karma15 死の淵を彷徨い、再誕する
キスの意識が戻ったのはそれから42時間後だった。キスは鈍い感触を持つ瞼を開ける。
視界はぼやけていた。いくら待ってもまったく明瞭にならない。薄く白い膜が瞳を覆っているようだった。感じるのは光の色と強さだけだ。
「……キス様!」
女性の声が自分の名を呼んだ。人影が自分の視界に入ったことは分かるが、顔の細部が見えない。
肩に触れる温かい手。近くにいるはずなのに、モザイクがかかった顔では、誰かなど判別できるわけもなかった。だが、その声はよく聞いていた声色だ。
「エミ、リオか……」
「はい、エミリオです」
エミリオの声は変わらず聡明な青の色を持っていた。
「ほう……、あんたほんとしぶといな」
白髪の男は卑しい笑みを浮かべ、キスが背にするベッド代わりの机に近づく。キスを挟んで真向いには悲痛な表情のエミリオがおり、男が少し不思議に思いながらエミリオの様子を見ていても、エミリオは気にする余裕もなかった。
男はキスの生命力の強さに半ば呆れつつエミリオに指示を送る。
「頭を上げてくれ」
「はい」
エミリオは、「キス様、失礼します」と言葉を添え、キスの首の後ろに手を入れる。エミリオがキスの頭を軽く持ち上げると、男は手に持っていたごついゴーグルをキスの頭につけた。
「……!」
ゴーグルをつけた瞬間、群青がかった視界になって、男とエミリオの顔がはっきりと確認できた。
白髪の男は疲弊感を主張する大きな唸り声を発しながら、電車の座席に腰かける。
キスは男から視線をずらし、エミリオに向ける。
新鮮だった。エミリオが不安げな顔をしてキスを見ている。端正な目鼻立ちのせいで心配そうな表情は真に迫るものがあった。キスは
「はい?」
「そうか、エミリオか……」
キスは心底安心した声音を零す。エミリオは困惑をたたえて男に視線を投げる。男は腕組みをして首を振った。
「ありがとうございます。私を治してくれて」
キスは朗らかにそう言うが、エミリオは心痛に顔をゆがませる。
男も神妙に重い口を開いた。
「お前の体は、もうダメだった。臓器もちゃんと働いてねえし、手術するにしても血液が足りねえ。脳に充分な血液が行ってない状態が長時間続いてたんだ。もう助からねえと思ってたが、やるだけやってみるならと、昔のツテを使わせてもらった」
キスは自分の手を顔の前に持ってくる。少し動かしづらい。ずっと寝ていたせいで体が固まっているせいだろうと思った。
しかし、微妙に体の違和感があった。その手を後ろに回す。左手は後頭部を触る。硬い皮膚。頭蓋骨の硬さじゃない。皮膚が硬いのだ。それは鉄のような感触に似ていた。
「俺が昔勤務していたのは科博医療研究所。バイオクロスの新技術を研究していた。そして、俺がやっていたのは人体実験。機械と人間の融合、ほら、よくあるだろ? アニメや漫画なんかである人造人間ってヤツだ。日本の科学研究でそういうのを本気でやってたんだ。笑えるだろ?」
男は自嘲気味の笑顔でそう言ったが、すぐに笑みは消え失せる。
「それしかお前を治療できる方法はなかった。俺の元部下だったヤツらを無理やり呼んで、必要な物資もクスねさせた。まったく骨が折れたぜ。血液が足りなくてよ、もう無理だと思ったんだからな。んなら、お前の心臓や脳波も正常に戻りやがったんだ。俺はこの世界にや本当に神様がいると思ったね」
男はキスの気を紛らわせるかのように明るく話す。だが、男は冗談を終える合図を示すように真剣な表情で問いかける。
「これで満足か? 神父さんよ」
すると、キスは戸惑いに変わって固まっていた表情を弛緩させた。
「はい、動けるように、なるんですよね?」
「ああ、少し経過を見なくちゃいけねえが、1週間くらい飯食って休養すりゃ、元気に歩けるだろうさ」
「本当に、ありがとうございます」
キスはささやくような声で感謝を再び示した。
男は小さく舌打ちをし、居心地が悪くなって立ち上がる。
「礼はいらねえ。報酬さえ支払ってくれるならな」
男は開いたままになった車両横の出入り口から出ていってしまった。
レールの上に止まったままの三車両編成の電車――真ん中の車両――で2人きりになった。
「キス様」
エミリオは苦悶を押し殺しながらも落ち着きを払う。
「なんと申し上げていいのか……」
エミリオの膝の上にある手が固く拳を作った。
「本当なら、私がキス様をお守りしなければならなかったのに……。私は、キス様を守れませんでした」
薄い群青に染まったエミリオを見ていたキスは、安らぎの表情で微笑む。
「エミリオ、私は安心しているんだよ。エミリオが生きていて、私も神に与えられた使命を果たせる」
「しかし、こんな体になる必要はなかった! 私が、キス様をしっかりお守りしていれば、こんなことには……」
「エミリオ、過ぎてしまったことを悔いるのはいい。だが、私たちはまだ果たさなければならない使命がある」
キスはしっとりとした声色でそう言うが、そこから感じられる気迫が
すると、キスはゴーグルを外そうとする。エミリオは丸椅子から立ち、ゴーグルを外すのを手伝う。
頭から外れたゴーグルを手に持ち、神妙な顔でキスを見つめる。エミリオは、キスの目がもう見えないという事実を未だに受け入れられずにいた。それは本人も同じだったが、キスにとっては些細なことだった。
「私は幸せ者だ。目は見えなくなってしまったが、耳は聞こえるし、酸っぱい臭いが鼻を突く嗅覚もある」
キスは見えない目を自分の左足に向け、膝下の脚を擦った。冷たい温度と硬い感触が掌を伝う。
「片足も機械になってしまったが、彼は私の望み通り、五体満足で生かしてくれた。私は、人に恵まれていたんだよ」
エミリオはそう思えなかった。ユヒアに裏切られていなければ、こんな姿にならなかったのに。それでもそう言えるキスは、教会の教説に侵され過ぎている。
でも、ミアラ主殿やエミリオ、キスを慕い、教会に反旗を翻すことを選んだ修道士たち、あの医者と、キスにはたくさんの味方がいた。それらを
「エミリオ」
「はい」
「共に世界を救おう」
キスは交わした約束を確認するように、再度誓いを立てた。
失ったものはたくさんあった。二度と取り戻すことはできない。エミリオの人生はいつだってそうだった。
得てきたものは小さな両手じゃ守り切れなかった。大切なものほど、自分の手からすり抜けてしまう。だけど、両手に残っていたものは確かにあった。だから、キスの誓いを、誓いだけは守れるというのなら、どんな天理も捻じ曲げてみせると誓い、エミリオは答えた。
「はい、必ず」
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