第14話 逃走

 装備を含めれば百五十キロ近いトッドを抱えたままステフは走る。その速さたるや時速百キロメートル近い。大通りから薄暗い脇道へと入り、路上のゴミや荷物を蹴り飛ばしながらも速度を落とすことなく風のように走り続ける。

 スタングレネードの影響はあるが、それくらいで足をもつれさせるほど人造人間としての耐久力は低くない。それに何度となく対サイボーグ用スタングレネードの至近影響下での行動は訓練していた。

 戦闘、逃走、撹乱かくらん、奪取、いずれの行動を取るにせよ、単独であれ二人であれ遅滞なく動けるように養父トッドはステフに叩き込んでいた。

 蛍門インメェン工業公司にいた時さえ、ここまで酷い状況下を想定した訓練はした事がなかった。だがその成果がやっと活きることになった。


「ステフっ、そろそろ下ろせ。どこかで潜る・・ぞ」


 三匹目の野良猫を飛び越した辺りで、ステフに担がれていたトッドが声を上げた。驚いた野良猫が上げる鳴き声を背中に浴びながら、ステフは靴底から煙が出るほどに力を込めて速度を落とす。


「多分だけど、あそこから八ブロック約800mは離れてる。でも急がないとすぐに追いつかれるよ」


 自分の歩幅から概算した距離を告げながら、四階建ての商業ビルの裏手に足を止めたステフは抱えていたトッドを下ろした。


「分かってる。オメガが敵に回ってるなら、最悪は軌道上の監視システムまで使ってくるだろうからな」


 トッドはまだ痺れが残る右手でステフの頭を撫でながら、左手の短針銃ニードラーをしまって単分子ナイフを取り出す。一瞬だけ周囲の監視カメラの位置を確認しながらナイフを三度振るい、裏口の扉を大きく切り裂いた。


 オメガインテンションがセカンドバベルの低軌道ステーションに設置した太陽光発電設備に、地上監視用のカメラを設置してあるのは公然の事実だ。

 スペースデブリの監視や、軌道塔の損傷を外部から発見する為のカメラだと公式に発表はされているが、それを信じている者は少ない。カメラの角度を少し動かせばセカンドバベルとその周囲を上空から監視出来るのは、他の七大超巨大企業セブンヘッズからも指摘されている。

 今の状況でそれを使わない保証はどこにも無い。


 三角形に切り取られた高耐久樹脂製の扉は、ステフが少し押すだけで内側へと倒れ、二人はそこからビルの中に入る。電子錠や蝶番には一切触れていないので、警報器は沈黙したままだ。気の利いた防犯設備があるなら扉の破損だけで察知されるが、運良くこのビルにはそうした設備は設えていないようだった。


 二人は非常灯だけを頼りに階下へと降りる階段を探し、人気が無いのを確認しながら早足で下っていく。

 目的の扉はエレベータ機械室の横で、うっすらと錆を浮かせていた。

 第一層集中共同溝と彫られたプレートの下には、公共工事関係者以外立入禁止の文字が七カ国語で書かれている。


 多層構造メガフロートを基礎として作られたセカンドバベルは、初期段階から多数の超大型量子コンピュータによって詳細に設計され、ライフラインの敷設・維持・管理が容易になっている。

 セカンドバベル全域に張り巡らされた多層共同溝も、そうした設計で成り立っていた。

 共同溝に住み着く孤児や抜け道として使う犯罪者が問題となっている為に、ドローンが内部を警備しているが、少なくても七大超巨大企業セブンヘッズの工作員よりは誤魔化しやすい。


 これまでも二人は幾度か共同溝や、その更に下方にある巨大な空間――大都市を物理的に支える浮力層に入り込んでの仕事をこなした事がある。襲撃を受けたタイミングが悪かった上に徒歩での移動しか出来ず通信も入らなくなるので、SADから逃げるのに使う事は出来なかったが、今逃げる分には問題が無い。


