karma11 悲哀の酒に沈むだけ

 アメリカと日本の部隊の合同任務により、多良間島奪還を成し遂げたその夜、蓬鮴刃ほうごりじんは常連となっているバーにいた。世界を股にかけて活動するジャズピアニスト、ルイン・ケレッジの曲が悠々と陽気さを演出する。

 この雰囲気に呑まれた客たちは、賑やかな声でしゃべくり倒している。おとなしい様子で飲んでいる他の客の顔も、この夜のひとときを楽しんでいる。


 たとえ楽しげな雰囲気が充満する場であっても、お酒を飲みながら沈んだ者が1人くらいいるものだ。蓬鮴のそばにあるボトルは15分前までいっぱいだったが、すでに空になっている。普通の人であれば、ボトル1本開けたら泥酔状態になるほど強い度数にもかかわらず、顔色一つ変わっていない。


 以前なら、先輩でありながら敬う気持ちも薄れてしまう男が隣で飲んでいることもあった。もう二度と、彼が蓬鮴の隣に座ることはない。預言を残して本当に逝ってしまった。その事実が、蓬鮴の気持ちをき立てる。

 だがなんと伝えればいいのか分からない。病気でもなければ、何か事件に巻き込まれたわけでもない。それにありのままを話せば、きっと彼女は混乱する。


 すでに亡くなった男に言われた通り、やれることはすべて終えている。あとは個人の話。あの男が言うには、世界の行方にはなんら支障はないため、どちらでもいいとのことだった。これは蓬鮴刃の家族に関わることでしかない。

 いっそのことやるべきだと背中を押してくれれば、すぐにでも実行したと、正直過ぎる男に怒りさえ覚える。

 こんな情けないところを妻に見られたら、1週間くらいはほのめかすように意地悪いことを言うのだろうか。と、とりめもない想像を膨らませるが、できるわけがない。


 妻との思い出は日を追うごとに水に濡れていく。そしてあの男が死んだ日。大切な思い出は水の底へ沈んでいくみたいだった。自分の死を預言したXAキスが、本当に死んだ。その事実が、蓬鮴の心をえぐり取ってくる。


 今すべきこと。それはたった1つ。

 やることは分かっている。ただ、何か心配させるようなことを言ってしまわないか。不安だった。そして怖かった。思いを伝えてしまったら、3人で生きる未来を信じていないことになる。

 最初から諦めていたわけじゃない。抗おうとしてきた。しかし、北海道の事件といい、世界の関係機関から入ってくる情報といい、奴らは確実に進化している。今までのレベルとは段違いに……。


 いつその日が訪れるかまで教えてくれたら、まだ踏ん切りがついたかもしれない。かくして、このように堂々巡りを繰り返す日々を、幾日も過ごしてきた。


 あの変質者の隊長が死んだ以上、タイムリミットは近いと思っていいだろう。蓬鮴の気持ちが片方へ振れる。


 カウンターに置いていた携帯を取り、鈍い指で操作していく。

 画面は電話する相手の名前を表し、コール音を鳴らした。

 それを片耳で聞きながら、伝えたい呪文を唱えるみたいに頭の中で反芻はんすうする。


「はい」


 穏和な声色が胸を温かくさせる。が、一瞬で頭は冷たさに襲われる。


「俺だ。今、平気か?」


「うん、大丈夫。みちるは寝たから」


「そうか」


「で、どうかしたの?」


 蓬鮴には、シックでアップテンポな曲や、周りで話が盛り上がっている客たちの声は聞こえなくなっていた。妻の声が要求してきた。あまりにも無垢に。蓬鮴はとにかく口を回す。


「ああ、満はどうかなと……思ってな」


 すると、蓬鮴の妻は笑い出す。


「ふふっ、この前送ったじゃない。満の写真」


「あ……ああ、そうだったな……」


「変なの」


 妻はまたおかしそうに声を弾ませた。

 蓬鮴も自然を装って笑う。


「元気よ。風邪も引いてない。あ、でも怪我はしたかな」


「え?」


「ねんざよねんざ。幼稚園のブランコで立ち漕ぎして前に飛ぼうとしたのよ。それで案の定うまく着地できずに足首をおもいっきりひねってワンワン泣いてたって」


「また無茶なことを……」


 息子が大きな怪我をしていたかもしれないというのに、妻はあっけらかんと笑っている。


「誰に似たのかしらね?」


「俺に似たって言いたいのか?」


「あなた以外いないでしょ」


 ぐうの音も出なかった。


「お医者さんに診てもらったら、むしろねんざだけで済んでることに驚いてたみたいよ。2メートルくらい高く上がってたみたいだし。骨折しててもおかしくなかったって」


「そうか。よかったよ」


「厳しく叱っておきました」


「うん」


 電話越しの妻の声が吐息交じりに笑っている。


「なあ、亜里沙ありさ


「ん?」


「……」


 勢いでなら行けるかと思ったが、言葉が出てこない。伝えたい気持ちと、伝えてはいけないことが摩擦して焼けるように痛かった。苦し紛れではあるが、ちゃんと言いたかった。


「明日も、また連絡する」


「うん……おやすみ」


「おやすみ……」


 通話を切り、カウンターに携帯を置いた。もどかしい気持ちが沈殿する。体張って戦う隊員が、たった一言、『君と出会えてよかった』と言えない。情けないと自燃じねんする怒りは、すぐさま悲哀の底に沈んでいく。固まった顔をほぐすように強く拭う。


「すみません」


 蓬鮴はカウンターにいるバーテンダーに声をかける。


「同じものをもう1つ。ボトルで」


 数分後、丸い氷の入ったグラスが置かれ、赤橙せきとう色の芳醇なウィスキーが注がれる。ボトルがコトリと小さな音を立て、グラスの隣に置かれる。

 蓬鮴はグラスを取り、ひどく乾いた口にウィスキーを流し込んだ。

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