第36話 放逐

  ステフの見立てでは、靄の速度は寧の繰り出す単分子ワイヤーよりは幾分遅い。

 襲いかかりながら形状が変わるのは厄介だが、目視でも気配でも分かりやすく攻め方も単調だ。

 ただ数が多い。

 しかも善市郎は起き上がらせた被害者達の影に隠れ、体から立ち上る靄でしか位置が分からない。うねるようにうごめく靄は、その濃淡がまるで悲鳴を上げる幾つもの顔にも見える。


「気色悪いっ!」


 吐き捨てながら、四方八方から襲い来る靄をかわす。

 10階建てのビル並みに大きなリフトを縦に収容するターミナルは、その構造が善市郎にとって有利に働いている。平面的な構造ではないだけに、上下まで警戒しなければならない。

 その間も隙を見つけようと視線を走らせるが、靄による飽和攻撃に追い詰められていく。

 試しにと単分子ナイフを振るってみても、やはり打ち払う事すら出来ない。


 出し惜しみ出来る状態じゃない――ステフは意を決し、達人の記憶マスターズ・メモリーを起動する。

 体から感覚が抜け落ちる、またはずれるような違和感と共に、ステフの足は一端止まる。

 そして殺到する靄を置き去りにして滑るように走りだした。


 被害者の壁を大回りに迂回し、善市郎の背後に回る。

 うごめく靄もステフを追い切れていないのか、ただうごめくだけだ。

 右手に持った単分子ナイフを差し出すように、靄の切れ目から肩甲骨の間へと突き入れる。

 切っ先は脊椎を断ち切り、胸へと抜けて心臓と胸骨を切り裂いた。


 予想していた通り、靄は善市郎の精神感応が目に見える形となったものだ。その切れ目を突く事は、すなわち善市郎の意識の隙を突く事に等しい。

 研究所でやられたような罠をかいくぐって、致命的な一撃を入れたステフはわずかに口角を上げる。


「そこにいたのかね」


 幅広の刃は今も善市郎の気管を断ち切っている。

 声など出せるはずがない。

 しかし確かにその声は善市郎のものだった。


 咄嗟にステフはナイフを手放し、全力で距離を取る。

 背中に深々と単分子ナイフの刺さった善市郎は、それを意に介さずゆっくりと振り向いた。

 土気色の顔に柔和な笑みを浮かべ、瞳孔の開いた目でステフを見つめる。


「酷い事をするなぁ。死んでしまうじゃないか」

「死んどくとこでしょ、そこは」


 重サイボーグであっても致命傷になる一突きを受けても、善市郎はさほど意に介していない。

 それがステフに攻める手を止めさせた。

 脊椎を持たないフルボーグであるなら、この傷で動けるのも納得が出来る。だが刃に伝わってきた手応えは、防具こそあったが一切の機械化をされていない生身のものだ。

 善市郎は胸の傷から流れ出す血もそのままに、おどけるように右腕をひらひらと振った。


「以前までならそうなっていただろう。だが、今は違う。私は人の心を食った分、私は以前とは違ったものになっているようでね。とても晴れやかで、まるで体まで若返った気分だよ」

「知ってる? そういうのは悪魔とか化け物って呼ばれてるのよ」


 ステフに信ずる神はいない。

 セカンド第二のバベルと揶揄されるビーンストークαについても、その逸話に大して思うところはない。

 もし悪魔や化け物がいるとしたら、それは人の心に他ならない。


 倫理を踏みにじり遺伝子を弄んで、戦い蹂躙するためだけの人造人間ステフを作り出したのは人間だ。数多の失敗作・・・が置かれている境遇を知った時、ひどい吐き気がしたのを覚えている。

