karma14 乙女神との誓約
男は組んでいた足を解き、片足を丸椅子に乗せる。
「寝たきりになる覚悟が固まったか?」
「違います」と痛みをこらえながら首を振る。
「私は、信頼に応えなければならないのです」
「信頼?」
男は片足を乗せたキャスター付きの丸椅子を引き寄せたり、離したりを繰り返す。
男がやっているのは簡単なエクササイズだと思われた。トンネル内にこもっている男は、ヤブ医者ながら自身の健康を気にする一般的な感覚も持ち合わせている。しかし、そのエクササイズは丸椅子のキャスターが動くたびにカラカラと音を立てるため、キスの話をまともに聞く気はないと示していた。
「誓ったのです。一緒に戦うと。彼女は、諦めようとしていた私の目を覚まし、神に反する行為をしたのです。私のために」
男は哀れなキスに冷たく返す。
「その体で戦おうってのか。そんなに死にたきゃ、今死んだ方が幸せだろうよ」
「世界は、窮地に堕ちる……。
キスは長いことしゃべったせいか、咳をし出す。
男は丸椅子を右から左へ動かし、今度は左足を丸椅子の上に乗せる。
「なんだそりゃ、神話か?」
男は渇いた笑いで一蹴する。
「神話では、ありません……。未来に必ず起こる、人間に与えられた試練です」
「ふん、だから治さなきゃ俺も必ず死ぬって? 仮にそんな未来が来たとしても、俺はとっくにあの世に逝ってるさ」
男は額に少し汗を滲ませ、息づかいを荒くさせる。キスはまた咳き込み、話を続ける。
「あなたにも、大切な方がいるのではないですか?」
男の足が止まる。眉をひそめ、キスを睨む。キスはぜえぜえと言わせて、言葉を紡ぐ。
「未来に残された方は、手にした幸せを奪われる可能性があると、告げています。多くの人々が、犠牲になってしまう。立ち上がらなければならない。ですが、恥ずかしながら、私はこの有様です。力を、貸してください」
胸を上下させて懇願するキスの姿は、同情を誘う様相を纏っている。だが、男は琴線に触れられたキスの言葉で今にも怒りが湧き上がり、目の前の怪我人の頬を殴りたい気分に駆られていた。
「図々しい患者だな。言っておくが、本来ならお前からあの女の治療費もまとめて請求したいと思ってんだ。教会のじいさんに住まう場所を与えてもらった恩があるから、仕方なく治療してやったが、それ以上をやるつもりはさらさらねえんだよ」
「確かに、今の私にはお金はありません。ですが、もし私を五体満足で回復させていただいたあかつきには、それ相応の報酬を支払うつもりです」
男は不敵に笑い、肩を震わせ始める。顔をうつむかせるも、不気味な笑い声はこらえられない。遂に、こらえきれなくなった大きな嘲笑が車内に
「死にぞこないにしてはユーモア満点だ。んなことで、はいそうですかと、俺がお前の言うとおりにすると思ってんのかっ! 馬鹿にすんのもいい加減にしろ!!」
男はキスが寝転ぶベッド代わりの長机に近づき、キスの胸倉を掴んで強引に上体を起こさせた。
「その身なりでどう支払うって? 血で汚れた神父様と訳ありの修道女が、どんな方法で金を払うってんだ? 後払いで済ませようとか都合のいい話に乗った奴は、決まって蹴落とされんだよ。そういう奴ほど大層神々しい身なりを取り繕ってるもんだ。騙したかったらもっとうまい話をそのスカスカな頭で考えとけ! まあ、考えているうちに死ぬだろうけどな」
目をこれでもかと開く男は、ありったけの汚らしい言葉でキスを罵る。
キスの目は意識が飛びそうになりながらも、相手をしっかりとした眼で見据えていた。そして、わずかに残っている力で手を動かし、男の胸倉を掴み返す。
「世界が混沌に満ちる時、戦士は必ず立ち上がる。この地を狂気で支配しようとする生物と戦うために、己との葛藤に打ち勝ち、この世界を青い光で包むまで、戦い続けるでしょう! 私も、彼らと共に戦わねばならないのです! 誰一人として、欠けてはならないっ!」
キスと男は顔を突き合わせたまま、ギラギラと際立つお互いの瞳を交わす。
「報酬は? どう支払うってんだ」
「この世界を救おう」
普段ならバカみたいなことを言うキスを
また、キスの真剣味のある口調が男の心を乱していくので、キスの言う未来の脅威を想像し、もしそうなったらと思うと、二度と会うことはない2人の顔を思い浮かべてしまい、胸が張り裂けそうだった。
「あなたが望むなら、私は必ずあなたの大切な人たちも守って差し上げます! この命とこの身に宿す強き意志に懸けて!!」
小さな声ではあったが、キスの語気は異様な気迫を感じさせるものだった。
「お願いします。私を治してください。どんな形でもいい。私が、戦えるようにしてください。あなたのた、めに……も……」
キスの手から力がなくなり、男の胸から外れた。
男はキスの上体をゆっくりと長机に寝かせる。顔を離し、もう目覚めないかもしれない顔をじっと見下ろした。
キスの言葉に感化されたわけじゃない。それも遠くない未来にキスの言ったことが起ころうものなら、自分は何もできないだろう。
ただ、この瀕死の男にどうにかできるとも思えなかった。それでも、何も希望がないよりはいい。うさん臭い神父が、自分の願いを叶えてくれるのなら、穢れることになんのためらいがあるだろうか。今も大して変わらない、穢れた自分。穢れることで未来を救えるのなら。彼女たちに未来を与えられるのなら……。
男は、一度だって忘れたことはない人たちと過ごした日々を振り返り、もうぼやけて見えなくなってしまっている笑顔を見た時に感じた、言いようのない幸福を思い起こして唇を噛んだ。
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