そう、エトワルト兄さまごめんなさい。直接言えなくて……人から聞いて、ご不快だったでしょ?」


 不安げにこちらを見るシアゼリタを、コンツェは驚いたような表情でまじまじと見つめる。

「それは、まあ……寂しいな、とは思ったよ」

「お手紙であんなことを書いたのに、結局人づてになってしまいましたわ。色々な方が候補に挙がっていたのですけど、やっぱりメルトローの方になって。こんなの、本土に知れたら裏切り者扱いされてしまうでしょう。兄さまのお立場も悪くなってしまうかも……それに、」

 さっと言葉を区切って、シアゼリタは泣きそうな顔を俯ける。


「それに?」

 優しく聞き返すと、ゆっくりと顔を上げ、その茶色の瞳からぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「それに、わたくしのせいでエトワルト兄さま、王太子にさせてしまうかも」


 頬を流れる透明な雫を指先でぬぐってやりながら、コンツェは首を横に振った。

「俺は王太子にはならないよ。もし……もしなるとしても、それはシアゼリタのせいじゃない。俺自身の決断だから――気に病むな」

「でも兄さま、本土に好きな方がいらっしゃるのでしょ?」

「え?」

「だから本土に固執なさるのじゃなくて?」


 今度驚くのはコンツェのほうだった。そんな話、一度も口に出したことはなかったはずなのに。

「それは……」

「ねえ、教えてくれてもいいはずですわ。わたくしだって、言ったのですから」

 泣いていたはずの顔が、一気に楽しそうに赤らんでいく。女の子はこういう話が好きなのだった、と思い返してから、コンツェは困ったように頭に手をやった。


「ええと、元気なやつだよ」

「……元気?」

「元気だ」

「元気なのね」

「ああ、」

「……そんな。ほら、他になにかあるでしょ、どんな顔してるとか。それだけじゃないはずだわ」


 急かすようにトントンと小さく跳ねるシアゼリタの顔を、困って見つめる。男ばかりの中にいて、こういう話には慣れていない。意中の女の話を、突き詰めて話し込むことがない。いい女と町ですれ違ったとか、そういう軽口は別として。


「髪は……薄い金で、目は湖みたいに薄い水色だ。初めて会ったときは雪みたいに白かったけど、最近ちょっと焼けてきたかな。顔は……」

 そこまで言ったところで、部屋の扉が三度鳴る。二人で扉のほうに目を向けて、入り来た人物の顔を見つめた。

「そう、ちょうどあんな……」


「アシュケナシシムさま!!」

 嬉しそうな声を上げるシアゼリタを、ぎょっとして見やる。はたと気づいて扉に目を戻すと、噴水で会った男が立っているではないか。

 フェイリットに瓜二つの顔を指して、〝あんな感じの〟と言ってしまいそうになったことにコンツェは眉をひそめた。


「ああ、こんにちは。シアゼリタ姫」

 ゆっくりと首を傾げてから胸に手をあて、アシュケナシシムはメルトロー式の礼をした。何だかフェイリットに比べて、おっとりとした印象だ。所作がゆっくりとして、優雅といえば優雅だが。言い表すなら、フェイリットは溌剌はつらつとしている。


 こんにちは、とドレスを広げて膝を折っている妹を、まじまじと見つめてコンツェは口を開いた。

「知り合い?」

「ええ、仲良くしてくださってるわ。メルトローの王子さまよ、知らないの?」

「王子ってほどでも、ないんだけどね。改めてご挨拶に伺ったよ、エトワルト王子。そうそう、姫のお焼きになった菓子、とても美味しかった」

「お口に合いましたか? うれしい!」


 カツカツと足音を立てて、部屋の中に入り来る。ふわりとした真っ白な上衣に、身体に張り付くような黒の下衣は、革のブーツに膝まで隠されている。たしか向こうの国で乗馬をするとき、こういう服を着るのだったか。そんなことを思いながら、コンツェは歩いてくる男の顔を見やった。


「噴水では失礼したね。名乗った途端、さっさと行かれてしまったものだから、気分を損ねてしまったかと」

「いや、…こっちこそ失礼を」

 フェイリットの〝弟〟だと名乗った――それも双子だという。


 アルマ山脈の中腹に、瀕死で倒れていた少女が……メルトロー王国の王女であるはずがない。

 彼女は、王女らしさとは全く無縁の性格をしている。ひょっとすると、女らしささえ欠けているのだ。他人の空似と片付けたほうが、よほど現実味のある話だった。


 姉が世話になっている。そして笑う彼女そっくりの顔を、コンツェは見ていることができなかった。伝えずにこちらに持ち帰った言葉を、後悔しはじめている。いっそのこと、伝えていればよかった。そうすれば、敵かもしれないなどと、思わなかっただろうに。


「エトワルト兄さま、せっかくだからわたくしのお菓子をだしますわ。三人でお茶しましょうよ。ね、アシュケナシシムさまも、いいでしょう?」

 笑顔で聞くシアゼリタに、アシュケナシシムは微笑んで頷く。

「もちろん、喜んで。それにお気づかいいただかなくても。貴女がいるだけで華やぐのだから」

「そんな、華やぐだなんて、アシュケナシシムさまの方がずっとずっとお綺麗なのに……って、ごめんなさい、男の方に綺麗だなんて」

「いいや、いいんだよ。勇ましいとか猛々しいとか、僕も言われたことはないからね。男らしい、とか言われたほうが、お世辞だと思ってしまう。貴女は優しいな、イグルコがうらやましいよ」

