23 竜の子

 「つかれた…」

 細く深いため息を吐き出しながら、フェイリットは厨房に向かい回廊を歩く。


 ようやく夕食にありつくことができそうだった。小姓たちはそろって厨房の一画で食事をするが、もちろん仕え主の許可が無いかぎり向かうことはできない。

 ここ何日か、忙しすぎて三食のうち一回は必ず抜かれてしまっていた。その殆どが夕食なのだが、今日は珍しい。


 政務の書簡をお偉い方に届けたり、言伝を頼まれたり、軍事について兵舎のある区画まで大佐方に相談に行ったり、室ではウズの使い終わった帳面やら資料やら膨大な数の片付けをしたり………とにかくやることなら山積みで、次から次へと湧いてくる。


 どうやらウズは〝宰相〟の仕事ではないもの――そのほとんどが皇帝がらみだが――まで一手に担っているようだ。

 一日の予定表を作れば、「謁見」やら「視察」やらが多くを占める。思わず首を傾げてしまうが、実はそれらはすべて皇帝がやるべき政務。


 いったい皇帝は、どこで何をしているのか。一度も目にしたことがないので、実は最初から皇帝など存在しないのでは、なんて思えてくる。

 小姓たちの間ですら「皇帝は無能」説が流れているほどなのだ。きっとそれは本当だろう、とフェイリットも思う。


 宰相なら、日の何度か意見の擦り合わせに皇帝と顔を合わせていてもいいはず。なのにその宰相につく自分が見たことがないのだから、「無能」の信憑性も増してくるというもの。

 やはりこの国の皇帝は、とんでもない男なのだろう。そう結論づけて、フェイリットは頷く。


 小姓になって一週間。最近はウズの、あの氷のように固まったまま動かない表情が、いつか動きはしないかとこっそり観察できるまでに慣れてきた。


 厨房は南区。文字にしてしまえば簡単なものだが、実際北区から歩けば結構な距離がある。

 回廊添いには、隣接する室のすべてに陽光がいきわたるようにと、庭がいくつも造られている。長い距離を歩くとき、人々の目を潤すのも役目の一端。ウズの宮にあった薔薇ほどではないが、人の手を借りて美しい緑が広げられていた。


 謁見の間もある表立った政務の場・中央区の庭には、貯水も兼ねた大きな泉まであるらしい。けれど、裏方の身ではまだまだ見ることは無さそうだと、残念に思う。

 並ぶ円柱を目で追いながら、フェイリットは裸足でひた歩く。

 お腹が空きすぎて、少し気持ちが悪かった。

 ――今日の賄い何かな。昨日の棗のパンはおいしかったな、あれ出ないかな……。考えることまでが食べ物一色になってきたころ、ふと、何かの気配を感じた。ほんのり鼻先を霞めるような、明らかに故意に抑えられた気配。


「………?」

 覚えがあるような無いような、出かかっている答えに首を捻って考えるが、思い出せない。立ち止まってあちこちかぎ回るのも怪しげなので、あえて歩調は変えなかった。


 誰だろう。意識の隅にその気配を置いて、だんだんと近づいていく。

「…のわっ!」

 突然、手をひかれて庭に落ちる。

「カッ…カラ…!」

 仰向けになって転がり落ちたフェイリットを、真上から見下ろす人物。

 ―――カランヌ! 覚えのあった気配にようやく合点がいって、顔をしかめる。


「さあ、お迎えに上がりましたよ」

 微笑んで、フェイリットの体を抱き起こす。

「……どうしてここが」

 わかったのだろう。敵国の、それも中枢を担う城のなかだ。普通なら、考えも及ばないのに。

「貴女は気づいてないようですね」

「な…」

「何をって、ご自分の顔を鏡で御覧になったことは無いのですか?」


 鏡なら、それは見ないわけにはいかない。一応これでも女であるし、竜の片鱗――尻尾やら爪やら牙やら――が見えていないか、確認だってしている。今さら鏡を見て何の感慨を抱けというのだ。美人とも思えぬ自らの顔に見惚れるほど、暇でもない。