 ステフは戦闘用ベストから三センチ角ほどの機械を取り出すと、それを真ん中の蝶番から九十度ほど開き、扉に設えられた電子錠へ近づけた。蚊の羽音じみた音が断続的に機械から響くと、十秒ほどで電子錠は開いた。

 共同溝へ続く扉は警報がセカンドバベルの公共機関へと通知されるので、単分子ナイフのような手早く荒っぽい手段は使いにくい。

 この機械はそうした面倒な電子錠を解除する、特製の非接触式超音波万能鍵マスターキーだ。依頼一回分以上の値段だが、それに見合った性能はある。


 僅かな軋みを上げながら扉を開き、二人は扉の中にある細い階段を更に下っていく。照明の類は設置されておらず、明かりは二人の銃に付けられた小型のライトのみ。

 微かな光であっても機械化された目や、暗闇を見通す人造人間の目にとっては、色が乏しくなるだけで昼間とさほど変わらない。


「ステフ。お前が持ってろ」


 暗い階段を先んじて降りながら、トッドはポケットから出したデータチップを後ろのステフに放り投げた。ステフはナイフを持った手で器用に受け止めると、戦闘用ベストのポケットに入れる。

「……あたしが持ってていいの?」


 囁きは細い階段に響き、潜めた足音にすぐかき消される。


「駄目なら渡さんよ。お前が持ってる事を知れば、あの単分子ワイヤーか? 面倒なあの攻撃も躊躇するだろ」


 短針銃ニードラーに取り付けたライトで足元を照らしながら、トッドはぶっきらぼうに言った。そして一度言葉を切ってから短く続けた。


「お守り代わりだ。無くすなよ」

「ん、分かった。てか、あたしが殺りあってる最中に何あったの? 予想はつくけどさ」


 トッドは右手で短い髪を撫でつけながら息をつく。


「たいした事じゃないんだがなあ。少しだけ早く、予想通りの動きをしてくれた訳だ、ミーナが」




 第一層共同溝は人が並んで歩くには少し狭い。数十メートルおき設置された小さな照明が壁を這う何本もの太いパイプを照らし出していた。

 二人は階段から共同溝に入ると、下層への階段を探しながらひとまず中央区画側から離れるように移動していく。方向としては地上で逃げてきたルートを逆に辿る事になるが、中央区画に近づく事はメガフロートの端に到達する事であり、逃げ道が限られるわ壁の向こうは海になるわと制限が増える。

 襲撃された時に流れ弾が外壁を貫通すれば、そのまま溺死すらあり得る場所は逃走ルートとしては危険過ぎた。


「セーフハウスにいた時に殺っておけば良かったなぁ」


 事情を聞いたステフは半ば呆れたように、ただし冷たい殺意を込めて零した。ステフにとっては、トッドに銃を向けた時点で殺害対象にカテゴリされる。

 それも当初から疑わしく、殺せるチャンスがあった相手に銃を向けられたのだ。右手に持ったガウスガンが軋むほどに、ステフは苛立ちを隠さなかった。


「あの時点じゃまだ敵対する確証が無かったんだ。下手に手は出せん……ま、生きてたとしても前線にいける状態じゃないだろ」


 トッドはミーナを撃った時を思い出し、経験から推測されるサイボーグの耐久度に当てはめながら言った。


「もし生きてたら……ま、そっちは後でいっか。それよりこれからどうするの?」


 頭を切り替えて、これからの事を尋ねた。ミーナがセカンドバベルから逃げる前に、殺すくらいは出来るだろうという自信はあった。

 トッドは痺れの抜けてきた右手で鼻を掻きながら、足を止めずに思案する。


「さて、どうするかな。セカンドバベルから逃げるか、それともマクファーソン辺りにデータチップ持ち込んでみるかな。流石に三社が組む事はあるまいよ。特にマクファーソンは」