「そんな」


 顔を赤らめてくすくす笑うシアゼリタを、複雑な顔で眺める。

 彼女は奥の部屋に置いていた菓子を、すぐさま飛ぶようにして持ち帰ってきた。その手に乗せられた大きな白い皿には、メルトローのものと思われる柔らかそうな菓子が飾られている。チェクチェロよりも甘そうな匂いがした。


「エトワルトお兄さま、このお菓子、チョコレートケーキですわ。お兄さまも食べられるように、ちょっとだけ苦く焼いたの。ティリ・ヤローシテ夫人にお茶を用意していただきますね」

「ああ、フィティエンティは……」


 円卓の上に手際よく四つ並べて、シアゼリタは去っていく。この様子だと、夫人も数に入っているのだろう。楽しそうな妹の背中を見つめて、コンツェは苦笑した。

「まったく…」

「可愛らしい妹さんだね」


 いつの間にか横に並ぶ形になったアシュケナシシムを、ちらりと見やる。彼の顔は彼女が消えた扉のほうを向いて、苦笑の表情を浮かべていた。まるで自分の妹を見て、仕様がないやつだな、と微笑むような。


「側にいて、いつも他愛もない話をして、たまに喧嘩するって、……素敵なことだよね」

 一瞬だけ眉をひそめて、寂しそうな顔をつくる。

 何を考えているのか、わかってしまった自分にコンツェは少しだけ驚きを感じた。まだ、本当に彼が〝彼女〟の双子の兄だとわかったわけではないのに。


「〝彼女〟の本当の名前、サディアナ・シフィーシュっていうんだ。知ってた?」

「……え?」

「メルトローの十三番目の王女。生まれたときは、すごく騒がれたのさ。今となっては、王室になかなか表れない懐かしい色を持っていたから」

「色?」

「薄い金と、湖のように透明な水色。君がさっき言っていた、好きな人と同じだね」

 コンツェは呆然として、口を開ける。


「立ち聞きしてたわけじゃないよ、聞こえてしまったんだ。……英雄の再来と言われたけど、長く続かなかった。ある人が、彼女を攫ってしまったんだ。王は怒ってその人を捜し出し、その人の目を抉りとった。裏切りを許すまいと、殺そうともしたらしいね。……けれどその人の必死さに、とうとう折れて赦したんだ。彼女が十六歳になったら、メルトローに戻すって約束をさせてさ。そうして攫われた王女は、空っぽの王城の塔に、病気で籠もり続けることになった」


「……サディアナ・シフィーシュ」

「そう。君が知ってる僕に似た人は、王城では育たなかった。山奥で、普通の人と同じように育てられたんだ。わかるだろう?」


 扉のほうを向いていた顔が、すっとこちらを向く。思っていたよりも真剣なまなざしをしていることに、困惑してしまった。


「なぜ、」

「理由はさっき言った通りだよ。十六歳になって、いよいよメルトローに還るというときに、サディアナは逃げ出した。家出したんだ。……それから先は、君のほうが詳しいと思うけれど」


 コンツェは、ゆっくりと息を吐いた。

 では……そうか、彼女がたまに話す言葉は…メルトロー語。考えてみれば、すぐにでもわかったはずだ。その機会が、自分にはいくらでもあった。容姿、言語、テナンについてからアロヴァイネン伯爵に会って、言葉に感じた違和感。

 今までずっと、ただ自分が〝認めたくなかった〟だけなのだ。


「こっちにおいでよ。こっちにくれば、サディアナは君のものだ」

 わずかに低いところから、はにかむようにアシュケナシシムが笑う。

 こんな笑い方は反則だ。これではまるで――フェイリットの笑顔そのものではないか。

「……俺は、」


「お待たせいたしましたわ!」

 扉を叩きもせずに開け放ったシアゼリタが、背後にお付きである夫人を伴い入室してくる。その雰囲気にぴりぴりとしたものを感じて、コンツェは息をついた。


「シアゼリタ……」

「お話に花が咲いているところ、申し訳ありません。ハネア・トルシ夫人の美味しいお茶ですわ」

 にっこりと笑って、シアゼリタはハネア・トルシ夫人と茶器を並べ始める。ぼんやりと眺めていると、アシュケナシシムが不思議そうに首を傾げた。

「ティリ・ヤローシテ夫人は?」


「あら、わたくしのお茶も美味しいんですのよ、アシュケナシシム王子。フィティエンティは〝休養中〟ですわ」

 ハネア・トルシ夫人が緑の目をすっと細めて、コンツェに寄こす。


「ご一緒だったなら言ってくださればもっと早くにお茶をご用意致しましたのよ」

「いや、……俺は」

 茶器を並べ終え、シアゼリタがばつの悪そうな顔をする。

「お兄さまのばか!」


 コンツェは溜め息を吐きながら、手近な椅子を引いて座った。隣に座ったアシュケナシシムが、得心いったようにふっと笑う。

「なるほどねぇ。ああ、考えてみるといいよ。君は馬鹿ではなさそうだから、きっといい決断をすると願ってる」


 シアゼリタと夫人が背中を向けている隙をついて、耳元で囁く。そのまま微笑んで、「美味しそうだね、いただいていいかな?」と聞くアシュケナシシムを横目で睨むようにして、コンツェはわずかに頷いて応えた。




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