幼少期~煌の視点~

「馬が汚れたではないか!!」

「ッ!?」

俺は民を馬の上から見下し、罵声を吐いた。

そのとき俺を見上げたあの涙で震える瞳を俺は見返すことができなかった。


悲劇を生んだのは、紛れもなく俺の馬の扱いの粗雑さが所以だろう。

しかしここまで俺が気を強く持たなくてはいけないのには、俺の幼少期からの王室の中の確執が根本にある。


…。

これは俺の弟が生まれて2年程が経ったある風が暖かい春の日のこと。


宮中では俺は王と正室嬉彬キヒンの間に生まれた嫡男だからと皆俺を贔屓して、異母弟のセンはまだやっとよちよちと足を縺れさせながら俺の後を歩く幼さがある。

そして同時に一つしか年の離れていない斬に兄らしく振る舞いたいと奮闘する俺の姿もあった。

しかしその関係に少しずつひずみが生まれ始めた。


その日俺は斬と二人で石積みを競っていた。

手元の石をどれほど高く詰めるか競争する遊びで、俺の得意な遊びだったこともあり、俺は兄の威厳を見せたくて無我夢中で石積みに励んだ。


するとある小さな石が斬の積んでいた山からこぼれた。

その行く先を追うと誰かの足下に当たり止まった。


「はて・・・今日は何の遊びをしているのだ?」

「ッ!」

頭上から聞こえてきた低く厳かな声に俺はすぐに立ち上がり頭を下げた。

その声の相手は俺の行動の通りこの国の王、そして俺と斬の父上であるリォンだった。


しかし斬は父上のお立場をわからないらしい。父上の足下にまで転がった石を拾い上げ顔を見るなり思いがけない行動をとった。

「父上!どうぞ。」

「ん?これをくれるのか?」


斬は自分の持っていた石を父上に渡した。父上は驚いたのか目を見開いて斬の顔を見入った。

「こら、斬!!」

「なりません、世弟せじぇ様ッ。」

斬の行為はとても素晴らしいこととは言えなかった。

なぜなら国の象徴となる方に土で汚れた石を差し出すのだ。誰が考えても無礼な行いになってしまう。


俺も下のものも慌てる中、父上は微笑み斬の手から石を受け取り斬の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。

「どうして俺に石を渡したのだ?」

「父上なら石積みの良い積み方を知っていると思ったのです。」

「良い積み方?生憎だが高く積むのは俺よりもそなたの兄、ファンに勝てたことがないのだ。」


父はそう言って俺を立ててくれた。

世子の立場というのはそれだけ特別なのだ。

それが俺には優越的で心地がいい。…はずだった。


しかし次の斬の一言で俺の地位に小さなひびが入った。

「いいえ。僕の知りたいのはこの石が落ちない積み重ね方なのです、父上。」

「ッ…。」


斬の言葉の意外性が面白かったのか、父上は斬を抱き上げた。そして斬の目線は俺より遙か高いところで俺を見下ろした。


それが俺の浅はかさを露呈されたようで、気恥ずかしくて俺はその場から走り去るしかなかった。

しかし走っているうちに俺の中である疑問が浮かんだ。


”なぜだ!?”

”なぜ俺がいなくならないといけないんだ!!”

”なぜ俺を抱き上げてくれなかったんだ!!”

”なぜ弟に見下されるんだ!!”


”俺の方が石積みだって位だって上じゃないか!!!”