 マクファーソンカンパニーは七大超巨大企業セブンヘッズ中最大の規模を持ち、二十二世紀においても世界最大の国家たるアメリカを支える超巨大企業だ。

 アメリカ以外との協力を好まず、もしデータチップを持ち込めばセカンドバベルの影に大きな波乱を巻き起こすだろう。

 トッドは軽く言ったが、セカンドバベルのパワーバランスを崩す切っ掛けにもなりかねない。


「それやったら、あたしらずっとマクファーソンのお膝元にいないといけなくなりそう。それともしばらくしたら処理されちゃうかなあ。逃げるの面倒そーね」


 少しばかり滅入ったような声を上げるステフ。

 世界最大の国家を支える世界最大企業を、向こうに回す状況すら面倒の一言で済ませられるのは、人造人間としての性能に対する無謀なまでの強い自負があってこそだ。


「そろそろ七大超巨大企業セブンヘッズのどれかに、強いコネの一つも作りたいとは思ってはいたがなぁ……もう少し俺達に有利な条件を出せりゃいいんだが」

「なぁに?」


 トッドは嘆息しつつぼやき、後ろを歩くステフを少しだけ振り返った。視線に気づいたステフは、トッドを見上げて小さく首を傾げる。


 ステフの追っ手は蛍門インメェン工業公司。

 国をも跪かせる七大超巨大企業セブンヘッズの一つを相手にしてステフを守るには、同等の味方は欲しい所ではあった。

 しかしステフを狙わないという保証がなければ、おいそれと近づく事も出来ない相手でもある。

 もしミーナが裏切らなければ、オメガインテンションに話を持ちかける策も少しは考えていたが、今となっては不可能だ。


「何でもねぇよ。そろそろ第二層への階段があってもおかしかないんだが……」


 トッドは前を向いて目を凝らすと、機械化された目の望遠機能を使用する。暗視機能とあわせて使えば、かなり遠くまで見通せるが視界の中にそれらしいものは見当たらない。


「しばらく歩かにゃならんか。適当な所で入ったし地図も読めんからなぁ」


 トッドの端末には私家版の地図は入っているが、ミーナの電撃の影響か端末そのものは反応はするものの投影式モニタが出なくなっている。

 周辺区画全域に広がる共同溝は、その正確な地図すら公表されていない。地上の建築物の配置からおよその配置は推測され、一部ではそれを元にした私家版の地図は出回っているが、その精度はさほど高くない。

 セカンドバベルにおけるインフラの要は、国連関係者にしか正確な事は分からないようになっている。それが深部にある第二層なら尚更の事であった。




 二人は共同溝に入ってから一時間近く歩き回り、やっとの事で目的の階段を発見した。

 大きなドーム状になった分岐スペースには、蜘蛛の巣のように様々な配管が這い回り、照明はあっても見通しはかなり悪い。管理用ドローンが動き回った跡はあるが、淀んだ空気のかび臭さと潮臭さは消せるものではない。

 分岐スペース最下部には防錆加工された分厚い扉があり、そこには第二層集中共同溝と彫られたプレートがついていた。


「やっとだな。第二層に降りたら大きく移動して、明け方くらいには地上に出よう。どこかで飯も調達せんといかんしな」


 第二層共同溝は第一層ほど複雑な構造をしていない。第一層と第二層は一般道と高速道の関係に似ていて、長距離に渡って電力や通信網、上下水道を通していく役割が第二層にはあった。

 第一層へと繋がる場所は限られるが、今のように長距離を目立たず移動したい時には便利な通路であった。


「ステフ、地上に戻ったらお前の端末使って金を引き出すぞ。後金は貰い損ねたが、前金だけでも当面の活動資金にはなるからな。まずは旨いもんでも食って、これからの事を詰めるとしよう。今回は二人ともしっかり食っておくぞ。旨くも無い流動食じゃ気合いが入らんからな」