 人造人間ステフが存在することが、人の心が有り様によっては悪魔や化け物にもなれると言う証拠だ――ステフはそう思っている。


 善市郎は土気色の顔に浮かんだ笑みを深くして、ステフの評価を受け止めた。


「それはそれで結構。悪魔となろうが化け物と成り果てようが、この老いた体でまだまだ出来る事があるのは喜ばしい――まずは君の心も私の遅い晩餐にさせてもらおうか」


 赤黒い靄が善市郎を中心に渦を巻き、その形を変えていく。靄の濃淡がまるで嘲笑う顔のようになると、膨れ上がりながらステフへと襲いかかった。

 更にターミナル中にうごめく靄も、逃げ場を塞ぐように加勢してくる。それだけではなく、次々と被害者達も起き上がってはステフの行く手を塞ごうとする。


 達人の記憶マスターズ・メモリーはまだ起動しているが、今の善市郎は目視や気配を頼らず――おそらくは精神感応によってステフの動きを捉えている。

 しかも今は攻め手に事欠いている。

 速度では勝っているが、能力の相性としては最悪の部類だ。


「ごめんっ、ちょっとだけっ!」


 小柄な体を屈め、細い足を伸ばして迫り来る被害者達の足を刈り払う。

 本気で蹴れば常人の足など容易にちぎれ飛ぶ。

 手加減をした足払いで四人ばかり転倒させ、五人目の足に触れた瞬間、ステフは自分の失策を悟った。


 払った足から染みだした赤黒い靄に足を掴まれた瞬間、ステフは大きな悲鳴を上げて床の上でのたうち回る。

 これまで感じた事のない、頭の中が焼け付くような痛みと目の中で明滅する閃光。

 靄はステフの細い体を這い回り、足から腰、腹から胸を通って喉を撫でた。指のように伸びた靄が確かな重さをもって、口の中へ入ってくる。

 両手で靄を引き剥がそうとするが、触れることすら出来ない。


 脳が煮えるような痛みの中、ステフは様々な過去を思い出していた。

 蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスの基幹AIによって教育を受けていた時。初めて人を殺した時。産まれた理由に嫌気が差した時。初めてトッドと出会った時。トッドのパンケーキを食べながら泣いてしまった時。

 それらの思い出が、赤黒い靄の中に埋もれて見えなくなっていく。


 心を、記憶を、自我を。

 善市郎に食われていく。

 自分を自分たらしめているものが無くなっていく痛みに、ステフは声の限りに悲鳴を上げた。


 涙で歪む視界の中では、被害者達――善市郎に心を食われてしまった人達――が、新しい被害者であるステフを呆けた顔で見下ろしている。

 自分もこうなってしまう。

 トッドの言いつけを守らず、独走した報いだ。

 ごめんなさい、ごめんなさいダディ――途切れそうな意識の中で、ステフは何度も父への謝罪を繰り返した。


『無茶をなさって――ステファニー!』


 頭の中に広がっていく靄を払うような、鋭い声がステフの意識に響いた。

 途端、赤黒い靄が大きくむせ込んだステフの口から吐き出されて、悪意に絡め取られていた意識が戻ってくる。

 大きく目を見開いたステフの視界に、初めて出会った時のようにスカートをはためかせながら寧が舞い降りてくる。

 寧は左掌を広げて不可視の盾を作り出すと、周囲に群がっていた被害者達を押しのけた。


「まだ起き上がってはいけませんわ。巻き込まれます」


 寧がステフに覆い被さるのと、特徴的な甲高い音と共に次々と操られた被害者達が膝を折っていくのは同時だった。

 指向性殺傷用音響兵器スクリーマーの音には違いないが、ステフの耳はその周波数が違う事を聞き逃さなかった。

 最大の出力では鉄をも引き裂く音波の槍も、周波数をずらせば対象の神経系に作用し、一瞬で昏倒させる事が出来る。


「手ぇ出すなと言っただろっ!」


 指向性殺傷用音響兵器スクリーマーの放つ音を圧して、ターミナルに怒声が響く。警備軍のものを拝借したのか、一抱えもある据え置き型の大型指向性殺傷用音響兵器スクリーマーを携えて、トッドは周囲を睨み付けた。

 極めて安全な非殺傷モードだからと、善市郎に操られた被害者達を片端から撃ち倒していく。

 彼等を内部から操っていた靄は、盾に出来る肉体が使えなくなると、被害者から抜け出て善市郎の元へと戻って吸収されていく。


 物理的な障害物がなくなった所で、寧は不可視の盾を構えながらステフを右手で抱えて走り出した。追ってくる靄を振り切ってトッドの所に戻ると、寧は頭痛をこらえながらステフの顔をまっすぐに見つめた。


