セレーネの窮地(5)
西の空に日が沈み、ハルジオンの森は夜の暗がりに包まれていった。
幸いにも、リーベルとエステリアが待ち伏せする森の平地部には、夜空から月と星の光が照らし、周囲に比べると気持ち程度ではあるが、明るく思えた。
リーベルとエステリアは、平地の周囲に生えた1メートル程の草むらに身を隠し、ニーズヘッグの到着を今か今かと待っていた。
かれこれ、6時間程経過しているが、ニーズヘッグが来る気配はまだ無い。
「ねぇ、いつになったら来るのよー。もう、あの洞穴に乗り込んじゃおうよ」
「その策は、まだ使う時ではございません。あいつが夜行性の場合は、この時間から行動するはずです」
「ちぇっ、わかったよー」
リーベルは口を尖らせて、エステリアの言葉に応える。
すると、東の方向から森の木々が軋んでいるような音が聞こえてくる。
その方向は、ニーズヘッグが寝ぐらにしているであろう洞穴の方角であった。
どうやらこの平地に向けて置いていた干し肉の匂いに吊られたのだろう。
軋む音はどんどんと大きくなっていくと共に、ニーズヘッグがこちらに近づくにつれ地揺れが起こり始めた。
「獲物がかかりましたね、リーベル様」
エステリアは、口元をニヤリとさせ、獲物を狩る時の猟奇的な目で東の方角を見つめていた。
一方のリーベルは、その迫力に怖気付いているのか体が小刻みに震えていた。
それもそのはず。リーベルは、一国の王女である。エステリアは、聖騎士として多々苦境な状況を乗り越えてきたが、リーベルにはそんな経験が1つもない、
「リーベル様、大丈夫ですか?」
エステリアは、隣にいたリーベルの異変に気づくと、すぐさま背中をさすり、手持ちの水袋を差し出した。
リーベルは、すかさず水袋を手に取り、勢いよく飲み干す。
「ありがとう、エステリア。少しは気持ちが楽になったわ」
「あまり無理をなさらず。私一人でも戦いますから」
「それはダメ!」
エステリアの言葉に、リーベルは真剣な表情で応えた。
「私は、サンフレア王国の王女として、混沌の闇からサンフレア王国を救い出す責任があるの。私にとって、混沌の闇は最大の敵。だから、ここで逃げ出したら何の意味も無くなるわ」
「リーベル様……」
リーベルの言葉に心打たれるエステリア。
リーベルの幼少時から側についていたエステリアにとって、リーベルの王女としての責任感が強くなっていく事に、我が子のように誇らしく思えたのだ。
そして、エステリアは、心の中で改めて決意を固める。
命をかけてリーベルに仕えることを。
その時、突如として猛獣の唸り声が森中を包み込む。
そう、ニーズヘッグが平地部に現れたのだ。
月明かりに照らされて、黒紫色の龍毛が怪しく光る。
翼竜を羽ばたかせながら、平地の中央に置かれた干し肉を貪り始める。
貪る時に見えた牙は鋭く、人間など一噛みで粉々になってしまいそうだ。
「現れましたね」
エステリアが、気づかれないようにヒソヒソとリーベルに話しかけた。
「そうね。しかし、美味しそうに食べるわね、あいつ。あの干し肉、私のおやつなんだから」
「そこですか!相変わらず、リーベル様の食い意地には困ったものです」
エステリアが苦笑いでリーベルを見ると、リーベルは、舌先を少し出しておどけてみせた。
「リーベル様、ご準備はよろしいですか」
エステリアは、引きつらせていた口元を直ぐに戻し、鋭い眼差しでリーベルを見つめる。
その目は、まさに自らの信念を貫く騎士の目だ。
その言葉に、リーベルはニヤリと口元を緩めてエステリアに答える。