 扉の前でステフへと振り向きながら、トッドは気遣うように大きく笑った。ステフはそれに答えて小さく笑いながら頷き――その表情を凍らせた。


「ダディ!」


 気を抜いてはいない。だが寧と戦った時の昂ぶりに比べれば、緊張がほぐれてしまていた。

 悪寒にも似た殺気を感じてステフが叫ぶのと、扉に指先ほどの穴が空き、僅かな残像を残して一条の光がトッドを貫くのは同時だった。

 ステフは咄嗟にトッドのベルトを掴んで体を引き寄せ、扉を貫く幾条ものレーザーから避難させる。


「やはり、いい」


 扉の向こうから、そんな声が聞こえた気がした。と思う間もなく分厚い金属の扉は瞬時に粉々に切り刻まれる。


「ふふ……よく対応出来ましたね。流石は私の同類です。人間風情とは違う」


 左手で軽く額を抑えながら、寧が粉砕された扉の向こうから姿を現す。そして寧に続いて、一抱えもある対車両レーザーカノンを抱えたアルフや、ガウスライフルを携えた工作員が六人ほど現れる。


「てめぇ……どうやって先回りしやがった……?」


 実体弾に対しては高い抗弾性を持つトッドの体も、レーザーを防ぎきる事は出来ない。通常の携行型レーザー兵器であれば、積層カーバイトの皮下装甲が貫通をある程度防ぐが、アルフの抱えた対車両型――拳大のバッテリーを一射で使い切るタイプには殆ど役に立たない。

 片肺がやられたのか、苦しげに息をつくトッドを庇いながらステフはガウスガンを構えた。


「少々、頭を使って・・・・・予想したまでです。こちらは貴方たちと違って、地図も許可も自由に取れる立場ですからね」


 余裕ぶった片笑みも、頭が痛むのか言葉とは裏腹に崩れがちだ。細い指でこめかみを揉むように指を僅かに動かしていても時折その顔が歪む。


「我々の戦力は君らを大きく上回っている。投降するのならば悪いようにはしない」


 アルフは自分の身長より大きな対車両レーザーカノンを構え、その銃口をステフに向けている。

 装甲車の装甲を貫通出来るレーザーの前には、防具すら着けていない人一人なぞ何の防護にもならない。今の位置で撃たれれば、レーザーはステフを貫き、後ろのトッドも撃ち抜くだろう。


 ステフはアルフを睨み付けながら、剥きだした歯を軋らせる。

 二対八。

 それも不意打ちでトッドが負傷した上に、敵の武器は全て二人に向けられている。寧が混じっていなければ切り抜けられる可能性はあるが、当の寧は額を押さえながらも、右手はいつでも動かせるようにだらりと下げられていた。


「よし、分かった。データチップを出すから、まずはちょいと銃を下げちゃくれんかね? 流れ弾でデータが無くなるのはそっちも嫌だろう?」


 苦しげな中でトッドは努めて平静を装いつつ尋ねる。

 しかし寧は額を押さえたまま首を横に振った。


「分かっているのですよ、トッド・エイジャンス。データは貴方が持っているのではない。この距離でしたら、ステファニーがベストのどこに入れたかも私には分かりますわ。だから扉ごと撃ったのです……殺せなかったのは残念ですが、もうまともに戦える傷ではないでしょう?」

「ふん……交渉のしがいがない奴だ」


 寧は頬を歪めて笑い、トッドは苦笑を返した。

 悔しいが寧の言う通りだ。

 積層カーバイトの皮下装甲もチタンコートした肋骨も、大出力のレーザーで溶けて穴が空き、肺も焼けて息をするだけで痛みが走る。おまけに開放したアドレナリンの効果も切れ、意識を手放しそうな疲労が襲ってきている。再びアドレナリンを溜めて開放するには、少なくてもあと半日は待たなければならない。