「あれは尋常な相手ではありませんわ。私達と言えども、単独では不覚を取りかねません。それが分かっていたからこそ、トッドは手を出すなと言っていたのですよ」

「ご、ごめん……なさい……」

「分かって戴ければ良いのですわ」


 幼子の様に震え、消え入りそうな声を出してうなだれるステフを見て、寧はそっと頭を撫でた。痛みをこらえながらも、ステフに注がれる視線は優しかった。

 トッドは大型指向性殺傷用音響兵器スクリーマーを構えたまま、その様子を横目に見て苦笑する。


 言いたい事もやりたい事も取られちまったなあ――だがそれが嬉しくもあった。

 こんな場所とタイミングではあるが、ステフにこうやって接してくれる相手が一人でも増えた事は、父親として喜ばしい。


「トッド・エイジャンス……やはり、君もここに来ていたのか。とても、とてもとても嬉しいよ。まさか娘だけを差し向けるとは思っていなかったがね」


 心底嬉しそうな善市郎の声が、殆どの被害者が倒れ赤黒い靄の立ちこめるターミナルに響く。身に纏った靄も、まるで善市郎の内心を映しているように、不気味な笑顔じみた形を取る。

 砲口を向ける大型指向性殺傷用音響兵器スクリーマーも気にせず、一歩一歩ゆっくりと三人へと近寄ってくる。


「やんちゃな娘のちょっとした勇み足さ。だけどな、娘だけに任そうってほど甲斐性無しじゃあないんでね。これからは大人の出番って訳さ」


 直接相対して分かったが、善市郎の気配はやはりメキシコのジャングルで感じたのと同質の、人とはかけ離れた気配になっている。

 原始的な、本能に根ざした恐怖をかき立てる気配は、かつて自分を一晩ずっと狙っていたものと同じだ。

 二度と出会う事もないと思っていたが、まさかジャングルではなく低軌道ステーションで、今度は真っ向から向かい合うとは思いも寄らなかった。


 しかも善市郎は人造人間の少女達ではなく、トッドに明確な殺意を向けている。

 余程、腹への一撃が効いたのだろう。

 内臓の一つ二つは壊した手応えだったが、終端装置T・デバイスの工作員のように再賦活システムでも搭載していたのか。

 背中に刺さったままのナイフが、致命傷になっていないのは一目で分かる。


「君には是非ともまた会いたいと思っていたよ。借りを返さないまま、アリゾナに戻るのは嫌だったんだ。来てくれて何より」

「忘れてくれて良かったんだがなぁ。ま、ここであんたを捕捉出来たんなら、俺達としちゃ例の物を返して貰うまでさ」


 正体の知れない何か・・になった善市郎を前に、トッドは二人の少女を庇うように立ちながら、じりじりと距離を取る。

 大型指向性殺傷用音響兵器スクリーマーや単分子ナイフで武装していながら、徒手の相手を攻めあぐねていた。


 それに第一の目的はデータチップとハードウェアキーの奪取だ。

 指向性殺傷用音響兵器スクリーマーで撃ってしまっては、目的の物を諸共に粉砕する可能性があるし、非殺傷モードであっても危険が伴う。

 顎に伝う汗を拭う事も出来ずにいたトッドに、寧が声を掛けた。


「トッド。あれ・・は生きていません。生きてはいませんが……精神活動のみが行われています」

「なんだそりゃ。再賦活システムか?」

「いえ、あの靄――可視化された精神感応が、再賦活システムと同様に生命活動が停止した体を駆動させていると推測されますわ」


 寧は目を凝らして善市郎を睨み付けている。

 人造人間としての知覚だけでなく、超能力者としての知覚も駆使し、靄にとらわれていたステフを助けた時の感覚を合わせての推測だ。


 自分で口にしていながら、寧自身もにわかに信じられない状態だった。

 機械化による神経系を初めとしたバックアップではなく、自らの精神感応によって停止した身体機能を補い、あまつさえ攻撃を同時に行うなど既知の超能力化学から大きく逸脱している。