がむしゃらに走り続け母上のいる部屋『#慶幸宮ぎょんれいぐん』まで来たとき、俺の中の羞恥心はいつしか劣等感と今やどこにも向けようのない敗北感に変わっていた。


俺は取り次ぎも交わさないまま生け花をする母上の前に姿を現した。

「こら!そなた礼儀もなさないとは何事か…ッ!!?」

母上はそう言って俺を見上げたが俺の顔を見るなり表情を曇らせた。


「申し訳ありません、母上。」

「何かあったのか…?涙を流すほどなんて…。」

俺は母上の言葉でやっと自分の頬に涙が流れていたのだと気づき袖で拭った。

涙の跡がついた袖はまだ指の先ほどしか自分の手が見えない。大きく作られている着物は俺の幼さを誇張しているようでなおさら悔しかった。


そして母に促されるまま俺は先ほどの一部始終を告げた。

すると母上の顔がみるみる険しいものへと変わった。


「…私の心が弱いからですよね?」

母上の顔色を見て俺はつい弱々しい声でそう尋ねた。すると母上は口角だけあげて俺を抱きしめた。


「違うわ、煌。あなたはこの国を継ぐ存在です。誰とも比べられてはならない孤高な存在なのよ。私の宝だわ。あなたは思うまま生きて良いのよ!!」

「母上…。」

「私があなたを必ず国王にしてみせるわ。王様と私の子だもの。王になる逸材に決まっているんだから!」


その母上の言葉は俺を勇気づけると言うよりもまるで母上自身が自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


俺も強くならなければならない。そう改めて俺は母上の腕の中で歯を食いしばった。



その日から俺とセンの間には大きな壁が隔たったように関わりがなくなった。というよりかは、俺が斬の存在を避けるようになったといった方が正しいのかもしれない。


世子せじゃ様、世弟せじぇ様がお目通りを求めています。」

「断る。早く追い払ってしまえ!!」

斬は俺の心中が理解できないのか、毎日俺を遊びや学に誘い、対して俺は取り次ぎの声すらも拒絶した。


そして学すら頭に入れる気の失せた俺は教育係の宦官も部屋に入れなくなった。


しかし俺の剣幕に斬はめげる事なく毎日昼食の後の時間になると部屋に顔を出す。

俺は必死に…ただ必死に追い返した。


斬を追い返す声は外のまで漏れ、徐々に俺の周りのもの達は俺を遠巻きに扱うようになった。それはまるで腫れ物に触らないよう避けすべての者たちは俺を小馬鹿にしたようで、俺はこの広い王室の中で孤独を感じた。


それと比例するように母上の言動はよりキツくなっていった。それも俺にではない。斬の母明慈ミンジェには今まで以上に冷たくあしらい、明慈に仕える者には理由をつけて罰を与え明慈に嫌がらせを続けた。