「当たり前じゃない!私達の戦の始まりよ!」
「では、参りましょう!」
エステリアの語気の強い掛け声で、二人は草むらから勢いよく飛び出し、ニーズヘッグの前に現れた。
ニーズヘッグは二人を捉えると、怪しく光る眼を大きく見開かせ、雄叫びをあげた。
その猛烈な勢いに、リーベルは押し倒されそうになったが、ステッキを支えに何とか持ちこたえていた。
一方のエステリアは、その雄叫びには一切動じず、背筋をまっすぐに伸ばし、凛とした立ち姿でニーズヘッグと対峙していた。
さすが、サンフレア王国の聖騎士なだけある。
「さあ、勝負の始まりだ!化け物!」
エステリアは、そう叫ぶとレイピアを構えながら、素早い動きで、ニーズヘッグに突撃していく。
ニーズヘッグは、ナイフのように尖った爪で、エステリアに襲いかかるが、彼女は軽やかにそれを避けていく。
そして、ニーズヘッグの下腹部に到着すると、レイピアに力を込めて突き刺す。
しかし、ニーズヘッグの強靭な龍皮に阻まれ、傷一つつかない。
「やはりか」
そう小さく呟くと、レイピアの剣格に埋め込まれた緑の魔法石が光輝く。
「風よ。我が剣(つるぎ)に力を」
そう唱えると、レイピアの周りに大気が集まり、緑色の魔法石の光で、大気もまた緑に輝く。
そして、その大気はレイピアの剣身の周りを不規則に流れ始める。
「解き放て!ビエント!」
エステリアは、レイピアを再びニーズヘッグの下腹部へと突き刺す。
すると、凄まじい力を帯びた大気が剣先に集中し、下腹部分をえぐっていく。
強靭な龍皮に深い刺し傷がつき、血が流れ落ちていく。
「とどめだ!」
エステリアは、もう一度ビエントを繰り出そうとレイピアを構えた時であった。
ニーズヘッグの刺し傷が、漆黒の妖気に覆われていくのだ。
そして、数秒後に、その妖気は消失し、先程の傷は何もなかったかのように傷一つ無くなっていったのであった。
(おかしい。上級魔獣でもここまでの能力は)
エステリアが懐疑に思った瞬間、ニーズヘッグは両翼をはためかせ、少し後退すると、右前足でエステリアを掴み、投げ払ったのだ。
エステリアは、森の木に強く叩きつけられ、地面へと落ちていった。
慌ててリーベルがエステリアの元へと駆け寄ると、叩きつけらた衝撃で折れた木の枝が何本もエステリアの両足と脇腹に突き刺さっていたのだ。
突き刺去った部分からは、血が大量に溢れ出し、立ち上がる事も困難な状況になっている。
「リーベル様、お逃げください!私だけが犠牲になります」
「何を言ってるの!私は逃げないし、あなたを絶対に見捨てたりなんかしない!だって、私は王女なんだから」
そう言うと、リーベルはエステリアの腕を自らの肩に回すと、力を振り絞り、草むらへと避難した。
そして、荷物袋の中にあった麻布3枚を取り出し、枝が突き刺さったままの傷口を三ヶ所塞いだ。
枝を取り除くと、傷口が広がり更に悪化する恐れがあるからだ。
しかし、エステリアの傷は三ヶ所どころではない。
このままでは出血死しかねない。
早く
ニーズヘッグを討伐し、クライスの元へとエステリアを届けなければならない。
リーベルは、草むらから飛び出すと、再びニーズヘッグと対峙した。
そして、太陽の紋章が刻まれた赤い宝石をニーズヘッグの龍頭に向け、魔法を唱える。
「解き放て!サンフレイム!」
リーベルの意志と呼応し、酒場の一件とは比べ物にならない程の豪火の玉が放たれ、ニーズヘッグの龍頭に直撃する。
豪火がニーズヘッグの頭部全体を包み込み、焼き尽くしていく。
(決まったー!)