 人間とは比較にならない超能力を持つ寧からしても、冗談としか思えない。


「で、どうすりゃあいつを止められる?」

「大脳を破壊、もしくは全身を粉砕して精神感応の発生源を断てば宜しいかと」

「シンプルでいいじゃねぇか。問題はどうやってあいつから目的の物を奪うかだが――」


 ターミナル中に散った赤黒い靄から出ているような、やけに響く声がトッドの言葉を引き取って続ける。


「これの事かね? 欲しければ取りにきたまえよ、トッド君。私に近寄れるものならね」


 どこか緩慢な動作で善市郎は左手を懐に入れると、データチップとハードウェアキーを出して眼前に掲げた。

 その体を包む赤黒い靄へと、散っていた人型の靄が集まっていく。そして波打ちながら更に大きさと濃さを増して、善市郎の姿をぼやけさせる。

 靄が形作る顔は十メートルを超え、このままではターミナルの吹き抜けを満たしかねないほどだ。


 トッドの脳裏に一時撤退の選択肢も浮かぶが、今の善市郎が低軌道ステーションの中を動き回れば被害がどこまで広がるか分からない。

 親指で指向性殺傷用音響兵器スクリーマーの効果範囲を絞りながら、端末の脳波検知を介してステフと寧の端末にメッセージを送る。


「ほんとにやるの?」

「本気ですか?」


 網膜投影されたであろう文面に、異口同音に少女達が口を開く。

 トッドが送った作戦は、かなりの危険があった。

 普段であれば選ぶ気にもならない手だが、尋常ではない相手と戦うのであれば、相応に尋常ではない手段も必要だろう。


「あいつはここで止めにゃならん。頼んだぞ」

「ダディ、必ず成功させるからね」

「援護はお任せください」


 少女達を振りかえる事無く、トッドは指向性殺傷用音響兵器スクリーマーを構えて一歩踏み出す。

 靄で形作られた顔が、それを見て口角を上げた。

 トッドは機械化した目を調節し、赤外線と可視光線を同時に表示して、靄に隠された善市郎の位置を捉える。


「いくぞっ!」


 自分にだけ意識を向けさせるべく、怒鳴りながら範囲を絞った音波の槍を足元へ向けて連射した。

 同時にステフはターミナルの壁を蹴って、多層構造になった搭乗口の上階へと駆け上がった。靄が発するおぞましい気配に注意しながら善市郎の上をとり、牽制の単分子ナイフを投擲する。


 だが善市郎は足や肩にかすった攻撃を無視して、大きく嗤った。

 お返しとばかりに、ステフへと分裂していた靄の残りを差し向けながら、トッドへ向けて巨大な顔が突進する。

 軽やかに靄をよけるステフと対照的に、トッドは傷ついたままの足に鞭打って、靄の顔から大きく距離を取った。牽制の射撃も忘れてはいないが、善市郎は全く意に介していない。

 その手にデータチップとハードウェアキーがある限り、下手に当てる訳にもいかないと見透かされているのだ。


 寧は後ろに下がると、幾つものモニタを空中に投影し、それら全てに素早く指を走らせた。今いる第三ターミナルを封鎖し、最高レベルの避難警報を低軌道ステーション全域に発令させる。

 例え警備軍のようする精鋭の兵士であろうと、今の善市郎には太刀打ち出来ない。それならば一人でも被害者を増やさぬよう、一般人を含めて第三ターミナルへの通行を遮断するまでだ。