そのせいで斬はついに俺の部屋に来なくなった。

斬の母、明慈も今や占術の虜になっていると聞いた。

今はひたすら書物に明け暮れているという。


それまで明るかった二人を変えたのは俺と母上だ。


これだけの明慈や斬への行いは父の耳にも届いているはずだった。

なのに父は俺や母上に罰を与えるどころかより丁重に扱うようになった。


母上はどうやらご満悦だったらしいが、俺はその対応が気に入らなかった。

せめて父は俺を唯一叱って戒めてくれる存在とばかり思っていたから。なのにこれではまるで下の者たちと同じ目で俺と母上を見ていると言うことだ。


でもここで斬の存在を許してしまったらきっと母上も俺を真っ直ぐに見てくれなくなる。そうしたら俺はひとりぼっちになってしまう。


俺は母上一人を信じて過ごすしかなかった。




そんなある日の高い時、俺の部屋に一人の男が訪れた。

格好は青い官服だからきっと新しい教育係とでも言うのだろう。

「世子様、お目通り感謝いたします。」


男は口角だけで笑い俺の目を見入った。その目に俺は本能的に気味が悪く感じた。

「俺を品定めにでも来たのか!!」

「いえいえ、滅相もございません。申し遅れました…教育係を仰せつかりました、劉権ユ・ゴンと申します。」


そこまで言うと男はわざとらしく俺の前で顔を伏せた。

しかし久方ぶりの世子らしい扱いに俺は少し舞い上がってしまっていた。

「…うむ。よろしく頼む。」

「はい、世子様…。」



その日から、劉 権は俺専属の教育係となった。


権は教育係として優秀で、俺の苦手より得意を生かしてくれる男で、尚且つ俺の嫌味やつらみもすべて聞いてくれる相談役にもなった。


それと同時ほどに王妃である俺の母、が病で帰らぬ人となり、俺はここにいる理由もなくなるのだと覚悟した。


しかし権のおかげで王室の一員として留まることが出来た。


下のものの話によると権が毎日父上を訪ねて説得に説得を重ねてくれたらしい。


心の拠り所を求めていた俺にとってはそんな権の存在がとても大きくなっていた。


ファン世子様。劉都長様がいらっしゃいました。」

「通せ。」


「世子様、お加減いかがでしょうか?」


俺は毎日のように来る権を信頼し、武術も自発的に鍛錬を積むようになった。


しかし学は基本の事以外は頭に入れようとしなかった俺に、父母ともお節介に手を焼いていたが、権は全く俺を責めることは無かった。


そんなある日道場にいる俺の元に権が訪れた。


「権ではないか、何用だ?」

「本日はお日柄も良いですから、世子様に贈り物を届けにまいった次第でございます。」


「贈り物?一体なんだ!?」

官職の者からは誕生日や時季の贈り物は時々王室に届くが、大体額を積むためのものばかりで俺にとっては不快感を感じるだけだった。


しかし権は王室ではなく、道場にまで足を運んで届けに来た。

俺にとってはそれはとても優越感に浸ることが出来た。


「こちらは東方の国より取り寄せました、"彼岸花"でございます。」

「ほう…どんな作用があるんだ?」


当時の俺は毒の名前は知っていても、その毒が何から取られるものなのか分かっていなかった。


そんな俺の問いに、権はニタリと微笑んだ。


「はい。こちらは健康を増進する作用があるとのことです。世子様には常に健やかであらせられることを心から祈っております。是非お飲みくださいませ。」


「そうか!お前はよくわかってるな!!」

「滅相もございません。さぁ、お茶にございます。」


俺は何も怪しむことなく、その渡された彼岸花の粉末をお茶で流した。


その直後だった。

「ヒグッ…ゔ…!?」


まるで喉を焼くような熱さと息苦しさが俺の体を襲った。


「どうかいたしましたか?」


俺の異変に権は驚いたのか俺の方を支えた。

呼吸はすぐに不可能になり、俺は意識を失った。


目を閉じる直前…権は…微かに微笑んで見えた。

しかしその意味を俺には理解出来なかった。


4

「…ん…。」


運良く目を覚ました俺は部屋に横たわっていた。

ファン!!」

「煌!」

「兄上!!」


