25 砂漠に棲む白い虎

「とうとう決まったそうですわね」

「ギョズデ・ジャーリヤ?」

「わたしも驚きましたわ。あの何にもご執着なさらない陛下が、まさかギョズデ・ジャーリヤを」

「ほんと。わたくしてっきり、ギョズデはアジィクムさまがなるのだと思っていましたわ」

「アジィクムさま、もう五回もお召しを戴いてらっしゃるのに」


 口々に喋る女たちの言葉を聞きながら、アジィクムは息をつく。

「そうかしらね」

 侍女が運び入れた氷菓子の皿から、桃色の甘そうな菓子をひとつ摘む。むっとした蒸気がたちこめる暑い 大浴場ハマムの中で、指先のひんやりとした小さな菓子はゆっくりと溶けた。


 女たちの会話はとどまることを知らず、皆口々に「ギャズデ・ジャーリヤ」の噂を流す。最近の話題といったら、顔も見たことが無い愛妾がギョズデ・ジャーリヤに召されたと、こればかりだ。

 〝バスクス二世陛下がついに妾妃ギョズデ・ジャーリヤをお召し上げになった〟、〝それも一目でお気に召したらしい〟――などと。


 だいたい、ハレムにすら入宮していない娘が陛下のお目に留まったなんて馬鹿げた話があるものか。

 ヴェールやアバヤを被り滅多に人前に姿をさらさず、しかも見かけたら見かけたで目だけしか露出がない。そんなイクパルの女を、どうしたら目に留めてお気に召すことができようか。


 「ギョズデ・ジャーリヤ」はハレムに入宮した愛妾の中から、特に陛下気に入りの女に与えられる称号。

 陛下と寝所を供にして初めて大部屋暮らしから部屋持ちに昇格、そしてその先にギョズデ・ジャーリヤの地位が待っている。だがそれは、部屋持ちですらなかなかに手に入らない地位。部屋持ちがそのままギョズデ・ジャーリヤに昇れるのが先帝までの慣例だったが、現帝の三十余数にもなる部屋持ちの女たちには、未だそれは与えられていない。


 「部屋持ちになったのに、いっこうに陛下はギョズデ・ジャーリヤの称号をくださらない」―――出戻る高貴な女たちのほとんどが、この理由だろう。

 帝国のトップを飾る四公国の公女たちも例にもれず、怒った公王に連れ戻された。


 バスクス二世陛下は女好きで有名だったが、先帝アエドゲヌのように女に執着なさる御方ではない。

 一度は必ず御召しくださる。だがそれから先、二度目に呼ばれることはまず無いのが普通。二度呼ばれれば快挙、三度目は奇跡……女たちの間でそんな囃たてがあるくらいだった。

 だからこれまでに五度、呼ばれたアジィクムは奇跡も奇跡、御子を宿すことが出来れば皇后サグエ・ジャーリヤ位さえも夢ではないと囁かれていたのだが。

「アジィクムさま?」


 沈黙を続けていたアジィクムの横顔を、わきに居て噂話に花を咲かせていた女のひとりが心配げに覗き込む。

 蒸し風呂で靄のかかった空気が、ふとした沈黙に流れた。


「見苦しい。結局のところ誰も姿を見たことが無いなんて、ただの人の話に尾鰭がついた噂でしょう。ハレムにも入宮していない娘が、部屋持ちを追い抜いてギョズデ・ジャーリヤだなどとありえないって、あなたたちが一番知っているはずですのに」

