第1章 霊の後輩誕生 その1
【恵】
中学校入学式を明日に控えた藤原恵人(ふじわらけいと)は宙に浮かんで、地面に目を向けていた。その瞳の先には、不自然な形でうつ伏せに倒れている自分の姿があった。
恵人は、二重瞼の眼を見開いて、その姿を見つめていた。いや、正確には呆けたように口を開けて死体を凝視していた。自分の母校、小学校の校舎の屋上から飛び降りて地面にしたたか叩きつけられた一瞬までは覚えているが、死後直後の肝心な場面は記憶に残っていなかった。
──僕は、死んだ、のだ。
ほんの数秒前までは生きていたのに、まるで動物の死骸のように地面に転がっている。さまざまな思い出が詰まった校庭に、投げ捨てられた人形のように転がっている。頭と顔から夥しい血を流して、子供とはおもえないような柔軟性のない固かった体とは思えないほど、手足はあらぬ方向に向いて。
「やっちまったな」
背後から男の声がした。
恵人は振り向いて、声をかけた男を見て恐怖に慄いた。
なぜなら、その男は水膨れのような酷く傷んだ醜い顔に血糊をたっぷりと付けていて、化け物のような恐ろしい顔をしていたからだ。
「あの屋上から飛び降りて地面に叩き付けられる、おまえの姿を、俺はずっと見ていた」
化け物顔の男は、皮肉を込めたような冷たい口調で喋ると、全身が凍えそうな恐ろしい眼で、慄く顔をじっと見ていた。
「あ、あの、あなたは、だ、誰なんです?」
恵人はひどく怯えながらも、恐る恐る尋ねた。
「俺か、俺はおまえと同じ死んだ人間の霊だよ。ああ、この俺の顔が、恐ろしいんだな」
男は口を吐くと、頭蓋骨が見えそうなほど大きく抉れて瞼まで垂れ下がっている毛髪と肉付きの頭の皮を掴んで、元の場所に貼りつけていた。がその手を離すと、粘着力が無くなった古いテープが剥がれたかのように、ぶらりと垂れ下がった。
「霊?」
「ああ、そうだ。おまえより先に死んだ先輩幽霊だ。おまえ、その顔からすると俺の顔がよほど怖いようだな。だが、おまえの顔も人のことは言えんぞ。これで、顔を見てみろ」
先輩幽霊だと名乗った男は、内ポケットから鏡を取り出し、野球選手か、ソフトボールの選手のようにスナップを勢いよく利かせて鏡を投げてきた。恵人は慌てて両手を伸ばし、鏡をどうにかキャッチした。そして、言われたとおり、鏡で自分の顔を見た。
「うわっ!」
驚きのあまり、肛門を刺激したようで、プッと短くオナラをした。が、幸い大便までは出てはいなかった。幽霊も生きていた頃のように排尿や、排便をするかは分からないが。
鏡に映った顔は、自分の顔ではなかった。近所のおじさんや、おばさんたちから美少年だね、と褒められていた顔ではなかった。目の前にいる先輩幽霊には、さすがに負けるが、それでも立派な? 血だらけの恐ろしい顔が、鏡に映っていた。
「驚いたか。その鏡に映った顔が、いまのおまえの新しい顔だ」
「う、うっそー!」
衝撃の声を鏡に飛ばし、眼玉が半分飛び出したような、間が抜けた顔をして化け物顔に見惚れた。いや、あまりのショックに打ちひしがれた顔をさらしたまま、鏡の向こうでも呆けたように口を開けている化け物姿に釘付けになった。
「うそも、くそもない。それがおまえの顔だよ。いいかあ、生きていたものはな、死んだときの姿のままで、この世をさまようわけよ。おまえの死体に近づいて、よく見てみろ。顔中から夥しい血を流して、皮も肉も骨が見えるほど抉れている。それが死後の世界での、おまえの新しい門出を祝う、凛々しい姿ってわけだ」
恵人は、まさか嘘に違いない、と思った。テレビで見たゴースト映画の主人公の恋人の幽霊は、イケメンだとは思わなかったが、それなりの顔をしていた。
先輩幽霊が、男が言ったことが本当なのか、確かめようと校庭にふわりと降りて、自分の顔を恐々と覗いた。
「あっ」
思わず声を漏らしたが、お尻の方は大丈夫だった。尿は少しちびったが、便は漏れてはいなかった。それでも、自殺することだけを考えていて、死ぬ前に排便をしなかったのがまずかったのか、また屁が続けて出そうだった。
ショックを引きずった顔を近づけて、頭をよく見ると、飛び降りた場所がよくなかった。悪ガキが放置したのだろうか、割れて鏃のように尖ったブロックに頭を突っ込んでいた。そのブロックに見事、返り討ちにあって、頭蓋骨が見えるほどに頭皮が酷く抉れた無惨な姿に変わり果てていた。もう美少年の顔ではなくなっていた。
「この死後の世界ではな、生きていたときと同じ、まともな顔をしているのは、老衰とか病気で死んでいった人たちだけだ。おまえのような自殺をした人間は、傷だらけのままの姿で死後の世界をさまようことになるのさ。おまえと俺は、まだましな方だぜ。中には、眼球や脳みそが外に飛び出したまま、さまよっている奴もいるぜ。自爆テロで死んだ奴は、もっと悲惨だ。連中の中には胴体が吹っ飛んで、頭だけとか、もっと醜いのは肉塊だけの奴もいる。時代劇にでてくる、お岩さんも真っ青な、いい面だぜ。おっと、おまえには、お岩さんといってもわからないか」
恵人は口をあんぐりと開けて、ショックを受けた顔をさらしたまま、先輩幽霊の講和のような長話を聞いていた。が心は、美少年の顔をすっかり台無しにしてくれたブロックと、そのブロックを放置した者への憤りが占めていた。
──ブロックを捨てていった奴を探し出して、化けて出てやる。
