第7話 1節 奈良の空飛ぶ少年(5)
西ノ迫の丘を見上げると、洞の入り口が開いているのが見えた。
その洞に入れば重盤岩に行けるという気がして、誰も何も疑わず洞に入った。
すると、サスケがワンと吠えて、奥に向かって駆け出した。サスケを追って、ヒロも走った。
空気がスッと入れ替ったと感じたら、目の前に見知らぬ景色が現れた。次の瞬間、サスケとヒロの足下には何も無かった。
「ウワアアアアーッ!落ちてしまうー!」
ヒロは、サスケを抱き抱えて、下に落ちて行った。
岩や木の枝で傷だらけになっていると感じながら、空中に浮かんでいる少年を見つめた。少年は、神主の服装をしていて、目鼻立ちがじいちゃんに似ている。
「じいちゃん、お願いがあります。父さん、母さん、サーヤがどこにいるか、教えてください」
ヒロが空中に浮かんでいる少年に声をかけると、少年は困惑したように答えた。
「僕が君のじいちゃんだって?君の父さんや母さんのことは知らないし、サーヤって誰のことだか分からないよ」
「でも、あなたは六十年前に大神神社でばあちゃんに会ったでしょう?ユリコって名前を洞の壁に刻んだでしょう?」
この少年こそ六十年前のじいちゃんだと、ヒロは信じていた。
「君は、おかしなことを言うね。この前、ユリコっていう可愛い少女に会ったけど、ユリコが君のばあちゃんだって?だったら、僕とユリコは結婚するのか・・・うーん・・・君が神様の抜け道に迷い込んだ未来の子孫かも知れないけど、この僕に未来のことが分かるはずがないじゃないか」
そう少年に言われると、ヒロは大きな溜め息をついた。
—— せっかく、じいちゃんに会えたのに、六十年前のじいちゃんは何も知らない・・・
すると、その少年がサスケの瞳の中に何かを見つけて、口を動かした。
—— 君が抱いている子犬が、君を導いてくれるよ・・・
それは、懐かしい父さんの声に似ていた。
ヒロとサスケが一瞬にして消えた後、重盤岩の下にある清正公神社の裏から、ばあちゃんとマリが現れた。
清正公神社は、ばあちゃんの生家だった。
すぐに、近くで何かが転げ落ちた大きな音がしたので、二人は慌てて音のした方へ駆けつけた。
その時、岩山の上を旋回していたヒショウも、舞い降りて来た。
「あー、良かった。ヒショウが戻ってきたー!」
マリが飛び上がって喜んだ。
しかし、血だらけになったヒロを見つけて大声をあげた。
「きゃーっ!ヒロ、どうしたの?しっかりして!」
ヒロが気づくと、サスケが顔を舐めていた。体中の傷が痛むが、とりわけ左の手足が凄く痛い。岩山を転げ落ちた時に、骨折したようだ。
「ヒロ、どうしてアレを使って飛ばなかったの?大怪我しちゃったじゃないか」
ばあちゃんは、ヒロの体中の血を拭きながら話しかけた。
「六十年前のじいちゃんがいたから、びっくりして飛べなかったんだよ。でも昔のじいちゃんは、何も知らないって言ったんだ」
サスケを抱き寄せながら、ヒロは悔しそうな表情を見せた。
—— でも、サスケが導いてくれるって言った声は、父さんに似てたなあ・・・
このことは誰にも言わないでおこうと、ヒロは心に決めた。
「六十年前のじいちゃんは、素敵だっただろう?父さんに似てたかい?」
「うん、そうだね。ばあちゃんは可愛かったって、じいちゃんが言ってたよ」
「ほんと?じいちゃんから直接言われたことがないから、嬉しいよ」
ばあちゃんは、ヒロの怪我をそれほど心配していなかった。
ヒロの体には不思議な力がある。一時間くらいで体中の傷が治って、手足の痛みも消えてしまった。
ばあちゃんが、何気なく上を見上げると、重盤岩の崖から下を覗いていた小さな男の子が、真っ逆さまに落ちた。
—— アアーッ もうダメだ・・・
ばあちゃんが真っ青になった瞬間、崖の間から洞の口が開いた。
そこから少年が両手を伸ばして、小さな男の子を抱きとめた。そして、少年と男の子は洞の中に消えた。
我に返ったばあちゃんが清正公神社の裏に向かうと、小さな男の子が前を横切って走って行った。
その先に、男の子の母親らしい人がいた。すると、本殿から神主が出てきた。
「ユリコが心配していたぞ、カツオ、どこに行っていたんだ?」
この人は、ばあちゃんとカツオの父親らしい。
「カツオ、お母さん、お父さん・・・」
ばあちゃんが声を掛けたが、向こうの三人は気づかなかった。
まるで、地面を行き来するアリが、上から声を掛ける人間に気づかないような様子だった。
「カツオって、ばあちゃんの弟の、お酒の大好きなカツオじいちゃん?」
ヒロは目の前の可愛い男の子が、六年前のじいちゃんの葬式に参列して、酔っぱらってしまったカツオじいちゃんだとは信じられなかった。
「わたしが六十年前に清正公神社の裏の洞を覗いたのは、カツオを捜していたからなのよ。その時、じいちゃんに会えたんだけど、カツオを助けたなんて一言も言わなかったのよ。だから、今まで知らなかった・・・」
そう言って、ばあちゃんは涙を流した。
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