 もたれながら、アジィクムはふう、とため息をつく。その体を起こすと、香油を塗られて艶やかに照る蜂蜜色の肌に、麦穂の色の長い髪がするするとすべり落ちた。


 ――わかっていた。この恵まれた容姿が、陛下の寵を五度もつなぎ得たのだと。自分も見初められた女の一人。

 だが、とアジィクムは思う。

 あの陛下の言う〝愛している〟など、突然降りくるチャダの雨に等しい。ぱっと降り注いで、すぐに乾いてしまう。砂漠の水同様に。

 いくら気に入りの娘を見つけたとて、長く続くわけが無いのだが…。


「一目で…」

 …まさかね。

 無能だなどと罵られているが、二度も肌を重ねれば誰しもが気づく。決して彼が〝愚鈍な男ではありえない〟と。

 野心と類い稀な才知を、長年ハレムで燻らせていたただの宦官を、一目で見抜いて手元に置き、宰相にしてしまう人物なのに。


 くだんの娘が〝一目で〟ギョズデ・ジャーリヤに召し上げられた。そんな話を聞かされては、本当のところ心中おだやかではいられなかった。

 前例が全く無いとは、言えないからだ。

「たんなる噂なのでしょうか…アジィクムさまの言う通り、まだ誰も姿を観たことが無いのは本当ですわ。ギョズデの名前だけが、なぜだか一晩もかからずに皆の耳に渡って」

「一晩で?」


 たちこめる蒸気の中、急速に喉の渇きを覚える。

 記憶にも新しい――、一週間ほど前。ハレムを仕切る宦官たちが、口にし始めた噂だったはずだ。当のアジィクムも、その一人から耳にした。

 傍らの女に目線をくれると、間髪入れずに水差しから檸檬水が運ばれてくる。


「困ったものね」

 自分も、ここに棲まう女たちも。

「暗いお顔をなさらないで。アジィクムさまにこそ、ギョズデ・ジャーリヤが相応しいのですから」

 力強い口調でそう宣う侍女に、アジィクムは苦笑を返す。

 侍女とはいえ彼女達も歴とした愛妾、そして下級貴族の令嬢だ。チャダ小国の小さな部族頭の娘であるアジィクムなどとは、身分でいえば雲泥ほどの差が開く。

 それでもこうして忠実なのは、陛下をより多くアジィクムの寝所に通わせることが叶えば、当然それに仕えている彼女達にも機会チャンスが増えるからに他ならない。


 公国の公女や直轄領の伯爵令嬢は、とっくに実家へ出戻っている。

 本来ならばハレムに入ったら最後、外の世界を見ることは適わなくなるのだが…バスクス帝はそれすらも頓着なさらないようだった。

 戻らないのは自分達のような、なんとしてもギョズデ・ジャーリヤに、サグエ・ジャーリヤにと、胸に炎を燃やす女たちだけ。

 だからこそ負けられない。


「アジィクムさま、」

 驚いたように、侍女の一人が声を上げた。

 その視線の先に小柄な白い肌の少女を見つけて、アジィクムも目を見開く。

 初めて見る顔だった。象牙のような肌色に、金の髪、瞳の色もとても薄い――北方色の娘。

 小柄な身体にすらりと伸びた四肢はまるで少年のようで、髪の毛までもが短い――姦通の罪でも犯したのかというほどに。

 そうして見れば、不思議な色香が漂うようにも思える。だが「男」も知らぬ娘にも、見えることは確か。


「ありえませんわ」

 侍女の心情を悟って、アジィクムは切り捨てる。あの娘が件のギョズデ・ジャーリヤでは? …気持ちもわからなくはない。

 華美すぎぬ綺麗な顔と、淡々とした出で立ち。それはどこか砂漠の白い虎タァインを思い起こさせる。

 人を襲うことは滅多ない、だが決して慣れようともしない肉食の美しい白獣。


 けれど陛下を虜にするような豊満な身体も無いし、いくら綺麗とはいえ「絶世の美貌」と賞するほどでもない。

 見るからにまだ子供ではないか。出るべきところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいる――陛下はそんな女がお好みだった。

 あれを〝一目で〟お気に召されるはずがない。


「十三か十四か、まだ子供ではないの。ギョズデなはずない」

 おおよそどこかの下級の貴族が、愛人にでも産ませた子供を、口減らし同然にハレムに押し込んだ。そんな結末が正解だろう。

 イクパルは貧窮しているから、貴族といえど安心してはいられない。アデプに住む皇帝に集まるなけなしの財力を回してもらうために、彼らも色々と予断が無いのだ。

 ハレムの風呂は初めてなのか、娘はきょろきょろと物珍しそうに辺りを見渡している。じっと見つめていたら、こちらの視線に気づいて身を固めた。


「アジィクムさま」

 立ち上がり、娘のほうへと歩く。侍女の制止などは聞かぬふりをした。

 ギョズデ・ジャーリヤとも思えぬが、名前ぐらい確認してみるのもいい。本来なら昨日今日に入宮した新顔に、部屋持ちの愛妾が話し掛けるなどありえないことだったが、

「おまえがタブラ・ラサなの?」

 冷たい声をつくり、アジィクムは問うた。妾妃ギョズデ・ジャーリヤの、噂と同時に流れた名前だ。うろ覚えでしかなかったけれど、確かそのような名前だったはず。


 問われた娘はアジィクムを見上げて、目を瞬かせた。まるで初めて聞いた、とでも言わんばかりに。やはりこの様子では、ギョズデ・ジャーリヤとは言えない。

 ほらみろ、と後ろの女たちを見遣って苦笑する。


「違うなら別の名前を名乗ったらどう」

「名前?」

「そう、ここにいる女たちは、皆おまえより目上なのよ」

「…申しわけありません」

 驚いたような顔をした後に、娘はそう言って頭を下げる。

「フェイリットです」


 その娘の真直ぐな瞳と簡素な返答に、アジィクムは思わず顔を歪めてしまう。

 曲がりなりにも貴族の娘なら、もう少し彎曲した言い方があるだろうに。

「ほんとに獣みたいですこと」


 アジィクムは触れた手を噛まれたような心地で、礼を残して立ち去る白い背中を見つめた。


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