俺と目が合うと、王室の面々は皆涙を流した。

そこには首医すいの姿も…そして下段には権もいた。


しかし座っている位置は…センの後ろ。


その意味は、例え学のない俺でも分かる…。

劉 権は元から俺を殺すつもりだった…。

俺亡き後に斬を据えるつもりだったのだ。


その見せつけられた事実を頭では理解しながらも、心で理解するには酷すぎて…受け流すには俺の心は幼すぎた。


涙は目ではなく心に溢れた。

その日から俺は孤高に、人を信じるのをやめた。

また相反するように権はますます権力を高めて、俺はより孤立した。


俺の毒のことがあったものの王室は何不自由なく行事が執り行われていく。

その中には斬の婚約式も含まれ、俺が武道部屋に閉じこもる中、盛大に音楽が鳴り響く宮中はただの地獄だ。


そんな毎日を期待せずに過ごしていたある日のことだった。


季節は晩秋、都では『収穫祭』なる行事をやっていると聞きつけた俺は、皆の反対を押し負かして、お忍びで馬足を運ぶことにした。


馬を勧めたのは父上で毒を受けたばかりの体を酷使するなとの王命だった。


「兄上、お待ちくだされ。」

ならばと俺は一人で楽しむ予定で朝早く馬小屋を見て歩いていたにも関わらず…


「何故そなたがここにおるのだ!?」

「私も都の祭りを観覧してくるようにと母上が。」


「…あぁそうか良かったな。」


俺は斬の"母上自慢"が大嫌いだ。

実の母がいるものにはよくある話題なのかもしれない。


でも俺にとってはまだ触れたくない話題だ。

俺は斬の話を聞かないまま馬に跨った。


「兄上…私もお供します。」

「結構。馬くらいひとりでこなせる。お前はお前で勝手に妃の土産選びでもしていろ。"世子未来の王様"。」


「兄上…。」


俺は嫌味を吐き捨てて王室の門を馬のひづめで弾き開き、飛び出した。



…すると都では想像以上に壮大な祭りが開かれ、王室から続く直接には各々の出店が左右に列をなして地平線に向かっているのか疑うほど長く続いていた。


「素晴らしいな…。」


しかし馬で出店を回るのは少し動きずらい。

俺は馬から降りようと馬の手綱を引いたその時だった。


「ヒヒヒーンッ!!!!」

「ッ!?」


突然馬は狂ったように体をくねらせた。

かと思ったのもつかの間、今度は一直線に猛突進を掛け始めた。


「こら!止まれ!!止まらぬか!!」

体制をどうにか崩さぬよう腹に力を入れていたものの、馬は止まるどころかより速さを増していく。


そして次の瞬間。


俺の乗る馬の前に立ち止まり振り返った子供の姿が見えた。

「ッ!!」


慌てて手綱をちぎれるほど強く引き、馬の前足が上に上がった。


しかしそれは、俺の混乱から起きた操縦失念に繋がってしまった。


馬の蹄は思いっきりその子供にあたり、子供は額から血を吹き出しながら前方に弾き飛ばされた。


ドシャッ


子供が地面に叩きつけられる音で俺はやっとしでかした出来事に気がついた。


子供には同じ背格好の子供が駆け寄り名前を呼んで泣き叫んでいる。


早く馬から降りて謝罪をしないとならない。

その前に医官を呼ばねば。

だが俺は今1人だ…そう…1人なのだ。


その瞬間はじき出した自分の答えに…俺は自らを疑った。


「馬が汚れたではないか!!」

「ッ!?」

俺は民を馬の上から見下し、罵声を吐いた。


そのとき俺を見上げたあの涙で震える瞳を俺は見返すことができなかった。


俺はそのまま騒ぎを聞きつけ駆けつけた武官に馬を取り返させ、何食わぬ顔をして王室に戻った。


隠さなければ…この事実を何としてでも。

さもなくば俺は…王室を追い出されてしまう。


今、この国に俺の見方など一人もいないのだ。

こうして愚かな心の俺は自身の保身に意識を持っていってしまった。


5

それから数日が経ったある日。


俺は山に散策に向かっていた。


本当は1人で動きたかったが、義母上に護衛を付けるよう勧められ、泣く泣く連れて歩くことにした。


しかし俺は知ってる。その護衛は…

劉 権の手下だ。


そんな奴らを信頼など誰ができまいか!