恵人は頭の中で、自分が知っている十一人の素行の悪い少年たちの雁首を、戦国時代のさらし首のように長テーブルに並べて、弁明できぬ顔を指差しながら、こいつか? いやあいつかも? とブロックを置いた犯人を捜していた。
「あ、そうだ。俺の名前は沢口光司。この水膨れの顔は、老人にしか見えないだろうが、生きていれば、歳は四十五。俺は自殺じゃねーが、おまえと同じようにまともな死に方をしなかった男だ。だから血だらけの顔をしている。ま、それはいいとして、俺はおまえを助けようと屋上の塀から落すまいと、おまえの胸を押していた」
まだ憤慨を引きずっている心に、その声が届いた恵人は、思い出した。飛び降りようとしたとき、何者かが胸を強く押しているように感じたことを。
「だが、幽霊には実体がないからな。おまえは俺の体をすり抜けて落ちていった」
「どうして、僕を助けようとしたんですか?」
「馬鹿野郎! 自殺をしようとしている子供を見て、知らんふりできるか」
生きている人たちを怖がらせて喜びそうな、あるいは酷い悪事でも働きそうな化け物に似合わないセリフを先輩幽霊、沢口がまたも言ってきた。
「でも、あなたは幽霊じゃないですか。幽霊が、生きている人間を助けるなんて、聞いたことがないです。映画やドラマじゃあるまいし」
「いいか、俺も元、人間だ。まだ、魂もあれば、おっと、いまが魂か。まだ良心が残っていれば、救いたい気持ちは生きているときと同じだ」
「でも僕は、死にたくて自分で自殺したんです」
その言葉を聞くや否や、沢口が物凄い形相で睨みつけてきた。ただでさえも恐ろしい顔が、背筋も凍りつくような戦慄の化け物になった。
恵人はその姿に怯えて、全身を震わせた。この場から直ぐにでも逃げ出したかった。が、足がすくんで、金縛りにあったように、その場に固まった。
「いいか、どんな理由があったかは知らんが、死ぬということがどういうことかわかっているのか。生きることから逃げて、死後の世界なら楽でもできると思ったのか。おまえの親がどんなに嘆き悲しんでいるか、一生死ぬまで、おまえのことを思い出して」
「りょ、両親は、いません。ふ、二人とも、亡くなりました。姉も死……弟が、一人いるだけです。あ、あの、もう、いいですか? こ、これから両親を、探しにいきますので」
恵人は怯えながらも、子供の嫌いな大人の長くなりそうな説教から耳を塞ぐかのように、話の途中に口を挟んだ。
「それは無理だ」
「なぜです? 死んだら、天国に行けば、みんなに会えるのでしょう?」
「おまえ、天国に行っても、両親には会えないよ。たとえ地獄に行ってもだ」
「言っている意味が、わかりません」
「いいか、おまえの両親に、天国で会えると思ったら、おお間違いだ」
「なぜです? 天国にいけば、みんなに会えるんじゃないのですか?」
恵人は、沢口の前から早く立ち去りたい気持ちを顔にぶら下げて、訊き返した。
「いいか、一人の人間と血縁関係がある霊の数でな、町や村がつくれてしまう。だがな、天国で家族を見つけるのは、深海で五円玉を探すことよりも、ずっと難しいことなのだ。それでも探し続ければ、いつかは会えるかも知れない。ここでは永久に探し続けることができるからな。だがそれは、おまえの家族が、同じ天国にいれば、の話だけどな」
また沢口の長話が、恵人の顔に降りかかった。
「僕、探します。どんなに時間が掛っても、必ずみつけます」
「俺が言ったことを全然、理解していないようだな。おまえの両親が、同じ天国にいれば、と言ったはすだ。いいか、残念だが、両親に会うことは、永久に叶えられない。天国では、同じ年か、よくてせいぜい、二、三年前に死んだ人たちにしか、出会えないのだよ」
「なぜ? あの沢口さんに、なぜそんなことが、わかるんです?」
「その理由を教えてくれたのが、ある仙人だった。その仙人は天国から落ちてきたそうで、天国の様子を俺に詳しく説明をしてくれた。その仙人も天国に行くと直ぐに、先に死んだ妹を探してまわったそうだ。だが、見つけられなかった。天国は、いうなれば年代ごとに分かれているそうだ。それと、その仙人の話では、天国にいる霊は以外にも少ないらしい。驚きだろう。犯罪者たちだけが地獄に行って、みんなは天国に行けると誰もが信じている。ところが犯罪を犯したことがない人たちも、地獄に放り込まれているそうだ」
「え? 嘘でしょう? だって、その人たちは何も悪いことはしていないのに、そんなのおかしいですよ」
「いいか、法律は正義ではない。法律を犯せば悪人で、法律を犯さなければ悪人ではないと言えるのかい。権力を握る政治家と官僚たちのご都合や、圧力団体の利益を守るために法律はつくられているのさ。法律なんてのはな、その国のご都合で決まるものなのだよ。日本の常識は、よその国では非常識。これが世界の常識だ」
「僕には、よくわかりません」
「そうか君は、まだ半中学生だったな」
「何ですか? その半中学生というのは」
「たしか、おまえまだ中学校に入っていないだろう。明日が中学校入学式だよな。だから歳は中学生の年齢だが、まだ中学校に入学していない君は、半中学生だ」
「……」
恵人は言い返せず、不満の顔で押し黙った。
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