 善市郎本体の動きは鈍っても、赤黒い靄の顔はその舌を伸ばしてトッドだけでなく、三人を絡め取ろうとする。

 牽制を続けるステフやステーションへの電子的干渉を行っている寧は、常に善市郎から一定の距離を取り、余裕をもって攻撃をかわしていた。

 だがトッドだけは指向性殺傷用音響兵器スクリーマーを撃ちながら、じりじりと距離を詰めていく。


 果敢ではなく無謀と言える動きに、善市郎は誘われるように靄の巨顔を向ける。

 トッドと目が合った善市郎は靄の中で土気色の顔に笑みを浮かべた。


「懲りないな、君らも――同じ手だというのに」


 声と同時に、瞬時に善市郎がトッドの眼前へと現れた。

 寧の知覚をも欺いた精神感応による認識の阻害。

 赤黒い靄こそが精神感応の形状だと三人は思い込んでいた。それは少しだけ違っていた。

 靄状となっている、自我を食らう精神感応から意識の殆どを割り振れば、今の善市郎は不可視の――以前のような精神感応が使用出来る。

 それこそが、背中からステフの一撃を受けようとも、トッドを捉えるために善市郎が用意していた罠だった。


 三人の認識の外側でトッドに近づいていた善市郎へと、置き去りになっていた赤黒い靄が追いつき、ついにその体を飲み込んだ。

 途端にトッドは凄まじい絶叫を上げる。

 頭の中でグレネードが爆発し続けているような、痛覚ブロックすら凌駕する凄まじい痛み。

 機械化した目が弾け飛んだかと思うような閃光。


 ステフや被害者達は、こんなものを食らってたのか――自分が靄に捉えられる事は作戦のうち・・・・・だったが、予想以上の苦痛に膝を折った。

 トッドは指向性殺傷用音響兵器スクリーマーを手放して、今まさに善市郎のが侵食していく頭を両手で押さえた。


 抗弾性強化皮膚もチタンコートされた頭蓋骨も、赤黒い靄の形を取る精神感応には何の守りにもならない。

 セラミックに置き換えた歯を、ひびが入るほどに食いしばりながら、トッドは自分の記憶や意識が削られていくのを感じる。

 それに抗えるのは、靄に削られていく自分の意志だけだ。


 かつてトッドを支える礎となっていたのは、軍人としての自負だ。厳しい訓練、将来の負担を顧みない肉体の改造、そして幾つもの実戦で培われたもの。

 それに加えて、今は父親としての責任と矜持がある。

 自分が倒れては、ステフが危うい。

 その思いを自分の芯に据えて、散ってしまいそうな意識を纏めあげる。


 だが体は遮断出来ない痛みに激しく痙攣する。人工筋肉が伸張と収縮を繰り返し、チタンコートされた骨格が軋みをあげた。

 床の上でのたうち回るトッドに、善市郎の声が降ってくる。


「サイボーグと言えど、無様なものだね。直に君の娘達も後を追う。君の自我が消える前に、その姿が見られるか試してみたまえ」


 ぼやける視界には、善市郎の足しか見えない。今すぐ立ち上がって殴り飛ばしてやりたいが、体が全く言う事を聞かない。

 善市郎が足を引きずるようにして、向きを変えたのが見える。

 もうトッドは自分の手に落ちた、そう思っての事だろう。


 だがトッドは諦めていなかった。

 痛みに苛まれる中、小脳に追加されていた培養神経節を起動する。


 それ・・は機械的な神経系バックアップである、再賦活システムと同様の効果を狙って作られたものだ。

 しかし外部からの機械的な干渉を受けない代わりに、再賦活システムのような作戦行動を取れるものではない。時間にすれば三秒にも満たない動作を、大脳の状態にかかわらず行わせるだけのシステムだ。

 激痛の中、トッドの意識はその数秒分の動作を、培養神経節に叩き込んだ。


 赤黒い靄が与える影響は、痛みもなにも全ては脳で処理されているものだ。

 そこから離れたトッドの体は、善市郎の背後で音も無く身を起こす。

 機械化した目はうつろで視点も定まっていないが、その右手は善市郎の背中に刺さったままの単分子ナイフを掴んだ。


 トッドはそのまま肘と手首の返しだけで斜めに切り上げ、その軌道をなぞるように両刃のナイフを切り下ろした。

 肩口から斜めに両断された体がずり落ちるより早く、トッドはナイフから手を離し、善市郎の首を掴んで真後ろへ――リフトの真下にある、大型エアロックへ向けて放り投げた。

 善市郎は纏った赤黒い靄ごと、鈍い音を立ててエアロックの扉に落ちる。


「寧っ、開けろ!」


 培養神経節に命じた動作は終了し、まだ残る痛みを誤魔化すために、声の限りに叫ぶ。

 緊急事態エマージェンシーモードで操作されるエアロックは、通常の数倍の速度で開くと落とし穴となって善市郎の首と右腕を飲み込んだ。

 データチップとハードウェアキーは、残った体が持ったままだ。


「すぐに閉――」


 言い終えるよりも早く、トッドは予想外の攻撃に息を詰まらせた。

 顔を模した赤黒い靄は、善市郎の首と共にエアロックの中へ落ちていった。しかしそこから伸びた靄の腕が、素早くトッドの足に絡みついて神経系へと介入した。


 精神感応は念動のように物体へ干渉する事は出来ない。

 だが、被害者の体を操りさえすれば、弱い念動よりも素早く確実な効果を上げる。

 トッドの足は自らの意志に反して、赤黒い靄に命じられるままエアロックへと走り寄ると、一切の躊躇無くその身を投げ出させた。


「ダディ!」


 ステフは靄の腕がトッドに伸びた瞬間、上部搭乗口の手すりを乗り越えて宙へ飛び出していた。それを追おうとした人型の靄は、善市郎の集中が途切れたのか手を伸ばしながら散っていく。