そう喜んだのも束の間、ニーズヘッグは大きく唸り声をあげ、唸り声と共に発せられた息で豪火を消しさってしまった。
(やっぱり。そう簡単にはいかないよね)
リーベルは、その後も次々と豪火を放っていくが、ニーズヘッグの放つ息に消失されていく。
そして、最初の豪火で焼き尽くした、やけど傷も漆黒の妖気に包まれ、完治していたのだ。
「無敵なの、こいつ!」
リーベルは、背後に回り込み、今度はニーズヘッグの両翼に向けて豪火を放った。
しかし、ニーズヘッグはその硬い両翼を駆使して、豪火を払いのける。
周囲の木々に豪火が移り、リーベルは炎の渦に囲まれたような状態になってしまった。
その時、ハッと我に帰るリーベル。
そう、豪火で燃やされた所には、動くことの出来ない重症のエステリアがいるのだ。
「エステリアー!」
リーベルは、すぐさまエステリアの方に向かおうとした、その瞬間。
獲物を捉えるチャンスを見計らったかのように、無防備なリーベルにニーズヘッグの鋭い爪が襲いかかったのだ。
エステリアの事で頭がいっぱいになっていたリーベルには不意の出来事。
もう、回避できる隙もない。
リーベルは、目を閉じ、己の死を覚悟した。
だが、目を閉じた直後、金属同士がぶつかるような甲高い音がリーベルの耳に届く。
ゆっくりと目を開くと、目の前の光景に一驚する。
そこには、ニーズヘッグの急襲を剣で対抗している一人の男の背中が見えたのだ。
その男は、少し長く伸びた黒髪を後ろでくくっていた。
そんな髪型の男は、この付近には一人しかない。
そう、酒場(バル)で働く憧れの彼である。
彼は、苦しそうな顔一つもせず、ニーズヘッグの急襲を防ぎリーベルを守っていた。
そして、リーベルは、自らの眼に映るものに再び驚かされる。
蔓のように複雑な模様が描かれた剣格の中央に埋め込まれた赤い宝石。その宝石の中央部にはアポロンの象徴である太陽のマークが描かれている。
さらに剣身に古代サンフレア語で刻まれた「情愛」の意味を示す言葉が刻まれていた。
その剣は、サンフレアに伝わる聖剣"サン・アフェクション"。
聖剣は、今ある者に託されている。
そして、その人物は5年前に死んだとリーベルは思っていたのだ。
「アルフレッド……」
リーベルは、声を震わせて、彼の背中に向かって声をかける。
すると、彼は、ゆっくりとリーベルの方を向き、優しく微笑みながらこう答えた。
「お久しぶりでございます。リーベル様」
リーベルは、涙を浮かべて微笑み返した。
会う度にどこかで彼に感じていた懐かしさ。
それが今ここで明らかになった。
そして、彼に対する愛しき思いは、昔からのものだったのだとその時リーベルは理解したのであった。
「ここは、お任せください」
彼は、そう言うと、対抗していた剣でニーズヘッグの爪を押し返す。
そして、剣から離れた隙を見て、下腹部に斬撃をくらわす。
すると、ニーズヘッグの下腹部には深い切り傷がつき、ニーズヘッグはその痛みで大きな唸り声をあげた。
しかし、漆黒の妖気が再び傷を修復しようと、傷の周りを包み込んだ瞬間、アルフレッドは、再び斬撃をする。
それから、アルフレッドは妖気の修復が始まる前に幾度となく斬撃し、傷口を大きくしていった。
そして、修復が間に合わなくなってきた時、アルフレッドは静かに目を閉じ詠唱を始める。
「情愛の炎よ。彼の者に加護を与えたまえ」
アルフレッドの言葉に、剣格に埋め込まれた赤の宝石が、オーロラのように赤く光り輝き始め、剣身もその赤色のオーロラに包まれていく。
そして、次の言葉と共に目を見開く。
「アフェクションフレア!」
アルフレッドは、剣をニーズヘッグの胸部に突き刺した。
すると、ニーズヘッグの全身から漆黒の妖気が一気に発散していったのであった。
そして、下腹部の傷は、赤のオーロラによって修復されていき、深傷は一瞬のうちに治癒した。
ニーズヘッグの目は、獲物を狩るような目つきから一変し、とろりとした柔らかい目つきへと変化している。
そして、ニーズヘッグは、感謝の意味なのか、アルフレッドに頬ずりをすると、両翼を羽ばたかせ、その場から飛び立っていった。
「お怪我はありませんか?リーベル様」
見つめ合うリーベルとアルフレッド。
こうして、2人は再び巡り合ったのであった。
隻眼聖騎士と神裔の王女 坂昇 @sakanoboru
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