琴葉理子のお断りします
あきよし全一
第1話 琴葉理子と風邪の思い出
「そこの学生さん! 自転車がパンクしちまって家まで帰れないよ。お願いだよ、哀れな婆にタクシー代……」
「お断りします」
お婆さんの涙ながらの頼みを、僕の彼女――琴葉理子は一刀両断した。
「自転車に乗れるということは、そのお歳にしては体幹の筋力がしっかりしているということ。健康のためにも歩いてお帰りください」
では、と理子さんは浅くお辞儀をするなり、セーラー服をひるがえしてさっさと歩き始めた。
理子さんが人を斬るときには容赦がない。切れ長の目に、長い黒髪、切りそろえられた前髪と眉。整った顔立ちから繰り出される断固とした拒否の言葉には、ものすごい「圧」がある。
お婆さんもこんなにキッパリ断られると思わなかったのだろう、ポカンと口を開けている。
僕は慌てて学生服の内ポケットから財布を出すと、千円札を一枚取りだし、お婆さんに握らせてから理子さんを追った。
秋の終わり。公園は銀杏の落ち葉で埋まっている。
息を切らして追い付くと、彼女は視線だけ振り向いて、セーラー服の襟越しに言葉を投げてきた。
「……七郎さん、お金を渡してきましたね?」
「だって家に帰るの大変だろうし……」
「あれが全部ウソで、渡したお金でお茶でも飲んでたらどうするんですか」
「良いんじゃないかな。全部本当だった時よりは」
すると理子さんは、ため息をついて「お人好し」と呟いた。
でも、それ以上は何も言わない。それが彼女なりの僕への好意の表れだと分かってきたのは、最近になってからのことだ。
「理子さん、ゆっくり歩こうよ」
「いけません。15時の待ち合わせに遅れます」
そのまま歩き続けて、僕たちは待ち合わせ場所に指定された、公園の時計台に到着した。
相手は先に来て僕らを待っていた。綺麗にととのったショートボブ。僕らと同じ制服。
中学で一緒に生徒会に所属する一つ下の後輩、睦月ちゃんだ。
僕らを待っている間、木枯らしに吹かれたのだろうか。彼女の頬は赤かった。
「先輩がた、お待ちしていました!」
「お待たせしました。15時には間に合いましたね」
「やあ、久しぶり。最近、学校を休んでたから心配したよ」
と、ここまでは普通のやり取りなのだ。
しかし、理子さんの切れ味はここから本領を発揮する。
「それで睦月さん、私たちに御用とは何ですか? 愛の告白なら私抜きでやれば良いと思うのですが」
「あちゃー、やっぱりバレてましたね……」
「当然でしょう。気づいていなかったのは、唐変木の七郎さんだけです」
告白? バレた? 話が見えない。睦月ちゃんはと言えば、返って清々しいという顔をしている。
「要するに睦月さんは七郎さんが好きだったんです。告白しなかったのは私が居たからです」
「先輩、鈍すぎますー」
女子二人は頬を膨らませ、僕をにらんでくる。恋敵同士なのに息が合うね、君たち。
睦月ちゃんは呼吸を整えると、顔を赤くして僕たちに告げる。
「先輩、琴葉さん。私、父の仕事で転校することになったんです。それで中学最後の思い出に、先輩とキスさせて欲しいんです」
「キスぅ!? え、ちょ、そういうのは大事にしなきゃ……」
「だから先輩がいいんです! 先輩のバカ!」
だだっ子のように手を振り回す睦月ちゃん。対照的に、理子さんはじっと何かを考えている。
「……接吻ですか。分からない、なぜ私に教えるのです? 私がまだ七郎さんと口づけを交わしていないとでも?」
「さらりと僕らのプライバシー教えないで、理子さん!?」
「それは……先輩が秘密を抱えないようにです」
睦月ちゃんは――さすがに罪悪感があるのか――視線をそらして言う。
「先輩って人の頼みを断れないから、二人きりのとき頼めばキスしてくれると思いました。でも、その後、琴葉さんを裏切ったと負担に感じてしまう」
「それなら私の許可を得れば負担にならない、ですか。つじつまは合いますが――」
理子さんは更に考え込む。睦月ちゃんは目をつむり唇を差し出してくる。その頬は赤く染まっている。
「先輩、お願いします!」
「理子さん、なんとか言って!」
「まあ接吻程度なら構わないような……」
「理子さんっ!?」
僕は、正常に思考できなくなっていた。ブレーキ役の理子さんまで止めてくれなかったら、このまま流れでキスしてしまいそうな気がする。
でも、それって理子さんへの裏切りで、ああでも理子さんは認めてくれてるから……?