 圧倒的な戦力差をひっくり返すには、傷ついたトッドがステフの枷になっている。それはトッド自身が一番分かっていた。

 隠れる所の少ない共同溝の分岐スペースで銃を向けられていては、ステフのように弾丸を避けられでもしない限りは一方的になぶり殺しになるだけだ。


「ステフ。お前が義理立てするような事じゃない。分かって・・・・るな。このケースでのやり方は教えてあるだろ」


 あえて情報収集の帰りに使った言葉を繰り返すと、ステフの小さな肩がびくりと一つ震えた。


「……どうしてもやるの?」


 頭でも撫でてやりたいが、銃を向けられた今は出来そうにない。


「当たり前だ。そういう決まり……いや、約束をして、俺達は仕事をしてただろ」


 強く言うと人造人間の少女は小さく、確かに頷いた。


「大丈夫ですよ。こちらの主目的さえ果たせれば、無駄に死体を作る事はしませんわ。投降してくださいますわね?」


 少しだけ寧の右手が動くと、扉を粉砕した単分子ワイヤーの束が足元に集まっていく。

 ステフは唇の隙間から静かに息を吸い、呼吸を止めた。

 瞬間、弾けるように走り出した。

 敵に向かってではない。配管を足場にして、凄まじい速さで壁を駆け上がる。

 単分子ワイヤーの嵐を振り切り、銃も向けず単分子ナイフを閃かせる事もなく、ステフは全力で逃走した。


 トッドを除く全員の目がステフに奪われた一瞬の隙をつき、トッドは短針銃ニードラーを乱射する。


「逃げろっ、ステフ!」


 叫ぶトッドの腹をレーザーが貫き、撃ち漏らした工作員が反撃とばかりにガウスライフルを一斉射撃する。

 弾丸そのものは皮下装甲で幾つかが止まっても、その衝撃は耐衝撃性脂肪層で止めきれるものではなかった。

 全身をハンマーで殴られ続けるような衝撃に、トッドは踊るように体を捻りながら、自分の吐いた血の中に倒れ伏した。




 ステフは背後から聞こえる銃声も無視し、あらん限りの速度で狭い共同溝を駆け抜ける。

 途中、銃を構えた誰かが数回立ち塞がったが、相手が反応するより早くステフは単分子ナイフを振るってそれを両断すると、足を止めずに走り続ける。


 やがて人造人間としての体力も尽きる時がやってくる。

 少しずつ速度を落とし、酷使した足を引きずりながら、ステフは手近にあった地上への階段を上り始める。

 単分子ナイフで扉を切り裂くと、その向こうにいた女同士のカップルがキスをやめて同時にステフを見た。


「あー…………邪魔してごめん。ごめんついでなんだけど、このことは黙っててね。ちょっと事情あるんだ」


 ガウスガンを向けながらのお願いに、カップルは言葉も出せずに何度も頷いた。


「ありがと。あたし強盗とかじゃないから、そのまま続けていーからね。あ、ここどこだか聞いてもいい? 建物じゃなくて、地域で教えて欲しいな」


 銃口はカップルから外さずに、ステフは切り裂いた扉から出る。


「こ、ここ、北四番ブロックの、ラスランド通りの……」


 モンゴロイド――恐らく中国系の女が震える声で言い、もう一人のコーカソイド系の女は声すら上げられずに相方に抱きついている。

 ラスランド通りと言えば、セカンドバベルでも指折りの観光客向け風俗街だ。様々な人種・年齢・嗜好を満足させるセカンドバベルの風俗街では、一番一般向けだがそれ故に規模も大きい。

