16 宰相ウズルダン

「…リット、フェイリット」

 名を呼ぶ声に目覚め、寝台から身体を起こす。ぼんやりとした目で声の方を見上げると、エセルザの顔があった。

 寝台に身を乗り出し、その長くきれいな手をフェイリットの額に充てると、彼女はわずかに頬を緩めて笑う。

「よく眠れたみたいですわね。もう微熱もなくなったわ」

「すみません…また眠ってしまったみたいで」


 あらかじめ夜に迎えが来ると言われていたのに。夕食をご馳走になって部屋でぼんやりしていたら、いつの間にやら寝ていたようだ。

 アンも来ているのだろうか。視線を巡らすが、彼女の姿はどこにもない。夕食にも顔を出さなかったから、きっと忙しい日なのだろう。フェイリットは考えて、寝台からそっと降りる。

 部屋の中は窓から差し込む月明かりで、ほんのわずかに明るかった。


「大丈夫ですよ、まだまだ刻限まで時間がありますわ。着替えられますか?」

 その言葉を待つように、彼女の後から侍女が二三姿を見せる。

 エセルザは侍女から布のようなものを受け取ると、フェイリットに手ずから渡した。自分で着替えろという意味らしい。が、それを受け取ったフェイリットは思わず首を傾げてしまう。


「あの、これ」

 大きな一枚布。広げてみても、袖の通し口も足を通すところも何もない。縫い目のないただの布だった。

 ところどころに繊細な刺繍が施されて、華美すぎないが美しい布。


「ああ、そうですわね…」

 エセルザは得心のいったように頷く。

「着かたを教えてさしあげなくてはね」

「着かた?」

「これがこの国の衣装なのです。軍衣や鎧はメルトローや諸外国を倣ってどんどん近代化していますが、宮廷の衣装だけは昔から変わりませんのよ」


 言われてみればエセルザの着ている服も、柔らかそうな紗布で幾重にも重ねられ、縫い目がどこにも見当たらない。目の前で広げられている、一枚の大きな布と同様のものらしい。


「着かたも結び方もたくさんあります。ね、綺麗でしょう?」

 問われて、フェイリットは頷く。

 どうやらイクパルの衣装は、大きな布を体に巻きつけるようにして首や腰元でゆるく結ぶ形のものらしい。

 腰元に一度布を巻きつけて、首元で結ぶ。裾は膝より長く、素肌に布の感触が心地よい。ごく薄い布なのに肌が擦れ擦れのところで見えないようになっている。外出の折は黒いヴェールと上套をすっぽりと被る。これだけは女達に限られるようで、この国に来たとき道端で見かけた男達は至って簡略な格好をしていた。


「少し顎をおあげください」

 侍女の一人に言われて顎をついとあげると、肩すれすれの長さの髪を高めに結い上げられる。短めの髪に侍女たちは辟易していたようだったが、それでも何とかなるものだ。

 フェイリットは鏡を見て、小さく感動する。そこにはかたわらに立つ侍女と、まったく遜色ない髪型に結われた自らが映っていた。髪を結ったり綺麗な衣装を身にまとったり、一介の少女らしさとは無縁だったはずの姿が。


「終わりました。ウズ様は宮殿にてお待ちですが、私は入り口までしかお連れすることが適いませんので。着き次第、別の者が同行いたします」

 ウズの元に案内するという侍女のひとりが、するりと背中を向けて部屋と廊下を仕切る垂れ幕をめくって出て行く。


「さあ行ってらっしゃいな」

「はい、ありがとうございます」

 エセルザの笑顔に頭を下げて、フェイリットは侍女に続いて仕切り幕をくぐった。





 宮殿の中はしんと静まりかえり、物音ひとつ響かない。今日が特別なのだろうかと思えるほど、すれちがう侍女の数も少ないものだ。


「ここからが皇帝宮です。私たちは立ち入り出来ませんので、ここでしばらくお待ちください」

 立ち入れないとはどういう意味だろう。内心首を傾げるも、去っていく侍女の背中を礼を言って見送る。


 回廊の床は光沢のある薄灰色の石が隙間無くめられていた。メルトローで見るような磨かれた大理の石とは少し違う、柔らかい印象。タイル、という名だと遠い昔に教わった。

 つややかな足元の感触を目で追っていると、回廊の向こうから少年がひとり小走りに駆けて来る。フェイリットと同じような背丈の少年で、目の前で足を止めると可愛らしく微笑む。

「お待たせしました」

 軽く息をついて少年は言った。頭にぐるぐると布を巻いて、衣装の丈は膝ほども無い。剥き出しの手足はすらりと長い蜂蜜色だ。

 ふと目が合って、フェイリットは頬を赤らめた。じろじろ見て……気づかれてしまっただろうか。

 フェイリットの生まれたメルトロー王国では、あまり手足を出す衣装を着ることがない。それはイクパルよりはるかに寒冷な、気候の影響が大きいのだろう。そのせいか肌を隠さず露出するのを、どうしても珍しく見てしまうのだ。


「トリノです、この先までご案内します」

 合わせられた目は琥珀色で、かすかに透き通って濡れているようだった。

「…トリノ…」

 名を聞いて、思わず首を傾げる。どこかで聞いたような。


「どうかしました?」

「いいえ。あの、フェイリットです」

 言って、笑いかける。トリノもはにかむような笑みを返して、行きましょうかと歩き出した。

「ウズ様のお部屋は北の区画です。北が家臣たちの執務区、東が陛下のご寝室とその奥が後宮ハレムになっていて、西は陛下の御家族が住まう宮があります…と言っても今は空っぽですが」


 南から入って来たから…とフェイリットは頭の中で地図を組む。自分たちが今歩いているのは、西側のあたりだ。

 円柱の並ぶ回廊を右へ右へと曲がっていくと、トリノはひとつの部屋の前で立ち止まった。

 扉は無く、幾重にも重ねられた布が目隠しのように垂れ下がっている。ここに来るまでいくつかの部屋を通ってきたが、やはりそのすべてに扉はなかった。


 トリノは幕のそばで静かに膝をつき、

「お連れいたしました」

 と微かな声で布の向こうへ告げた。

「……お入りなさい」


 宰相の執務室―――そう説明されていた部屋は、予想よりもこじんまりとした空間だった。

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