『血よりも濃い酒』ファンタジー短編集
顎男
勇魔会談
配達を終えて店に戻ると、リリシャの自転車が店先に停まっていた。
郵便受けの前で邪魔だから裏に停めろと書いてあるのに誰も見やしない。マルデーリの街は今日も平和に陽光を燦々と石畳に浴びている。大鎮祭が終わったばかりで、まだ街には爪先が軽くなったような雰囲気が漂っている。教会から響き渡る聖歌隊の歌が聞こえてきて、俺は午後の配達のことを思い出した。リリシャに構っているヒマはないのだが、来るなと言っても来るのだから仕方ない。俺は自転車をきちんと裏に置いて、自分の店に戻った。案の定、リリシャは、当然のように定位置のテーブルに着いてお得意様のような顔をしている。勝手にコーヒーまで淹れやがって。
「おい、代金ちゃんと払えよ」
「魔王になんて言い草だ」
俺が定期的に仕入れて店のラックに差している古雑誌を珍しそうに読みながらリリシャが答えた。艶やかな黒髪が採光を反射して天使の輪を作っている。黒糖の瞳が凛冽な視線を放っているのを見ると、どこかの国のお姫様と言っても誰も否定しないだろう。事実、この女は魔族の王――世界征服を成し遂げた覇者なのだから、誰よりも高貴と言ってもいいのかもしれない。
「せっかく私が来てやったというのに、店を空けているとは何事だ。店番くらい雇え」
「酒場は夕方五時からだ。準備中の札くらい見ろ」
「私に昼も夜もない。だから開店中にしておいたぞ」
俺は玄関に出て札をCLOSEに戻した。
「あのなあ、おまえ一人のために店開いてたまるか。俺は仕込みで昼まで忙しいんだよ」
「そう思って、手土産を持ってきてやったぞ」
リリシャが指差す先に、木箱が三段積まれていた。開けてみると凍結魔法で冷凍された魚やら肉やらが所狭しと詰められている。
「おまえにしては気が利くな。ほー、東海岸いってきたのか? 甲羅鮪じゃん。あとで割ろ」
「ああ、遠慮せずに貪り喰うがいい。魔王からの餞別だ」
まだ着任してから3年ぽっちの新米のくせに偉そうなリリシャである。足を組み直し、俺の店をぐるりと眺める。
「それにしても、みすぼらしいフクロウ小屋だな。店は2階にあるのか?」
「……ああそう、おまえフクロウ小屋でコーヒー飲んでたわけね? ふーん、変な趣味だね」
「悪かった」
逆襲されて少し顔が赤いリリシャ。
「トラ小屋に訂正だ」
「それでおまえの自尊心は保たれるの……? まァいいけど」
俺はリリシャの土産を調理場へと運び込む。リリシャはカウンター席に移って珍しそうに俺を見ている。城暮らしで雑事はメイドにやってもらっているから、実際の作業を見ることはあまりないらしい。
「おい、そのタマゴはすごくいいやつだ。丁寧にしまえ」
「タマゴは殻があるからべつに冷凍しなくていいのに」
「えっ、そうなの?」
「うん」
俺は温熱魔法で指先を温めてとっととタマゴを溶かし、半熟にしてもりもり喰った。確かにうまい。辺境にだけ棲息するサラマンダーの無精卵だろう。旅時代はよく巣を荒らして喰ったもんだ。あの頃の空腹と極寒を思い出すだけで今日は仕事休もうかなって気持ちになる。
「懐かしいか、このあたりでは滅多に食えまい」得意そうに言った後、探るような目つきになり、
「……コギトやマカレイは、どうした? 噂を聞かんが」
「ああ、コギトは役所勤めしてるよ。消防関係だったかな。マカレイはヒモになって彼女んちで寝てる」
「ヒモ」
「うん」
「マカレイが?」
「いいだろ、デブがヒモになったって」
「いやそういう意味で言ったわけでは……」
となぜかマカレイの面子を立てるリリシャ。
「……そうか、まあ、それぞれが、自分の道を見つけたというわけか。おまえも酒場ごっこに精が出ているようだし」
「ごっこって言うな」
確かに牛舎で育ててる乳牛のミルク売ってないと潰れるけど。ウエイトレス雇えないから街のオカマ団がすごく居心地よさそうに常連になってるけど。
「ごっこじゃないし。頑張ってるし」
「わかった、わかったから睨むな。……なあ、レコード」
いつの間にひったくってきたのか、炭酸酒(幼児用)をグラスで持ちながら、その水面をリリシャは見つめ、
「おまえ、満足か? 今の暮らしに」
「なんだ、まだ俺の店の悪口か?」
「そうじゃない」
リリシャは日曜礼拝に来た少女のような、どこか張り詰めた表情になっている。
「そうじゃないが、おまえは勇者だろう」
俺はありあわせで作ってやったローストビーフとサラダの皿をカウンターに置いた。リリシャがそれを教師の返事を待つ生徒のように見ている。
「勇者、だった。それだけだな。今は酒場の店主。満足してるかって? それはこのローストビーフに聞いてみな」
「茶化すな。まじめに話に来た」
「ふうん、それが目当てか」
