第26話
高品質な紙を出し惜しみしていると聞いて未だにプリプリ怒っているアケミを放置して、三人で飯屋に入る。
昨日燻蒸処理をしていた筈の飯屋では元気に蝿が飛び回っているので、アケミとヨシエだけが飯を食うことになる。俺は宿屋でカップ麺を食うことに決めたので彼女達の食事をぼんやりと眺める事になる。
ブンブンと飛び交う蝿を器用に追い払いながら、よく分からない液体やなんだかわからない固形物を美味そうに頬張る彼女達を見ていると、つい数十年前の日本ではこんな風景は当たり前だったんだな……と感慨深く感じた。俺が生きていた頃の日本では家の中に蝿が飛んでいると、殺虫剤を振り撒きながら親の仇の様に追い回していたが、父親の話では家の中を飛び回る蝿を捕獲するハエ取り紙や、蠅帳なる食卓を蝿から守る道具まであったらしいからこれは普通なのだろうな……
「そんなに虫が嫌なのって、タットバは実はお坊ちゃん?」
飯を口いっぱいに頬張りながら、アケミがスプーンでこちらを指して笑いかける。
「お坊ちゃんではないが、俺の住んでいた地方ではこんなに虫が近くに寄って来なかったからな……慣れないんだ」
「貴族の御屋敷とかは毎日虫退治に苦労しているって聞いたから、てっきりその辺りの生まれかと思ってた」
喰い終わった食器に御相伴に預かろうと群がる蝿をみてアケミが笑う。
まあ、庶民だったらこれだけ飛び回る蝿を気にしていたら飯など食えたもんじゃないからな。
「貴族の家ではどうやって虫退治をしているんだ?」
「貴族はどうか解らないけど、紋章協会のお偉いさん達が利用する食堂では箒とか、魔方陣を使うわね」
「魔方陣? 虫退治の魔方陣なんてあるのか?」
「そよ風がでる魔方陣を箒に貼り付けて追い払うのよ」
紋章協会の思わぬ牧歌的な風景を想像して溜息がこぼれる。
「なんとも長閑な駆除風景だな」
「タットバの住んでた町ではどんな物騒な駆除をしていたのよ?」
「効き目があり過ぎて人間まで駆除出来る程の毒を薄めて、霧状にして空から散布していたぞ」
アケミとヨシエは俺の話を聞いて一瞬時が止まった様に静止した後に笑い始める。
確かに、笑うとこだよな……
「よし、食ったか? 明日は早いから今日はとっとと帰るぞ」
比較的食うのが遅いヨシエがまだ「むぐむぐ」咀嚼しているが、皿は空っぽなので席を立つ。
虫か……除虫菊とか商売になるかな? 確か雌しべだか雄しべに効能が有るとか聞いたな……
ぶつぶつ考え事をしている間に宿屋に辿り着き、ボイスレコーダーを回収する。
「クラッセンさんから何か連絡は無かったか?」
宿屋の主人に言付けが無かったかの確認と、この町の商人であるクラッセンの知己である事をさり気なくアピールする。
「クラッセンさんがあんたに伝言?」
「ああ、クラッセンさんに商品を大量に納入する予定なんだ。大商いだから横槍が入るのを向こうも避けたいらしくてな、連絡は密にしてくれと言われているんだ」
懐からかまぼこ板の様な身分証明書の裏に押された『商業ギルド』と『クラッセン商会』の真新しい焼印を宿屋の主人に見せると、人相が変わる程に目を剥いた。
身分証明書は本来表側の人物名や税金納付証明の覚書よりも、関連人物機関が記されている裏書きの方が重要になって来る。
要はこの身分証明書を持つ者は何処其処の関連人物なので、怪しい人物ではないですよとの証明である。
有力商人、重要人物などになると裏書きのスペースが錚々たる名前で埋まるらしいが、当然そんな人物など見た事が無い。
「なので今夜はゆっくり眠りたいから、昨夜の様な事が起こらない様に願いたいものだな」
態とらしく片眉を跳ね上げて宿屋の主人を睨み付けると、さっと顔色を変えてペコリと頭を下げたと思えば下卑た笑いを浮かべる。
「いやぁ、クラッセン商会さんの紐付きのお客様であれば、下手に手を出す馬鹿者はこの辺には居ない筈でさぁ。今夜は枕を高くして眠って下さい」
「そうか、明日朝に宿を引き払い、後日また宿泊するのでそれまでに、いらんゴタゴタは解決していれば良い」
部屋に引き返してボイスレコーダーの内容を確認。その間にアケミとヨシエがバケツに汲んできた井戸水でレモン石鹸を使いながら身体を洗う。
年頃の娘さんから漂ってはいけない類の匂いが奴らから発せられているので、偶の贅沢でレモン石鹸を使わせているのだが大変好評である。
ボイスレコーダーの内容では、俺達が帰って来たら直ぐに襲撃犯の元締めに連絡した後に今夜再度侵入、殺害の予定が組まれていたが宿屋の主人の様子だと計画は変更されているだろう。一応念の為にバールの様なもので扉に閂をしておくつもりなので、そうそう簡単に押し入る事は出来ないだろう。
ヨシエの冒険者ギルドでの武勇伝が広まっていれば、頭数も揃えにくい筈だが噂が広まるにはまだ日が浅い。用心はしておこう。
ひとしきり今夜のセキュリティ関連を確かめた後に俺も身体を洗おうと振り向いたところ、ヨシエとアケミが色気の無いモモヒキっぽい肌着一枚で待ちわびた様に悲鳴をあげる。
「きゃあ! 旦那様のえっちぃ!」
「ご主人に裸を見られちゃいました!」
「ああ、そう言うのは良いから、俺も身体を洗いたいから水を汲んで来てくれないか?」
「……はい」
ヨシエが赤らめた顔でがっくりと肩を落として俺が買い与えたスウェット上下に着替えると、バケツを片手に廊下へとトボトボ歩いて行く。
脇腹をつついて来るアケミに視線を向けると真剣な面持ちで疑問を投げかけて来た。
「旦那様はあれ? 男色家?」
「ぶっ飛ばすぞ?」
「年頃のぴちぴち女子がおっぱい放り出して目の前ウロウロしているのにリアクションが薄すぎる!」
「取り敢えず明日をも知れない瀬戸際商人が、娘さんのおっぱいをつつく暇があると思うか?」
「タットバは考えすぎよぅ」
「お前らが呑気すぎるんだ」
ヨシエが汲んで来たバケツの水で身体を洗い、薄汚れたシーツに包まれた深夜に生活に余裕が出来た時の事を妄想してみたが、今ひとつピンと来るものが無かった。
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