 SADのような手合いも比較的少なく穏やかなので、合法非合法問わず観光客が一夜の夢を買うのにも適している。


「うん、それだけでいいや。ありがとね」


 ステフは手品のように一瞬でガウスガンと単分子ナイフをしまうと、カップルに手を振った。


「じゃ、あたしはこれで。あたし、口が堅い人って好きだよ。軽い人はやだけどね」


 抱き合ったまま座り込むカップルに背を向けると、早足でその場を離れながら端末を出して地図をチェックする。


 GPSや端末のセンサーからすると、ステフは周辺区画をぐるりと五分の一周もしたようだった。

 時間はもうすぐ夜明けだが、まだ空はやっと白み始めている程度だ。

 トッドを置いて逃げてから時間にすれば二時間と少し。その間に三件の通話が来ている事を端末は告げていた。

 発信者はトッドとなっている。


 ステフは立ち止まり、投影式モニタを凝視した。

 あの銃声と敵の数からして、トッドが生きている可能性は低い。工作員だけならともかく、相手には寧やアルフもいるのだ。

 だがもしかして――近くで見てきたからこそ、養父トッドのタフネスと悪運の強さはよく分かる。

 かけ直すか迷っていたステフの手の中で、端末が通話の着信を告げる。今回の通話もトッドからのものだ。


「……ハロー? ダディじゃないよね?」


 一呼吸の間迷ってから通話に出たステフは、声を抑えて静かに尋ねた。


『そうだ。君の養父は我々が確保した。今はまだ生きている。怪我はしているが、今ならまだ治るだろう』


 抑揚のないアルフの声がステフの耳に届き、返事を待たずに続いた。


『交換条件だ。データチップと引き換えに君の養父を返そう。この提案が受け入れられない場合、君の養父は速やかに処理される事になる。もし受け入れるなら、君が来るまで彼の生命は保証しよう』


 端末に走らせてある声紋分析は、フルボーグの合成音声には通じない。言葉通りとは受け止めにくいが、この提案を退けた場合にトッドが確実に死ぬ事だけは真実だろう。


 ステフはゆっくりと息を整えてから聞いた。


「寧は? あいつはあたしの事を狙ってるんでしょ? どう考えてもあたしを誘い出す罠じゃないの」


 寧の執着は立場を考えればステフとしても分からない事もない。

 戦闘用の人造人間は極めて製造が難しい。

 バイオテクノロジーに長ずる蛍門インメェン工業公司にいた頃ですら、他の戦闘用人造人間を見た事が無かった。トミツ技研も同様だろう。

 七大超巨大企業セブンヘッズの技術力を持ってしても量産出来ない戦闘用人造人間が、このセカンドバベルの下で出会い戦う確率は極めて低い。

 自分以外の同種の存在がいないと思っていたところに出会えたのだから、その確保の優先順位を上げてしまうのもむべなる事だ。


『彼女は今説得中だ。だが罠としても、君の養父が生き延びるには、データチップを渡さなければいけない。違うかな』


 アルフの言う通りだ。

 ステフが取れる選択肢は少なく、トッドを取り返すのなら罠でも動くしかない。


『どうするかね。他の七大超巨大企業セブンヘッズの手前、あまり時間をかけられる話ではない』

「いいわ。場所はどこ?」


 悩むまでもない。

 養父トッドとの約束を破る事になるが、今のステフにとって大切なのは自分自身だけではなかった。


『話が早くて助かる。そうだな……SADが使っていたアジトを兼ねた娼館の場所は分かるかね。僕らはそこで待っている。今日の19時丁度に、君が持つデータを持ってくるんだ』


 時間を遅くしてあるのは、向こうとしても銃器を使うつもりがあるからだろう。理由はともあれ、半日以上の時間が掛けられるのはステフにとっても好都合だ。


「その場所なら調べてあるわ。それまでダディをちゃんと生かしておかないと……」

『彼は頑丈だよ。フルボーグの僕から見てもね。よくあれだけ撃たれて生きてるものだ』


 端末から微かに苦笑気味の声が響いた。


『予定の時刻に君がデータを持って来なければ、彼は処理させてもらうよ。じゃあ、また会おう』


 それだけ言うと、アルフは通話を切った。


「頑丈だなんて……当然でしょ。うちのダディだもん」


 ステフは少しだけ微笑むと、反撃の方法を考え始めた。

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