護衛がどんなに音をあげようとも、俺は足を緩めてやるものか。


この護衛たちは2人とも内官だ。

体力は武官より無い。


既に二人して息を切らし始めている。

いつも武官と鍛錬する俺にとってはなんとも無い。


そして歩みを進めるうちに山奥深く少し薄暗いところに来た。

ここはもう雑林と化し、全ての気がバケモノのように俺たちを見下ろして見える。


「世子様、もうそろそろ休憩しませんか?」

「そうです。世子様、体を痛めては大変です。」


「何を言っている!まだ序の口ではないか!!情のない。」


俺が鼻高々に内官達を見下していた。

その時。


ガサガサッ

「ッ…。」


少し前の茂みからなにかの通る音が聞こえた。

俺は足を止め護身用の短刀を懐から取り出した。


するとまた、ガサガサッと茂みが動く音が聞こえた。

今度は近づいてきている。


俺は短刀を鞘から抜き取って茂みの動きに意識を向けた。


茂みはついに割り開かれて、中からは…木の皮と獣の皮で体をおおった男が姿勢を低く四つ這いしてこちらを睨みつけていた。


「なんだ…人間か…。」


俺は向けていた短刀をぶらんと下ろし1歩男に近づいた。


その時男の姿は消え、俺の頭上に影が指した。

途端に俺の体は落ち葉の上に押し付けられた。


「ッ…何をする!?」

「ウガー!!」


俺が持っていた短刀は右手を抑えられたせいでてから抜け落ち、庇おうと向けた左手は突如男に噛み付かれた。


「いぎっ!?」

「うー!…ううう…。」


どう何足掻こうとも、その男はスッポンのように口を緩めない。

…その姿はまるで獣のようで、俺はこのモノの獲物になるのかもしれないと程なくして悟った。


その間に二人の護衛は一目散に逃げていて、今は残り香すらない。


無様な終わり方だな…。俺は結局こうやって死ぬのか…。


俺は抵抗をやめた。

すると、男の唸り声がやんだ。


まだ荒い息だが、心做しか噛み付いた時よりも噛む力が弱くなったような…。


「…。」


かと思うと、男は俺の手から口を離し後ずさった。


「…そなた…俺を殺さないのか?」

すると男は首を横に振り眉間にシワを寄せた。

そして何かを言うのか口を開いたが直ぐにやめて閉口した。


言葉が通じない…それは互いに同じらしい。


男はしばらく俺と目を合わせていたけど、不意に俺に背を向けてスタスタと山道を駆け上がっていった。


それを眺めていると男は戻ってきた。

かと思うとサッと俺の短刀に顔を寄せ咥えた。


「なッ…」


男はそのまま俺の短刀を質に山道を駆け上がっていく。

…時折足を止め、俺を振り返りながら。


どうやら俺をどこかに案内するつもりらしい。

俺は噛みつかれた腕を軽く押さえ、男の後を追った。


しばらくすると男は一つの古びた建物で足を止めた。

と言うよりこれはもう既に廃れた木の集まりに見える。




男はその建物の足下に無造作に座ると口を開いた。


「お座りを。」

「ッ!!?そなた…言葉を…。」


「かつてここの住人だった山賊に学びました。でも話が出来たら高貴な輩に殺されると。…あなたは用心棒を連れていた。だから高貴な輩。違いますか?」


この男はあの短時間で俺の立場を理解し、自己防衛に走ったようだった。

しかし俺の抵抗がなくなったため攻撃をやめたと淡々と告げた。

男はそう説明を入れながら俺の傷を手早く処置をし、俺の前に正式な座り形をした。


俺はこの男に今までの経緯いきさつと事情をある程度説明した。


すると男は俺をじっと見つめると…。

「あなたはガキんちょですね。」