「先輩、後で琴葉さんとたくさんキスしていいですから……! 早く……!」
その言葉を聞いた途端、理子さんはハッと目を見開いた。
「お断りします!」
決め台詞を放つや、理子さんは僕と睦月ちゃんの間に割って入った。
「七郎さん、睦月さんと接吻してはいけません!」
「えっ、なんで?」
「なんでもです!」
すると睦月ちゃんは火がついたように泣き始めた。
「なんで!? なんでダメなの!? 良い子にしてたら好きな人に振り向いてもらえるんじゃなかったの!?」
……え、なにこの反応? 睦月ちゃんの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「どうして……転校するのに最悪の思い出しか残せないの」
その言葉を聞いたとき、僕は気がついた。睦月ちゃんが僕と会えるのは、きっと今日が最後なのだ。
だから――
「ちゅっ」
「んなっ!?」
僕は睦月ちゃんに口付けした。自分で意思を持って、流されることなく。
それは軽く触れるだけのもので、けれど確かに睦月ちゃんの熱を伝えてくれた。
「睦月ちゃん。転校しても元気でね」
「……七郎さんのバカ」
理子さんは額に指を当て、首を振っている。
睦月ちゃんは唇に指を当て、ふるふると震えていたが、やがて声の限りに叫んだ。
「先輩の大バカ!」
「えっ、なんで?」
「バカだからバカだ! こっち来るな、あっち行け!」
「なんで」
「早く!!」
そう叫んで睦月ちゃんは走り去った。
振り返ると理子さんも歩いて帰り始めていた。結構な早足で、追い付くのは大変そうだ。
「七郎さん、私に近づかないでください」
「なんで!?」
「三日もすれば分かります」
「待ってよぉ!」
そして三日後、僕は理子さんの言った意味を体で理解した。
「まさか風邪を引くとは……」
自宅のベッドでグッタリしながら、僕は理子さんの看病を受けていた。今日の理子さんはカジュアルなニットのセーターとジーパン、それにエプロンを付けている。
この三日間、僕を避けていたのがウソのようだ。
「だから言ったでしょう、睦月さんと接吻してはいけませんと」
意外な人物の名前が出たことに、僕は驚いた。なんで睦月ちゃんが関係するんだ?
「まだ気づいていなかったのですか。睦月さんは何日か学校を休んでいて、あの日も頬を真っ赤にしていました」
「風邪で休んでたっていうのかい? じゃあ僕にキスを頼んだのは……」
「七郎さんに風邪を移し、私にも風邪が移ればいいと思ったんでしょう。七郎さんに近づかないで正解でした」
なんと。てっきり理子さんに嫌われたのかと思った。
「私が倒れたら誰が七郎さんを看病するんです」
理子さんは、そう言うと胸を張って見せた。こういう時の彼女は、本当に頼りになる。
「しかし睦月ちゃんには、どうしてあげたら良かったんだろうか」
「好きな相手にキスされて振られる……トラウマものの悪夢ですね」
そんなに!? それで大バカ、こっち来るなと泣かれたのか!?
僕がしょげ返っていると、理子さんはクスリと笑ってみせた。
「ふふ……もっとも、人の心は割りきれないですから。最初は騙すつもりで近づいても、親切にされて態度を変えるなんて場合もあるかも知れません」
そう言うと、理子さんはジャラッとビニール袋を取り出してみせた。
「覚えていますか、自転車がパンクしたって言ってたお婆さん。彼女に会ったら
『学生さんにお金を出させて済まなかった、お礼に公園で拾った銀杏を上げるよ』
ですって」
――食欲が無いでしょうから、茶碗蒸しに入れますね。
そう言って理子さんは三日ぶりの笑顔を見せてくれたのだった。
了
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