 そのまま自由落下に任せず、手すりを蹴って加速。二十メートル近い高さから、トッドを追ってエアロックへと飛び込んだ。


 自分を追ってくる娘の姿を見たトッドは、歯を食いしばって靄による干渉を打ち払うと、ステフへと手を伸ばした。

 無茶をする娘だが、相応の理由や根拠はある。無策で飛び込むような真似は決してしない。

 それに何より家族として、パートナーとして揺るぎない信頼があった。


 ステフの手が、トッドの手を空中でしっかりと掴まえる。

 そのまま逆の手で、もう一本の格闘用単分子ナイフを引き抜くと、これだけに内蔵した仕掛けを起動した。

 ガウスガンと同様の原理により射出されたブレードは、エアロックの内壁に突き刺さると格納していたかえし・・・を展開。アンカーとなった刃と柄を繋ぐ単分子ワイヤーは、ステフの操作で即座に巻き取りを開始する。


 唐突なベクトルの変化によって、二人の体はエアロックの底ではなく、落下の勢いを保ったまま壁面へと向かう。

 ステフはわずか一秒にも満たない間に姿勢を変え、自分の体をクッションにして大事な父が壁面に叩き付けられるのを防いだ。


「済まない、ステフ。大丈夫か?」

「あたしが盾にならなきゃ、なんのために落ちてきたんだかわかんないでしょ。それよりも――」


 視線を下へ向けたステフは、その表情を引きつらせた。

 エアロックの直径は十五メートルほどだが、その深さはリフト以上――五十メートルはある。

 その底では、エアロックの直径いっぱいに広がった赤黒い靄が、憤怒の表情を形作っていた。叫ぶように開いた口の中には、舌の代わりに何本もの靄の腕が蠢いている。


「まだ動いてやがんのかっ!?」


 機械化した目を凝らし、エアロックの底に横たわる善市郎の姿を確認する。

 濃い靄で分かりにくいが、五十メートルの高さから金属の扉に落ちた善市郎は、辛うじて原型を保つ人体の一部にしか見えない。


「トッド……トッド、エイジャンスっ……!」


 地響きのような声に、宙づりになったままの二人は同時に叫んだ。


「寧っ、エアロックを開放しろ! 奴を放り出す!」

「あたし達は大丈夫だから早くっ!」


 善市郎の放つ赤黒い靄は、まだその活動を停止していない。

 銃器も無くこれ以上接近戦を挑める状態でないとなれば、作戦通りにエアロックから放り出してしまうのが最善手だ。


 わずかな間があったのは、寧の迷いか。開いた時と同じく緊急事態エマージェンシーモードで速度を上げて扉が閉鎖されていく。

 四角い縦穴の中、赤黒い靄と一緒に閉じ込められた親子は、どちらともなく小さく笑った。


「しくじれば生身で宇宙遊泳だな」

「子供の頃からやりたかったんじゃないの?」

「こんな小洒落た服じゃなくて動力装甲服パワードスーツを借りてくるんだったな――息は吐いて口は開けとけ。それにお前は目を閉じてろ――来るぞっ!」


 靄で造られた顔が叫ぶように大きく口を開けるのと、エアロックの減圧機構が作動するのは同時だった。

 ターミナル側に並んだダクトから、轟音を立てて空気が吸い出されていく。

 急激な減圧によって体表の水分が蒸発していき、気化熱で全身の温度が奪われる。それは人造人間たるステフの目も例外ではなく、目を開けていることすら辛くなり、開いた口の中では唾液が冷えていく。


 本来は完全に空気を排出してから開く宇宙側の扉が、緊急事態エマージェンシーモードによって強制的に開かれていく。急減圧によって凝結した空気中の水分が霧となって、肌に触れては更に熱を奪い去る。

