karma9 もういない誰かに捧げる歌

 活況の通りを抜け、代わって訪れたのは美しい讃美歌が流れる教会だった。扉を開けると、大きな樹木に寄り添っている裸婦や羽をつけた子どもの彫像がまとまっている噴水は、堂々たるその美しい姿を表し、氷見野たちを出迎えた。


 玄関ホールでは、外への出入り口の両扉以外にも、左右前方にも両扉が見える。床の星図に壁画、天井絵、圧倒的な神秘性が囲う玄関ホールで氷見野たちは感嘆した。

 噴水の両側に立っていた若い女性と男性は氷見野たちに軽く会釈する。2人は頭にベールを下ろし、白乳色はくにゅうしょくの祭服を纏っている。2人は笑顔を絶やさず、招くように噴水に手を向ける。

 伍長が言うには、この教会では礼拝を行う前に両手と口を清めるのだとか。

 玄関ホールの噴水でまず両手を洗い、手ですくって少量の水を含むそうだ。

 噴水の水受けは驚くほど綺麗に手入れされており、カビ1つない。水も一切の濁りはなく、水受けの中にまで繊細なデザインが施されていることも一目で確認できる。


 清めが終わり、伍長と共に奥の扉へ進んでいく。また扉が開かれると、真っすぐ伸びる白い廊下がお目見えした。

 両側には等間隔で小窓が配置されている。日中ならば窓から光がし込むだろうが、日も暮れてきた現在では、天井に埋め込まれた赤橙色せきとうしょくのボールライトが照らしてくれていた。


 窓の向こうでは高く伸びる木々が教会を見下ろし、細長い草が緑から黄色へ衣替えをしている。

 全体的に芝が一面を埋めつくしているところを見るに、庭園だろうと推測できる。しかし普段日本で見る芝よりも長く生えており、小動物であれば姿を隠せそうだ。


 廊下の終点では扉が開け放たれており、聖歌隊の美声が体の芯まで伝わってくる。慎ましくおごそかな空間へ踏み入れた。

 扇状の長椅子が祭壇に向けて配置されている。祭壇の中央の壁には、緩い赤のワンピースに青いベールを纏う女性の姿を描いたレリーフがあり、祭壇の天井を彩る麗しい花のステンドグラスから、あでやかな光が降り注いでいる。


 礼拝に訪れた人は多い。誰もが黙々と神々しいレリーフに向かって、敬慕けいぼの念を帯びた瞳を注いでいる。

 氷見野といずなは伍長に促され、空いている席に腰かける。座れそうな席は2つしかなかったため、「レディファーストです」との伍長が紳士的態度を示したことにより、藤林たちは一番後ろの席のすぐ背後で立つことになった。


 氷見野は教会に訪れること自体初めてで、何もかもが新鮮であった。

 礼拝を見守る人々の服装は様々だった。教会という場所ならば、もっと特徴的な服装を皆がしているものだと思っていたが、ごく一般的な服のように見えた。


 その時、聖歌隊の讃美歌がしっとりと終わり、聖歌隊の手の中にある本が閉じられた。

 氷見野は思わず手を叩きそうになったが、拍手の音が聞こえなかったことに叩きそうになった手を間一髪で止める。

 自身のやろうとしたことを密かに赤面していると、いずなと視線が交わった。にんまりとした表情を灯したいずなは、前方へ視線と戻した。氷見野は少し居たたまれなくなる。


 聖歌隊の讃美歌が粛々と終わり、神々しいレリーフの前に置かれた祭壇の演台に、銀色の髪を編んだ男が立った。だるんと肩から着たような服ではあるが、きめ細かな縫い込みに装飾と鮮やかだった。

 廉潔れんけつたまわる言葉が司教により述べられていく。聖堂は控えめな装飾であったが、それゆえに聖域の格を表すゴシック調のレッドが散らばった内装は、響き渡る司教の言葉に重厚さを与えていた。


 慣れない場所におもむいた四海は、今にも眠りに落ちてしまいそうな瞼を必死に開けようとしている。

 またその隣に立つ東郷はつまらなそうな面持ちを左に右にと移して、身じろいでいる。

 その一方で、両手を絡ませ、わずかに頭を下げて目を瞑る伍長は、感謝の念を表しながらありがたき御言葉みことばを傾聴している。そして、藤林は一辺の動きすら見られない。いつになく凛々しい顔つきで、司教を見つめている。


「どうした? 健太」


「ん、なんだ?」


 藤林は丹羽に声をかけられたことに少し驚いて反応する。


「大したことじゃないんだけど、信心深い一面が健太にあるとは思わなかったんでね」


「あー、別にそういうんじゃないって。ただ……」


「ただ?」


「彼の顔が、思い浮かんでね……」


 藤林の表情が語る。精悍せいかんな顔つきに憂いがほのかに香る。


「あぁ、彼のことね」


 合点がいったと丹羽の顔が和らぐ。

 いずなの視線がわずかに藤林へ傾けられる。


「彼とはそこまで親しかったわけじゃないが、僕より古株の戦士だった。自身に厳しく、他者に優しい男だった。彼には隊長になる前から、よく世話になった」


XAキス隊長、ですか?」


 氷見野はおずおずと尋ねる。


「隊長をしながら、信者のことも気にかけて、礼拝も欠かしていませんでしたね」


 四海はしんみりとした口調で呟く。


「ま……うさん臭いヤツだったが、仕事熱心だったことは間違いない」


 東郷もいたむように言葉を漏らす。

 隣で聞いていた伍長は藤林たちの会話を耳にし、詳しく事情を知らなかったが、立場は違えど想像はたやすかった。

 神聖な場となれば、口にせずとも弔意ちょういを抱かざるを得ない。顔も知らぬ、戦いに身を投じてきた極東の戦士に対し、戦いの傷が癒えることを願って、祈りを捧げた。



 すっかり日も暮れ、軽いジャマイカ観光を終えた氷見野たちは、セント・アンズ・ベイ基地に戻った。


 案内してくれた伍長とも別れ、基地の廊下を歩いていく。貴重な体験をした高揚感から冷めるには、まだそれほど時間は経っていない。手には土産があり、観光帰りの一向であることが推測できる。


 氷見野たちは余韻に浸りながら歓談していたが、氷見野の視線がふと別のところへ向かった時、思考から観光の余韻は消え失せてしまった。

 氷見野たちの向こうから歩いてくる淡い黄色のパジャマを着る人。だがどこか違和感があった。

 やけに歩行速度が遅く、手すりを掴みながら歩いている。顔色はすぐれず、冷や汗をかいている。


 違和感はもっとはっきりしていた。パジャマの右腕。長い袖口から出ているはずの手はなく、右袖の半分はヒラヒラとしてぶら下がっている。

 辺りをよく見渡せば、基地の廊下を歩く人々のほとんどが、表情に陰りがうかがえる。疲れ切った顔がどこもかしこも見受けられ、基地全体が暗く沈んでいるようだ。


 廊下で立ち話をしている深い赤の軍服を着る男は片目にかかるように包帯を巻いており、その相手をしている軽装の女性は、綺麗な顔の頬に斬られたような傷があった。

 基地に珍しい顔ぶれが歩いていれば、自然と視線は集まる。基地へ来た時は歓迎ムードで迎えられたが、あきらかによそ者に対する厳しい目が、氷見野を突き刺した。氷見野は息をのみ、視線を逸らした。

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