「…これも竜の欠点でしょうかね、人間の容姿に深く頓着なさらないでしょう。それにしても全く気づかれていないとは」

 呆れたように呟いて、カランヌは自らのターバンをぱっと解く。

「鏡の中で、見た覚えは?」

 両肩を捕まえられて、驚くほどの至近距離にカランヌの顔を見つめ――…フェイリットは青ざめた。


「………わ、たし?」

「そうです、似ているとは思いませんか」

 気づかなかった。会うのは初めてではないし、一度面と向かって食事までしているというのに。だがそれが、どうして自分の居場所を察せるに至ったのか、未だに理解できない。


「……まさか、貴女の母親に、双子の弟がいたことも知らされていないのですか」

「あなたも…竜なの……!?」

 母の出事も、生い立ちすらサミュンは語ることをしなかったのだ。知るわけがない。だが、自分は母の血を継いで竜になった。それが姉弟……なら、この男も。

 ようやく行きついた考えに唖然とするフェイリットを見やり、カランヌは満足そうに頷く。


「貴女と違って濃い血は持ちません。寿命やら忠誠やら面倒を誓うことはありませんがね」

 ただ、歳をとるのは忘れてしまったようです。そう苦笑するカランヌの顔は、なる程どう多く見ても二十代半ばにしか感じられない。

 母と双子ならば、もう三十も半ばであろうに。


「わかりましたか。貴女の未熟な竜の気をたどれば、どこに居たって捜し出せるのです」

 ――では、どうあっても逃げられない。メルトローに、帰らなければならないというのか。そんなの……

「そんなのいや! わたしは帰らない…わ……っ……?!」

「サディアナ様」

 急に襲った眩暈のせいで、地べたに片膝をつける。

「やはり…この国に」

 覚えのある眩暈にぐらぐらしていると、上の方でカランヌがぼそりと呟いた。

 何がこの国に? そんな疑問が意識の隅に上るが、口に出すことができない。口を開けたら最後、きっと嘔吐してしまう。


「サディアナ様。決して、正体を明かされることのないよう。さもないと貴女を殺さねばなりません」

 今まさに変化してしまいそうなのに、無茶を言う。

 だったら助けてくれとカランヌの手を掴むが、強く握り返されただけで、一向に何も変わらなかった。


「自分の力も制御できぬようでは、いけない」

 諭すように、カランヌは言った。その額には汗が光っているから、あながち彼も平静ではないのだろう。

「…っぐっ…!」

 ドクン――、と血がうなる。

 メルトローには帰りたくない。なぜだか分からぬその衝動を、どうしても抑えることができない。


 びりびりとした痛みが全身を駆け抜けて、フェイリットを襲った。

 忘れることの出来ない、変化の激痛。


「どうして…」

 体が竜へと変わっていく。

 カランヌが何かを叫んだが、聞き取ることはできなかった。

 視界が真っ赤に点滅して、地面になすりつけるように身を落とした頃には、すでに体中に焼けるような痛みが駆け回っていた。

 嗅覚の変化により突如流れ込む空気の濃さ。鼻がもげそうなほどに痛い。

 破れていく皮膚からは、血が勢い良く吹き散っていく。

 ここで完全に変化を終えてしまったら、まずいことになる。


 ―――なんとか…抑えなくては。


 フェイリットは、搾り出すような呻きをあげて、ふらふらと立ち上がった。

「う…ぐうぅ……」

 どこか、誰もいない、、、、、場所にいかなければ。

「サディアナ様っ!」

 カランヌの制止を振り切り、庭から回廊へ勢いよく飛び出す。どこへ向かっているのか自分でも分からなかったが、とにかく人間の気配を避けて、人気の無いところへ…。それだけを願って一心に走った。


「っ!!」

 回廊を曲がるところで〝何か〟が体にぶつかる。

 その反動のままに抱きとめられて、


 ――人…?


 視界がぐらぐら回るまま、フェイリットは声にならない言葉をあげた。相手が誰にせよ人間である限り、このままではだめだ。


 ――お願い離して!


 早く離してもらわなければこのまま変化が終わってしまう、そう焦っていたのに………痛みはまるで嘘のようにするすると引いていく。

 流れていたはずの血も、まるで妄想だったかのように身体の中に染み込んでいった。


「…大丈夫か」

 低い声が降りかかり、その主がフェイリットを見下ろす。

「今度は自分から飛びついてくるとは…」

「…!!!」

 自分より頭三つも高い相手の顔を見上げて、フェイリットは驚きに目を開けた。


 漆黒の髪、猛獣を思わせる闇色の瞳と顔立ち……。

 キス野郎…! 勝手につけていた悪態を心中で叫んで、男を突き飛ばす。

 が、ふらふらと飛ばされたのは自分の方だった。

 敷き詰められたタイルの上に尻もちをついて、フェイリットは息を吐く。


「おまえ、血が、」

 驚いたように男が言った。

 血? まさか変化が残ってしまったのか。焦ってその視線を追うと、右脛みぎすねの内側を流れる一本の赤い筋が見える。

「あ、」

 変化の血ではなかった。

 伝い落ちる血の元を瞬時にそう悟って、慌てて立ち上がる。

 月のもの……だ。最近なかったから、ほとんど忘れていたのに。よりにもよってこの男に見られてしまうなんて。


「おいで。ウズルダンの所へ行こう」

「え」

 立ち上がった身体を抱き上げられて、フェイリットは呆然とする。

 確かに自分はウズの小姓だが、「こういう」時に運ばれるなら女性の所であって欲しい。男で、しかも医者でもない彼の所に運ばれても困るだけだ。


「あ! いいです! 自分で歩いて行きますから」

 何よりまたも自分を抱き上げている男から、早く離れたい。間近に見下ろすその鋭い眼差しを、フェイリットは真っ赤になった顔で見遣った。


「小姓がそんな所から血を流して走り回られても困る。安心しろ、あの男は専門だ」


 何が専門なのだ。抗議する間もなく歩きだした男の腕に渋々抱えられて、フェイリットは宰相室へ向かった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る