 真空に近くなり音を伝えるものが無くなっていく中、靄で造られた顔は更に膨張していき、大きく開いた口から伸びた舌が二人へと迫る。


 トッドは機械化した目で醜く歪む顔を睨み付けると、腕時計のベルトを噛みちぎった。

 そして空いている左手で無骨なムーブメントを握りしめ、三つの竜頭を決められたリズムで強く押し込む。

 善市郎の首と共に、赤黒い靄が宇宙へと吸い出されようとする中、トッドは大きく振りかぶって腕時計を投げつけた。


 死んでろクズがっ――ほぼ真空となったエアロックで、トッドが音無き叫びを発する。

 投げつけられた腕時計は善市郎の首に命中すると、バッテリーの全電力をつぎ込んだ電磁誘導により、内蔵した単分子ワイヤーを爆発的に解き放つ。

 最大殺傷半径二メートルの腕時計型暗器、クロノ・リッパーは単分子ワイヤーの嵐によって善市郎の首を粉砕した。


 頭部を粉々に切り裂かれて精神感応を維持出来なくなったのか、赤黒い靄は急速に色と形を失っていく。

 肉片となった首と薄まっていく靄の顔は、宇宙へと放り出され、重力に引かれて地球へと落ちていった。

 赤黒い靄は歪みながら絶望の表情を形作り、地球の青さに溶けるように消滅した。


 うちのステフに手を出そうとした報いだ――

 わずかに口角を上げて笑うトッドは、そう思いながら意識を失った。




「……ディ、起きてっ! ダディ!」


 耳元で叫ばれて、トッドは大きな体をびくりと震わせながら、目を見開いた。

 間近にあったステフの顔と、その後ろで心配そうに覗き込んでいる寧を見て、大きく息をついた。


「気の利く天国だ。娘に似た天使をつかわせてくれるたぁな」

「ばかっ、ダディが死ぬわけないでしょ。あたしがついてるんだから」


 軽口を叩きながら、横たわっていた床から体を起こす。そこでやっと自分が酸素マスクをつけている事に気がついた。

 気を失っている間にエアロックから引き上げられたのか、今いるのは善市郎が暴虐の限りを尽くした第三ターミナルだ。周囲では警備軍の兵士や救急隊員が、戦場さながらの激しさで精神感応の被害者達を救助している。


「あなたは酸欠で気絶していたのですよ。ステファニーがいなかったら危ないところでした」

「ありがとうな、ステフ。それに寧。おかげで奴を葬って、生き残る事が出来た」


 穏やかに微笑み、二人の少女に礼を言った。

 誰が欠けてもここまで辿り着く事は出来なかっただろう。急ごしらえのチームにしては上出来の結果だ。

 ステフは応える代わりにトッドに抱きつき、寧は目を細めてその様子を見つめる。


「こちらこそ、お二人にはお礼を言わねばいけませんわ。おかげでこの二つが揃いました」


 寧の手にはデータチップとハードウェアキーが乗っている。

 少女の掌に収まるほどの物のために、セカンドバベルを走り回り、しまいには低軌道ステーションにまで来ることになった。

 それだけの価値はある。

 少なくとも七大超巨大企業セブンヘッズにとっては、今後の社運にも関わりかねない。超能力を半ば失った人造人間と、それに協力した二人の命をあがなうには十分だろう。


「それがあれば、トミツに戻っても大丈夫だろう。良かったな」

「ええ……事後処理はあるでしょうが、私の立場を守れる材料は手に入りました。後日となりますが、T&Sトラブルシューティングの口座に相応の謝礼をお振り込み致します。今回の案件で消耗した物品の分は加味させての額ですので、赤字にはならないと思いますわ――ありがとうございました」


 騒がしいターミナルの中で、床に正座していた寧は深々と頭を下げた。

 依頼人から礼を言われる事はこれまでもあったが、自分達を狙う敵として出会った相手に礼を言われたのは初めてだった。

 照れ隠しに頬をかきながら、トッドは相好を崩す。


「色々とあったが目的は果たせたんだ。これで君に何かあっちゃ、こっちとしても寝覚めが悪い。それに金まで貰えるなら万々歳さ」

「良かったね、寧」


 トッドに抱きついたまま、ステフはねぎらいの言葉をかける。その表情は柔らかく、言葉少なながらも心からのものだった。

 ステフからその様なことを言われると思っていなかったのか、少し驚いた後に浮かんだのは外見相応の少女にふさわしい満面の笑み。

 つられてサイボーグと人造人間の親子は破顔した。

 セカンドバベルを初めとする軌道塔計画と七大超巨大企業セブンヘッズの一部に関わる、たった五日間の暗闘は今、三人の笑顔で終わりを告げた。

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