俺は俺用のスツールに腰かけた。リリシャと雑板一枚挟んで向かい合う。
「勇者は廃業したよ。一年前に。おまえにも言ったろ。一年も経って、いまさら何言ってんだ」
「すぐにおまえは戻ってくると思ってた」
リリシャは言った。
「おまえは根っからの勇者だった。人類を救うため、義憤に駆られて立ち上がった英雄だった。――私は魔族だが、それでも敵ながらあっぱれだと思っていたんだ」
責めるような目を向け、
「なのに、おまえたちは逃げ出した。魔王の前から逃走した。そしてこんな辺境の地で、酒場の店主と役所の勤め人とどこぞの馬の骨のヒモに成り果てている。わかっているのか。今も我が勢力圏内では、人間が苦しみ喘いでいるんだぞ」
「凄い言い草だな」
俺は流石に笑った。
「自分でやってんのに」
「……それが魔族だ。咎めるなら咎めろ。だがな、私の知っているレコード・ディスタンスは苦痛にもがく人間を見捨てるような男ではなかったぞ」
「見込み違いだったというわけだ」
「レコード……!」
「あのな、リリシャ」
俺は魔王に炙り肉の皿を勧めながら言った。
「言ってなかったけど、俺はおまえをそれなりに評価してるんだよ」
「……評価?」
「おまえの先代の親父さんは、確かに極悪非道の魔王だった。平気で生き馬の目を抜くような真似をしてへらへら笑ってるような最低のクズだったよ。俺も思った。許せねぇって。元服してすぐに俺たち三人はあの男を殺すための旅に出た。……もっとも、そんな歴代最強と謳われた魔王も、反逆を企てた一人娘にあっけなく殺されちまったけどな」
「…………」
「おまえは、ものの道理ってのをよくわかってる魔王だ。親父さんみたいに無茶はしないと俺は知ってる。なにせ剣と魔法を交えた仲だしな。だから、おまえになら世界を任せてもいい。そう思ったんだよ」
「……ふざけるな」
リリシャは声を震わせ、拳を握り締めている。それこそ死んだ父親を見るような憎悪の眼差しを、俺に注ぐ。
「わかってるのか、レコード。魔族は人を、喰う。我々がこの世界にいる限り、人間は減り続ける。滅亡へと突き進んでいるんだぞ。それを……よくやっている、だ? 笑わせるな、滅ぼしてやろうか、え? ……人間よ」
「怖い怖い」
俺は笑った。自分用のグラスを出して、炭酸酒を注ぎ一気に空ける。そして空っぽになったグラスを眺めた。
「あまりにも怖くて、戦う気なんか失せちまったよ。……話は聞いてる。結構上手に人間を間引いてくれてるみたいじゃないか。むしろ感謝されてるって噂だぜ? 厄介者から始末してくれてるって」
「私は人間を支配したいわけじゃない!」
壁に吹っ飛んでいって台無しになったローストビーフの皿を見送りながら、俺は絶叫して肩を震わせ涙声になっている魔王の気配を横顔に感じていた。
「支配など……誰にもできない。そんな真似、してはいけないんだ」
「やってるけどな、おまえは」
俺は割れた皿と喰えなくなった肉を拾い集めて、ゴミ箱に捨てた。
「なにせ魔王なんだからな。世界の全部がおまえの掌の上だ。それを自分は知らぬ存ぜぬってわけにはいかないだろ。いい加減に悟れ。おまえは、世界を手に入れたんだ」
「…………」
「倒されて、ラクになりたいのか?」
リリシャは答えなかった。なにもない、木材の焦げ付きを無表情に見つめている。
「人を喰う魔物の王。自分が人間を憎からざるように思っていたって、おまえの仲間は人食いをやめられない。じゃあ魔族を皆殺しにするか。それもできない。結局、彼らはおまえの身内だからだ。殺すなんて考えられない。でも、魔族が殖えれば人が減る。焦るよな。どこかで加減を間違えれば共倒れだ。おまえの親父はその恐怖に負けて、人類絶滅にむしろ我先にと突っ込んでいった。それだけの重圧だ。まだ17のおまえには、背負うべきじゃない大荷物だ。わかるよ」
「わかるものか」
リリシャが嗤った。
「逃げ出したおまえに」
「……そうだな。その通りだ。まさに今、おまえが言った理由で、俺は旅をやめたんだ。レコード・ディスタンスは勇者じゃなかった。この世にはもう、自分を勇者だと勘違いしてるやつは一人も残っていない。誰もおまえを倒せない。すまないな」
リリシャは言った。
「レコード、最後に聞く。おまえが起たねば、人類は滅亡する。それでも、おまえはここにいるのか。どうにでもなればいいと静観し続けるのか。それだけの剣を仕えさせながら、あれほどの業を身に帯びながら」
「リリシャ、俺はこう思ってる」
俺はコーヒーのおかわりを淹れてやりながら、微笑むのを止められなかった。
「もう、人はとっくに滅んでる」
リリシャは出ていった。
END
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