そう一言呟くとため息を吐いた。


「何…?今俺のことを…ガキと申したか。無礼なヤツだな。」

「本音で言うとただの不器用天邪鬼のクソガキです。」

「ッ!!?」


そのような侮辱を受けたことのない俺はそのまま口をあんぐり開けるしか出来なかった。


「言われ慣れない言葉だろうがそれが俺の感想です。」

「…俺はそんな理由で日々命を狙われないといけなくなったのか…?」


こないだの毒事件のことも然り、今日の護衛が去ったこともしかり…、俺は死をひどく恐ろしいと感じ、声までも震えてしまった。


「ならば自分で自分の身を守る術を身に付けることです。何もしないで震えるだけなら威嚇で自分に隙を作らない獣たちより愚かです。」


「ならばそなたに頼みがある。俺の専属の護衛になってはくれないか?」


男は俺をじっと見つめ、話の先を促した。

「私のまわりには信頼の置ける者はいない。だからといって自ら身を守るほどの力も無い。」


「…そのようにお見受けしました。」

男は吐く息と言葉を混ぜて呆れを表した。


「俺は自らを守る術を求めているのだ。もちろんそなたには多くの益が向くだろう。…せめて俺に護身が身につくまででいい。俺はまだ死ぬわけにはいかない。」



「"死にたくないから助けてくれ"と一言いただければいいのに。」

「な…そなたいい加減に…。」


心を見透かされたようで正面から睨みつけた俺に、男は目元を緩ませ口を真一文字に引き攣らせた。


そしておもむろに立ち上がると、数歩進み振り向きざまに俺に何かを投げた。


「ではこの短刀で私に傷をつけてみてください。あなたの術の程度を魅せていただきましょう。」


先ほどこの男に奪われた短刀は俺の手の上で怯えている。


「1度刃を当てるだけでもいいですが…折角ですので本気で私を殺しにかかって下さい。」


その顔は俺の価値を愚弄するようにほくそ笑んで見えた。

おかげで俺の闘志に火がついた。


「おりゃぁぁああああ!!!!」

怒りを込めた声は天高く上がったが無限の空に吸い込まれ、より自分の幼さを誇張され心が怯んだ。


しかし叫んだからには走り込まなくてはいけない。

俺は短刀を振り上げ男に襲いかかった。


すると男はいとも簡単に俺の猛進をかわし、俺の手首を掴みあげた。

「ッ!?」


思いのほか突き上げられた手には短刀を握っていたのに、男には掠りもしない。


そのまま男は俺の手首を有りもしない方向に翻し、俺の手首は悲鳴をあげた。


「ッ!?…ッ」

刀は俺の手からするりと滑り落ち、あろう事か男の足元に向かった。


ここで刀を取られたら俺の身が危ない。

俺はとっさに刀を足で押し出した。


すると俺の体は倒れ刀は数寸ほど遠くに抜けた。


そのまま俺は捻られた手首の方向に体を翻した。

全体重をかけたおかげで男は俺の手首を握ったまま拳を地面に押し付けることになった。


しかし男は俺を離そうとしない。

手首は完全に再起困難だ。


俺ができることは…

男の手に噛み付くことだった。


「ッ!?」

よし、離れた!!


俺は慌てて体を起こそうと腹に力を込めた。

…?…!?


何故だ…力が…入らない。

それよりも背中に走る雷のような激痛で俺は仰向けで息を詰まらせた。


すると男は俺の様子に気がついたのか俺の頭の横で立ち上がった。


やられるッ!

俺は次にくる攻撃に体が冷えあがった。



しかしいつまでたっても攻撃は落ちてこなかった。それどころか俺の頭の横に腰を下ろすと口を開いた。


「驚きました…。」

「?」


「上の立場の方が汚物に噛み付くとは。」

汚物?

