karma9 宇宙海の星たち

 深海魚レストランの料理は思いのほか美味しかった。吸い物やフライなどに仕上げられ、いずなも満足げだった。そして、本日の目的地となる場所を観て回っている。


 薄暗い館内は大小様々な水槽があり、観覧客はみんな青い水の中を優雅に泳ぐ生き物たちに目を向けている。いずなはじっと水槽を見つめ、数秒しては次の水槽へと、流れ作業のように移動していた。

 氷見野は眉尻を下げて落胆する。選択を誤ったかもしれないと挫けそうになるが、まだとっておきが残されている。それに賭けるしかないと持ち直し、床を踏み込んだ。


 周りでは好奇心旺盛な少年少女がワヤワヤと大きな水槽に貼りつき、アシカと目を合わせて大きな声を上げていた。

 中央の円柱にある大きな水槽を素通りし、前を歩くいずなとその少し後ろを歩く関原。さっきから2人は何も言葉を交わさない。関原は時折いずなに視線を投げるも、固く結んだ唇は開く気配がなかった。


 そうこうしている間にとっておきの時間が迫っていた。そろそろこの気まずい空気を少しでも和ませておくべきだと思った氷見野は、関原に近寄ってささやく。


「何してるんですか」


 関原は特殊整備室にいる時とは似ても似つかない自信なさげに表情を曇らせる。


「海洋生物には詳しくないんだ」


「生物の知識をひけらかさなくてもいいんですよ。なんでもいいから話してください」


 いずなは1つの水槽の前で立ち止まっている。硬い表情をする関原は困惑に揺れながら、いずながいる水槽の前に向かう。氷見野も関原と共にいずなが観ている水槽に何がいるのかを確かめようと、視線を注ぎながら歩いていく。

 大きな長方形の水槽が壁一面を覆っている。何匹もの白いクラゲがふわふわと水中を漂っていた。


「綺麗だな」


 いずなの隣に並んだ関原はいずなの反応を待ったが、何も返ってこない。だが、さっきまでのいずなとはあきらかに表情の色が違った。

 水槽の上から差し込む光が水中に注ぎ込まれ、薄暗い場所にいるいずなたちの顔が水槽の壁に薄く反射していた。いずなは少しだけ目を大きく開き、まじまじと水中を彷徨うクラゲたちを観ている。


 一方、関原は物欲しそうな顔でいずなを横目でチラチラ見ているが、何も返ってこないと察し、誰にも聞こえないため息を零すのだった。

 氷見野は白いクラゲたちが水の中を浮かぶように泳ぐ姿に癒されている。いずなと関原の仲を取り持つために今日の計画を立てたのだったが、氷見野にとってもいい気分転換になっていた。こうして私服で外を歩くなんてことも久しぶりで、1日だけ普通の人になれた気分だった。


「私もこうなれたら、楽なのかな」


「え?」


 関原はふと呟かれたいずなの言葉に思わず視線を投げた。


「優しい光と快適な場所にいられる。誰もが光の当たる場所で、自由に生きられる世界。いつか必ず、そんな世界にしてみせる」


 じんわりと胸に溶け込んでいく。塩を多く含んだ水はヒリヒリと沁みる痛みとなって、関原と氷見野の心を静かに乱した。

 いずなの表情はいつもの仏頂面に優しさを纏う。水に差し込む光を浴びて、輝く白の体を動かしていくクラゲたちの姿に見惚れるいずなは、ずっと張っていた体の力が緩まっていく感覚に思い馳せていく。


 その時、辺りがまた少し暗くなった。何事かと観覧客は周囲を見回す。暗くなった原因はすぐに分かった。


 中央にあった円柱の水槽の光が消えている。周りにある水槽の明かりも消灯していた。点灯しているのは天井と足下にある小さなライトのみ。しかし、それだけでは視界を確保できず、移動するのもままならない。


「皆様、今日はご来館いただきましてまことにありがとうございます。今から約10分間、生き物たちが見せる、光と水の芸術ショーを始めたいと思います」


 館内に流れる放送。気品漂う男性の声色が眠りを誘うかのように知らせた。

 氷見野はレンタルした携帯を確認する。午後3時。ちょうど時間だった。

 すると、天井が動き出す。天井の板が片側の壁へ吸い込まれていく。天井に埋め込まれたライトがその動きを教えてくれた。

 観覧客の誰もが天井の動きに目を奪われ、上を向いている。天井の板はすべて収納され、天井が水槽の透明な面に変わった。だが、水槽の中は黒くなっている。明かりがついていないだけで、水が黒いわけじゃない。


 それに観覧客が気づいた頃、群青の光が水の中に優しく広がっていく。黒い光に染まる水の中で、ほんのりと形を表した生物。天井の向こうでふわふわと漂っていた。柔らかい傘の下から細長い触手がいくつも伸びており、触手の1本1本が水中で別々に揺れている。百数十というクラゲが天井の上を泳いでいたのだ。


 そして、初めて見た者はその姿に驚く。クラゲたちは光っていた。

 お椀型の頭のふちが優しい緑色に発光し、透けた頭の中に紫の円光線を走らせ、3つの紫の光源が円線上に留まっているという、なんとも不思議なクラゲの生態を目の当たりにした。

 そんなクラゲが天井の上で百十数と泳いでいれば、幾千の星を見渡しているように感じても不思議ではない。


 幻想性豊かな美しい情景に心をわしづかみにされている氷見野は、クラゲたちがゆらゆらと一定の方向へ流れているのに気づく。全体を見るように注意深く観察すると、水中の向こうで海面が荒れていた。小さな波が海面に現れており、クラゲたちも波が行く方向へゆっくり流れている。

 まるで夜空に銀河を浮かべた宇宙地図を立体的に観察しているようで、あまりの壮大さに言葉を失うのだった。

 いずな、関原、氷見野は首を伸ばし、しなやかな動きで誘惑するクラゲたちの輝きに感嘆していた。胸に沈む、優しく深い青を染み込ませるように、10分もの間、じっとその景色を目に焼きつけていた。

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