「…何の…ことだ?」


「先ほど私に噛み付いたではありませんか。…とっさで覚えてないんですか?」

いや、覚えているに決まっている。


「俺は"人"に噛み付いた…初めて噛み付いた…初めて物ではなく人に本気で攻撃をしたのだ。」


しかもあんなに死に物狂いになって。


「なかなか…恐ろしいな…人は。」

「…人ですか…」


「お前はもちろんだが…俺もこうなるんだな…。」

「ッ…。」


俺はしみじみと人の本能の恐ろしさを痛感した。

男に目を向けると、男はバケモノでも見るかのように目を剥いていた。


「…どうした?」

「あなたは…俺を人として接していたのですか?」


当たり前のことだ。

「そなたは人の心を持っているではないか。」

「ッ!?…は…。」


俺は思いのままに言葉を返した。

すると男は尚更目を剥いて口を半開きに開け息を漏らした。


「あなたは馬鹿なのですか?私はあなたを殺したやもしれないのに「でも殺さなかった。」ッ…。」


「人の心があればそれは畜ではない…だからそなたに護衛を頼んだのだ。」


男は俺の言葉に無情そうだった顔を歪め、ため息を吐いた。


「…もう体を起こしてください。もうすぐ雨が降ります。」

「ッ…あぁ。」


男は俺の背中に手を寄せ体を引き上げてくれた。

俺が上体を起こしきると、男はおもむろに先程俺が蹴り出した短刀を引き寄せた。


「ッ…。」

俺が体をこわばらせると、男は俺に目を向けると目を閉じた。


そして、


「ッ…」

「ッ!?」


刃先を自らのまぶたに押し付けた。


「そなた…「ッ!!」ッ!?」


そのまま男の瞼についた薄い肉は切れ味の悪い刃先で押し開かれた。

「ッなんて事を!!」


俺は慌てて手拭いで男の瞼を覆った。

「愚かですね。こんな下衆の傷をそのような小綺麗な布で拭うなど。」

「愚かはそなただ!目がつぶれたら生きていけないではないか!!」

「…フッ。」


男は俺の言葉を鼻で笑った。

そしておもむろに俺の目の前に手首をまとめて押しつけた。

「…私の名は夏弩シェイドと申します。さぁ、縛り上げて王室まで引きずってください。」

「ッ!?」


「あなたの従僕として王室に献上ください。それがあなたの立場を確かな者にするすべでしょう。」

夏弩はそう言うとなお俺の目の前に両拳を突き出した。


しかし俺の中では従僕させるという側付きはいらないと感じた。

むしろ、先ほどのように同等にあるような関係…そう、まるで友人のような存在が欲しい。


俺はその堂々とした両拳を押し降ろした。

「…?」

「俺の名はファンだ。この国の世子だ。」

「世子様。」

「煌だ。煌と呼ぶのだ。」


「…煌様。」

夏弩は少し戸惑った表情を隠すこともなく恐る恐る俺の名を口にした。

そう言えば、名前を呼ばれるのはいつぶりだろうか。

名前をよばれることがこんなにも喜ばしく誇らしいとは。


「よし、では王室に迎え入れよう。そなたを医官に見せねば。」

「はい?」

「安心せよ。この国の医官は皆優秀だ。」

「しかし私はッ…」


「そなたはこの国の世子の側に付く男!相応の医術を受けずにどうする。」

俺の発言に夏弩はまだ納得がいかないのか、口を開いた。

しかしここで発言される前に俺は言葉を続けた。


「それにそなたは…俺の初の友だ。俺は友を助けたい。」

「…煌様。」


こうして夏弩は渋々頷き、俺と夏弩は王室に戻った。

両親とも俺の帰りを危惧し、逃げ帰ってきた護衛を幽閉していた。


俺は随行してきていた夏弩を命の恩人だったのだと腕と夏弩の瞼を示した。

そのおかげで夏弩もきちんと医官に見せることが出来た。


しかし、そのせいで傷口をさらした俺達は…今、王様の…父上の部屋に通されている。


「ではまず煌。その腕の傷について説明をせよ。」

「この傷は、野犬に噛まれて「医官によるとその割には傷が浅いそうだが…野犬はひどく甘噛みだったのだな。」…それは、私がすぐに引きはがしたからだと思います。」


「左様か…にしても服が破けていなかったようだな?」

父は怒り出すと人の揚げ足をとるから少々…いや、かなり難問だ。


「では続いて、そなた。山にすんでいた者だとか。まず名を申してみよ。」

夏弩シェイドと申します。赤子の時から山賊に育てられたと聞いています。名も彼らから頂きました。」


夏弩の流暢な語り口に父上も驚かれたようで目を見開いた。


「私から全てをお話いたします。」

「夏弩!!」

思わず声を張り上げると夏弩はこちらを見て口を真一に引いた。


「話してみよ。」

「煌様の腕ですが、私が噛みつきました。そしてこの目の傷は煌様が私を引きはがすために護身を取られた時のものです。」


「ッ!!」

「ッ!!」


「噛み傷の言い訳は…出来ません。」

「…夏弩…。」

全てを話すなら辻褄を合わせる技術があるのかと思った…。

俺は名を呼びながらため息が漏れた。


「フッ…フハハハハ!!!!」

すると先程まで黙って聞いていた父上が腹を抱え笑い始めた。


「父…王様…。」

「あぁ、すまない。煌の連れてきた男は正直者だな…。そなた夏弩と言ったな?」


「はい。」

「もし良ければ…この者の護衛になってはもらえないだろうか。」


「…。」

「父上…!」


「夏弩…そなたは煌の信頼を得た。それだけで私の…王の信用も得たと思ってくれていい。」

夏弩は最後まで黙りこくっていた。


しかしその父上の言葉にあれよあれよと話は進んでいった。

やはり王と言うだけで世を動かす力があるのだと俺は父に畏れを感じた。

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